2月末〆切で『季論21』に何かを書かねばならない。
こんな具合に、かなり硬派の雑誌である。
資本主義の現実にかかわり、
大きくドォ~ンとね。
大雑把に、そんなご依頼であったかと思う。
『経済』1月号に「『資本主義の限界』を考える」
を書かせてもらったが、
いまは、それの続編、あるいは補足、あるいは拡充
といったものを書いて見ようかとボンヤリ思っている。
たとえば、いわゆる「制限と限界の弁証法」にかかわって。
1857~8年草稿のマルクスは、
①古い生産様式を乗り越える資本の力(資本の文明化作用)、
②資本自身が生み出す限界を乗り越える力の2つを指摘した。
もちろん「乗り越え(限界の突破)」は、
永遠に可能なものだとされてはいない。
その累積による「真の限界」への直面が
不可避なものとされている。
その後、これに『資本論』が、
③「社会」による「強制」を乗り越える力、を追加する。
具体的な論点の代表は、
工場立法の一般化による労働時間規制に対応した、
相対的剰余価値生産の発展である。
これを、②への分析の深まりとするか、
あるいは、外からの③の付け加えとするか、
そこはキチンと考えてみる必要があるところだろう。
資本主義には生成から死滅にいたる歴史があるが、
その展開の具体的なきっかけは、
資本主義発展の度合いが高まるにつれ、
①から②へ、③へ、あるいは①から②と③のからみあいへと、
次第に重点を移行させずにおれない。
③は剰余価値生産の具体的な形態に、
「社会」が民主的合意にもとづく「強制」を
加えることをきっかけとする。
そして、資本は、それを新たな外的条件として受け入れながら、
新たな剰余価値生産への道を追求していく。
そういうものとなっていく。
そうした経験の積み重ねは、
資本主義の姿を、むきだしの「資本の論理」の発現からは
相当に大きく「修正」させるものとなっていく。
・・・・このあたりを、もう少し突っ込んで整理すれば、
『経済』1月号に示した資本主義発展観についてのアイデアが、
より内実の深いものになっていくように思われる。
いまだウスボンヤリの世界ではあるが。
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