以下は、M・E・L研究所編『マルクス年譜』(青木書店、1960年)による。
原著は、1934年にモスクワで出版されている。
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1818年5月5日 トリールに誕生
1824年8月2日(6才) 父により新教の洗礼を受ける
1830年10月(12才) トリール市フリードリヒ・ヴィルヘルム高校入学
1834年3月23日(15才) 堅信礼を受ける
1835年9月24日(17才) 高校の卒業証書を授与される
1835年10月15日(17才) ボン大学への入学を許可される
1835年末-36年8月 ボン大学トリール同郷会員(2学期には5名の幹事の1人に)
1835年末-36年7月頃 詩のサークルに参加
1836年3月中旬(17才) 借金で動きがとれなくなる
1836年6月16-17日(18才) 〈夜間の喧騒と酩酊〉のため大学当局に告発され、学生監に服罪する
1836年8月22日(18才) ボン大学卒業証書を授与される
1836年8月下旬-10月中旬(18才) 夏期休暇をトリールですごし、イェニー・フォン・ヴェストファーレンとひそかに婚約する
1836年10月22日(18才) ベルリン大学法学部への入学を許可される
1836年11-12月(18才) 3冊の詩を書き、イェニーに送る
1837年初頭(18才) 哲学・歴史を研究、なかでも〈ヘーゲル哲学の諸断片〉を読む、読んだ本から抜粋をつくる習慣をつける
1837年4月頃(19才) ヘーゲルとヘーゲル学派を徹底的に研究、医者のすすめでシュトララウに転地
1837年5-8月(19才) 法律の研究、〈ドクトル・クラブ〉のメンバーと親しくなる
1837年9-11月(19才) 劇評雑誌の発行を計画
1837年11月10日(19才) ※ベルリンでの第1年目の生活と研究を父に手紙で報告
1837年12月14日(19才) 弟エドゥアルト、結核のためトリールで死亡、12才
1838年 ドクトル・クラブのメンバーとの交際をつづける
1838年2月 心臓拡張症にかかる
1838年5月10日(20才) 父、トリールで死亡
1839年 ドクトル・クラブのメンバーとの交際をつづけ、ブルーノ家(ブルーノ、エドガー、エグベルト)を度々訪問
1839年 婚約者のためにいろいろな歌集から民謡アルバムをまとめる
1839年1-3月頃(20才) 〈エピクロスの哲学〉についての博士論文の仕事を開始
1839年5-8月(21才) 夏学期はブルーノ・バウアーの講義〈〔予言者〕イザヤ〉だけを聞く
1839年10月-40年3月 〈エピクロス学派、ストア学派、会議学派の哲学を、包括的に、かつ前期および後期のギリシア哲学にたいする相対的関係のもとに〉叙述し博士論文の完成を意図する、ボン博士学位を授与されたのち哲学講師として就職することを計画
1839年11月-40年4月中旬 ボンのブルーノ・バウアーと文通
1840年 ドクトル・クラブのメンバーとの交際をつづける
1840年7月頃-12月(22才) 魔術主義批判の公刊を計画、ブルーノ・バウアーを通してボンの出版社と交渉
1841年1-3月 博士論文〈デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異〉を完成、〈エピクロスの神学にたいするプルタルコスの論駁の批判〉を付論とする、ボン大学に講師の職を得るため大学教師資格取得論文としてこれの出版を計画
1841年1月23日(22才) 著作〈狂える歌〉が〈アテネウム〉誌に載る、マルクスの著作で最初に公刊これたもの
1841年3月-12月 ブルーノ・バウアーとともに、フォイエルバッハを招聘し〈無神論雑誌〉または〈無神論文庫〉という表題の哲学雑誌の発行を計画
1841年3月30日(23才) ベルリン大学卒業証書を授与される
1841年4月6日(23才) 論文〈デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異〉をイエナ大学哲学部長バハマン教授に贈呈
1841年4月15日(23才) イエナ大学哲学部より博士学位記を授与される
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