以下、年譜と手紙を組みあわせることにする。
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1841年4月中旬~7月上旬(23才) ベルリンからフランクフルトをへて、トリールに
1841年7月上旬(23才) トリールからボンに移転、ブルーノ・バウアーと親密に交際(42年5月初旬、バウアーがベルリンに去るまで)
1841年8~9月(23才) バウアーの著書〈無神論者・反キリスト者ヘーゲルにたいする最後の審判のラッパ--最後通牒〉(匿名で11月初旬頃出版)の完成を手伝う
1841年9~12月(23才) ゲオルク・ユングとモーゼス・ヘスがマルクスを〈ライン新聞〉の創立準備の仕事に招聘
1841年9月頃~42年2月(23才) マルクスとバウアー、〈ラッパ〉第2部として〈ヘーゲルの宗教芸術とキリスト教芸術とにたいする憎悪および全国家成分法の解明〉の共同執筆と発行を計画、関連してマルクスは芸術史・宗教史を研究、またヘーゲル法哲学を徹底して研究
1842年1月~3月 婚約者の父ルードヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンが重病のためトリールに滞在
1842年1月頃(23才) ボン大学教師の資格取得のため、再び自分の論文の印刷を計画、シェリング批判の覚書を付し、新しい序文を起草する
1842年1月中旬~2月10日(23才) 論文〈新プロイセン検閲令評釈〉を書き、〈ドイツ年誌〉に掲載するために2月10日ルーゲのもとに発送(結局、この論文は43年2月中旬スイスで発行された〈アネクドータ〉誌にはじめて発表された)
1842年1月中旬(23才) マルクスの推薦でルーテンベルグがライン新聞の編集主筆に就任
1842年1月下旬頃(23才) 論文〈シュトラウスとフォイエルバッハとの審判者としてのルター〉を書き、決定的にフォイエルバッハの側に立つ(これもルーゲの〈アネクドータ〉に発表される)
1842年2月上旬(23才) 〈ドイツ年誌〉のために、W・ヴァトケの〈人間の自由・・・〉とK・バイアーの〈道徳的精神の概念にかんする諸考察〉の批判を執筆する計画を、2月10日ルーゲに伝える(実行されず)
〇「いま私はひまのかかる仕事はすませてしまったので、当然『ドイツ年誌』のために私の力でおよぶかぎりのことはするつもりです。」(1842年2月10日、アーノルト・ルーゲへの手紙、第27巻、341ページ)
1842年3月3日(23才) ルードヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン死去
1842年3月上旬(23才) 論文〈宗教と芸術について--とくにキリスト教芸術との関係における〉のために宗教史、芸術史の研究を継続、同論文の〈アネクドータ〉誌への掲載をルーゲに申し込む
〇「『アネクドータ・フィロソフィカ』の企画にはまったく賛成です。私の名も連ねていただく方がよいと思います」
〇「ザクセンの検閲が突然復活したのでは、『ラッパ』の第2部として出るはずだった私の『キリスト教芸術論』の印刷は、たぶんはじめから全然できないでしょう。まとめ方をかえて、それを『アネクドータ』に載せたらどうでしょう」
〇「バウアーは、いまきたばかりの彼の手紙によると、国王の命で停職になっています」(1842年3月5日、アーノルト・ルーゲへの手紙、第27巻、342~3ページ)
1842年3月頃~5月(24才) 次の4論文の執筆に着手、〈宗教芸術について〉〈ロマン主義者について〉〈歴史法学派の哲学的宣言〉〈実証哲学者〉、すべてを〈アネクドータ〉に公表することを計画(実際にはフーゴ批判の体裁で、少し前に大臣になったサヴィニーを批判した〈歴史法学派の哲学的宣言〉だけが〈ライン新聞〉8月9日号に発表された)
〇「現在『とくにキリスト教芸術論と関連した宗教および芸術について』とあらためられた『キリスト教芸術について』の論文は全面的に改作されるべきだと私は考えました」「というのも・・・このラッパの響きは、ヘーゲルの叙述に執拗にとらえられていたものと共に、もっと自由な、したがってもっと根本的な叙述に変えられるべきだからです」
〇「数日中に私はケルンにおもむいて、そこに私の新居を定めなければなりません。というのも、ボンの教授連の近くにいるのはがまんできないからです」
〇「バウアーからたったいまとどいた手紙によりますと、彼はプロイセン政府相手の彼の裁判が北へ行けばもっとうまくやれるだろうというばかげた考えから、また北へ行こうとしています」(1842年3月20日、アーノルト・ルーゲへの手紙、第27巻、343~8ページ)
1842年4月上旬(24才) ケルンに移転
1842年4月10日頃(24才) ケルンでは落ち着いた仕事ができないとの理由でボンに移転、バウアーとの親交再開(5月上旬まで)
1842年4月(24才) 1841年夏のライン州第6回議会の議事にかんして、かねて計画していた5論文のうち、第1論文〈出版の自由および州議会議事録の公表にかんする討論〉をライン新聞に執筆、〈一ラインランド人より〉の署名で5月に6回の連載で発表
〇「私はほとんど仕事を終わらせました。あなたに四つの論文をお送りするでしょう。一、『宗教芸術について』、二、『ロマンティカーについて』、三、『歴史法学派の哲学的宣言』、四、『私がほんの少しおだてた『積極的哲学者たち』これらの論文は内容的につながっています」
〇「ケルンに住むという計画はとりやめました。というのは、そこでの生活は私にはうるさすぎますし、ほんとうに善良な友人たちを避けて、もっとましな哲学にとりかかるわけにもいかないからです」
〇「しばらくは依然としてボンが私の住所になります。信心ぶった連中が憤激するような人間が誰も当地いなければ、それも残念でしょうから」(1842年4月27日、アーノルト・ルーゲへの手紙、第27巻、348ページ)
1842年5月18日頃(24才) 〈ライン新聞〉5月17日号のモーゼス・ヘスの論文〈中央集権問題からみたドイツとフランス〉に対して、ヘスの抽象的な議論のたてかたを批判する〈中央集権問題〉にかんする批判(断片のみ現存)を執筆
1842年5月下旬~7月中旬(24才) 家族の死亡のためトリールへ、経済上の問題が原因で母と争う
1842年6月(24才) 〈ライン新聞〉に第6回ライン州議会の議事にかんする第2論文〈ケルン教会紛争にかんする討論の批判〉を執筆、検閲で削除される
1842年6月29日頃~7月2日頃(24才) 〈ケルニッシェ・ツァイトゥング〉の社説で青年ヘーゲル学派と〈ライン新聞〉の青年へーゲル学派的傾向を攻撃したK・H・ヘルメスに対し、これを批判する論文を執筆、〈《ケルニッシェ・ツァイトゥング》紙第179号の社説〉の表題で〈ライン新聞〉7月10・12・14日号に掲載される
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