第2章「日米経済関係はどう変わったか」の83~91ページを読んでいく。
80年代の日米貿易摩擦は、個別産業分野での日本側優位を、アメリカが政治レベルの力で巻き返そうとすることによる「政治摩擦」。巻き返しの方法としては、①「安保」とのリンケージ、②「報復措置」、くわえて③85年のプラザ合意に象徴される「円高」攻勢もあった。
円とドルの為替相場が「円高ドル安」になることは、アメリカ国内での日本商品の価格を引き上げ、それに応じて日本からの輸出総量を減らす効果がある。
さらに80年代末には「日米構造協議」が行われ、他方、輸出総量を減らすための「重厚長大」主導財界の方策として、大型公共事業推進を柱とする内需拡大策がとられていく。
90年代には日米関係の大きな変化が起こる。特に「日米包括経済協議」合意(93年)以降、アメリカから日本に対する状況「改善」のための数値目標が求められる。94年1月経団連はこれに反対する文書を公表し、2月の日米首脳会談で細川首相がこれにもとづき拒否を伝える。
首脳会談決裂後アメリカからの圧力が強まる中で、経団連は新たな「対応の必要」を語り、貿易黒字削減に向けた「我が国自身の自主目標」や、民間企業が「自主努力で輸入拡大を進める」ことを求める。
この時期は、経団連中枢企業が、重厚長大型から多国籍企業型へと転換していく時期でもあり、トヨタによる現地生産の拡大や、日米大企業の提携関係の拡大がつづく。さらに93年には「聖域なき規制緩和」を主張した「平岩レポート」が出され、急速にこれが経団連全体の基本姿勢となっていく。97年からは日米間での規制緩和協議が行われる。
他方、90年代には日本からアメリカへの資本流入が拡大し、これがアメリカ経済の拡大をささえ、日本多国籍企業の利益を支えるものともなっていった。さらに、円高回避のための市場介入によって保有される大量のドルは、アメリカ国債に買い向かい、特に2000年代にはアメリカの国家財界を補填する重要な役割を果たすようになっている。
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