テキストに入る。まずは、奥付と「はじめに」から。
第1章「世界構造の転換と帝国主義」。
今日の「帝国」「帝国主義」という世界構造理解の源流をつくったのは、レーニンの『帝国主義論』(1916年)。第一次大戦を引き起こした世界史段階と、闘いあう各国を帝国主義と呼び、その経済的土台に独占資本主義の成立をみた。
その後の世界構造の変化として、①社会主義をめざす国の登場、②植民地体制の変化が生まれた。もはや世界史の段階を植民地再分割を特徴とする「帝国主義の段階」とは呼べない。あわせて、一国「帝国主義」の判定基準についても、独占資本主義という経済の発展段階に解消せず、政策と行動に侵略性が体系的にあらわれているかどうかという新基準が生まれている。
「1・帝国主義の基準と『東洋』の力への注目」。
レーニンにも個々の国に対する判定基準の模索があった。代表的なものは6大列強を、さらに金融的従属下にあるロシア・日本とそれ以外の4大国に分けるようになるもの。
ヨーロッパの「小国」についても、植民地所有の意義を重視する方向への基準の変化があった。
他方で、レーニンには、大国間の「構造」だけでなく、植民地・従属国での反帝国主義・自立運動の高揚による両者の力関係のへ間という、世界構造の変革の見通しもあった。実際に、第2次大戦後には「東洋」の自立が文字通りの「東洋」からすすみ、それらが世界史の新しい主人公となっていく。
「2・『フランス植民地帝国』の崩壊」。
フランスは「植民地帝国」からイラク戦争反対の国へと、短期間に急速な変化を見せた。その過程を検討する。
「文明化」の名で植民地帝国を正当化したフランスも、1940年にはナチスによる「パリ陥落」の危機に陥る。このとき「自由フランス」政府は、植民地今後のブラザヴィルに「帝国」の首都を移す。
戦後は、植民地体制を維持しようとしたフランスは「植民地帝国」を「フランス連合」(1946年)に再編するが、ベトナム戦争での敗北(54年)、アルジェリアの一世蜂起(54年)を受けて、さらに「共同体」(58年)へと後退する。
しかし、独立への力をおさえこむことはできず、「アフリカの年」(60年)に象徴される「東洋」の勝利のもとで、かつての「帝国」は解体を見る。その後、フランスは独立した旧植民地諸国との間に、新しいより対等な関係をつくりあげる。
変化の原動力は独立の闘争だが、それはフランス国内の世論に変化をつくるものともなった。
ひるがえってみれば、日本には植民地を喪失していく「過程」が存在せず、それを領有することの意味・失うことの意味を国民全体が考えずにおれない歴史的瞬間が存在しない。
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