以下は、日本共産党『前衛』2010年8月号、第860号、195~231ページに掲載されたものです。
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学生時代にこそマルクスを-理論と生き方の両面に学ぶ
(本稿は、四月十一日に東京都内でおこなわれた「科学の目」講座での講演をもとにまとめたものです。)目次
一、学生時代をどうとらえるか
二、マルクス超入門
三、マルクスが生まれた時代
四、若いマルクスが選んだ道
五、マルクスが積み上げた科学の特徴
六、成長への努力をやめないマルクス
七、マルクスの目で現代を見ると
八、マルクスをどう学ぶか
一、学生時代をどうとらえるか
「科学の目」講座実行委員会のみなさんからいただいたテーマは「大学時代にマルクスが必読な理由」、学生時代になぜマルクスを学ぶことが必要かというものです。まず大学生の時代とは、いったいどういう時代なのか、そのことを先にのべて、それにからめてマルクスの話をしたいと思います。
大人への飛躍の最終段階
大学生の時代は、子どもが大人に飛躍する最後の段階にあたります。私は大学の教師として、たくさんの学生を見てきましたが、学生たちは入学の時点では、経済的に親や大人に依存しているという意味で多くが「子ども」です。精神的な自立が進んでいるように見える場合にも、経済的な依存が精神面にあらわれてきます。
しかし、大学を終えて卒業していく瞬間には、経済的な自立をはたして、それが精神的な自立を大きく進める力にもなっていく。そういう飛躍が大学に入るときと、出ていくときとの間に起こっていないといけない。教師や大学職員は、それをできるだけ促そうとするわけです。
ただし、今日のような経済状況だと、実際に仕事について自立できるかどうかは、個人の努力の問題だけでなく、社会の事情に左右される。現在は特に社会事情が悪くなっています。みなさんには、単純な「自己責任」論に陥ることなく、精神的なたくましさをもって生きていただきたいと思います。
大人として生きることへの展望と自信を培う
大人への成長を進めるためには、いまの自分の生き方を、将来どういう大人になっていくのかということにつなげる見通しが必要です。「いまさえよければ」という考え方では、自分を成長させることはできません。そして、生き方を考えるということは、この社会の中での生き方を考えるということですから、それは「私は社会のどこを担っていこうか」「そのためにどういう力を身につけようか」、そういう問いにつながらなければなりません。
ただし、人間は二十歳を過ぎて、成人式が終われば、それでいきなり成熟するわけではありません。それは、いわば「大人の新米」になったというだけです。ですから自分の成長の道は、若い時期に終わると考える必要はありません。三十、四十、五十歳と、歳を重ね、それに相応しい努力をしていけば、人間はどんどん成熟します。そういう大きな視野の中に、いまの自分や今後の努力の方向を位置づけてほしいと思います。
このように大学生の時代というのは、四年で百二十四の単位をとって、それで卒業証書を受け取ればおしまいというものではないのです。むしろ、それは副次的な結果であって、本題は、子どもから大人への飛躍にあり、学生時代はそのために必要な学びや体験や議論や試行錯誤や、それらを行う時期なのです。「一人前の大人に育っていかねば」、そういう自覚をもって自分を育てる構えをもってほしいと思います。
そのための自由な学びが保障された期間
そうした課題を達成するための方法ですが、学生時代は学ぶことが本業で、そのための時間が保障されている期間です。その点は、高校を出て、すぐにはたらいている人とは条件が違っています。
そういうと、アルバイトが忙しい、通学に時間がかかる、自治会運動など、あれやこれやで忙しい。そういう声もあると思います。私の学生時代もそうでした。しかし、実際に社会に出ると、残念ながらもっと忙しくなる。悲しいほどに労働時間は長く、通勤などもたいへんです。ですから、私のゼミの卒業生も、久しぶりに会うと「学生時代にもっと勉強しておけばよかった」とよく言っています。それは、実際に大学を卒業してみないと、なかなか実感できないことかもしれませんが。
その学びの時間を、大人への成長・飛躍のために活用することができるのが大学生時代の大きな特徴です。
では、そのためには、何を学ぶことが必要か。
一つは、この社会でどう生きるかを考えるために、この社会そのものを知ることが必要です。「こういう社会だから、私はこういうふうに生きていこう」。そういう見通しをもつための学びです。その時に「私が生きている社会にはこんないいところがあるが、こんな悪いところもある」「そして悪いところはこんなふうにつくられている」。そういう具合に、社会の表面だけでなく、社会の仕組みに目が届くと「だからこう生きよう」という場合の「だから」への自信も深まることになるでしょう。
二つ目は、その社会と自分の関わりについての学びが必要です。「社会と自分は関係ない」「私だけで生きていきたい」。そう考えている人もいるかも知れませんが、現実はそれを許しません。実際、みなさんは、仕事がないという社会の現実と、自分を切り離して生きることはできません。就職難という現実の中で生きるしかないのです。
そうであれば「より豊かに生きたい」「もっと楽しくくらしたい」といった願いを実現するには、自分の気の持ちようを変えるだけでなく、自分をとりまく社会の現実を変えるしかない。では、どこへ向かって、どうやって変えればいいのでしょう。そこが見えなければ、やはり自分の人生に自信はもてません。
三つ目は、「私の育ちは若い時代で終わりではない」「社会に出てからも、どんどん成長することができるのだ」──そういう自分の力に対する自信と見通しを確かにするための学びです。これまでの経験などから「私は何もできない」といった具合に、自己肯定の感覚がもてない人もいるかも知れませんが、若いみなさんは、これからもどんどん育ち、変わっていきます。そのことにきちんと自信をもつための学びが必要です。
以上、学びの課題を三つ紹介しましたが、これは、みなさんが入学した学部や学科に関係なく、誰もが学ぶべき課題です。経済学部に入ったとか、工学部に入ったとか、大学の専門は縦割りでわけられていますが、そういう学びとは別に、四年間の学生時代をつうじて、自分が大人になるために必要な学びの柱をもつ必要があるわけです。それは自分でつくるカリキュラムです。
さて、これら三つのことを考える材料として、格好の題材になるのがマルクスの思想と生き方です。その理由は、これからの話の中に出てきます。
二、マルクス超入門
カール・マルクスとは一体どういう人なのか、これを簡単に解説します。マルクスは私が学生だった、三十年くらい前には、どんな学生も知っているスーパー有名人でした。一八一八年に生まれて、八三年に亡くなった人です。
革命家
マルクスを一言で特徴づければ、それは革命家だということになります。革命というと「恐い」と思われるかも知れません。暴力とか、社会の混乱といったイメージが重なる人もいるかもしれません。しかし、マルクスは多くの人の合意のもとに、できるだけ平和的に社会の仕組みを変えようとした人です。
同時に、マルクスは、社会の仕組みをかえるには、社会の性質を徹底的に知っておかねばならない、そうでなければ革命はできないと考えました。そのために、マルクスは徹底的な科学者でもありました。この点は、人間の病気を治そうとする医師たちが、人間のからだの仕組みを研究するのと同じです。
たとえば、いまのような就職難では、だれもが満足のいく生活を送ることができない。ひどい場合には、人間としての尊厳さえ失われる。だから、これはなんとかせねばならない。その時にマルクスは、現状への怒りを爆発させるだけでなく、このような現実は、いつから、どういう理由で生まれたのか、それを徹底的に究明し、そこから社会の治療の方針を出していく。
ですから、マルクスは革命家ですが、革命家だからこそ徹底して社会の仕組みを研究していく科学者でもあった。マルクスにとって、両者は一体なのです。科学に裏付けられない革命は空論であり、人々のくらしの改善につながらない科学では研究の意味がない。そうしてマルクスは科学的社会主義──マルクス主義という言い方もされますが──という学説の根本をつくりました。
多面的で統一的な学説をつくる
マルクスの学説の構成ですが、大きくわけると、一つは世界観、二つは経済理論、特に資本主義の経済理論、三つは資本主義社会の次に生まれる未来社会(社会主義・共産主義)論、四つが未来社会にいたる過程についての革命運動論、社会改革の運動論です。
この構成は、マルクスが若いときに全体像を先につくりあげ、それにそって仕上げを行ったというものではありません。社会を変える取り組みの中で、様々な問題を解決する必要に迫られ、それに応えて学問研究を積み上げていった。そのことの結果として、こういう構成と体系ができあがったのです。何か先験的な見取り図があってのことではありません。
同時に、こういう発展の仕方ですから、四つの構成は永久不変のものではありません。今後も人類は、解決すべき新たな問題に直面し、それに応じて変革の理論としての科学的社会主義を豊かなものにしていくでしょう。
また、これら四つは機械の部品のようにそれぞれ独立した部分としてあるのではなく、互いに結びつき、浸透しあった全体の要素となっています。他の要素のことは知らないが、ある一つの要素はよく知っているといった、そういう理解を許さない深い相互関係がそこにはあります。マルクスの学説は、それら四つの要素を統一することによって成り立つ特徴をもっています。それは縦割りで分断できるものではありません。
資本主義も人類社会の一段階。改革の担い手は労働者階級
こういう学説の全体をつうじてマルクスがたどりついた見解を、ひと言で述べるとすれば、こうなるかと思います。
資本主義も社会発展の一段階であり、次の段階の社会に席をゆずる。その移行を担うのは資本主義の内部で成長する労働者階級だと。
つまり、たとえば日本では江戸時代に代表される封建制の社会に始まりと終わりがあったように、資本主義の社会にもそれがある。人間社会は、資本主義で終わりではなく、より進化した、成熟した社会に変わっていく。ただし、そのためには、改革を求める人間の熱意や努力が必要で、その努力を行う中心的な担い手は労働者階級なのだということです。
労働者というと、筋肉ムキムキの肉体労働者を連想する人もいるようですが、マルクスがいう労働者というのは、誰かに雇われて働いているすべての人のことです。そうすると、これから就職していく大学生のみなさんは、マルクス流にいえば、全員労働者階級の一員になっていくということになるわけです。
今日は脇役、エンゲルスとレーニン
関連して、エンゲルスとレーニンも紹介しておきます。今日は二人とも脇役ですが、いずれも科学的社会主義の学説の発展や運動の前進に、大きな役割をはたした人です。
エンゲルスは、若いときからずっとマルクスと共同研究をし、共同して運動をした仲間です。一八二〇年生まれでマルクスより二歳年下でした。亡くなったのが一八九五年ですから、マルクスが亡くなった後、しばらくは一人で革命家として、研究者として活躍していました。
私たちはマルクスの主著はといえば『資本論』だというわけですが、その『資本論』全三部のうち、じつはマルクスが自分で仕上げたのは第一部だけです。第二部と第三部は、マルクスが書き残した膨大な原稿の山から、関連するものを見つけ出し、エンゲルスがマルクスの意思に沿って整理すればこうなるはずだとまとめたものなのです。
『空想から科学へ』『フォイエルバッハ論』などのように、エンゲルスが自分で書いた、優れた本もたくさんあります。
もうひとりのレーニンは、一八七〇年に生まれ、一九二四年に亡くなりました。すでに革命家であった若い時代に、エンゲルスの訃報に接して落胆した経験をもつ世代です。一九一七年のロシア革命をつうじて社会主義をめざす政権を、歴史上初めてつくった指導者です。
いくつかの誤解もありましたが、マルクスやエンゲルスに良く学んだ人で、さまざまな分野で新しい理論的な解明を行いました。二〇世紀を代表する革命家です。
三、マルクスが生まれた時代
次に、マルクスは、みなさん方と同じ若い時代をどう生きたのかという問題にすすみます。
ナポレオン戦争とウィーン会議
まず時代背景ですが、マルクスが生まれる三年前の一八一五年にウィーン会議が行われています。戦争でフランスのナポレオンを破った神聖同盟側が、ヨーロッパからフランス革命の影響を排除しようとした会議です。
マルクスが生まれる三十年ほど前の一七八九年にフランス革命は起きました。歴史で勉強された方も多いと思います。自由・平等・博愛のスローガンを叫び、それまでの封建的な王様の時代から資本主義の時代に、政治のあり方を変えようとした革命です。
実際には、この自由・平等・博愛にはさまざまな制限がありました。女性、有色人種、障害者、貧困者の人権は認めない。最初は、白人の金持ち男性の健常者という特権者だけの人権でした。しかし、これがその後の人類史の中に人権と民主主義を根付かせる最初のインパクトとなったわけです。
革命後のフランスには共和制、つまり少数者ではありますが国民が投票によって自分たちの代表を選び、それで政治が行われるという体制がつくられました。それをナポレオン・ボナパルトがヨーロッパ中に広げようと考えて一八〇三年に戦争を開始します。これは革命の輸出を目ざした侵略戦争です。これにフランスは敗北するわけですが、そこで大きな役割を果たしたのがロシアとイギリスでした。ヨーロッパを東西からはさむ軍事大国でした。
そして勝った側の国々が、ナポレオン戦争後のヨーロッパをどうするかを話し合ったのが、一八一五年のウィーン会議です。その結論は古い体制である君主制の復活でした。実際、フランスにもブルボン王朝が復活します。時代は封建制から資本主義への大きな転換期に入っていましたが、それはこうしたジグザグの道をたどるものであったのです。
ただし、フランス革命の思想的影響は、ナポレオン戦争によって様々な地域に広がります。それはマルクスが生まれ育ったプロイセンのライン州にも強い影響を残しました。
ドイツでは君主制打破と統一が課題に
ナポレオン戦争の頃には、統一国家としてのドイツはありません。プロイセン、オーストリアなどの君主制の小国家が分立する状況でした。しかし、ウィーン会議で、三十八カ国での「ドイツ連邦」の創設が決まります(後に三十九カ国になります)。これによって、オーストリアは「ドイツ連邦」の一員であり、連邦外ではハンガリーなどの支配者でもあるという複雑な立場になりました。
同じ時期、イギリスは資本主義経済を確立させる産業革命を終える段階で、世界中に植民地を持ち、世界市場に君臨していました。フランスは戦争には負けましたが、経済的には統一されており、資本主義発展のきっかけがすでにつくられていました。しかし、ドイツは三十九の君主国家の連合体で、国ごとに関税があり、経済の仕組みが違うなど、資本主義の発展は明らかに遅れていたのです。
こうしてマルクスが生まれた頃のドイツには、専制君主制の打破とともに、近代的な統一国家の形成が歴史発展の大きな課題となっていました。
四、若いマルクスが選んだ道
そういう時代の中で、若いマルクスはどう生きたのか。先にも述べたように、マルクスがドイツ連邦の一つプロイセンのライン州トリーアに生まれたのは、ウィーン会議の三年後のことでした。そして、ここは、フランス革命の影響をもっとも強く受けた地域のひとつでした。
十七歳のギムナジウムでの作文
十七歳の時に、マルクスはギムナジウム──現代日本の年代でいえば高校です──の卒業作文のひとつとして「職業の選択にさいしての一青年の考察」(一八三五年)という文章を書いています。マルクスは、そこで早くもこう書いていました。
「地位の選択にさいしてわれわれを導いてくれなければならぬ主要な導き手は、人類の幸福であり、われわれ自身の完成である。…人間の本性というものは、彼が自分と同時代の人々の完成のため、その人々の幸福のために働くときにのみ、自己の完成を達成しうるようにできている」(『マルクス・エンゲルス全集』第四十巻五一九ページ)
ここで「地位」というのは身分のことではなく、職業のことです。つまり、仕事を選ぶにあたって、自分さえよければよいと考えていけない。自分が人間として完成していくためには、他者に対する思いやりを持ち、周りの人みんなが幸せになる方向で働きを重ねていかねばならない。そうしてこそ私も幸せになることができるという考え方です。せまい意味での個人主義とはまったく違う、「人類の幸福」と「自身の完成」を同じ方向に重ねあわせる人生観ですが、それが十七歳のマルクスの判断でした。
大学、博士学位、ジャーナリズムへ
その後、マルクスはボン大学、ベルリン大学で法学や哲学を学びます。このあいだには若者らしく、いろいろはめをはずしたりもしています。ベルリン大学では、青年ヘーゲル派(ヘーゲル左派)と呼ばれるグループに入りました。これは大学の正規のカリキュラムとはまったく別の、気の合った教員や学生が自由に議論し合うグループで、そこでマルクスは改革の思想と政治を大いに論じました。
マルクスは二十二歳でベルリン大学を卒業し、イェーナ大学に論文「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」を提出して哲学の博士号をとります。そしてマルクスは大学に職をえようとしますが、ドイツの政治情勢は、世の中を変えようとする進歩的な人々に冷たいものとなっていました。すでにフォイエルバッハが大学を追われていましたし、マルクスと親交のあったブルーノ・バウアーも大学を辞めさせられていました。そこで、マルクスはこの道を断念せざるを得なくなります。
その後、マルクスは四二年五月から「ライン新聞」にいくつか論文を書きます。この新聞は、ライン州のブルジョワジー(資本家)たちの改革派が発行していたものです。彼らは、自分たちの経営の自由を拡大する立場から、君主制の一定の改革を求めていました。マルクスは、四二年十月に「ライン新聞」の編集の中心人物となり、当時の政府に対する批判の論調を強めていきます。それが二十四歳のことでした。
当時の人々が直面した具体的な問題に取り組む
それまで哲学や法学を勉強してきたマルクスですが、新聞では、リアルな政治や経済問題を取り扱わざるをえなくなります。たとえば、新聞などの出版物を事前にプロイセン政府が点検し、政府に都合の悪いものは出させないという「検閲」の制度とたたかわねばなりません。また、農民が共同で使える土地で木を拾うことは慣習としてあたり前のことでしたが、政府がそれを「窃盗」だと言い出す出来事や、さらにブドウ栽培業者に対する課税といった問題にも直面しました。ここでマルクスは、特に経済問題に対する自分の理解の不十分さを自覚します。
また、この時期、マルクスの耳にはフランスの共産主義の思想が聞こえるようになりました。代表選手はプルードンです。それらの思想が本当にマルクスの願う改革を実現するものなのかどうか、そこはじっくり考えてみないといけないと思うようになります。
また、マルクスは、この時期に青年ヘーゲル派の仲間と手を切ります。青年ヘーゲル派には、世の中を変えるのにいちばん大事なのは、ものの見方を変えることだという考え方がありました。就職がないと思っているから就職できないのだ。就職できると思えば就職できるようになる。こういう空想的な考え方です。しかし、検閲はないと思っても実際にはある。木材窃盗を理由に捕まることはないと思っても、現に捕まることがある。だから、いつまでもそんな空理空論を言うだけの連中とつきあってもダメだと判断したわけです。
その後、四三年の一月にプロイセン政府が「ライン新聞」の発行禁止を決定します。「ライン新聞」にお金を出していたブルジョアたちは、主張をもう少し穏健なものにしてはどうかと考えますが、マルクスは新聞の延命のために自分の主張を変える気はありませんと、ここで編集部を退きました。
共産主義の思想・運動家に
そのあと若いマルクスは、もう少し自由な言論がゆるされたパリに亡命します。そこでアーノルド・ルーゲという人と一緒に、『独仏年誌』という雑誌を発行します。四四年のことです。そして、それに「ユダヤ人問題について」と「ヘーゲル法哲学批判序説」という論文を書き、社会の改革に必要な科学的な世界観・変革観をつくりあげようとしていきます。二十五歳の時でした。
「ユダヤ人問題について」で、マルクスは、ユダヤ人差別は許されることではないが、その差別をなくしたところで、社会全体が解放されるわけではない。政治的解放も大事だが、さらに根本的に大切なのは人間的解放なのだと主張します。その人間的な解放というのが、後の社会主義・共産主義への変革ということになっていきます。
当たり前のことですが、マルクスは最初からマルクス主義者だったわけではありません。より多くの人が幸せにくらすことのできる社会をつくるために何が必要かを、実践と学問の両面から懸命に探求していく努力があり、それによって次第に科学的社会主義に接近していくわけです。若いマルクスを読む時には、そうして自分を鍛えていくマルクスの姿勢に学ぶことが大切です。
「ヘーゲル法哲学批判序説」でマルクスが着目したのは、変革の担い手はプロレタリアート、つまり労働者階級だということでした。ただし、この時点では「労働者」とは何か、「階級」とは何かの説明はまったくありません。
さらに翌年には、青年ヘーゲル派を批判した『聖家族』という本を初めて出版します。エンゲルスとの共著です。マルクスが二十六歳のときですが、論じられているのは、ヨーロッパ社会を変えるためには、何が必要なのかという天下国家の大問題で、現実世界をとらえる根本思想の問題です。歴史の課題に真正面から立ち向かい、そこでものを考え、書いていくわけです。実に大きな志です。
その後、マルクスはフランスからも追い出されます。プロイセン政府からフランス政府に圧力がかかり、フランス政府が出国命令を出したのです。マルクスはベルギーのブリュッセルに移動し、そこでエンゲルスとの共同を本格的にすすめます。そうして書かれたのが『ドイツ・イデオロギー』でした。本として出版されたのはマルクス死後のことで、残されたのは原稿だけですが、そのいくつかの原稿を書く中で、マルクスは史的唯物論と言われる社会観・歴史観と革命論の基本をつくりあげます。私はここで科学的社会主義の基本が確立したといっていいと思っています。
さらに同じ時期に、マルクスは、当時のヨーロッパですでに有名だったフランスの共産主義者プルードンの理論を批判します。批判するというのは、お前ではダメだと単純に否定することではなく、こうしないとダメだという対案を示して、相手よりも豊かな自分の見解を対置していくことです。そうやって、乗り越えていくということです。
同時にマルクスは、ベルギーのブリュッセルで、「共産主義者通信委員会」という組織をつくります。これは、マルクスなりに見え始めた、社会改革にかんする考え方を社会に普及するための組織です。当時はいろいろな人が、我こそ共産主義、我こそ社会主義と言っていました。そのグループの一つである「正義者同盟」が、四七年にマルクス、エンゲルスに、あなたたちの思想に共鳴する、ぜひ我々の仲間に入ってくれと、加盟を要請してきます。マルクス等は、今までの組織のあり方を変えてもらえるのならという条件をつけ、それが受け入れられるということでこれに加わります。そうやって生まれた団体が「共産主義者同盟」です。この団体が運動の根本方針を書いてほしいと委任してきて、マルクスが書いたのが『共産党宣言』です。このときマルクスは二十九歳でした。
ここでマルクスの読み方についての注意ですが、マルクスといえば『共産党宣言』と『資本論』が有名です。しかし、両者はもちろんつながっていますが、同列ではない。駆け足で見てきたように、若い十七歳のときから、マルクスはどんどん自分の思想と行動を発展させる。自分で自分を成長させるのです。そして、マルクスの成長は『共産党宣言』以後もつづきます。そうであれば、三十前に書いた『共産党宣言』と、五十前でまとめた『資本論』第一部に、同じ科学的社会主義の学問とはいえ、探求の違った到達点が表れるのは当然です。たとえば『宣言』には、後にマルクスの経済学の核心となり、労資関係分析のかなめとなる剰余価値論がまだありません。ですから『宣言』を読んだからマルクスがわかったではなく、『宣言』を読んだから二十九歳のマルクスはわかったと、マルクスの成長の歴史を自覚した読み方が必要です。
四八年「ドイツにおける共産党の要求」
『共産党宣言』を書き上げた直後に、ヨーロッパには大きな民主主義の革命がわき起こります。王様(君主)の時代を乗り越えて、民主主義の時代──内実は資本主義の時代ですが──に、社会を変えようという動きです。四八年二月のフランスに始まり、その運動はオーストリア、プロイセン、イタリア、ハンガリー、その他に飛び火します。マルクスは、ドイツ社会に焦点をあてて、この運動に改革の方向性を示しました。
それが「ドイツにおける共産党の要求」という、十数項目の文書です。主な項目を見ておきます。
①全ドイツを単一不可分の共和国にする。②二十一歳以上の全ドイツ人は選挙権と被選挙権を持つようにする。③労働者もドイツ国会に議席が持てるようにする。⑤裁判は無料にしよう。そうでないと金持ちしか裁判ができないから。⑥農民を苦しめたあらゆる封建的負担を廃止しよう。⑦王侯領地は国有化し、国民の利益のために経営する。⑩私的銀行は廃止し、唯一の国立銀行の銀行券に法的通用力をあたえる。⑪すべての交通機関を国有化し、無産階級は無料で利用できるようにする。⑮高度の累進税を実施し、消費税は廃止する。累進税というのは、お金持ちはたくさん税金を払って、お金がない人はあまり税金を払わなくてもよいという制度です。⑯国家は全労働者の生活を保障し、労働できない人を扶養すること。⑰公民(つまり市民)の教育は無料でやる、といった具合です。
若いマルクスが影響を受けたフランス革命でも、選挙権は男だけの特権でした。しかし、マルクスは二十一歳以上の全ドイツ人に、すでに女性もふくめた選挙権・被選挙権を求めています。いまの日本に照らしても、はるかに先をいく「要求」がたくさん含まれています。
あわせて注目したいのは、マルクスがこれを共産主義でなければ実現できないものではなく、「いますぐ」実現をめざすべき課題として提起した点です。資本主義を乗り越える革命を展望しながら、なにより人々の幸福の追求を推進力に、直面する社会発展の課題をしっかり、内容濃いものとして達成していく。そういう社会発展の実際の論理にそった柔軟な変革の思想が示されていたと思います。
さて、このようにマルクスの成長と成熟のお話を、六十五歳までつづけるには、さらに相当なスペースが必要です。しかし、それを学ぶのに適した本はすでに出されていますから、この話にはここで区切りをつけることにします。およそ三十歳までの若いマルクスの学問と社会改革の実践の積み重ねを見てきたわけですが、若いみなさんに考えていただきたいのは、これが十七歳から二十九歳までという、みなさんと同じ年代のマルクスの姿だということです。
もし、マルクスが現代に生きていたら
マルクスが現代に生き、みなさんの同級生として身近に生きていたとしたら、どういう生き方をしたでしょう。国民が古い自民党政治でない、新しい政治のあり方を模索している。鳩山政権(当時)以後を模索している。そういう日本に、もしマルクスが生きていたら、大学の教室とバイト先と下宿を行き来するだけの生活は送らなかったでしょう。
日本社会はなぜこんな状態なのだ、仕事がなく、生活に困っている人がこんなにいるのに、政治はいったい何をしているのか──ただちに若い仲間で、かんかんがくがくの議論をしたでしょう。そして、現代日本は、青年マルクスがたたかったドイツのように、政府批判に検閲が入るとか、批判すると国外に亡命せねばならないといった状況ではまったくない。そうであれば、きっとマルクスは思う存分、学生時代から社会改革の運動を行ったでしょう。
日本の外に目を向ければ、世界構造の大きな転換が進んでいます。その中でアメリカの大統領が核兵器廃絶を語らずにおれなくなっている。他方で、マルクスが願った社会主義の実現を、市場の活用を通じて達成しようとする新しい模索も行われています。
この時代にマルクスが生きていれば、どれほどの研究を行ったでしょう。入学した大学は、法学部だったり、工学部だったりしたかもしれないが、マルクスは、自分の学問を学部の幅にあわせて狭めるような、そんな視野と志の狭い人間ではありませんでした。自分の願いをかなえるために、より良い世の中をつくるために、必要な学問には、誰に頼ることもなく自分でどんどん挑戦していく人でした。
若いみなさんには、ここをよく考えていただきたいと思います。自分の幸せは大切ですが、同時に、みんなの幸せのために活動し、必要な学習や研究を幅広く行い、自分の生きがいを社会の進歩につなげていく。そういう生き方をぜひ前向きに検討していただきたいと思います。
五、マルクスが積み上げた科学の特徴
次に、マルクスが、六十五歳までいろいろな研究と運動を積み上げてつくった科学の特徴を紹介します。マルクスの学問を考える時に、まず大切なのは、社会の変革のためには、なにより社会の仕組みの客観的な究明が必要だというのがマルクスの立場だったということです。マルクスは「こういう社会がいい」と、自分の理想を社会に押しつけようとした人ではありません。先にも述べたように、社会は社会自身がもつ論理にそってしか変えるしかできない。だから社会の科学的究明を行わない革命家など、革命家ではありえない──というのがマルクスの精神です。
マルクスは、その学問をどういう手順で積み上げていったのか。最初に全体のプランがあったわけではありません。いま目の前にある問題を、人々の幸福のために解決していくこと──その積み重ねがマルクスの学問発展の実際の道筋です。それによって、結果としてマルクスの思想の体系がつくられます。世界観、経済理論、未来社会論、革命運動論は、最初からそのように四つの構成要素として展望されていたわけではないのです。
また、これらは互いに絡み合う構成要素であり、単独で、自立してあるものではありません。のちにマルクスの思想を引き継ぐ努力をしたレーニンは、科学的社会主義を「全一的」な学問だと特徴づけました。全体が一つに統一されているということです。ですから、他の三つはわからないけど経済理論だけはわかるとか、他は知らないけど世界観だけはわかるとか、そういうわかり方のできるものではないのです。全体をよく学ぶことで、ある要素だけを見ていた時にはわからなかったことがわかってくる──そういう仕組みになっています。
さらに、マルクスの体系は、マルクスの思想だけによってできた「閉じた」ものではありません。そのことは、マルクスが自分の思想を鍛える方法にもよく表れています。マルクスが経済学の研究を始めた時に、真っ先に行ったことは、マルクス以前の経済学者の検討です。一番最初は抜き書きばかりで、それに対するコメントさえ書くことができていない。四四年の『経済学・哲学手稿』も、最初はアダム・スミス等の抜き書きばかり。つまりマルクスは、まずそれまでの科学の到達点にしっかり学ぶのです。マルクスの思想は人類の歴史、学問の歴史から跳ね上がった独善ではありません。哲学でも、ヘーゲルやフォイエルバッハをしっかり学んだ上で、前に進んでいくわけです。
それからマルクスの体系は、未来に向かっても開かれています。マルクスは、自分の思想や学問に不十分さがあると気づけば、それをどんどんより豊かなものに進化させています。二十九歳で『共産党宣言』を書いたから、それでもういいとはなりません。その後のマルクスは『共産党宣言』の不十分さをどんどん乗り越えていきました。そして、それはマルクスが生きていた時代で終わることではありません。現代の私たちは、これをさらに進化させねばならないし、もちろんマルクスもそれを望んでいたでしょう。
世界観の特徴─①唯物論の見地
ここからは、四つの構成要素のそれぞれに進みます。まず世界観です。世界観の柱の一つは唯物論の立場に立っていることです。以下は、マルクスの書き物のごく一部を取り出して紹介するものです。
唯物論と観念論という考え方の違いについては、どこかで聞いたことがあるかもしれません。エンゲルスが定式化した、物質が先か意識が先かという有名な文章もあります。しかし、ここでは、若いマルクス等が書き残した『ドイツ・イデオロギー』の序文を紹介しておきます。
「あるけなげな男が、かつて、人間が水に溺れるのは彼らが重力の思想に取りつかれているからでしかないと思い込んだ。彼らが、たとえばこの観念を迷信的な観念、宗教的な観念と言明することによって、それを頭から追い払えば、彼らはすべての水難を免れるというのだ。生涯にわたって、彼は、重力の幻影とたたかったが、…このけなげな男こそが、ドイツの新しい革命的哲学者たちの典型であった」(新日本出版社〈科学的社会主義の古典選書〉版、一〇ページ)
これは青年ヘーゲル派に対する批判です。重力の思想にとりつかれて「ああ、俺は溺れる」と思っているから溺れるのだ。「俺は浮かぶ」と思っていれば溺れない、というわけです。
これに対してマルクスは、そう思い込みさえすれば世の中どうにでもなるということはない、実際に溺れるという現実があるから、人は「重力」を自覚するようになるというのです。観念論は、重力の思想をなくせば誰も溺れなくなると言った。それに対してマルクスは、どんな思想をもっても、重力にさからう方法を身につけなければ人間は溺れると考えました。それが唯物論の立場です。
貧困の思想をなくせば貧困はなくなる、失業の思想をなくせば失業はなくなる──そんなバカなことはないわけです。問題は現実への解釈を変えることではなく、貧困を生みだす社会の仕組みを変えること、失業を生みだす社会の病気をなおすこと──そうやって現実に立ち向かい、その改革に取り組んでいくのが唯物論の立場です。
世界観の特徴─②弁証法の見地
マルクスの世界観のもう一つの柱は、弁証法と言われるものの考え方、ものの見方です。これについては、共同研究者だったエンゲルスの『フォイエルバッハ論』から引いておきます。
「世界はできあがっている諸事物の複合体としてではなく、諸過程の複合体としてとらえられねばならず、そこでは、みかけのうえで固定的な諸事物も、…生成と消滅のたえまない変化のうちにあり、この変化のうちで、みかけのうえでは偶然的なすべてのものごとにあっても、またあらゆる一時的な後退が生じても、結局は、一つの前進的発展がつらぬかれているという、偉大な根本思想」(古典選書版七二ページ)
世界はいろんな要素やモノの集まりだが、その要素やモノは、いつでも変化の過程にある。それらの変化は多様だが、宇宙の進化、生物の進化、社会の発展のように、大局的にはその変化に一定の方向がつらぬかれる──それが弁証法的な見方です。
今日では、むしろ常識的な見方ですが、マルクスの時代のヨーロッパには、世界は神がつくった瞬間から、変化のない繰り返しの歴史をもつだけだという考え方が、広く存在していました。そこで、マルクスは、そうではないということを強調せねばならなかったのです。
私たちも、ものごとをとらえる時には、歴史の中でとらえる意識が必要です。現在の雇用状況をとらえる時にも、現局面を孤立させてとらえるのでなく、戦後の歴史に位置づけてみる。すると、バブル経済の時期には有効求人倍率がいまの倍以上もあった、高度成長期には賃金が毎年上がった──それがどうして今のように変わってきたのか、そういう具合に問題を立てることができるようになります。「昔からそうだから仕方がない」という誤った思い込みも避けられ、「どうすれば改善できるか」も具体的に考えられるようになります。
唯物論や弁証法は、多様な現実問題にポンと答えを与える万能薬ではありませんが、問題解決の方向を示す「導きの糸」にはなるものです。
世界観の特徴─③社会を見れば
世界観の特徴の三つ目は、社会のとらえ方についてです。エンゲルスは『フォイエルバッハ論』でこう言っています。
「歴史の本来の最終的な推進力をなしている動力を探求することになると、…個々の人々の動機ではなくて、問題になるのは、人間の大きな集団、民族全体、さらにそれぞれの民族のうちでの諸階級全体を動かす動機であり、しかもこれも…大きな歴史的変動をもたらす持続的な行動にみちびくような動機である」(八三ページ)
マルクス等は社会を改革して、新しい歴史を切り拓こうとした。そうであれば、これまでの歴史が、何を原動力に、どういうきっかけで変わってきたのか、そこの研究は重大問題となるわけです。歴史は人間が変えてきた。しかし、少ない個人のがんばりだけでは変わりません。社会の多くの人たち、階級とか民族といった大きな集団が動かなければならず、では、過去の歴史で、そうした大きな集団が変革への持続的な動きを起こす具体的な「動機」は何だったのか──こういう具合に問いが立っています。
その探求の結果、マルクスは、大きな歴史の変化の根底には、必ず経済の変化がある。経済の変化が、人間の社会全体をつくりかえる客観的な「動機」をつくり出している──そういう結論に行き着きます。マルクスの若い時代にも、君主制からの政治的解放をもとめるブルジョア革命の動きが、全ヨーロッパ規模で粘り強く繰り返されましたが、その根底には、封建制から資本主義への経済の変化がありました。
他方で、マルクスは、社会が段階的に変わることにも注目しました。大雑把にいえば、人類社会の最初には原始的な共産制の社会があった。つづいて奴隷制の時代があって、さらに封建制の時代があった。それが資本制(資本主義)の時代にかわり、いまは各地で次の時代が展望されている。つまり社会には、長く安定した発展の時期があり、ある時代から他の時代への急速な変化の時期もある。いつでもなだらかに同じテンポで進むものではないということです。
経済理論の特徴─①運動法則の解明
次に経済の理論についてです。
「さまざまな人間社会が生産し交換し、またそれにおうじてそのときどきに生産物を分配してきた、その諸条件と諸形態とについての科学としての経済学──こういう広義の経済学は、これからはじめてつくりだされなければならない。今日までわれわれがもっている経済科学は、ほとんどもっぱら、資本主義的生産様式の発生と発展とに限られている」(『反デューリング論』、全集第二十巻一五五・、古典選書版[上巻]二一一~二一二ページ)
人間社会の発展段階に応じて、その時代を解明する経済学がある。しかし、いまあるのは主に資本主義についての経済学だ──これもエンゲルスからですが、エンゲルスはこう述べた『反デューリング論』の経済学編を、『資本論』の第一部をもとに書いています。
マルクスの経済理論というと、すぐに価値法則とか剰余価値論がとりあげられますが、その前に大事なのは、それが資本主義経済の運動法則──生まれ、育ち、次の新しい経済社会にバトンタッチしていく歴史変化の法則の解明を課題にしている点です。資本主義を永遠とは考えない──その見地は、資本主義の繰り返しの法則だけでなく、繰り返しの中をつらぬく発展の法則の解明に向かわせます。
マルクスは、『資本論』の序文で、こう言っています。
「近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である」(新日本新書版、第一分冊一二ページ)
近代資本主義社会の運動法則を、経済の角度から徹底的に明らかにするのが目的である、というわけです。実際『資本論』には、十六世紀に資本主義が発生し、その資本主義がどのようにして生産過程全体を掌握していくか、またその発展が次の社会をどのように準備していくかという、太い論理が貫かれています。その全体像をつかまえることが大切です。それは、価値とは何か、剰余価値とは何かということを、『資本論』をバラバラにして、断片的に読み込むだけではつかむことのできないことです。
経済理論の特徴─②資本主義の矛盾
経済理論の特徴の二つ目は、これに関連して、マルクスが資本主義の矛盾に注目している点です。物事の変化や発展の根本的な原動力は、そのもの自身の中にある矛盾です。そこで、資本主義はなぜ、どのように発展していくのか──その解明は資本主義の変化や発展を導く内部矛盾の解明と一体のものにならずにおれない。その矛盾を、マルクスは、たとえば次のように表現しています。
「資本主義的生産の真の制限は、資本そのものである。というのは、資本とその自己増殖とが、生産の出発点および終結点として、生産の動機および目的として、現われる、ということである。生産は資本のためのものにすぎないということ、そして、その逆ではないこと」(『資本論』、新日本新書版、第九分冊四二六ページ)
資本主義の生産は、生産にかかわる人の幸福や、消費する人々の生活のためではなく、資本の自己増殖──私的利益の拡大──を動機や目的とする。つまり利益第一主義ということです。そこから、はたらく人たちの賃金をむやみに引き下げ、無権利な非正規労働を拡大し、過労死を蔓延させ、さらに、タイヤがはずれるようなトラックを売り、賞味期限切れの牛乳を材料にして牛乳をつくるといったバカげたことも起こってくる。
一方で、生産力を発展させ、ケータイやパソコンをつくり、販売し、社会に豊かな物的生活の可能性を広げるけれど、資本はそれを、貧富の格差や消費者への迷惑、労働者の苦労や、環境の破壊など、社会的な害悪を引き起こしながらでなければ達成できない。その資本自身の性質のために、そんな害悪の中では暮らせないと、問題の解決を願う人たちがたくさん生まれてくる。それが資本の横暴を抑制し、資本主義にルールを与えようという動きになり、さらには資本主義のシステム自体を乗り越えようという動きに発展する。
このようにマルクスは、資本主義発展の法則を、資本主義の根本矛盾の解明と一体のものとして位置づけ、これを探求しています。
《新しい経済システムへの関心》
二〇一〇年一月に開かれた日本共産党の大会でも話題になりましたが、〇九年秋にイギリスの公共放送であるBBCが、二十七カ国二万九千人へのアンケート調査をしました。その質問項目のひとつに「自由市場の資本主義はうまくいっているか」というものがありました。日本風に言えば、「『構造改革』の資本主義はうまくいっているか」「自己責任型の資本主義はうまくいっているか」といった質問です。
この問いに、「資本主義はよく機能しており、規制強化は能率低下を招く」と答えた人は全体のわずか一一%です。その他の人はどういう意見だったかというと、五一%の人が資本主義は「規制と改革で対処できる問題を抱えている」──資本主義には「規制と改革」が必要だと答えました。さらに驚かされるのは、資本主義は「致命的欠陥を抱えており、新しい経済システムが必要だ」と答えた人が二三%に達していることです。四人に一人が、資本主義にルールを与えるだけでは限度がある。利潤第一主義それ自体を改革せねば、と考えているわけです。
こういう点に、現代資本主義の問題点がよくあらわれており、さらに、問題だけでなく、それを解決しようとする多くの人々の意識と取り組みがあらわれています。それはマルクスが語った資本主義の運動法則の表れそのものです。
これに照らしてみると、日本の社会はかなりズレています。いまだに政治の世界では「構造改革」路線がつづけられ、鳩山政権(当時)もそれを転換する姿勢をもっていません。
図は、この質問に対する十二カ国の回答の結果です。右端の部分が「構造改革」路線でいいという回答で、左端の部分が、もう資本主義ではダメだという声です。現代の日本だけを見ていると、資本主義は永遠だと思えてしまうかも知れませんが、世界はもっと自由にものを考えています。もっといい世の中に変えていこう、変えることができると思っています。
未来社会論の特徴─①利潤第一の転換
次に、未来社会論です。マルクスの未来社会論の特徴は、それが机の上で描かれた理想像でなく、資本主義の限界──利潤第一主義を解決していく結果として、その姿が次第に明らかになるとする点です。
利潤第一主義の克服は、経済活動の原動力を一部の資本家による私的利潤の追求から、社会全体による幸福の追求に転換していくことを必要とする。では、それはどうすれば実現できるのか。それは、生産手段(工場や原材料や建物など)を、資本家たちの私的な財産から、社会のものに転換していくことによってです。それによって「自分(資本家)の利益のための生産」を「みんなの利益のための生産」に転換する。これがマルクスの回答です。マルクスはそのような転換を「生産手段の社会化」と呼びました。
そして、そうやってつくられる新しい社会を、マルクスは社会主義とか共産主義と呼びました。これは同じ社会のことを指しています。共産主義については、共産党の一党独裁とか、自由や民主主義のない牢獄のような社会というイメージがあるかも知れませんが、マルクスの共産主義論はそんなものではありません。
たとえば、マルクスは『資本論』でこういっています。
「共同の生産手段を使って労働し、個人個人がもつ労働力を一つの社会的労働力として自覚的に支出している自由な人々の連合体」(『資本論』、新日本新書版、第一分冊一三三ページ)
これが共産主義を経済面から見た特徴づけの基本です。社会のものである生産手段を使い、お互いが対立せず力をあわせて、誰かに命令されてではなく、同じ社会に暮らすお互いのために自発的にはたらく自由な人々の集まり──これがマルクスの共産主義社会像です。
こういう具合に経済構造が転換した時に、人間社会全体にはどういう新しい変化が生まれるだろうか。その点についても、マルクスは様々な研究を残しています。貧富の格差が解消できるようになる、合意にもとづく経済の計画的運営が可能になる──もちろん環境問題への対応も、そして、さらに大きな見通しは、生活のためにはたらかねばならない時間が次第に短くなり、各人の自由時間がふえていくということです。マルクスは、それを各人が生まれもっている様々な発達の可能性を、本格的に開発することが可能になる社会ととらえています。
じつは、これも現代資本主義の中で、すでに大きな話題になっていることです。人間社会の発展を、GDP(国内総生産)ばかりで計るのはやめよう、人間一人一人がどれだけ多面的な豊かさを手にしているかで計っていこう。そういう声があって、国連でも「人間発達(開発)指数」という、健康や寿命、教育の水準、経済発展という三つ角度から、個人の発達に焦点をあてて人間社会の発展をとらえる試みが行われています。
経済の発展にともなう自由時間の増加ですが、これも資本主義の枠内で、すでに大きな変化があることです。日本の労働者は年間の労働時間がサービス残業込みで二千二百時間とか二千三百時間くらいになっています。しかし、フランスやドイツは一千五百時間くらいで、日本との格差は年に七百五十時間くらいになっています。ということは、年に二百五十日働くとして、毎日三時間の格差があるということです。
これを単純化していうと、日本のサラリーマンが夜の十時に職場を出て「やってられるか」と思っている時に、フランス、ドイツのサラリーマンは七時に帰りながら「やってられるか」と思っており、日本人が七時くらいに職場を出て「まあこんなもんだな」と思っているときに、フランス、ドイツのサラリーマンは四時に帰って「こんなものだな」と思っている。われわれが五時に帰って「明日クビになるのでは」とかえって不安になるような時に、ドイツ、フランスのサラリーマンは二時に帰っているわけです。毎日、三時間違うというのは、そういうことです。
実際には、フランスなど有給休暇が年五週間もあって、消化率が一〇〇%に近いですから、はたらいている日の一日の労働時間はもう少し長いでしょうが、それにしても、人間らしい労働や生活の基準はまったく違っています。その自由時間の長さが、休養や健康づくり、家族との時間、ボランティア、市民運動などへのゆとりをつくり、人間の多面的な発達を促す条件をつくっています。そういう変化が、すでにヨーロッパではすすんでいる。
その背景には、人間は働くために生まれてきたのではない、人生を楽しむために生まれてきたのだ、だから労働ばかりに時間をとられるのはおかしい──そういう考え方があるわけです。もちろん社会を維持するための労働は行われており、一人当たりで計算すれば、GDPについても日本より高い国はヨーロッパにはたくさんあります。こういう変化は、先のマルクスの展望にも、太いつながりをもつものとなっています。二十世紀初頭で、フランスの週労働時間は七十時間でしたが、マルクスが見ていたのは、それより前の資本主義です。そういう時代しか知らないのに、労働時間の短縮と人間発達の可能性をめぐり、こうした先駆的な見通しが出てくる。ここがマルクスの科学のすごさです。
未来社会論の特徴─②長い過渡期と漸進的な改革
未来社会論の特徴の二つ目ですが、マルクスは資本主義が社会主義・共産主義の社会に進化するには、長い過渡期が必要だという指摘をしています。そこにも一足飛びの変化はないというわけです。
マルクスは『資本論』第一部を書いた時期には、資本主義がよく発展していれば、未来社会への過渡は短期間で済むと語っていました。それがパリ・コミューンの成立(一八七一年)というフランスの革命的な出来事を分析して、考え方を変えていきます。
たとえばこんな具合です。
「労働の奴隷制の経済的諸条件を、自由な結合的労働の諸条件とおきかえることは、時間を要する漸進的な仕事でしかありえないこと(その経済的改革)、そのためには、分配の変更だけではなく、生産の新しい組織が必要であること」「その調和のとれた国内的および国際的な調整が必要である」(『フランスにおける内乱』第一草稿、『全集』第十七巻五一七~五一八ページ)
「労働の奴隷制」というのは昔の奴隷制のことではなく、現代の資本主義のことです。マルクスは資本主義の労働者を「賃金奴隷」とも呼んでいます。「自由な結合的労働」というのは共産主義における労働のことです。そして、その転換は「時間を要する漸進的な仕事である」──「漸進的」というのは、順を追って少しずつということです。少しずつの転換だから時間がかかるというのです。そして、その転換の中身は、「分配の変更」だけでなく、何より生産の組織の変更が必要で、さらに改革された各生産現場どうしの計画的な調整や、国際的な調整が必要になる。これらの大仕事をやっていくには、時間がかかるというわけです。おそらくそれには、過渡期をうまく進んでいく人間たちの能力の発達という問題もあるのでしょう。
マルクスは、過渡期の期間についてこう書いています。
「現在の『資本と土地所有の自然諸法則の自然発生的な作用』は、新しい諸条件が発展してくる長い過程を通じてのみ、『自由な結合的労働の社会経済の諸法則の自然発生的な作用』によっておきかわりうること、それは『奴隷制の…作用』や『農奴制の…作用』が交替した場合と同様である」(『フランスにおける内乱』第一草稿、『全集』第十七巻五一八ページ)
かつての奴隷制が農奴制にかわったのと「同様」に、農奴制が資本制にかわったのと「同様」に、「長い過程」が必要だろうという見通しです。これは数世代に渡るものとなるということでしょう。
未来社会論の特徴─③国家のいらない社会
なお、マルクスの未来社会論には、国家を必要としない社会という特徴づけもふくまれます。国家は、原始の共同社会が、大きな対立のある階級社会──奴隷制社会──に転換したとき、支配する階級が社会全体を力で抑え込む手段として、軍事力を核心として生まれたものです。資本主義でも、たとえば戦前日本の社会には天皇を頂点とした支配層が、国民を「臣民」(天皇の家来)と呼ぶ憲法のもとに、これを弾圧する国家がありました。
議会制民主主義が成立し、国民の意志が政治に直接反映するようになったのは戦後のことで、そのような国家は長い歴史の中では例外的な存在です。その例外的な国家を活用して、「財界いいなり」を抜け出すことのできない日本社会を、「国民が主人公」の社会に次第につくりかえていき、さらに「財界と国民の対立がそもそもない社会」、つまり共産主義づくりに入っていく。現代の日本には、そういう改革の見通しが成り立っています。共産主義への過渡期の中では、階級への分裂と対立のない社会をつくっていくことが中心課題になりますが、それが次第に達成されていくことは、ある階級(支配者)の意志を社会全体に押しつけることの必要をなくしていくということにもなるわけです。したがって、過渡期を進むことにより、「自由な結合的労働」の主人公たちによる自発的で共同した社会の管理や運営は発展するが、国家は眠り込んでいく──それがマルクスによるたいへん長期の見通しです。共産主義社会は国家が不要になった段階の社会だということです。
さて、ここで見ておきたいのは、かつてのソ連の姿です。スターリンは一九三六年に、過渡期が終わったと宣言しました。もはやソ連は立派な社会主義社会なのだといいました。しかし、そこには国家が存在しました。スターリンは国家の代表です。しかもその国家は、強烈な人民抑圧の国家であり、対外的にも覇権主義の国家でした。少なくともスターリン時代からのソ連は、社会内部の階級対立が解消され、国家の出番が次第に失われていく──そういう方向にはまったく進んでいませんでした。そういうソ連社会の実態をものさしにして、マルクスの未来社会論をはかることはできません。
革命運動論の特徴─①多数者革命論
四つ目の革命運動論です。その特徴の一つは、議会を通じた多数者革命が探求されていることです。じつは、四八年の『共産党宣言』には、力による転覆と書いてあります。なぜなのか、それは、まだ議会がなかったからです。議会のない君主制、王様の時代です。ですから四八年に民主主義への転換を求めていろいろな人が革命運動をやりましたが、その方法はいずれも力にもとづく改革でした。王政を文字通り、打ち倒す革命です。誰にも他に手がなかったからです。
しかし、そんな時代にも、マルクスは先の「ドイツにおける共産党の要求」で、二十一歳以上の全員に選挙権と被選挙権を与えよ、議会に労働者の代表が送り込めるようにしろといっていました。議会をつうじて政治と社会を変えようと考えたのです。全国民が平等な政治的権利をもつという、民主主義の充実を求める思想が根底にあります。
それにくわえてエンゲルスはこうもいっています。
「社会組織の完全な改造ということになれば、大衆自身がそれに参加し、彼ら自身が、なにが問題になっているか、なんのために彼らは肉体と生命をささげて行動するのかを、すでに理解していなければならない。…そのためには、長いあいだの根気づよい仕事が必要である」(『フランスにおける階級闘争』(一八九五年版)への序文、全集第七巻五三二ページ)
社会全体の改造には、多くの人の合意や積極的な参加が必要であり、みんなでこういう方向に社会を変えよう──そういう自覚が必要になるということです。そして、そういう自覚をもった人を増やしていくことが、革命運動、社会改革運動の基本になるというわけです。実際には、改革の過程で、支配者の側が暴力に打って出ることはありえないことではありません。しかし、多数者の合意で支配者をしっかり包囲していけば、それは彼らが暴力に打って出る可能性を小さくすることにもなるわけです。
革命といえば暴力だ、マルクスも暴力革命論者だ──と誤解している人もいますが、マルクスを少しでも読めばわかることです。まったく違います。なお、この誤解を広める上で大きな役割を果たしたのはレーニンの『国家と革命』という本でした。そのあたりについては、すでに詳しい検討が行われています。
革命運動論の特徴─②段階的変革論
二つ目に、マルクスは段階的変革論の立場に立っています。四八年革命に際しての「ドイツにおける共産党の要求」には、資本主義を飛び越えて、共産主義の社会にしようなどということはどこにも書かれていません。それをめざした『共産党宣言』にさえ、次のような文章が入っています。
「共産主義者は、労働者階級の直接に目前にある諸目的および利益の達成のためにたたかうが、彼らは、現在の運動において同時に運動の未来を代表する」(古典選書版、一〇六ページ)
目前の課題でしっかりたたかうからこそ、それが未来のより大きな変革につながっていくのだというわけです。社会の発展には法則性があり、社会は、人間が思い込めばその方向に変わってくれるというものではないということです。
ですから、後にマルクスは『資本論』の中で、資本主義の枠内における資本主義の漸進的な改革を、次のように探求しています。
①「資本は、社会によって強制されるのでなければ、労働者の健康と寿命にたいし、なんらの顧慮も払わない」(新日本新書版、第二分冊四六四ページ)
実際、マルクスの時代のイギリスには、子どもや女性もふくめて、過労や工場の不衛生で命を落とす人がたくさんいました。そこで労働条件の改善を求める労働運動が生まれ、それが経営者たちとの激烈なたたかいを展開します。その闘争をマルクスは「内乱」と表現しました。その「内乱」を通じて、労働者たちは工場法を勝ち取ります。核心部分は労働時間の制限でした。その意義について、マルクスはこう書いています。
②「工場立法〔労働時間法〕、すなわち社会が、その生産過程の自然成長的姿態に与えたこの最初の意識的かつ計画的な反作用は…大工業の必然的産物である」(第三分冊八二八ページ)
工場立法は、労働者や国民のたたかいが、資本主義を少しずつ改革していく、その「最初」の一歩になるというのです。その内容は、利潤第一をつらぬこうとする資本に対して、社会が「計画的な反作用」をくわえ、資本を一定のルールのもとにコントロールしていくことだというのです。それをマルクスは、資本主義のもとでの「必然」だと述べています。
さらに先では、こうもいいます。
③「工場立法の一般化は、生産過程の物質的諸条件および社会的結合とともに、生産過程の資本主義的形態の諸矛盾と諸敵対とを、それゆえ同時に、新しい社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる」(第三分冊八六四ページ)
そういう資本主義の枠内における規制や改革の積み重ねが、未来社会の準備とそれを求める多くの人々の願いを「成熟」させるということです。このようにマルクスは、資本主義の枠内における目前のたたかいこそが、「運動の未来」を次第に切り拓くものだと考えていました。マルクスは、資本主義をさっさとやめて、明日からすぐに共産主義にしよう──そんな空想を語る人ではなかったのです。
マルクスの死後、マルクスが見通したとおり、資本主義は、資本に対する「計画的な反作用」を充実させて発展しました。一九一七年のロシア革命によって打ち立てられたレーニン等の政府は、八時間労働や社会保障づくりを宣言します。レーニンはすぐ亡くなり、またロシアには十分な財政力がなく、十分なことはできませんでしたが、この姿勢は資本主義の国々に大きな影響を与えました。一九一九年にドイツにつくられたワイマール憲法には、世界で初めて国民の「生存権」が定められます。またILO(国際労働機関)がつくられ、各国の労働条件をよりよいものに変える動きが強まるのも、同じ一九一九年のことでした。
一九三六年にはフランスの労働運動が、財界とのたたかいによって、世界で初めて年二週間の有給休暇を勝ち取ります。さらに第二次大戦後につくられた国連は、労働者の権利をふくむ人権擁護の取り組みを国際的に推進し、さらに今日ではEU(欧州連合)諸国が労働者・国民の生活をまもる福祉社会の形成をすすめています。
こういう資本主義発展の実際と、そこに貫く論理をとらえ返せば、先のBBCのアンケートで、自由市場の資本主義がうまくいっているとする回答(一一%)よりも、規制と改革が必要だとする回答(五一%)がはるかに多いのは、むしろ自然なことでした。資本主義の発展がここまで来ている段階で、「新自由主義」的改革をかかげて「規制緩和(ルールの破壊)」に進む日本の政治は、資本主義発展の歴史に対する逆流です。「構造改革」路線に未来はないのです。
同じアンケートには、資本主義は「致命的欠陥を抱えており、新しい経済システムが必要だ」という回答が二三%もありましたが、その比率がもっとも高いのはフランスの四三%でした。三六年に財界とのあいだに「マティニヨン協定」を勝ち取って労働条件の改善を認めさせた──それからすでに七十年以上の年月がたち、その間に、規制と改革はずっとつづけられてきたが、それでも最近の金融危機や世界経済危機のような害悪を避けることができない。そういう長い歴史的経験の上に立った資本主義批判として、このフランスの数字は重い意味をもつように思います。
六、成長への努力をやめないマルクス
マルクスの理論を離れて、その人生にもどっておきます。最初に、若い時代のマルクスが理論面でも、実践の面でも急速な成長と変化を見せたことを紹介しました。二十歳前後の若いみなさんの中には、自分に自信がもてない、大人としてやっていけるか不安だ、そう思っている人もいるかも知れません。しかし、大丈夫です。まだまだみなさんは成長しますし、これから自分を鍛えていくことができますから。文字どおり生涯が急速な成長過程であったマルクスの人生は、その見本のようなものになっています。
レーニンが『カール・マルクス』という本にマルクスの短い伝記を書いています。それをもとにマルクスの人生全体を紹介すると、次のようになるかと思います。
一八四二~四三年のマルクスは、革命的民主主義者として「ライン新聞」で活動しました。この時期にマルクスは唯物論の見地を確かなものにし、共産主義者へと前進します。
四三~四八年には、パリやブリュッセルで科学的社会主義の土台をつくる仕事に取り組みます。『聖家族』でエンゲルスとの共同を開始し、『ドイツ・イデオロギー』で史的唯物論の基本を打ち立て、世界初の共産党綱領である『共産党宣言』を書き上げました。
四八~四九年には、始まったヨーロッパ革命の中でドイツにもどり、「新ライン新聞」の編集長として革命の成功のための論陣を張ります。革命は敗北しますが、ただちにそれを総括する『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』などを書き上げます。
四九~六四年には、最後の住みかとしたロンドンで、来るべき革命運動の高揚にそなえ、世界観の仕上げや経済学の研究をすすめます。『経済学批判』への「序説」と「序言」を書きますし、当時の世界政治についての多彩な政論活動を展開していきます。
六四~七二年には、国際労働者協会(第一インタナショナル)での活動に力を注ぎ、同時に『賃金、価格、利潤』、『資本論』第一部、『フランスにおける内乱』などを執筆します。
国際労働者協会は、マルクスが書いた創立宣言と規約を満場一致で採択します。しかし、これはマルクスの思想に賛同する人たちの集まりではありませんでした。様々な流れの労働運動家・共産主義者がおり、マルクスは全体の団結を維持しながら、自分の考え方への理解と共鳴を広げる努力をします。この活動は七二年に停止されました。
『資本論』は、資本主義的生産様式の運動法則の解明を正面からの課題とするものでした。
七二~八三年には、『資本論』全体の完成への努力を重ねながら、各国の労働運動・革命運動への助言を行っていきます。また『ゴータ綱領批判』などの重要な著作も残しました。
こうして簡単に見ても、まったく激動の人生です。たいへんな毎日だったのだろうと思います。しかし、それは誰かに強制されてのものではありません。十七歳のマルクスが、すでに自分の幸福と社会の幸福を重ね合わせてとらえていたように、マルクスには、これが自分の生きるべき充実した道であったのでしょう。マルクスほどたくさんのことをやりとげることは、誰にとっても大変です。しかし、若いみなさんには、この人生に満ちあふれた大志とヒューマニズムの精神を、今と未来への参考にしていただきたいと思います。
七、マルクスの目で現代を見ると
世界経済危機─①過剰生産恐慌
現代世界の問題を、私なりに理解するマルクスの目を借りて少しだけ見てみます。一つは世界経済危機の問題です。現代の経済危機をとらえる上で、百数十年も前のマルクスの経済学など役に立つのか──私は、相当に有効性があると思っています。
今の経済危機は「百年に一度の恐慌」などといわれますが、この恐慌が人間社会に初めて発生したのは、一八二五年のイギリスでのことでした。それから恐慌はくり返しやってきます。ですから周期的恐慌といわれています。なぜ一八二五年のイギリスからだったのか。それはイギリスが最初に産業革命を終えた国で、それを終える時期がちょうどその頃だったからです。封建制の内部に発生した資本主義が、次第に多くの生産を労資関係のもとにおさめ、機械制大工業の成立によりいよいよ資本主義経済が自分の足で立つのが産業革命です。そこから周期的な恐慌をふくむ、資本主義の産業循環が開始されました。
恐慌はなぜ、どのような仕組みで起こるのか。マルクスはその解明を大きな軸に、経済学の研究を深めます。そして、これが直接には、周期的に発生する過剰生産にもとづく経済の混乱であることを明らかにします。この場合の過剰は、社会の必要に対する過剰ではありません、消費力に対する過剰です。つまり、ある瞬間に、資本が社会の消費力をはるかに超えて生産してしまい、大量の売れ残りが生まれてしまう。そこで資本は生産を縮小・抑制するようになり、労働者を解雇し、中小資本への発注を減らしていく。実際、今回の恐慌も、〇八年九月のリーマンショックをきっかけに、日本の製造業が一斉に大量の非正規切りを行い、それが年末の日比谷の派遣村に直結したわけです。ところが、こうして労働者がクビを切られ、中小資本が経営危機に追い込まれると、社会の消費力はますます萎縮します。そうすると、ますますモノが売れ残り、さらなる生産縮小に向かうという悪循環に落ち込んでしまう。これが恐慌です。
マルクスは、こういう分析を、・恐慌の可能性、・恐慌の原因・根拠、・恐慌の運動論という三段構えの理論で行いました。・恐慌の可能性というのは、貨幣を仲立ちとする市場経済では、購買と販売がいつでも一致する保証はないという、かなり抽象的なレベルの議論です。・その次の恐慌の原因・根拠というのは、個々の資本は自分のもうけを拡大するため労働者の賃金を抑制する、ところが社会全体で見れば、この労働者こそが最大の消費者なので、そこからどうしても生産と消費のギャップが生まれるという議論です。
しかし、分析はこれだけでは十分ではありません。一方で、市場は需要と供給を調整する能力をもっています。その市場の動きを見ていれば、供給の調整(生産の調整)は、こまめにできることであるはずです。それにもかかわらず、大規模な過剰生産が一挙に、しかも周期的に発生する──なぜそうなるのかを明らかにすることが必要です。そこに挑んだのが、・恐慌の運動論の領域です。市場の調整能力が、なぜ周期的にマヒしてしまうかを明らかにする領域です。
その問題をマルクスは、・生産資本と消費者のあいだに、商業資本が入り込み、これが生産資本にとっての「架空の需要」を生み、生産資本にとっての商品販売までの流通過程を短縮し、商品が最終消費者にわたらないうちに、次への生産を促進する役割をはたす。・信用の発展が、生産資本に対しても、商業資本に対しても、規模の拡大に必要な資金をただちに提供する力をもつようになる。・最終消費が世界市場へと広がるために、全体としての消費動向をつかむことの困難が増していく、という角度から分析します。
話を、グッとかみ砕いてみます。たとえば、私がパソコンをつくる資本だとします。私が自分の店で、パソコンを直接、消費者に売っている限りでは、売れる量はよく分かる。どういう機種がどれだけ売れているかがよく分かる。在庫がふえている場合には、生産量の調整も難しくない。ところが、そこに商業資本がやってくる。「私があなたのかわりに販売します」「私の方が販売はプロです」「そのかわり、少し安値でパソコンを私に売ってください」というわけです。実際に、みなさんも家電製品を買う時には、メーカーから直接買うということはありませんね。私の住んでいる地域だと、ヨドバシカメラとか、ビックカメラとか、ヤマダ電機とか、ミドリ電化とか、そういった販売専門の大きな店にいくわけです。
それらの商業資本は、お互いに販売合戦を繰り広げている。たくさん売ったものが勝ちの勝負です。それには、あらゆる商品が揃ってなければならない。「いま在庫がありません」ではダメなのです。ですから生産資本からたくさん買う。私のところからも買うわけです。そうすると、私の手元からは商品がなくなり、その分、現金が入ってきます。そこで今度は、富士通やソニー、NECなどの生産資本どうしの競争がはたらきます。私も不安になるわけです。まだ商業資本に売った部分が、最終的に売れているわけではない。しかし、どんどん売れる可能性もある。その時に、商業資本から追加購入の申し出があるかも知れない。そのための用意をしておかねば、他の生産資本に負けてしまうかも知れない。そこで最終の市場で売れているかいないかにかかわらず、追加の商品をどんどん生産することになるわけです。
そして、それがある時、商業資本の手元の商品のだぶつきという形であらわれる。ひどい場合には、大量の在庫をかかえた商業資本の経営破綻という形であらわれる。たくさん仕入れたけれど、売れないということです。それが過剰生産が一挙に露呈する瞬間です。そうなると私も、しばらく商業資本からの注文はないと判断として、生産を急いで縮小します。どの生産資本も生産を縮小します。それがパソコンだけでなく、自動車やテレビやあらゆる商品で同時に起こるのですから、そこからしばらくは大量の首切りにもとづく急速な景気後退と経済の混乱が起こることになるわけです。これが恐慌の瞬間です。
しかし、こうした景気後退が起こっても、社会の消費がゼロになるわけではありません。生活のために、誰かがやはり買っていく。そこで時間がたつと、私の手元からも、少しずつパソコンが減っていき、在庫が次第に減ってくる。こうなると世の中の様子を見ながら、ちょっと生産を増やしておこうか、そのために新しく労働者をやとってみようか、中小資本への部品発注を増やそうかといったことも起こるわけです。今度は、それが社会の消費力を激励する力になり、景気回復を促す力になっていく。そして、それがゆっくりした上昇の時期から、またしても資本間の競争に急かされた過熱の時期にうつり、再び、商業資本が、生産資本どうしの競争を激化させる役割をはたすという具合になっていきます。こういう過程が繰り返されるのが恐慌を含む資本主義の産業循環です。
世界経済危機─②金融危機をきっかけに
とはいえ、今回の世界経済危機は、これとまったく同じ手順で起こったわけではありません。そこには新しい特徴がありました。一番の違いは、過剰生産のつくられ方、市場の調整機能がマヒしていった道筋です。今回は、商業資本のはたらき以上に、金融のバブルがそれをもたらしました。
今回の経済危機は、サブプライムローンの暴落と、その背後にあったアメリカの住宅価格の低落からはじまっています。危機に先立つしばらくのあいだ、アメリカでは住宅価格の上昇が長くつづいていました。それを利用して、アメリカの大手金融機関が、大資本や大資産家の資産を運用してもうけるために、サブプライムローンといういかにもあやうい商品をつくり出しました。金融機関は、そのあやうさをごまかすために、他の様々な金融商品と商品の混ぜ合わせをしたり、できあがった複雑な商品の安全性を主張するために、格付け会社に高い格付けをさせるなどのごまかしを重ねました。そうして、この商品を販売していったのです。
サブプライムローンは、住宅価格の変化に連動していましたから、アメリカの住宅価格が上昇しているあいだは、その保有者にも利益をもたらしました。それがアメリカに高い消費力を生み出しました。車やパソコンなどがたくさん売れたのです。ところが二〇〇六年・〇七年には住宅価格の上昇がとまり、大幅な下落がすすむ。それによって、サブプライムローンの価値は、急速に下がります。そこで誰もが、これをさっさと手放そうとします。それが価格の急落を加速させます。これによって、サブプライムローンを保有し、あるいは売買することによって生みだされていた利益は消えてしまい、アメリカ全体の高い消費力も失われました。これによって、今回の過剰生産──つまり生産と消費の大きな格差が一挙に生みだされたのです。この危機の中で、アメリカ最大の自動車資本GMが経営破綻し、国有化されました。その原因は資産運用の失敗と、車自体が売れなくなったということです。
こういう具合につくられた経済危機ですから、問題を解決の方向に向かわせ、これが再び起こることを食い止めるには、危機をまねいた金融投機を社会がコントロールできる範囲におさめることと、萎縮した消費力の回復をすすめていくこと──この二つが必要になっていきます。
ですから、アメリカのオバマ政権は投機を規制する法律をつくりながら、勤労者減税を実施しています。医療保険制度づくりや教育への支援をすすめていますが、それは国民の生活を支えるものであるとともに、社会全体の消費力の底上げをすすめるものともなっています。EUでもヘッジファンド等への投機規制が追求され、イギリスなどでは消費税が減税されました。どちらも金融危機と過剰生産の両方に対処しようとしているのです。そのなかで日本の危機対策は惨めなものでした。危機が広がるなかで、当時の麻生首相が語ったのは三年以内の消費税の「増税」です。国民の消費力を破壊してきた「構造改革」路線の転換は、まったく話題にもならず、〇九年に成立した鳩山政権もこの点では結局、成果なしです。ここには、日本の財界の中長期的な経済運営能力の貧しさと、政権政党の無責任と無力があらわれていると思います。
アメリカ発の経済危機ではありましたが、それは投機にかかわった世界各国に広がり、アメリカ、EUなどの消費力の急速な縮小は、これら諸国への輸出などに頼った国々にも深刻な影響を及ぼしました。そのなかでアメリカなどの経済大国に金融規制の強化を求める世界的な世論が強まっています。他方で、今回の危機の中で世界の消費を支える大きな役割をはたしているのが、中国やインドなどの新興諸国です。そうした経済的な力関係の変化が、G7からG20へ、さらにはG192へと、世界経済の運営や管理の舞台を転換させる力となっています。これまでの大国中心型の世界の経済構造は、今後、ますます大きく変わっていくでしょう。
地球温暖化問題
もうひとつ、地球環境破壊の問題では、温暖化問題が重要な焦点となっています。大気中に二酸化炭素などの温室効果ガスが増え、それによって地上から宇宙に拡散していくはずだった熱が地球の表面に閉じ込められるようになっている。それが地球をまるごと温める、温室効果をつくっているわけです。
この二酸化炭素はいつ頃から増えてきたのか。自然科学の究明によれば、だいたい資本主義の成立期、産業革命の時期からです。産業革命というのは機械制大工業が成立した時期ですが、当時の主なエネルギー源は蒸気で、その蒸気は石炭を燃やす熱でつくられました。その後、私たちは石炭とあわせて石油を大量に使うようになりましたが、これも同じように二酸化炭素を排出する。自動車のエンジンがガソリンを燃やすのも、石炭での火力発電も同じ問題を起こすわけです。
石炭や石油の使用量を減らしても、それを使用している限り、二酸化炭素は出続けます。したがって、これは排出量を減らしながら、その間に、新しいエネルギー源を開発していくしかありません。
そこで九七年には京都で、温暖化ガスの排出量削減についての国際合意がつくられました。それが京都議定書です。ところが、これを各国が実行に移し始めたところで、最大の排出国であるアメリカが──ブッシュ政権ですが、〇一年にこれから脱退してしまう。アメリカには世界最大の石油産業があり、自動車産業がありますから、そこからの力が強くはたらいたのです。地球環境の上に資本の利害がおかれたわけです。アメリカいいなりの日本政府や財界も、アメリカがそういう態度をとるのならと、問題への積極的な取り組みを避け、その結果、国際社会で日本は、アメリカ、カナダとならんで「世界の化石」だと評価されるようになっています。
京都議定書が排出量規制の基準年とした九〇年に比べて、ドイツは二〇〇八年までに八・二%削減の実績をあげています。EU全体でも、二〇〇七年までに四・三%削減しました。しかし、同じ二〇〇七年までに日本は八・二%増やし、アメリカは一六・八%も増やしました。同じ資本主義の経済大国でも、こういう格差が生まれているわけです。
その違いはどこから生まれてくるのか。それは、二酸化炭素の大量の排出者は大資本ですから、それと政府が話し合い、排出量規制の合意をつくることができるかどうか、それを実現し、実行させる姿勢を政府がもっているかどうかの問題です。アメリカはブッシュ政権の時には、ほとんど何の対応もしませんでしたが、〇七年にはアメリカの国際的な威信の低下を嘆き、各種の政策転換をもとめる「スマートパワー委員会」報告がつくられ、そこでは威信低下の原因の一つに温暖化問題へのアメリカ政府の態度があげられました。
京都議定書の目標以後となる二〇一三年以降の削減量を決めるCOP15(二〇〇九年)の会議では、結局、アメリカ、日本などの消極姿勢のために、拘束力のある削減目標は決められませんでした。
日本やアメリカで、この問題についての前向きな転換を生むためには、大資本に毅然とした態度で接することのできる政治を国民がつくりださねばなりません。「財界いいなり」ではだめなのです。ここでも大資本の利益第一主義に、国民多数の合意にそって規制をかける──そういう資本主義の健全な発展への努力がもとめられます。
さて、私なりに考えるマルクスのまなざしにしたがえば、今日の世界経済危機や地球温暖化問題は、大雑把に以上のように見えてきます。みなさんは、こうした問題のとらえ方をどう受け止め、またこうした問題をかかえる世界の中で、どのように生きようと思うでしょうか。いずれも二一世紀の世界が直面する重大問題のひとつです。問題解決のための研究や行動の方法を、ぜひ探求してほしいと思います。
八、マルクスをどう学ぶか
最後に、マルクスの学び方にかかわるお話をしておきます。マルクスは十九世紀の人物で、ヨーロッパの人ですから、時代背景がわからない、登場する人の名前がわからない、地理がよくわからない──そういったことが起こります。しかし、たいていの翻訳書には、それらについての親切な注が付いていますから、面倒くさがらずに、それらをしっかり読んでください。
その上で、二十一世紀の日本に生きる私たちにとって、マルクスを読むことは、それ自体が目的になるわけではありません。あくまでも目的は、私たちの知性を磨き、生き方を充実させ、よりよい日本をめざす取り組みの指針やヒントを得ることです。現代の日本と世界をより良くしたい──その自分なりの目的をはっきりさせて読んでほしいと思います。「マルクスはすごいなあ」という確認に満足せず、「こういうマルクスの視角で現代を見たらどうなるだろう」と、そこにいつでも思いを向けてほしいと思います。
大学の授業で先生がマルクスを教えてくれるというところは、ほとんどないと思います。その場合は、授業に期待してもだめなわけです。そこで、入学した大学の学部や学科が与えるカリキュラムとは別に、自分だけのカリキュラムをつくる必要が出てきます。若いマルクスもそうでした。大学生時代の学びは、授業が半分、自分なりのカリキュラムでの学びが半分と、それくらいでいいのだと思います。とはいえ、一人でマルクスを読むのは、なかなか大変です。そこでいっしょに読む仲間をつくることが必要です。読書や討論の私的サークルを、できれば勉強が少し進んでいる先輩に入ってもらってつくれるといい。もちろん、学内にそういう大きなグループやサークルがあれば、それに入るのもいい方法です。
高校までの勉強では、正しいことが決まっていて、それを覚えて書けばそれでよい──そういうやり方が多かったと思います。しかし、これから必要なのは、知識だけでなく、自分で考える力です。それを育てるためには、これは本当に正しいのだろうかと、疑ってみることが重要です。先生はそういうけど本当だろうか、テレビはそういうけど本当だろうか、ネットのニュースはそういうけど本当だろうか、あの先輩はそういうけど本当だろうか、マルクスはそういうけど本当だろうか…。それが大切です。マルクスも「すべてを疑え」といいましたが、それは他人の判断を鵜呑みにするな、判断を他人まかせにするなということです。この学びの姿勢を、意識的に身につけてください。
高校までの勉強がよくできた人もいるでしょうし、あまりできなかった人もいると思います。しかし、高校時代までは、自分で考える力はほとんど問われなかったのではないでしょうか。教科書や参考書に書かれたこと、先生が黒板に書いたこと、プリントに書いたこと、それらをどれだけ受け入れられるか、記憶できるかが評価の基本基準になっていたのではないでしょうか。そうであれば「すべてを疑え」の精神で、自分のあたまで考える力は、多くのみなさんにとって未開発だということになります。これから開発される能力なのです。ですからこれまでの学校の成績に左右されず、誰もが前向きに、自分の可能性を信じて学んでほしいと思います。
マルクスは、書斎派の人ではありませんでした。実際のよりよい社会をめざす取り組みの中で、なぜ思うように社会は変わらないのか、何が障害になっているのか、どうすれば次の一歩が踏み出せるのか──そういう体験が、マルクスの研究を前進させる大きな刺激になっています。それは私たちにとっても同じです。なぜ貧困がなくならないのか、実際に行動してみると、そうかこんなことにぶつかるのか、世の多くの人はこんなことを考えているのか、行政はこんな態度なのか、そこに変化をつくるにはどういう努力が必要だろうか──そういうたくさんの問題に突き当たるのです。そういう点で、自分が関心をもつテーマで様々な社会活動・政治活動に取り組むことは、机の前での学びを深める重要な原動力になります。みなさんにも、大いに社会にはたらきかける活動をしてほしいと思います。
こんな風にいうと、授業にも出ないとだめ、バイトもしないとだめ、それに加えて自分のカリキュラムにそった勉強もしないとだめ、社会や政治へのはたらきかけもしないとだめ──どんどん忙しくなってきますが、しかし、そういうのを充実した生活というのです。たいへんだけれど、成長します。
具体的学びのヒント
学びについては、めざす量をはっきりさせることが大事です。私が大学に入学したころには、世の中を前向きにかえたいと考える先輩たちがたくさんいました。たくさんの集会があり、デモがあり、いろんな意見の団体が、いろんなニュースを配っていました。先輩にもいろんなタイプの人がいましたが、中には、ものすごく勉強している人もいたわけです。二つか三つしか歳が違わないのに、どうして──と思うような先輩もいたのです。それで、そういう先輩の下宿をたずねてみると、六畳一間の壁のすべてが本棚で埋まっていて、それでも足りずに、地べたに本が高く積まれている。「部屋の床が抜けるから」と、となりの部屋を本置き場に、ただで大家さんが貸してくれているという先輩もいました。そういう様子を自分の目で見て、ああ、これくらい本を読まないと、こういう人にはなれないんだなと、学びの量についての具体的なイメージがもてたものです。いまはなかなかそういう経験がありません。
そこで、みなさんのような高い志をもつ学生たちに、私がいつもいっているのは、年に本棚一本分の本を買いなさいということです。本棚は高さ百八十センチの六段のもの、それには分厚い本が横に三十冊は入ります。六段で百八十冊ですから、読むスピードは二日に一冊ということになります。それを四年間がんばれということです。これは実際に行うことはたいへんです。しかし、それくらいのことを実行しようとする前向きの意欲がないとだめなのです。伸びないのです。いまの自分に見合ったことをやろうとしていたのでは、大きく前に伸びることはありません。いつか、あんな高い山に登れるようになりたい──そういう高い目標をもつことが、学習にとっては必要なのです。
ですから、本は読めそうなものを買うだけではだめです。読めるようになりたいものを手にいれることが大切です。いまは歯がたたないけれど、いつかわかるようになりたい。そう思って本を手にいれることが大切なのです。そういう背伸びが、人を伸ばします。「マルクスを読もう」と決めたら、できれば『全集』を手に入れたい。インターネットで古本屋を検索すれば、まだ結構見つかります。安くはありませんが、バイト代をためて、あるいは本屋さんに頼んでローンにしてもらって、そうやって努力して手にして下さい。私は、三年生の秋から仕送りがありませんでしたが、それでもバイト代が出れば、まっさきに自転車に乗って、京都の古本屋街に向かっていました。
本を読む時には、いつまでに読み終えるかという期限を決めることも大切です。たとえば授業とバイトのあいだに、一時間の時間がある。そういう時には、一時間で何ページ読むかをはっきり決めて読むのです。そして、かりに六十ページ読もうと決めたなら、二分に一回ページをめくるんです。そして、その手の動きにあわせて懸命に目とあたまを動かすのです。それが集中力の訓練になります。わかるまでこのページをながめていよう、なんて読み方をしている人は、決して集中力は高まりません。ものすごく忙しいのに、ものすごく勉強している人というのはいるものです。それができるのは集中力が高いからです。みなさんも、せっぱ詰まったときのがんばりを体験したことがあると思います。テストの前の日などに。あのがんばりを日常化する訓練をするのです。
それから、本を読むときには必ずペンを持たないとだめです。大事なこと、覚えておきたいこと、おかしい、まちがっていると思ったことなどに必ず印をつける。それは、〇でも×でもなんでもいい。文章に線を引くのでもいい。そして、できるだけ欄外に文章を書き込む。おかしいと思ったら、×をつけた横に、こういう理由で、こういう点がおかしいと書き込む。大事だと思ったら、〇をつけた横に、現代日本のこういうところをみる上で大切といった具合に、その場で書き込むのです。手を動かし、書くことをつうじて、やはり自分のあたまを動かすのです。
こういう読み方をすると、繰り返し読むような大切な本の欄外には、いろんな印や書き込みがたまります。そうして、新品のピカピカの本が、自分だけの書き込みだらけの本につくりかえられていく。それが本をしっかり読むということです。書き込みがふえるということが、読み方が深まるということの指標です。
どんな時にも、どんな場所でも、すぐに読むことに集中できるようにしたいのですが、あたまを学びのモードに切り換えるには、自分をある環境に閉じ込めるのもいい方法です。家にいると、すぐにコーヒーをいれるとか、テレビが気になるといったことがある。だから、図書館でも、喫茶店でも、電車の中でも、ジャマものがない場所に自分を閉じ込めるのです。東京には山手線がありますが、大阪には環状線があります。これは何回グルグルまわっても叱られない。そこで私も、どうしてもこれを読まないといけないという場合には、本とペンだけを持って電車に乗りこむことがあります。環状線はだいたい一周一時間。それくらいグッと集中すると、かなりあたまのエンジンがかかります。この本はこういう本か、こういうふうに読めばおもしろいかもしれないという思いつきも生まれます。これもひとつの方法です。
学ぶ時間のつくり方ですが、みなさんは手帳をもっていると思います。忙しい方もいると思います。しかし手帳の中に、授業やバイトや会議は書き込んでも、空き時間に何をするかを書き込んでいる人はほとんどいません。どうしてでしょう。それが一番大事な時間なのに。自分だけのために使える唯一の時間なのに。手帳というのは、その自分の空き時間・自由時間をどう使うかという計画を立てるためにあるものです。この空き時間にはこれを読み、あの空き時間にはあれを読み、今日の移動時間にはあれを考え、授業の合間にはこのレジュメをつくる──そういう具合に空き時間のやりくりをする道具が手帳・カレンダーです。これは、ぜひすぐに実行してみてください。
マルクスへの入門のために
最後の最後に、これからマルクスを学ぶ導きとなる本をいくつか紹介しておきます。
一つは、私も少し関わらせてもらいましたが、マルクスの伝記と『資本論』第一部の要約をしたマンガ『理論劇画 マルクス資本論』(原画・門井文雄、構成・解説・紙屋高雪、かもがわ出版)です。原作が古いので、絵が少し古いのですが、しかし、理論的にはしっかりしたものです。伝記があるのも、マルクスの生き方を知るのにも役立ちます。
二つ目は、不破哲三さんの『マルクスは生きている』(平凡社新書)です。マルクスのことを、これほど多面的に深く研究している人はめったにいません。新書ですから、量も多くありません。初心者でも、環状線三周くらいで何とかなるのではないかと思います。
三つ目に、雑誌を定期購読するのもいい方法です。たとえば『経済』(新日本出版社)という月刊誌を定期購読する。そうすると、前月号が読めていようといまいと、次の本は届きます。それで読むように仕向けられる。全部は読めなくても、目次を開いておもしろそうなものを読む。それがたとえ毎月論文一本だけでも、年に十二本、大学四年間で四十八本になるわけです。毎月二本なら四年で百本近くになります。これはばかにできない分量です。もちろん、雑誌が届くたびに時間を決めて、どこかに閉じこもって全部をめくるといった読み方もできるわけです。
四つ目に、マルクスについて、もっと深く突っ込みたい方には、これも不破さんですが、『古典への招待』(新日本出版社)がおすすめです。これはマルクスとエンゲルスの若いときから、亡くなるまでの代表的な著作をずっと追って解説したものです。著作の内容だけでなく、時代背景やマルクス等の政治活動もよく見えます。ただし、これは上・中・下巻と三冊あって、合計で一千ページを超えています。ですから、ちょっと構えが必要ですが、それでも政治活動とマルクス研究の両面でのプロが、マルクスの全著作をながめながら書いた他に例のない本ですから、たいへんにいい勉強になります。
自分の本当の知的能力はこれから開発されるのだ、自分を大いに成長させ大学生活を充実させていくのだという前向きな姿勢をもって、みなさんには、マルクスにぜひ挑戦していただきたいと思います。
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