靖国新資料集関連の記事である。
「日経」は,政府・与党内での戦犯分祀論の高まりを報道している。
あわせて,安倍首相の「合祀を行ったのは神社」という発言も紹介されているが,少なくとも厚生省はBC級戦犯合祀の「研究」を求め,さらにA級戦犯合祀についても合意をしている。国に責任がないという議論は,どう見ても成り立たない。
「信濃毎日」は,合祀に政府はかかわっていないという従来の政府見解の根拠薄弱を指摘し,さらにA級戦犯合祀の決定過程の明確化に向けた政府と靖国の資料公開を求めている。
「西日本新聞」は,特に,政教分離の原則という角度から見た政府の行動の問題を指摘するものとなっている。また,靖国は今日もかつての戦争の侵略性を否定する立場に立っており,これと密接な関係をもつことは政府自身の歴史観をうたがわせるものになるとも指摘する。
他方,「産経」は,新資料に政府の責任が問われるような問題はふくまれないとの立場のようである。政府の合祀協力は当然であり,政教分離原則にも抵触せず,さらにその背後には「民意」があったとさえも主張する。
だが,そこに「民意」があったとするなら,なぜ政府は,合祀への関与を長年にわたって否定してきたのか。あるいは,すべては対外的な配慮のためといいたいのか。
政府・与党に波紋、戦犯合祀に旧厚生省関与で(日経新聞,3月29日)
A級戦犯らの靖国神社への合祀(ごうし)を巡る旧厚生省の関与が国立国会図書館の資料集から明らかになり、政府・与党内に29日、波紋が広がった。
日本遺族会会長を務める自民党の古賀誠氏は記者団に「分祀(ぶんし)を含めた議論をしっかりすべきだとの気持ちを強くした」と強調。山崎派の山崎拓会長も改めてA級戦犯の分祀論を唱えた。
国会図書館は「与野党の国会議員から問い合わせがあり、1年前から準備し、メドがついたので発表した」と説明するが、中国の温家宝首相の来日前というタイミングは憶測も呼ぶ。対応を誤れば靖国問題が再燃しかねないからだ。
安倍晋三首相は首相官邸で記者団に「問題ない。合祀を行ったのは神社だ」と強調した。
【北京=佐藤賢】国立国会図書館が公表した資料集について中国外務省の秦剛副報道局長は29日の記者会見で「まだ見ていないが、中国の立場に変わりはない」と述べ、A級戦犯合祀への批判など直接的な言及を避けた。韓国外交通商省は「日本政府がこれ以上真実をごまかさず責任ある措置を取るよう望む」との声明を発表した。(07:02)
(社説)靖国合祀 やはり国がかかわって(信濃毎日新聞,3月30日)
やはりそうか、と受け止めた人が多いのではないか。靖国神社への戦犯合祀(ごうし)に旧厚生省がかかわっていたことが、国立国会図書館の資料で分かった。
戦犯の合祀は、日本人が戦争を反省していない証しと受け止められかねない面がある。そこに政府が関与することは、憲法の政教分離原則に照らしても問題が多い。
戦争犠牲者をだれもがわだかまりなく追悼できる施設の実現が、あらためて急務である。首相が引き続き、参拝に慎重でなければならないのはもちろんだ。
資料からは、厚生省が1958年ごろからしばしば、神社と合祀問題を協議していたことが分かる。厚生省は戦犯合祀を、神社に積極的に働き掛けてさえいる。
例えば58年4月9日の会合だ。BC級戦犯の合祀を「研究してほしい」と、厚生省は神社に求めた。69年1月31日の会合では、東条英機元首相ら、戦争指導者のA級戦犯について「合祀可」とする見解を両者で確認している。
世論の動向は気にしていたようだ。A級戦犯合祀を決めた会合の記録文書には「外部公表は避ける」と注が書き込まれている。
政府はこれまで「合祀作業にはかかわっていない」の一点張りだった。A級戦犯の合祀についても「神社側の判断」としていた。
今度の資料により、政府の弁明はますます根拠があやしくなった。
大事な疑問が残されている。神社がA級戦犯を実際に合祀したのは78年の10月である。「合祀可」としてからなぜ10年近くもかかったのか、決断は誰がしたのか、今回の公表資料からは分からない。
日本の政治の動きや米国の対日政策の変化と、合祀が関係していなかったか-。疑問はさまざま膨らむ。今後に残された課題である。
靖国の問題は戦後日本の歩みの足かせであり続けている。最近は小泉純一郎前首相の参拝をきっかけに世論が分裂、中国や韓国との関係は悪化した。米国などから向けられる目も決して好意的ではない。
解きほぐすには、厚生省はどういう判断で合祀にかかわり続けたのか、A級戦犯合祀はだれが決めたのか、解明される必要がある。政府は合祀にかかわるすべての資料を公開すべきだ。経過を明らかにする責任は神社にもある。
戦争への反省は、日本が世界で生きていく上で踏み外してはならない原点だ。分祀はできない、と靖国神社が言う以上、代わる追悼施設の実現を急ぐほかない。
(社説)政教分離の原則は重い 靖国神社資料(西日本新聞,3月30日)
靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に国が関与していたことが、国立国会図書館が公表した資料集で明らかになった。
戦前は軍国主義を鼓舞する国家施設だった靖国神社が、1宗教法人となった戦後も国と一体となって戦犯合祀を進めてきた実態が裏付けられたといえる。
戦争指導者であるA級戦犯の合祀については、中国など諸外国の反発に加え、国内でも異論が根強い。
そこに国が関与していたとなると、問題は大きい。政教分離を定めた現行憲法に抵触する疑いも免れない。首相の参拝を含め、政府が靖国神社に関与したと受け取られるような行為は、やはり慎むべきではないか。
今回の資料公表を機に、私たちはあらためてそのことを確認しておきたい。
公表された資料によると、旧厚生省と靖国神社の間で1958年ごろから戦犯合祀の協議が始まり、66年には同省がA級戦犯を含む合祀対象名簿(祭神名票)を神社側に送付した。
さらに69年の同省と神社の打ち合わせ会合で、12人のA級戦犯らについて「合祀可」を確認したという。
靖国神社が最終的にA級戦犯14人の合祀に踏み切ったのは78年であり、その経緯について政府は「承知していない」との立場を取ってきた。
しかし、旧厚生省は69年の時点で、A級戦犯合祀に事実上のお墨付きをあたえていたと言える。
靖国神社には、近代以降太平洋戦争に至るまでの戦没者約246万6000柱が祀(まつ)られている。
国の命に殉じた肉親を神として祀る靖国神社に共感を抱く遺族たちの心情は、尊重しなければならない。
だが、A級戦犯については、遺族会の一部にも「一般の戦没者とは分けて考えるべきだ」との考え方があり、分祀(ぶんし)論がくすぶっている。
それ以上に重いのは、政教分離の原則だ。戦前までの靖国神社が国家と密接に結び付き、戦意高揚に一役買ってきたことは否定できない。現行憲法の制定で、そうした国家の宗教利用はきっぱり否定されたはずだ。
にもかかわらず今回の資料は、戦後も政府が靖国神社のあり方にかかわってきたことを示している。
靖国神社は今も、太平洋戦争に至る近代以降の対外戦争の侵略性を否定し、「自衛のための戦い」とする歴史観を体現している。
首相の参拝も含め、政府が積極的に靖国神社に関与する姿勢を示せば、その歴史観に政府がくみしている印象を与えかねない。そうした事態を避けるためにも政教分離原則は厳密に適用すべきだ。
今回の資料公表をきっかけに、あらためて国家による戦没者慰霊のあり方を考えてみるのもいい。無宗教の国立追悼施設構想の可否も含め、論議を深めたい。
【主張】靖国新資料 民意踏まえて読み解こう(産経新聞,3月30日)
靖国神社への戦犯合祀(ごうし)に関する詳細な資料が国立国会図書館によって公表された。国と靖国神社が協力して合祀を進めていたことを改めて裏付ける貴重な記録である。
特に興味深いのは、昭和30年代から40年代前半にかけ、東京裁判で裁かれたいわゆる「A級戦犯」や、外地で処刑された「BC級戦犯」らの合祀について、厚生省と靖国神社側が何度も協議を行い、慎重に合祀を決定していた事実である。
しかも、目立たないように、と双方の担当者が戦犯に対する当時の内外の世論にいじらしいほど気を使いながら協議していた様子がうかがえる。
識者の間には、国が神社の合祀に関与していたことは現行憲法の政教分離の原則に反するとの指摘もある。しかし、合祀の前提となる戦犯も含めて200万人にのぼる第二次大戦の戦没者を特定する作業は、戦後に旧陸海軍省の業務を引き継いだ厚生省の援護担当者の協力なしには不可能である。
判例では、津地鎮祭訴訟の最高裁判決(昭和52年)以降、国家と宗教のかかわりを一定限度容認する緩やかな政教分離解釈が定着している。憲法が厚生省の合祀協力業務まで禁じているとはいえない。国のために戦死した国民の慰霊のもとになる合祀に国が協力したのは、当然のことだ。
公表された新資料によれば、戦犯合祀に関する厚生省と靖国神社の協議が始まったのは、昭和33年からだ。戦犯の赦免を願う当時の民意を受けた協議だったと思われる。
サンフランシスコ講和条約発効(27年4月)後、戦犯赦免運動が全国に広がり、署名は4000万人に達した。28年8月、衆院で「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で採択された。こうした国民世論を受け、政府は関係各国の同意を得たうえで、死刑を免れたA級戦犯とBC級戦犯を33年までに釈放した。こうした戦後の原風景を思い起こしたい。
新資料では、戦前・戦中の合祀基準や、終戦後、空襲などで亡くなった一般国民の合祀が検討されたことも明らかになった。
大原康男・国学院大教授が本紙で指摘しているように、「この時代の国民の心意に目配りして」新資料を読み解くべきである。
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