2005年10月8日(土)……論文「マルクスと『マルクス主義フェミニズム』」(仮題)のためのノート
1・はじめに
・現代社会のジェンダー分析を行うときに,マルクスの『資本論』から何を学ぶことができ,何が今後の課題となっているかを考える。その基礎作業として,マルクス理解をめぐる今日的な論点を念頭しながら,『資本論』のジェンダー視角を確認していく。
・前提として確認しておきたいこと。それは『資本論』がマルクスの生きた時代にいたる具体的な資本主義分析の書であり,現にある資本主義の構造と発展をつらぬく法則の解明を目的としたものであるということ。『資本論』は生きた現実から切り離された,資本主義についての何らかの「モデル」を描くものではない。
1)マルクスをジェンダー視角から論ずることの意義。
・社会的性差(関係)を資本主義社会の仕組みとかかわらせて考えるために。
・「賃金」「家事労働」「家庭」「女性保護」など多くの点で,フェミニズムの社会理論においても評価が話題となる。しかし,マルクスそのものに即した議論は多くない。
5)マルクスを語る時に,「だからマルクスはいつでも正しい」という主張にならないように注意する。歴史的制約や,語られていないこと,今日的な研究の課題をキチンと加えること。他方で,マルクスの今日的有効性については,フェミニストたちが解明に苦慮する問題へのヒントのなげかけという形で主張する。
【重視すべきいくつかの点】
1)マルクスの賃金論にとって女性・児童労働による労働力の価値の分割は1つの前提
――大量の女性・児童労働者の存在が賃金分析の大前提。賃金変動の5つの要素論。
※ここには規範としての「家族賃金思想」が入り込む隙間はない(一部のフェミニストへの批判,一部の誤ったマルクス主義賃金論への批判)。
※むしろ研究課題となるのは家族による労働力価値の分割論を,男女同一賃金の実現を運動課題とする現代の世界に創造的に適応・発展させていくこと。
――女性・児童労働の過酷さを認め,それとの闘いを認めながらもそれらは未来社会のひとつの準備ととらえられている。
※ここには「女を家に閉じ込める」論もない。
※検討の課題となりうるのは,「女性保護」が「近代家族」の形成にどのように「寄与」したかの実証分析。マルクスの意図とは別の問題として。
2)マルクスは「家庭」を分析しておらず,そこに無関心であるという議論に対して。
――労働者家族の生活(再生産)費を分析している。そこには価値分割も
――労働者家族の消費生活および次世代育成が,社会的には資本の再生産過程にあることを分析している。そこには「専業主婦」による家事労働の社会的役割を分析する視角がある。
――労働者の労働と生活の実態をつうじた「家庭」の破壊現象を分析している(早死,近親相姦,親による子の搾取,子による親の見捨て……)。
――女性・児童労働の拡大による古い家族制度の解体と未来の準備が指摘されている。
※家族分析に無関心というのは事実と違う。とりわけ資本主義における家庭での消費生活が資本主義的生産関係の一部に組みこまれていることの分析は,経済と家庭の関係についての重要な到達。
※一部フェミニストの不満は,「近代家族」での男性賃金労働者による「支配」(オレが食わしてやっている)が描かれないこと。そこは補足の必要があるが,はたして社会全体における男女の不平等は「男性賃金」だけから説明できるか? 女性の人権に対する社会全体の仕組みの問題も。
※『起源』を評価するときに,それが書かれた時代の中でどういう役割を果たしたかを正面から問題にすること。今日の認識から切り捨てるだけでなく。運動論の視角からも評価を与える。運動の先駆的役割を果たしたものとして。そして,今日も依然重要な見地。社会の支配・被支配関係を見失ったフェミニズム理論はいまだにあるから。
1・はじめに
私は以前に,身近なフェミニストとのあいだで現実政治の評価においては少なくない問題で意見が一致するが,そのフェミニストたちによるマルクス主義への評価が驚くほど辛く,両者のギャップの大きさに驚かされたということを書いたことがある。そして,その体験を基礎に「そこにはマルクス主義に対する〔彼女たちとの〕理解の相違もあるが,他方で,マルクス主義の理論的提起の弱さも反映しているように思われた」と書いておいた1)。この文章に引きつけていうなら,本書の全体がその「理論的提起」のひとつの試みといえるのだろうが,私自身はその中でマルクスと「マルクス主義フェミニズム」との関係を問うてみたいと思う。
1)拙稿「マルクス主義とフェミニズム」(『現代を探究する経済学』新日本出版社,2004年)208ページ。
先の論文の中で,私はフェミニズムの多様な展開を紹介し,そのなかで「マルクス主義フェミニズム」が一つの重要な地位を占めていること,そこにはマルクス主義への批判と同時に一定の肯定的評価が語られているということへの注目を促しておいた。そして,そのマルクス批判やマルクス主義批判に仮にいくつかの誤解があったとしても,誤解のすべてを「マルクス主義フェミニスト」の責任に帰することはできない。むしろ「日本のフェミニズムにとって魅力的なマルクス主義の理論的解明・提示をせねばならないのはマルクス主義の側である。フェミニズムの議論に積極的に加わり,日本のマルクス主義の成果を示しながら,他方でフェミニズムの問題意識や研究の蓄積に学び,互いの交流を深める姿勢が必要ではないだろうか」と述べておいた2)。
2)同右,219ページ。
さて,このような実践的問題意識の延長上に,ここで私が試みたいことは「マルクス主義フェミニズム」によるマルクス理解の批判的な検討である。ただし,それは「マルクス主義フェミニズム」の否定を目的としてのことではもちろんない。むしろそれはフェミニズム理論にとってのマルクスの有効性と制約をともに明らかにし,この領域でのマルクス主義(科学的社会主義)の到達と発展の課題を示すことを目的としている。マルクス主義者の自認するところによれば,マルクス主義の理論は多くの論争をつうじて発展してきた。それは他者に打撃をあたえ,排撃するという姿勢の論争によってではない。他者の問題意識をくみとり,その問題をより正確に立て,それにより包括的で豊かな認識をあたえようとする論争をつうじてである。主観的には,ここで私も「マルクス主義フェミニズム」に対して,そのような姿勢を貫きたいと願望している。
検討の対象となる「マルクス主義フェミニズム」だが,それは一色にまとめられた議論ではない。内部での相互批判も行なわれており,マルクスへの理解も様々である3)。私にはそうした議論の全体を論ずることはできない。そこで,ここでは「マルクス主義フェミニズム」をふくめて,日本のフェミニスト等のマルクス主義理解に大きな影響をあたえた「古典」的文献,アネット・クーン/アンマリー・ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦』に対象を絞り,そのマルクス理解の検討を行なってみたい4)。読者諸氏ご批判をお願いしたい。
3)上野の著作と板東の上野批判
4)A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦〔第2版〕』(勁草書房,1986年)。この本の「訳者解説」で上野千鶴子氏は,本書を英米におけるマルクス主義フェミニズムの「古典」として紹介し,「マルクス主義フェミニズムは,その後,さまざまな論者の参加による精錬を経て,女性解放の理論として一つの拠点を形成しつつある」「今後,日本でも,マルクス主義フェミニズムは,女性解放の理論にとって不可欠な橋頭堡となると考えて,その出発点を紹介し共有するために,私たちは本書の訳出を決意した」と書いている。
2・マルクスは家族賃金論者か
2)マルクスは「家族賃金思想」家なのか。
・マルクスは「男性が家族の生活費を手にするべき」と考えた「家族賃金思想」家だとの批判がある。
・それはマルクスの賃金論と女性労働論を正確に理解したものとなっていないのでは。
・まずマルクスの賃金論から見ていきたい。このテーマについては『資本論』をかなり専門的に研究する者のあいだにも小さくない意見の相違がある。先取りして私の意見を述べておけば,ここでもマルクスの賃金論は「あるべき賃金」についてのモデルを描いたものではない。現に支払われている賃金(労働力の価値と価格)がどういうものであるかを分析したものである。いうまでもなく,これは唯物論の当然の姿勢である。
・賃金が労働力の価格であり,それが貨幣によってあらわされた労働力の価値であるなら,一体労働力の価値は何によって決められているのか。その分析が,マルクス賃金論の基本となる。現に支払われている労働力の価値を分析して,マルクスは次のように述べている。Ⅰ291ページの終わりの4行~293の本文まで(注45の前まで)――労働力の価値を構成するもの――1)労働力所有者の維持に必要な生活手段の価値,労働する個人を「正常な生活状態で維持する」分量。その分量が自然と共に歴史的(モラーリッシュ)に決まるので,労働力の価値規定は他の商品の規定と異なる。2)生活手段総額には補充人員の生活手段が含まれる(労働者種族の永久化)。3)特定の技能を得るために必要な養成費・教育費も(それなしに労働者は労働者たりえない)。
・ここに「正常な生活状態」という文言があるため,では今日の労働者の生活は「正常」だというのかといった疑問や憤りが呼び起こされがちである。しかし,ここでマルクスが語っているのは,日々労働者が労働現場に出向き,そこで毎日同じように労働を繰り返すことができるような状態。それを「正常」と読んでいるのであり,当時の労働者の「貧困」を正当視して,これを「正常」と評価したのではない。だから,マルクスは忘れずに語っている。ここにいう「正常な生活状態」には幅があり,それが自然・社会的条件によって変わるところにこの商品の独特の価値の決まり方があると。つまり現代の事情に引きつけていえば,労働者の平均年収は500万円程度であるが,賃金闘争の前進によってそれが何年か後には1000万円になっているかも知れない。しかし,そのいずれであっても,労働力の日々の再生産を行うことができるという限りでは,それは資本主義の存続にとって「正常」な賃金なのだと。それは家族の生活費についても,技能の養成・教育費についても同様である。
1)マルクスの賃金論(労働力商品価値・価格論)が社会的平均的賃金を論じていることの指摘がいる。「誰の賃金を論じているのか」を誤解の余地なく明確にしておく。
2)関連して,現代日本の最低賃金が「労働力価値の再生産」を不可能とする低賃金であることの指摘も。ただし,これは社会保障による支払いとの合計で考える必要がある。
※〔モラーリッシュの意味に関連して〕Ⅰ395冒頭から396の1行目まで
――労働日の上限は肉体的な制限の他に「モラーリッシュな諸制限」に突き当たる。ただし,いずれも弾力的。
・通常,上の3つが労働力価値の基本的な構成要素だといわれている。しかし,実はマルクスには,より多くの要素を述べた箇所もある。価値の構成要素を先の3つだけに限定することは,必ずしも『資本論』の十分な読み方とはいえない。Ⅰ885の最初の段落――労働力の価値は,1)平均労働者が慣習的に必要とする生活手段の価値。その他に,2)労働力の育成費,3)男女などの労働力の自然的相違。異なる労働力の使用が「労働者家族の再生産費および成年男子労働者の価値において大きな差異をつくる」。さらに,Ⅰ953ページ――ここでは,労働力の価値の大きさを変動させる契機は5つとされ,「婦人労働および児童労働の役割」がふくまれている。
・以下にも見るように,『資本論』には女性労働・児童労働についての様々な分析がある。それは当然,労働者家族における賃金収入の複数化を生み出していく。そこで,マルクスの賃金論も,その複数化の現実を分析しないわけにはいかない。男性労働者だけではなく,女性や子どもも労働者となり,それぞれが収入を得てくるのなら,資本主義にとっては,それら合計の収入で各労働者の「正常な生活状態」が維持されればよい事になる。マルクスの賃金論は,当たり前のことだが,それを正面から分析している。そこには「女性労働・児童労働」を無視する姿勢や,あってはならないものとして,これを男性労働者による家族の生活費の受け取りにとってかえよとする「家族賃金思想」は存在しない。マルクスの賃金論は,現実を無視して,男性労働者だけが賃金を持ち帰ることを一方的に想定するような,そのような観念的な研究などではないのである。
・これらは,以下のマルクスによる労働力価値の分析全体にとって大切な土台となる事柄だが,ここでは,とりあえずマルクスが,家族の生活できる賃金は男性労働者が手にすべきものでありと主張したり,それを一方的に想定して賃金論を述べるような,いわゆる「家族賃金思想」とは無縁であることを確認しておきたい。何よりマルクスは,資本主義がもたらした女性・児童の労働者化を,未来の新しい家族関係を資本主義の枠内に準備する物的基礎として肯定的にとらえている。Ⅰ838本文冒頭から839本文最後まで――家内労働への規制は父権への干渉。大工業は「古い家族制度とそれに照応する家族労働との経済的基礎とともに,その古い家族関係そのものを解体する」。「大工業は,家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程において,婦人,年少者,および児童に決定的な役割を割り当てることによって家族と男女両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基礎をつくり出す」。そこには,女性を労働者世界から排除せねばならない理由も,それを行おうとする姿勢もない。まったくその逆に,女性が賃金労働者となることの延長線上にマルクスは未来社会の重要な要素を見ていたのである。
1)〔労働力価値の3つの内容〕
・Ⅰ291ページの終わりの4行~293の本文まで(注45の前まで)
――労働力の価値――労働力所有者の維持に必要な生活手段の価値,労働する個人を「正常な生活状態で維持する」分量。
――その分量が自然と共に歴史的(モラーリッシュ)に決まるので,労働力の価値規定は他の商品の規定と異なる。
※〔モラーリッシュの意味に関連して〕Ⅰ395冒頭から396の1行目まで
――労働日の上限は肉体的な制限の他に「モラーリッシュな諸制限」に突き当たる。ただし,いずれも弾力的。
――生活手段総額には補充人員の生活手段が含まれる(労働者種族の永久化)。
――特定の技能を得るために必要な養成費・教育費も。
・Ⅰ885の最初の段落
――労働力の価値は,平均労働者が慣習的に必要とする生活手段の価値。その他に,労働力の育成費,男女などの労働力の自然的相違。異なる労働力の使用が「労働者家族の再生産費および成年男子労働者の価値において大きな差異をつくる」。
・Ⅰ953ページ
――労働力の価値の大きさを変動させる契機は5つ。そこには「婦人労働および児童労働の役割」がふくまれている。
※「労働力価値の構成」についても,それを3つに限ることは『資本論』の正しい読み方ではない。
・Ⅰ992ページの後半の段落
――「普通の賃金」は生活維持と彼らの増殖を十分保証する。
2)〔労働力価値の最低限界〕
・Ⅰ295の中央の段落
――労働力の価値の最低限界は,労働力を萎縮せずにおれないレベル。それは労働力の価値以下への価格の低下。
・Ⅰ544ページ最後の2行から546の本文終わりまで
――労賃を価値以下に引き下げると正常な限界は踏み越えられ,労働力は萎縮して再生産される。相対的剰余価値生産が可能になるのは価値以下ではなく,価値そのものの低下が生まれるとき。
・Ⅲ1508ページ
――労働力の「現実的価値」は肉体的最低限より高い,高さは肉体的・社会的欲求によって決まる。
※これは「モラーリッシュ」の別の形での表現でもある。
・Ⅲ1512ページ
――労賃が労働力の価値以下だが,肉体的最低限を上回っている場合。
※価値以下には,1)肉体的最低限以下という場合と,2)そうではない場合の2種類の用語法がある。
6)〔女性・児童労働による労働力価値の分割〕
・Ⅰ680の(a)から681の本文最後まで,
――補助的労働力としての婦人労働・児童労働。機械は労働者家族の全成員を性と年齢の区別なしに活用する。家族のための自由な家庭内労働が消える。
――それによって夫の労働力の価値が全家族に分割される。機械は男の労働力価値を減少させる。
・Ⅰ1295ページ
――綿工業はイギリスに児童奴隷制を導入した。
・Ⅰ1182の本文の終わりの6行
――女性・児童労働への搾取の深まりが男子農村労働者を過剰化し,賃金を押し下げる。
・Ⅰ927ページ
――名目賃金があがっても労働日が長くなれば実質的な賃下げとなる。労働者家族の収入がふえる場合にも,家族員の労働支出が多くなれば同じこと。
※Ⅲ395ページ
――女性・児童労働の導入が家族全体の賃金総額をふやす場合にさえ,家族全体がより多くの剰余価値を資本家に提供する場合がある。
アネット・クーン「家族における家父長制と資本の構造」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【マルクスは男性賃金家族を想定していた】
「ガーディナー,ヒメルワイト,マッキントッシュの主張によると,マルクスは労働力の価値を分析する場合には,妻と子どもとが賃労働に従事しないようにプロレタリア家族の単位を想定していた(1975,p.3)。このようなマルクスの見解は,いま示した,資本は女性や子どもを労働人口のなかに引き入れるという傾向とは明らかに矛盾する。マルクスは,この矛盾については語らなかった。しかし『資本論』に提唱されている分析諸条件から家族-世帯の生産関係を排除すると,その結果,決定的に重要な一つの事柄に明らかに注意が払われなくなる。それはつまり,女性のプロレタリア化は,労働者階級内での家族関係の維持にきわめて現実的な脅威となり,したがって家庭に基礎をおく主婦労働――これは,比較的低いコストで労働力の再生産を保障しているが――が資本に与えている恩恵をも脅かすということである。……
マルクスは『資本論』その他の著述の中で,資本制下での,一方における資本の力と,他方におけるプロレタリア家族形態ならびにブルジョア家族形態との間の関係について分析するという体系的な試みをほとんど行なってはいない……。」63~76ページ
3・「労働力の再生産」費は支払われている
3)マルクスは「家事労働」への〈支払い/不払い〉をどう考えるか。
・「家事労働」はアンペイドワークであり,それが家庭での男女の権力関係の土台になっているという意見がある(近代家父長制の物質的基礎)。60年代初等の「主婦論争」――妻は夫の賃金で生活しているが,それは「扶養」にすぎないのか「権利」なのか(磯野富士子)。
・マルクスに直接の回答があるわけではない。以下は,マルクスをヒントにしての試論。
・生活しているが「無償である」というのはどういうことか。労働力の再生産のために家族の生存が必要であり,それに必要な支払いが労働者個人への賃金の形で支払われる。このマルクスの論によれば,専業主婦の労働力(生活)に対しても支払いが行われているということになりはしないか。
※資本によって専業主婦の生活費が支払われているとなると,「無償労働の搾取」を理由とした「近代家父長制」論は崩壊する。
※ただし「だから支配はない」ということではない。なぜ「オレが食わせてやっている」が社会的に広範に受け入れられるのか。それについての積極的な解明に焦点があてられる。夫に支払われるという法的(形式的)形態,妻が容易にはたらけないという雇用の条件など。
・以上のマルクスによる労働力価値論を確認するとき,重要な事柄の1つは,労働者家族における「労働力の再生産」が必要とする家庭内労働にたいしては,支払いが行われていなければならないという分析である。ここで支払われていなければならないというのは,マルクスによる現実への規範の強制を意味しない。それは,そうでなければ「労働力の再生産」が不可能であるという事実の指摘である。Ⅰ291ページの終わりの4行~293の本文まで(注45の前まで)などで繰り返されるように,マルクスは「労働力の価値」に労働者種族を永久化させるのに必要な生活手段が含まれていると分析する。そうでなければ,資本主義は労働者たちの1世代をこえては存続できないことになる。つまりそこには,かなり妻が労働者として自らが賃金を手にしていない場合にも,夫の労働力の生産に必要とされる妻の家庭内での労働,子どもの養育に必要とされる家庭内での労働については,労働力再生産に不可欠な労働としての支払いを受けており,そうだからこそ労働者家族は世代をこえて続いていくという分析がふくまれる。
・現に専業主婦をもつ「近代家族」においても,妻や子どもは夫(父)が受け取る賃金によって生活(生存)することが保障されており,そこに夫の生活(労働力の再生産)に必要な生活資料費以上の支払いがあることは明らかである。この妻と子どもの生活の保障は,後に見るように妻と子どもの個人的消費の保障であるが,社会的に見れば,それは夫と子どもの労働力の二重の意味での再生産である。夫の世話をし,子どもを育てる妻(母)の労働は,その再生産を行う労働となる。
・かつての主婦論争では,専業主婦の妻は夫の稼ぎで生活しているが,それは夫による妻の「扶養」にすぎないのか,妻が得るべき権利なのかと問題が立てられた(磯野富士子)。これにたいして,当時の経済学者たちは,マルクスを根拠にあげながら,家事労働(家庭内での労働)は,市場で売買される労働ではないので交換価値をもたないという回答を与えるにとどまった。もちろん,そのこと自体は誤りではない。しかし,それは『資本論』が展開した労働力価値論についての十分な解説とはなっていてかった。なぜならば,マルクスの賃金論は,専業主婦である妻の生活費を資本が現に支払っていなければ,世代をこえた資本主義の存続は行い得ないことを分析するものであったのだから。
・今日でも,家事労働は「無償労働」「アンペイドワーク」であるとされ,論者によってはそれを夫が搾取することに家庭内の男女の権力的な上下関係や,近代家父長制の物的基礎を見いだす見解がある。しかし,それはやはり正しくない。専業主婦にたいしてさえ,妻の家事労働に対する資本の支払いは行われている。それは資本によって支払われた「有償労働」であり「ペイ」された労働なのである。
・しかし,このように家事労働を行う専業主婦の生活費が資本によって支払われているとすれば,それにもかかわらず家庭内に夫と妻の上下関係が成立しうるのはなぜか。その1つは,それが夫への支払いという法的形式のもとに支払われるからであり,この法的外観が「オレが食わしてやっている」と夫にいわせ,妻に納得させる根拠となっているからである。だが,2つ目に,より重要なのは,妻が容易に夫と同様の賃金を手に入れることができない社会的条件があり,その結果「自分ではなかなか食えない」という現実が生まれるという問題である。女性だけの若年定年制,賃金差別に象徴される雇用における各種の差別。また教育(労働力養成)における男女格差の残存や,こうした社会状況のなかでの女性自身のあきらめもある。これによって「妻の家事労働が夫の稼得労働を支えているのは間違いないが,しかし,夫が家事にまわったからといって妻が夫と同じだけの稼ぎを手にすることはできない」という問題が生まれる。さらに,3つ目には,「近代家族」の成立がたとえば日本では明治期のことであり,それが男女不平等を当然視した時代のことであり――女性には財産権もなかった――,そこで成立した権力的上下関係が,戦後,労働者家族の「近代家族」化の進行においてもイデオロギーとしての影響力をもったかも知れない。4つ目には,稼得労働よりも家事労働の方が「ラクだ」という意識や実態の問題もあろう。
・いずれにせよ,専業主婦にたいしてさえ,資本は支払いを行っている。もちろん,それは妻への思いやりや憐れみなどからではなく,資本主義的生産の恒常化という自らの利害に導かれてのことである。労働女性であれ,主婦であれ,家族がより豊かにくえる賃金を資本にたいして求めること,また専業主婦のいる「近代家族」であっても,夫の賃金を夫婦・子どもとどう分け合うかについての民主的な決定(女性・子どもの人権尊重にかかわる社会的な問題でもある),さらには必要に応じて妻が自由に稼得労働を行うことができる社会的条件の整備が必要。実際,ある共働きの卒業生は,夫の残業代の一部を「私の家事労働にささえられたもの」として「私のお小遣い」に繰り入れる家庭内のルールをつくっている。
9)「正常な生活状態」の「正常」は「通常」が正しい訳ではないか。確認のこと。
10)川東による上野批判――「労働力の再生産」の用語法(340ページ)
「労働力の再生産」を概念化したマルクスは,1)日々の再生産と,2)世代的再生産の2つの意味を統一している。上野は2)の意味でのみ自己流につかうが,こうした我流は余計な混乱を招くだけ。
4・『資本論』の家庭分析
4)マルクスは「家庭」を視野の外に落としているのか。
・「専業主婦の誕生」については,資本主義の形成ともに職住の分離が起こり(家父長制的な家内労働の解体),公的世界と私的世界の分離が起こる。その純粋な私的世界の管理者として説明されることが多い。
※マルクスは「家内労働」を構成する経済関係としての家父長制をいう。
・その上で,私的世界である家庭生活をつうじて労働者は「資本としての労働力」を再生産しており,当人が私的空間だと自覚しても,それが労資関係につながれているというのがマルクスの分析ではないか。
・「家内労働」が解体した後にも,男性労働者が「妻子を売る」という支配関係への着目がある。契約の主体が男であるという「野麦峠」の世界(416~9)。
・マルクスの『資本論』にたいしては,それは市場は分析したが「家庭」は分析していない。また労働市場は分析したが,労働力が再生産される領域については分析していないといった見方がある。確かに,マルクスは今日われわれが問題にするような意味での「近代家族」における男性上位を論じはしなかった。しかし,そのことはマルクスが男女の平等や,家庭内の男女関係をどうでもいいものとして視野の外においたことを意味するものではない。すでに紹介した未来の家族論は,女性・児童労働の形成による古い家族制度の解体を述べ,それが未来の社会につながる重要な要素なることを述べている。また,すでに見た賃金論も資本主義における労働者家庭の役割を,社会的生産関係から切り離された空間としてではなく,資本主義経済に不可欠な労働力再生産の場として分析していくものであった。
・マルクスは家庭における労働力の再生産を,資本主義経済そのものの社会的再生産に不可欠の一環として次のように明確に位置づけている。労働現場の外における労働者やその家族の「個人的消費」(生産的消費と区別された)を,資本の再生産の一契機として位置づける視点である。Ⅰ976終わりの5行から977の本文最後まで――「労働者階級の不断の維持と再生産は,資本の再生産のための恒常的条件」「資本家はこの条件の実現を,安心して労働者の自己維持本能と生殖本能にゆだねることができる」。
・ここには確かに「労働者の自己維持本能」が家庭など労働現場以外の場所でどのように発揮されるかについての分析はない。また「生殖本能」の発揮についても同様である。しかし,それを彼らの「本能」に「ゆだねることができる」としたことは,家庭を分析の対象から切り離し,捨て去ったということではなく,家庭における労働者と労働者種族の再生産――労働者家族たちの個人的消費・私的生活が,当人たちの自覚がどうであってたとしても,それが資本主義の経済という「公」的世界の一環に組み込まれ,決してそこから隔離された社会ではないということの分析を意味している。
・資本主義の形成が生産の集中を生み,職住の分離を生んだことから,家庭は純粋に私的な場になったという場合。その純粋に私的な外観をとる「近代」の家庭もまた,見えない労資関係の鎖につながれていることをマルクスはすでに指摘しているのである。Ⅰ979ページの本文第1段落――個人的消費は労働力の再生産であり,生活手段の消滅による労働市場への再登場を余儀なくする。別の言い方をするならば,マルクスは労働の現場を労働者からの剰余価値取得の場として分析してが,同時に,日々の剰余価値取得を可能とさせる労働力の再生が円滑に進んでこそそれは可能であり,そうした重大な経済的役割を担う場として資本主義の労働者家庭を分析している。
・さらにマルクスは,資本主義による機械化が,労働者家族の全成員を性と年齢の区別なしに活用していくことを重視する。また,そうして生み出された大量の女性・児童労働が,男性労働者の労働力価値を低下させたという,いわゆる労働力の価値分割についても述べている。
・Ⅰ680の(a)から681の本文最後まで――補助的労働力としての婦人労働・児童労働。機械は労働者家族の全成員を性と年齢の区別なしに活用する。家族のための自由な家庭内労働が消える。――それによって夫の労働力の価値が全家族に分割される。機械は男の労働力価値を減少させる。――Ⅰ1295ページ――綿工業はイギリスに児童奴隷制を導入した。Ⅰ1182の本文の終わりの6行――女性・児童労働への搾取の深まりが男子農村労働者を過剰化し,賃金を押し下げる。
・Ⅰ927ページ――名目賃金があがっても労働日が長くなれば実質的な賃下げとなる。労働者家族の収入がふえる場合にも,家族員の労働支出が多くなれば同じこと。Ⅲ395ページ――女性・児童労働の導入が家族全体の賃金総額をふやす場合にさえ,家族全体がより多くの剰余価値を資本家に提供する場合がある。
※ここには,今日における賃金の男女差別をとらえるいくつかの視角がある。保護なし平等の結果,総合職に占める女性比率は3パ ーセントへと低下した。長時間労働による排除の問題とともに,実質賃金はどうなったのか。さらに男女平等が家庭全体の生活費を貧しくさせてはいけないという論点も。
・後に見るように,ここでの女性労働・児童労働は男性労働ともどもきわめて過酷なものだったが,先に見た資本主義による未来の家庭の準備は,こうした労働者家庭内部における収入構造の変化をも含んだものとなっていることに注意すべきである。
8)『資本論』(417)の注121に「家事労働」が登場する。
10)「家事労働」への支払いは「労働」への支払いではなく「労働力」への支払いではないか。アンペイドワークとの争点については,慎重に深めること。
3) 〔労働力の再生産と個人消費〕
・Ⅰ976終わりの5行から977の本文最後まで
――労働者の個人的消費は資本の再生産の一契機。「労働者階級の不断の維持と再生産は,資本の再生産のための恒常的条件」「資本家はこの条件の実現を,安心して労働者の自己維持本能と生殖本能にゆだねることができる」。
・Ⅰ979ページの本文第1段落
――個人的消費は労働力の再生産であり,生活手段の消滅による労働市場への再登場を余儀なくする。
5) 〔長時間労働による労働者階級の再生産への障害の形成〕
・Ⅰ454最後の1行~456の3行目
――剰余価値への盲目的衝動は,労働日の精神的・肉体的限度を突破していく。資本は労働力の寿命を問題にしない。
・Ⅰ457の中央の段落
――労働者が早死にすれば次の世代がすぐに必要となる。そこで資本は自らの利害にしたがって標準労働日を指向するように見える。
・Ⅰ463の冒頭から464の3行目まで
――資本は社会によって強制されなければ,労働者の健康と寿命を顧慮しない。
ロイジン・マクダナウ/レイチェル・ハリソン「家父長制と生産関係」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【『資本論』では労働力の再生産は自然なこととされている】「この文脈において指摘しておかねばならない重要なことに,『再生産』という概念は,マルクス初期の作品『ドイツ・イデオロギー』における定式と後の作品『資本論』の定式とでは,内容が変わってきたということがある。『ドイツ・イデオロギー』の中でマルクスは,『人間的存在の,したがってまたあらゆる歴史の第一の前提』である社会的活動の三つの面をあげる。第一の面は必要を充足する手段の生産であり,第二の面はあたらしい必要の生産である。そして,
ここにはじめからただちに歴史的発展のうちへ入りこんでくるところの第三の関係は,自分自身の生活を日々あらたにつくる人間が他の人間をつくりはじめること,すなわち繁殖しはじめることであり――夫と妻との,親と子との関係,すなわち家族である。この家族は,はじめは唯一の社会的関係であるが,あとになって欲望の増加があたらしい社会的関係をうみだし,そして人口の増加があたらしい欲望をうみだすようになると,一つの従属的な関係となる……社会的活動のこれら三つの面は,三つのちがった段階としてとらえられるべきではなく,まさにただ,歴史の端緒以来そして最初の人間以来同時に存在してきて今日なお歴史のうちに有力にはたらいているところの三つの『契機』としてのみとらえるべきである(Marx,1970a,pp.49-50.邦訳36頁)。
※『ド・イデ』において「家族」は人類史をつらぬく3大契機の1つである。
しかしながら,家族の社会関係がいったん従属的な関係になってしまうと,マルクスにとって,それは分析上,周辺的なものになるという問題がある。とくに三つの『契機』の最後のものである生殖は『自然なもの』となり,歴史の外側にあるものとして示されるようになる。
生活の生産は,労働における自己の生活の生産も生殖における他人の生活の生産も,そのまますぐに二重の関係として――一方では自然的な,他方では社会的な関係として――あらわれる……『人類の歴史』はいつも産業および交換の歴史とのつながりにおいて研究され論究されねばならないということである(Marx,1970a,p.50.邦訳36-37頁)。
こうした新しい労働者の再生産を自然なことであるとする考えは,『資本論』にも見出される。
労働者階級の不断の維持と再生産とは,依然として資本の再生産のための恒常的条件である。資本家は,この条件の充足を,安んじて労働者の自己保存本能と生殖本能とにまかせておくことができる((Marx,1970b,p.572:邦訳3巻112頁)。
『資本論』の中で強調されていることは,社会的生産関係(生産手段を所有するか所有しないかによって決定された階級関係)の再生産は,まず生産の側で生じるということである。『資本主義的生産過程は……資本関係そのものを,一方には資本家を,他方には賃金労働者を,生産し,再生産するのである』(p.578:邦訳3巻122頁)とあるように。……『資本論』では,労働力の価値の問題,つまり消費された商品に換算された労働力の再生産費が,分析の中心になっている。換言すれば,そこで問題となっているのは,生産労働者つまり賃労働者の労働力の再生産への貢献なのであって,人間の再生産という社会関係それ自体への貢献ではない。」34~36ページ。
【マルクスは女性に特有の従属を分析しない】
【マルクスは男だけの団結をよびかけている】「マルクスの著作の中には,女性に特有の従属について分析しようとする関心は,ほとんどみられない。……たとえその定義〔労働者についての〕が,生殖者および労働者としての女性にとくにあてはまることが明らかな場合であっても,そうなのである。女性が二重役割に関連した特定の矛盾にさらされているということは認識されていない。……マルクスが万国の労働者に団結を呼びかけるとき,彼が意味しているのは,まず間違いなく男性たちである。」38ページ。
※マルクスの文通相手に有能な女性労働者はいなかったか?
【マルクスは人間の再生産を経済に従属させている】「マルクスは,男女それぞれの生産に対する関係の変化により明らかに生じる両性間の関係についての定式に,依然として固執している。たとえば『資本論』では,次のように論じている。
資本主義制度の内部における古い家族制度の解体が,いかに怖ろしく厭わしいものに見えようとも,それにもかかわらず,大工業は,家事の領域の彼方にある社会的に組織された生産過程において,婦人,男女の若い者と児童に決定的な役割を割当てることによって,家族と両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基礎を創出する(Marx,1970b,p.490:邦訳2巻511頁)。
マルクスは人間の再生産という社会関係に,内容上,自律性をまったく認めていないので,女性は資本制的関係の中にのみ存在するとみなされ,資本制的関係と家父長制的関係の双方の中に存在するとはみなされていない。したがって,その結果,女性の地位についてのこの分析に矛盾があるとうい感覚はないのである。……他方では,マルクスは,人間の再生産という社会関係からみた女性の従属を理論化するために必要な概念上の道具を,なにも提供していない。」40~41ページ
アネット・クーン「家族における家父長制と資本の構造」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【マルクスは交換価値を生産しないことを理由に家事・家族を考察の範囲外においた】
「 労働者階級の不断の維持と再生産も,やはり資本の再生産のための恒常的な条件である。資本家はこの条件の充足を安んじて労働者の自己維持本能と生殖本能とに任せておくことができる(p.537:邦訳749頁)。
このように,資本にとって労働力の再生産の必要性は認識されてはいるが,他方で,労働力の再生産の場であるプロレタリア家族の場合となるとそうなっていない。これは,純粋な形態でのプロレタリア家族が資本制下において直接には交換価値を生産せず,使用価値しか生産しないということに由来するのかもしれない。だからこそ,家族は,資本の蓄積作用についての分析の範囲外にあるものとみなされるのである。マルクスは労働力の再生産を問題にしてはいるが,そのさいに労働力の再生産の制度に内包されている全般的な意味合いを考察の視野におかなかった。このことが原因となって,家事労働――世帯内で行なわれる社会的に必要な労働,資本制生産の条件の範疇には属さない労働力の再生産のための労働――と,世帯外で行なわれる剰余価値の収奪との関係に関するいくつかの論争がひきおこされてきた。ここで生まれた問題は,すべて性分業の問題,またある特定の生産様式の中での性分業の具現と変容をめぐる論議と密接に関連している。……なるほど,一方では,主婦の無報酬の労働賭場(●??)価値を創造することもなしに資本に恩恵を与えていると論じ,『資本論』で述べられている分析の直接的な意味合いを固守してゆくという説があり,他方では,家事労働は主婦が報酬を受けとることのない価値を創造しているがゆえに,資本に恩恵を与えているとする説がある。しかし,私はここでは,この内のどちらかの説のみが可能であることだけを指摘しておく。」52ページ
ポール・スミス「家事労働とマルクスの価値理論」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【家事労働についての二つの見方】
「家事労働には,基本的に二つの見方がある。その一つは,家事労働を,一部は自己消費され(非物質生産),一部は直接的消費(たとえは料理)のために使用価値を生産する一連のサーヴィス,と見なすものであり,他の一つは,家事労働を,資本制生産様式の下では一つの商品である労働力という特定の生産物を生み出す活動,と見なすものである。……
……マルクスが指摘するように『料理女は,私(という私人)が彼女に支払う財源を補塡しない。というのは,私は彼女の労働を価値創造的な要素としてではなく,純粋にその使用価値のために買うにすぎないからである』(1969,p.165:邦訳1巻178頁,●●?)。
しかし,家事労働は価値を生産する,という主張の強みは,交換されるのは家事労働ではなく,その生産物すなわち労働力商品なのだという点にある。」181~182ページ
※個人的消費が同時に資本のための社会的生産であることをマルクスはすでに指摘しているのではないか。
【家事労働は抽象的労働にならないから私的である】
「家事労働が,他の労働形態と,抽象的労働(価値実質)としての質的な等価を達成しないことが明らかになれば,それが社会的必要労働(価値量)として量的な等価を達成しないことも明らかとなる。……それが抽象的労働になりえないからこそ,家事労働は私的なままにとどまるのである。」189~191ページ
※逆。現に交換されないから抽象的人間労働への「還元」が行なわれない。現に売買されていない。ただし,夫の賃金を通じた支払いを迂回した売買はあるのだが。
【マルクスの価値論は家事労働を問題とできない】
「家事労働は,マルクスの価値論からは問題とならない。というのは,家事労働は価値論の対象,すなわち商品の生産と交換に含まれないからである。その結果,家事労働は,商品の資本制生産様式の一部分とならず,むしろそれが継続的に再生産する外的存在条件の一つとなる。『このような不断の再生産,労働者の永続が,資本主義的生産の不可欠の条件なのである』が,『同時に労働力の再生産である労働者の私的消費は,商品生産の過程の外へ除外される』(Marx,1974a,p.536,1976a,p.1004)。」194ページ
※家事労働についての経済的分析は脆弱。マルクスには「賃金論」があり,「資本の再生産論」がある。それを土台にすえることができないマルクス理解の貧困が問題。
1)「マルクスは家族を分析しない」論(329ページ)
上野は,マルクスにおいては「家族は階級分析の外にある」(ジャッキー・ウエスト)「マルクスの著作の中には,女性に特有の従属について分析しようとする関心はほとんど見られない」(マグダナウとハリソン)といった見解を肯定し,自らもマルクスは性分業を「自然」とみなしているとか「性と生殖,したがって家族を『自然過程』とみなしたことによって,家族がマルクス理論の分析の射程に入ってこないという限界」(上野18~22ページ)をもっていると批判している。
4)川東の上野批判――「マルクスは家族に無関心」に対して(332ページ)
マルクス等は家族を「自然」家庭ととらえていない。1)家族を生産関係・生産力と結んで分析,2)階級社会の形成期に家庭でも男性支配を保証するものとして家族が成立したとする,3)性分業も生産様式の変化のなかで差別の要因となった,4)大工業成立により性分業は解消に向かうと考えている。
※エンゲルスの「家族」形成論は,今日の歴史研究に照らしてどこまで妥当か。
※「家族」と「家庭」の用語上の区別はエンゲルスではどうなっているか。資本主義における「家庭」の形成というフェミニズムの議論に照らしたとき,エンゲルスがそれを知らないのは当然だが,川東による上野批判には過度の単純化があるといえないか。「家族/家庭」の用語法。
6)上野の家事労働解釈をめぐって(334ページ)
上野はクリスチーヌ・デルフィに依拠して次のようにいう。「問題の核心は,労働の『収入を伴う仕事』と『収入を伴わない仕事』へのこの分割,そしてそのそれぞれの男/女への性別配当にこそある。家事が『収入を伴わない仕事』であることは,それが不当に搾取された『不払い労働』であることを意味する。この『不払労働』から利益を得ているのは,市場と,したがって市場の中の男性である」(上野,37ページ)。
7)川東の上野批判――「家事労働」をめぐって(334ページ)
上野は家事労働も社会的労働であり,夫から収入の得られるべき労働だと考えている。つまり,資本・賃労働関係にない家事労働に,資本・賃労働関係をあてはめて,そこに階級関係を見ようとしている。それは誤り。家事労働が「不払い」で,それが「性支配の物的基盤」になっているのは事実だが,それを男に搾取された「不払い労働」とするのは誤り。
※マルクスとのかかわりで問題になるのは,家族の再生産費が「支払われている」こと。その賃金論との関係分析がいる。
※他方で,川東は「不払い」の家事労働が,なぜ「性支配の物的基盤」であるかについての説明を行っていない(→336ページ)。
8)川東による竹中「家事労働」論の引用(335ページ)
「家事労働を資本制生産様式のなかの特殊な労働――つまり社会的生産様式とは機能的関係にあるが,社会的生産,したがって価値生産的労働とは無縁な――として位置づけるのが妥当であろう」(竹中)。1)家事労働は労働力の生産に不可欠な労働であり,2)労働力商品化の前提となる労働。「労働力商品化体制としての資本制生産様式にとって不可欠の労働」。これが「家事労働の歴史性」。
※マルクスにとっては社会的生産の不可欠の構成部分として労働者家庭の消費生活があり,それは資本主義的生産関係の再生産の一要素と位置付けられる。宇野派の経済学は資本主義の特徴の第一を労資関係にではなく,労働力商品化の体制に見るが,その経済理論の影響があるといえるか? マルクスは労資関係レベルに家庭を位置づけ,竹中はその一面である商品化レベルに位置づける?
9)川東による「性差別の物的基盤」論(336~7ページ)
家事労働は価値を生産しない。それが女性に強制されることが男性への経済的従属の原因となる。性分業は特定の生産関係のもとで差別の要因となる。したがって資本主義は新たに差別の要因としての性分業を生んだのではなく,すでにある分業を取り込みながら,これを資本主義的に再編した。
※家事労働を女性に強制される力については説明がない。資本の力ということか?
※川東は家事労働を歴史の中でつねに女性に割り当てられた性分業と単純にとらえていないか? 歴史認識としてそれは正しいか? 資本主義による「家庭」の形成が,それにまでは存在しなかった稼得労働と純粋に区別される「家事労働」を初めて成立させたのではなかったか?
※家庭における女性の「経済的従属」は,支払いが男性労働者に対して行われるという外観をとり,そのすべてが男性労働者への支払いであるかのように見えるからではないか。そうであれば,なぜ支払いは男に向けられたの,なぜ資本主義は男性を主たる労働者として選択したのか,そこの分析こそが肝心ではないか。歴史研究に学ぶ必要がある。資本主義的産業の中心となった徒弟制の職人が男だったから? しかし農業では? また職人を不要とする機械化の後には? 他方では北欧のように男女の労働力率や賃金格差がほぼ同等に達するうえで,障害となったものは何だったのか?
11)川東による家父長制の廃絶論(342ページ)
上野は家父長制を資本制から独立したものとして「二元論」的に扱おうとするので,「労働力の再生産」をもっぱら男女間支配の視点からのみとらえ,資本制との絡みを欠落させる。その結果,家父長制廃絶の方向は再生産費用の両性による不均等な分配の是正(育児労働の男女均等化,女性の就業継続)にとどまっている。それでは不十分であり,1)男女ともの労働時間の短縮,2)育児・看護休暇の充実,3)保育設備・サービスの充実などが必要である。これらは資本や国家に対する要求となる。上野のような資本制との関係を欠落させた家父長制理解では,こうした要求は出てこなくなる。
12)川東による上野批判――「資本制と家父長制」の二元論(345ページ)
資本主義における家父長制の物的基盤は,性別分業により女性に家事労働を排他的に負わせることによる。主婦労働は,1)労働力再生産を担うものとして資本主義存立に不可欠で,2)資本はそれを口実に女性を二次的労働力や相対的過剰人口として搾取強化に利用する。その結果,女性は男性に経済的に依存せずにおれなくなる。こうして家父長制と資本制は相互に浸透に依存しあっている。
※なぜ排他的に負わせることができるかは,ここでも説明されない。
※現実の女性の生活にとって「男性中心主義」が脅威であることの1つの重要な柱は,暴力(DV,セクハラ,チカン,レイプ)だが,これを分析するうえで家事労働を根拠とした「性支配」の分析はどれほど有効性をもつものか? 単純に経済に還元できない差別意識(人権の軽視・否定)がありはしないか? それは何によって生み出されたものか? これも歴史研究に学ぶべき課題。腕力?
13)川東の「資本制と家父長制」論(347ページ)
「こんにち資本=国家の女子労働政策が,一方では女性を家庭から職場にひき出す女子労働力開発政策としてのウーマンパワー政策をとりながら,他方では,女性の家庭的責任を強調する家庭政策をとっていることは,資本主義経済がつくりだす自己矛盾にはちがいないが,一見矛盾したように見えながら,資本にとっては決して矛盾した政策ではなく,労働力商品化体制の維持をもとめる資本の経済的合理性の見事な政策的表現にほかならない」(竹中)。矛盾を生み出すが,それが決定的な対立にいたらないよう調整をはかる。
※ここで竹中や川東がいう「家父長制」とは何か? 定義がないようだが?
※「労働力商品化体制の維持」が目的なのか,最大限の剰余価値の取得が目的なのか。原論レベルでの相違をあえて争点にする必要はないかも知れないが,やはり宇野流の資本主義理解の跡が見える。
※現代日本の政財界が女性に低賃金労働と家庭責任を強制しているのはそのとおり。その問題解決のために必要なのは,労資の力関係の転換である。この関係において労働者・国民の力が弱いことが,「少子化」という政財界にも抑制のできない現象を生み出すことになっている。マルクスのいう「社会的な力」の必要なしに,政財界が問題解決にむかえないことの一つの現れ?
14)川東の上の批判――上野は二元論ではない(349ページ)
上野は「性支配一元論」。
【上野の誤り,川東の不十分さ】
1)上野の誤り――マルクスやマルクス主義に対する理解の問題
――マルクスは家族を分析しない(経済学の限定はあるが再生産論の一環として)
――社会主義婦人解放論は階級一元論ではない(エンゲルスも活用すべし)
――「家事労働=不払労働」論の概念の混乱
――「労働力の再生産」概念の混乱
2)川東の不十分さ――とくにマルクス理解
――エンゲルスへの無批判(エンゲルスとの「家族」論の歴史的制約は? 「家族・家庭」の今日的な用語の区別に照らした検討がない)
――家事労働ははたして「不払」なのか,1)資本による家族の生活費の保証が考慮されない,2)その上での家族内部での賃金の分割(妻に小遣いがないなど)が検討されない。
――「不払い」が「性支配の物的基礎」という上野を肯定し,それを家事労働が女性に強制されることといいかえるが,なぜそれが物的基礎なのか,また強制や「不払い」が可能になるのかの説明がない(実際には,家族内部での賃金分割をめぐる民主主義の問題,社会全体の民主主義の問題,夫の賃金が妻との『共同』によることへの理解の問題ではないか)。
――関連して「性支配の物的基礎」について竹中の引用に基本的に依拠しているが,竹中には資本主義を何より「労働力商品化体制」ととらえる宇野経済学の影響がある。これが「労働力」を資本としてとらえる視点の弱さを生んではいないか。資本が「労働力商品化体制を維持」させるというが,それは資本による搾取のために行わせること。資本と労働者(家族)の関係という視角から,家事労働もとらえる必要があるのではないか(家事労働は夫による剰余価値生産の条件でもある)。
――上野にならって「家父長制」と資本制という用語を用いるが,「家父長制」の概念規定がない(事実上は,夫婦間の家事労働が「不払い」であるということ? もう一方で男性による女性への暴力の問題を重視すべきではないか?――経済関係ではない蔑視〔差別の意識〕,腕力でいいなりとさせることへの罪の意識の希薄さ,それが歴史の中でいつから,どのように形成されていか?)。
【論争の成果と残された課題】
1)論争の成果
――妻の労働の成果は「夫を通してよりほかにはあらわれようのない」内助の功(梅棹)。その内助の功に労働論・価値論として分析のメスを入れようとの提起が行われたところに主たる成果がある。
――妻が夫の収入で生活していることを前提しながら,それが「権利」であるのか「扶養」であるのかを明確にしようとする(磯野)。
2)残された課題――問題の提起はされたが,ほとんど解決を見ていない。
――妻の労働が夫の生活や子どもの成長を支えるものと経済的に評価され,それが現に支払われているから専業主婦が生活し,子どもが生活しえている。その経済的評価の問題と,それを法的にどう表現するかの問題とを区別して論ずることが必要。なによりマルクスがその経済的実態の分析をすでに行っていることを正確にとらえること。
――そうした経済的実態があるにもかかわらず,法的には「夫の収入」となる。その外観が生まれる理由はなにか。雇用契約の主体,実際に資本のために労働力を提供するから。専業主婦は「仕事」の場に近づくことさえない。
――「夫の収入」であるという外観が,実際に家庭内で「オレが食わしてやっている」という夫婦間の上下関係を生む根拠になっていくのはなぜか。外観にもとづく実際のふるまい。戦前の「19世紀型近代家族」における女性の無権利状態の影響。ここまでは事実認識や民主的な夫婦関係づくりの課題でもある。しかし,夫婦関係が破綻したときに,妻が容易に自分の生活を成り立たせるだけの「収入」を得ることができない事実。労働市場からの女性の排除,差別的低賃金,教育の差別などによる労働力としての育成の男女差,こうした社会的圧力のもとでの女性によるあきらめなどが,自分の意志を殺した「夫への従属」を生み出す力となる。
――家事労働はこれを市場で販売するのでないから,そこに交換価値が発生しないのは当然だが,しかし,その労働は夫の賃金をつうじて「支払い」を受けている。それを「無償」(水田)と評価するのは法的外観にとらわれた見解。主婦年金については,今日的な問題についての理解が必要。また年金論については,マルクスの時代の労働力価値の支払い方と,今日での「賃金+社会保障」という支払い方の相違を前提として認識する必要がある。
――家事労働はどのような形で夫の労働力の価値を生み出すか。夫に必要な生活資料の加工(生米をご飯に)などのほかに,生活資料を買ってくること(輸送),家計・食事・衛生などの管理労働も。これらを単純に「生活資料」に還元する必要はない。マルクスの「生活資料の価値」論は,労働力価値の第一の要素を述べる段階でのもので,家族の生活費を述べる際のものではない(労働者家庭における家事の未発達という問題もあったかも知れない)。家畜の販売時の価値は,それを育てるのに必要とされた「生活資料」の価値に解消されない。これを管理する牧畜業者の労働に対する支払いがある。時間決めで人間労働力が販売される場合,販売の主体が当人であるということの他に,ここにどれほどの相違があるか。
1)梅棹忠夫「妻無用論」(『婦人公論』1959年6月号)
――「商家の主婦はどちらかということ,農家の主婦に似ている。そこでは,家庭全体が一つの労働団である。そこでは,夫も妻も,その労働団の一員として,ともにおなじ一つの生産的労働に力をあわせていたのである。そこでは,労働する人間としての男と女のちがいは,本質的なものではない。それはいくらかの役割りの差であって,いわば作業内容のちがいにすぎない。一つの生産活動の中で,横に分業が展開したにすぎないのだ。
サラリーマンの家庭では,その点がぜんぜんちがう。それは一つの労働団ではない。働くものは夫ひとりであり,夫その働きによって,そとから収入をもってかえる。妻の役目は,夫が外で働くための家庭的な条件を,よりよくととのえることである。妻自身は何も生産しない。何も収入がない。妻の成果は,直接には出てこないで,夫を通してよりほかにはあらわれようのないもののたった。いわゆる内助の功である。こういう家庭でこそ,内助の功ということが意味をもつ。夫と妻との関係は,ここでは横の分業ではなくて,たてに一列につながっている」(1-193~194ページ)
――「こういう家庭の形態は,あきらかに武士の家庭形態とおなじである」「封建武士の家庭が,現代サラリーマンの家庭の原型となった。これは日本だけの現象ではない。ヨーロッパ各国においても,おなじ現象がおこったのである」(1-194~195ページ)。「女は,男の総合的な主権をみとめながらも,その内部に,妥協的な女の政権を確立した,と見るのである。それがいわゆる主婦権の確立であった。封建制下の女たちは,財産相続権,外交権などを放棄するかわりに,台所をきりまわす権利だけは確保したのである」(1-197ページ)。「封建家族以来の,家庭における主婦権を確立するためには,やはり主婦自身が働くほかなかったのである」「(家事労働の)多くのものは,生活の必要からやむを得ず行われているというよりは,主婦に労働の場を提供するためにつくられた,発明品ではないかと解釈している」(1-198ページ)。
2)磯野富士子「婦人解放論の混迷――婦人週間にあたっての提言」(『朝日ジャーナル』1960年4月10日号)
――「さて,経済学者たちは口をそろえて,『主婦労働は価値を生まない』という。なかに主婦に対して同情的な学者は,『主婦労働は有用だけれど,経済学的には価値をうまないのです』と気の毒そうに説明してくれる」(2-7ページ)。
――「まず主婦にとって一番きにかかるのは,……夫が得る収入は本当に全部夫のものであり,妻は夫の収入によって養ってもらっているだけなのかということ。
もちろん妻は扶養を受けることによって,実際には夫の収入の分け前にあずかっているわけだが,主婦が自分の労働に対して当然の報酬を受けているのか,それとも夫に養われているのかによって,主婦の地位にたいへんなちがいがでてくる。また新民報では離婚の時に妻は夫に財産分与を請求できるが,これは,扶養や慰謝料とは別に,一家の財産を作り上げるのに寄与した妻の持ち分を,離婚にあたって清算するという意味である。……しかし,家事労働が価値をうまず,従って夫に支払われる収入に対する妻の権利がまったくないとすれば,この財産分野請求権は理論的にどうも弱いものとなってしまう」(2-8~9ページ)。
――「労働力の価値」は「それを生産するのに必要な生活手段の価値」。「この労働力の所有者が夫であり,妻が彼のために生米をたいてご飯にし,布を下着に仕立てている場合には,彼の労働力の価値はどうしてきめられるのだろう」。「生米や布地は労働の所有者にとって直接の生活手段といえるだろうか。」「夫にとって直接役に立つのは,布地ではなくて下着である。」「すると労働力の清算に必要な生活手段を攻勢するのは,生米や布地ではなく,ご飯と下着である。それなにの,生米や布地をご飯や下着にするために費やされた主婦の労働力だけが,どうして夫の労働力の価値を計算する時にはぶかれるのだろう」(2-9~10ページ)。
※一番最後の「はぶかれる」という断定がそもそもの問題。マルクスは労働力の価値に家族の生活費をふくめており,妻の生活の維持すなわち労働力の再生産費をふくめている。「経済学者」は何より,そこを説明するべきであった。
――「ひとたび夫の労働力が商品として市場に売られるようになった時,主婦労働もまた商品の生産に従事することになったとは考えられないのだろうか。労働力が商品であり,『労働力の生産』という表現が経済学で使われている以上,『労働力という商品の生産』ということがいえるはずだ」(2-10ページ)。
――「もし夫の労働力のなかに,妻が付加した価値が入っているにもかかわらず,夫が労働力の代金全部をわがもの顔に独占し,妻を養ってやっているような顔をしたら,それは妻に帰属すべきものを夫が着服したことになる。また夫の労働力に対して生米や布地等の代金しか支払われていないのなら,妻の生んだ価値は,夫の労働力をかった資本家によって着服されることになりはしないか」(2-13)
※肝心なことの1つは,直接的な雇用契約者が労働力を資本に差し出す個人であるということ。その結果,直接に労働力を提供せず,またこの契約を結ばない妻は資本に自らの労働力の代金を求めることは法的にできない。しかし,2つ目に,経済的な実態は法的関係とは別問題。資本にとって労働力の再生産は不可欠である。したがって,資本は夫と子どもの労働力の再生産に必要と妻の労働に対しても,妻の生活の維持という形での支払いを不可欠とする。ただしその賃金の家族内での分配は「夫の家族」にまかされており,それは資本の関与する問題ではない。法的(形式的)には,賃金は「夫のもの」として家庭に持ち込まれ,これの具体的分割は家庭のなかの作業となる。
※この経済的実態とは異なる外観が法的にあたえられているところから「オレが食わしてやっている」という家庭内の権力関係の1つが生まれる。もう1つ,この関係を固定化するうえで重要な役割を果たすのは,この関係を脱しようとした妻が容易におなじ生活を送ることのできる就業条件をもたないこと(雇用における女性差別,若年定年,労働力の未発達〔教育の差別も〕)。
3)水田数枝「主婦労働の値段――わたしは“主婦年金制”を提案する」(『朝日ジャーナル』1960年9月25日号)
――「農家の主婦(一般に零細企業の家族従業員)のばあいは,商品生産に従事して価値=交換価値をつくりだしているのであって,無償なのは,経営と家計の未分化のためか,経営が家長に掌握されているためか,とにかく,労働にたいする反対給付が主婦の手にまでわたらないからにすぎない。これに反して家事労働に従事する主婦は,単品を生産しているわけではなく,したがって交換価値も剰余価値もうまない」(34ページ)。
※「無償」といわれることの意味が問題。主婦の生活を成り立たせるだけの収入(支払い)がありながら,それにもかかわらず妻は「無償」だと表現される。そこには労働に対しては主婦の所有であることが明確である現金の受け渡しがあるはずだという理解がある? 夫が賃金を受け取っても,それが全額妻にわたれば,夫の所有もまたきわめて曖昧なものなのだが。
――「マルクスによれば,資本主義では人間と人間との関係が物と物との関係としてあらわれ,本来商品でない名誉や地位さえ商品化されるということころが,これほど浸透力の強い商品化現象から,人間の半数が多少なりとも従事し,かつ従事するであろう主婦労働が排除されてしまったのは,いったいどうしたことなのだろう」(34~35ページ)。
※その労働力が市場で売買されず,したがって直接に交換価値が生まれないから。ただし,家事労働によって男労働力による「交換価値・剰余価値」の形成が可能となる。そこで,それを可能とする条件を維持するための支払いとして「家族」への賃金がある。
――「主婦労働のなかには,未来の労働力のにない手をつくりだす出産,育児,教育の労働と,商品としての夫や家族の労働力をつくりだす労働がふくまれる。主婦の生活は,夫や家族の賃金によってまかなわれるわけだが,かれらの労働力の再生産に主婦が寄与した部分でさえ,果たして彼女に補償されたのかどうか不明である。『初任給では自分のたべるのがやっとです』という新入社員などが,家事労働を親に依存しているとすれば,この部分は無償労働である」(36ページ)。
※主婦の生活が賃金にまかなわれることを認めながら,しかし家事労働への「補償」が不明だという。そこには主婦の「生活」に消費されるのは別の貨幣の受け取りに対する期待が反映している?
――「労働という生産活動は,労働者の生活費以上の価値をつくりだす。この原理を主婦労働に適用するならば,主婦労働は,主婦の生活費以上のなにかをつくりだしているはずである」(37ページ)。
※あまりにも機械的な「あてはめ」。労資関係を,主婦と誰とのあいだにあてはめているのか?
――「主婦の家事労働の裏付けによる経済的独立の方法は,次の三つが考えられるだろう。第一に,主婦は,主婦労働の無償性をなくすために,健康で文化的生活を営めるだけの賃金を,夫とともに要求する必要があるだろう。第二は,第一の条件の上に成立するのだが,夫の労働は主婦の労働を前提としているのだから,夫の賃金を夫婦の共有財産とするか,賃金の何割かを主婦個人の所得(扶養手当といったようなものでなく)として明示することを要求すべきである。そして,第三に,主婦労働は,現実の階級社会では部分的には不払い労働で,しかも有用なのだから,社会全体が主婦の無償奉仕にたいし,年金といったような制度で補償することが考えられるだろう」(38ページ)。
※第一の方法は,夫の賃金をひきあげるという形でのみ法的に可能。あるいは「扶養手当」の拡充か。妻は間接的に夫の労働力再生に寄与しているとはいえ,資本家とのあいだに直接の雇用関係を結ぶものではないのだから。ただし,主婦労働が「無償」であるという事実認識は誤り。第二の方法は,家庭内の民主主義の問題。卒業生の中には夫の残業代をも「家事労働を条件としている」として,夫婦での分割の対象にしている人がいる。ここは夫婦関係の問題。卒業生の場合には共働きによる経済的な力関係の拮抗がある。第三の方法は,無償を前提する誤りの上に立つが,さらになぜ「社会」が支払わねばならないのかの問題も生む。税で処理するのか,企業の保険で処理するのか。
※主婦が「賃金」を手にすべきだという場合,賃金論が「べきだ」論によるのでなく,現にある賃金分析になっていること。とりわけマルクスの研究がそういう性質のものであることを前提する必要がある。他方,マルクスは賃金が社会的力関係によって上下するものであることも認めている。その労働力価値の上下という理論の枠で,主婦の生活向上問題(自由にしうるお金の獲得)も論ずる必要がある。
4)高木督夫「婦人運動における労働婦人と家庭婦人――磯野論文の問題点」(『思想』1960年12月号)
――「磯野氏の価値論の中心部分は,労働力商品は(家事労働という労働の)労働生産物である,という一点につきる」。「しかし,労働力商品は労働生産物ではない。労働力の消費が労働であり,労働力の生産とは,労働つまり労働力の消費過程以外の労働者とその家族の生活そのものに他ならぬ」。「したがって,生活の中の家事だけを抜出して,それだけが労働力の生産に役立っていると考えることはできない。まさしく『出産や育児もその世代的再生産の一環として』,生活の一部であり,労働力生産の一部に他ならないし,余暇やリクリエーションもまたそうなのである。生活資料と家事のみの生活というのはありえないし,それだけで労働力の生産ができる訳でもない。とすれば,家事労働が価値を生ずるとすれば,睡眠やリクリエーションもまた価値を生ずることにならざるをえないであろう」。「磯野氏は……労働生産物でない労働力,生産のために労働が支出されないものに何故価値があるか,と反問されるにちがいない」。「しかしこれも正しくない。労働力の生産,つまり生活をするためには,一定量の生活資料が必要であり,それの造出のためには社会的に必要な労働が支出されねばならない。この労働が労働力の価値を決定するのである。いわば生活によって生活資料の価値が労働力の価値に転移するといってよい」(73~74ページ)。
5)磯野富士子「再び主婦労働について」(『思想の科学』1961年2月号)
――(高木氏に対して)「私も,労働力が家事労働によって生産されるとは考えていない。私が問題にしたのは,まさに生活資料の価値を造出するための労働,つまり,布地を下着,生米を米飯にする際に費やされた労働なのである」(98ページ)。
※生活資料を買いにいく労働(輸送費)も重要。食生活,家計,健康・衛生などにかかわる生活管理の労働も。生活資料の形成だけでなく,これら多用な家事労働によって夫の労働力は再生されている。
――「家事労働は,はたして同氏のいわれるような『生活』そのものであろうか。生活資料の価値を労働力の価値に転移させる過程としての生活とは,個人が生活資料を消費する過程であり,他人が代わりに食べたり眠ったりしてやるのでは役に立たない。しかし,前述のように,家事労働は他に移譲し得るという事実が,まず,この両方の根本的差異を示している」。「たしかに,家事労働が作るのは労働力ではなくて,生活資料である。それだからこそ,家事労働は睡眠やレクリエーションそのものではなく,それらに要する設備(その社会で必要と認められる範囲における)の生産に寄与した労働と同列に考えられるべきではあるまいか」(98~99ページ)。
※夫労働力の再生はそもそも「生活資料の価値」だけで成り立っているか。食事への配慮,風呂の湯をわかす,ガス代を支払いにいくなど,それらのサービスもまた夫の生活には不可欠。
※家畜が育てられ販売されるとき,その価値は家畜に必要な生活資料や生活設備からの価値移転だけではなく,当然これを「育てる」労働力への支払いがある。それがあるから,牧畜は生業として存在する。時間決めで販売される人間労働力においては,おなじことがいえまいか。ウシと人の違いは,せいぜい,自分の生活を律する能力の違いくらいか。
6)毛利明子「『労働力の価値』と主婦労働――“出稼ぎ賃金”構造のなかで」(『朝日ジャーナル』1961年4月9日号)
――「労働力の価値と主婦労働との関係をどう考えるべきかということは,磯野氏が意識されていたか否かは別として,賃金問題との関連で主婦労働をとり上げたことであり(……),この点はむしろあの論文の積極的な面として発展させるべきものと,わたしどもは考える。また労働力の価値と主婦労働との関係を,いまだにアイマイなままに放置したことが,今日の混迷の一因であり,この……をすっきりさせることは,経済学研究者に課せられた任務であろうと思う」(108ページ)。
※この点は,今日もあまり大きく変わっていない。
――「マルクスはこうもいう。『だから労働力の生産に必要な労働時間は,この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。すなわち労働力の価値は,労働力の所有者の維持に必要な生活手段の価値である』(……)。
労働力の価値を規定する労働が,労働力を再生産するために必要な労働だというなら,主婦労働は当然その労働にはいるはずだが,労働者が必要とする生活手段の価値と規定されると,労働力を生産している労働は,主婦労働などの直接的労働とは区別された,間接的な商品生産労働に還元して考えられているようである」(109~110ページ)。
※マルクスへの正確な理解が必要。「生活手段の価値」論は,労働力価値の第一の構成要素の説明であり,労働力価値全体に対する説明ではない。そこに狭く話を限定し,主婦労働を論ずることの無理。
――「日本の賃金は大河内一男教授のいわゆる『出かせぎ賃金』という特徴をもつものとなった。つまり労働者は農村における自家労働の生産物で生活し,いいかえれば農村の自給自足経済に支えられながら,他方で都市の資本家から受け取る賃金をその生活の補充にあてた。
したがって彼らの労働力の再生産は資本の商品で行われるのではなく,大きな部分を農村での自家労働によって生産された生活資料に依存したのであった(……)」。
「この低賃金を農村の自給経済(自家労働による)で補うことのできない都市の労働者たちは,これを妻や母の家事労働(自家労働)で補うよりほかに道はない」。「日本の場合は,あまり賃金が低くて生活すら十分できないため,主婦が家事に精を出しているのだから,それに報酬がないのは当然のこと。……『家計補助労働』なのである」(113~116ページ)。
※これはなぜ無償であるかの説明の論理。しかし,やはりここでも「家事労働(自家労働)」の担い手が,夫の賃金で生活しているという事実の分析がない。
【論争の問題点】
1)竹中氏の問題点。
――家事労働をUWだとしていること。マルクスの読み違え。
――そこから「労働力商品化体制」をマルクスが分析していないとすること。
――労資関係と男女関係のいずれもが「支配」関係としてとらえられているが,さらに両者の関係が明確になっていないこと。
2)二宮氏の問題点
――竹中氏がいう「労働力商品化体制」ではなく,「労働力商品化」から論理を出発させることで,竹中氏以上に宇野派的な『資本論』理解の一面をもってしまっていること。あたかも「純粋資本主義の論理」のような?
――資本主義における「家族」形態の変化という具体的事実への言及なしに,『資本論』の「論理」を現実にあてはめる機械的な型紙主義の傾向をもつこと。
――その結果(?)としての,資本主義は性差別にニュートラルだという現実離れの結論。性差別撤廃との闘いの課題は,剰余価値生産の追求との闘いではないのか。
1)二宮厚美「ジェンダー視点による社会施策の諸問題」(佛教大学総合研究所編『ジェンダーで社会政策をひらく』ミネルヴァ書房,1999年)より
――「資本主義の特質がまず何よりも労働力の商品化に求められるとすれば,ここでの議論も労働力の商品化から始めなければならない。私の印象では,ジェンダー論の多くは,マルクス主義フェミニズムの潮流も含めて,労働力の商品化の持つ意味や意義に無理解であったり,不十分な場合が多く,そのために資本主義そのもののとらえ方にも歪みや誤解が生る(ママ)ケースが多い」(99ページ)。
※なぜ「労働力の商品化から始めなければならない」のか。資本主義において労働力の商品化を推進するのは資本の再生産関係であって,「商品化」の論理などではない。結果として,宇野派への譲歩になっていないか?
――「商品交換の他方の当事者である資本家は,労働力という商品の購買者であるかぎり,通常の商品交換の売り手が男であるか女であるかに関心を持たないように,労働力商品の売買過程でも売り手の性差には第一義的関心を持たない。関心は取引の対象である労働力の価値,つまり安いか高いか,そしてその使用価値,つまり剰余価値生産に役立つかどうかに向けられる。そこでさしあたり労資が最初に向き合う労働力市場では,資本家は性差にたいしては直接の関心外,ニュートラルであるということができる」(99~100ページ)。
※「労資が最初に向き合う労働力市場」とは何のことか? 歴史的に「最初」? そうであればそこには,すでに女性に対する低賃金労働の強制などがあった。理論的に「最初」であれば,それは資本主義的労働市場における話ではない,それを自立して実在するといえば空想となるような労働市場のことか? そうであれば,そこから現実の資本主義における男女労働者への資本のふるまいの相違が導かれないのは当然だが。
――「重要なことは,資本を資本として誕生させる労働力の商品化が,同時にその内在的必然性として性差別や『近代家父長制』を生みおとすのではないということである。一言でいえば,資本は生まれながらにして性差別を内包しているわけではない。……だがそうかといって,資本が男女平等論者というわけでもない。資本にとっては両性間の平等や不平等は直接の関心事ではなく,どうでもよいことにすぎない。平等かどうかが問題になるのは,労働力商品の当事者の間の関係であって,労働市場では資本家と労働者が『法律上では対等な人』としてあらわれることが何より問題なのである」(101~102ページ)。
※後にみるように二宮氏は「踊り場の家族」としての「近代家父長制家族」を認めている。その踊り場の経過は「必然性」のないものだったのだろうか。いずれにせよ,現実の家族関係の変化,労働者家族の実態の変化から論理を組み立てるのでなく,氏のアタマにある「論理」にそって現実を裁断するような発想がありはしないか。
――「資本主義と家父長制の関係に対するマルクスの見方は,竹中・久場らとは対照的なものであった。その点にふれておこう。
まず第一に……労働力の商品化がその内的必然として労働力の再生産過程において家父長制を措定するものではないこと,これが『資本論』が労働力商品化体制に近代性分業家族を対置しなかった理由である。労働力の商品化でいいうることは,資本一般は労働者の家族形態や両性関係に頓着しないから,仮に労働者家族が伝統的家父長制家族をひきずり,性別役割分担をともなって労働市場にあらわれたとしても,それが労働力商品の市場原理に抵触しないかぎり,いわばまるごとそれらを包摂するということである。労働者家族の形態はそのかぎりで資本の論理から相対的に自立した問題としてあらわれる。
第二にただし,労働力商品化は伝統的家父長制家族と衝突し,矛盾しあう場面を迎える。……『今では資本は未成年者または半成年者を買う。以前は,労働者は彼自身の労働力を売ったのであり,これを彼は形式的に自由な人として処分することができた。彼は今では妻子を売る。彼は奴隷商人になる。』
妻と子の労働力商品化がなぜ家父による妻子の販売になるかといえば,言うまでもなく,それは労働者の家族が伝統的家父長制のもとにおかれたままだからである。……マルクスはこれを,労働力商品化と伝統的家父長制との間にあらわれる矛盾としたのであった」(107~110ページ)。
※頓着しないはずの資本がマルクスの時代から差別的低賃金を女にあてるのはなぜか。それを100年を超える長期にわたって維持するのはなぜか。
――「『資本論』の論理は竹中らの『労働力商品化→近代性分業家族成立』の推論にあるのではなく,『労働力商品化→妻子の労働力商品化→商品交換原理と伝統的家父長制との衝突→伝統的家父長制の廃棄』という推論をとる。ただし……後半分の『伝統的家父長制の廃棄』を進めるのは階級闘争にになわれた社会政策の役割である」(110~111ページ)。
※『資本論』の論理は,労働力商品化を出発点にすえる抽象的な論理展開を内包するものではない。歴史的な出発を論ずるのであれば,「資本の本源的蓄積」における女性の扱いを問題にすべし,理論的な出発を論ずるのであれば,無制限の剰余価値追求という資本の論理から始めるべし。
――「労働力の商品化とともに生まれる資本の運動は,その内的必然的産物として『近代家父長制』の成立をよびおこすわけではない。『資本論』をマルクス主義の原典とするならば,少なくともマルクス主義は『労働力商品化→近代家父長制成立』の見解に与するものではない。伝統的・古典的家父長制にせよ近代家父長制にせよ,それが内部に人格的支配従属関係を含むものである以上,労働力商品化の原理は形式的にみていずれの家父長制とも衝突しあうこと,これがマルクス主義の着眼するところであった」(113ページ)。
※『資本論』は現にあるイギリス資本主義の分析書。マルクスの着眼は「家族」に限定されず多様である。
――「資本主義の論理が以上のようなものであることは,ただちに資本主義が性差別的ではないとか,ジェンダー・エクイティであるといったことを導きだすものではない。ここまでに言えることは,労働力商品化体制とか資本の蓄積衝動とかにことよせて『資本主義そのものが性差別だ(ママ)』と必然視することはできない,ということである。ジェンダー視点から資本主義を分析することばきわめて重要であるが,それはジェンダー主義で資本主義観をつくりだすこととは別のことである」(123ページ)。
※資本が剰余価値の無制限の拡大を追求する手段として性差別を活用するとき,それを「資本主義そのものが性差別的だ」ととらえることの何が問題になるのか。
※二宮氏の議論は「労働力商品化」から性差別が導き出されねば,すなわち資本主義における性差別の必然性が否定されたと考えるもの。そもそもそれは何か証明されているか? また,なぜ「労働力商品化」が出版点にすえられねばならないかの理由は?
――「資本がつくりだす『男女の形式的平等と実質的不平等との間の矛盾』の打開を担う労働者階級は,できあいの古典的家父長制家族を歴史的出発点にして性差別解消の階段を登り始めることになるが,ことは簡単にはすすまなかった。階段を登り始めて,しばし到達したのはいわば中二階の踊り場であった。その踊り場の家族が『近代家父長制家族』とよばれるものである。この近代家族は……家族賃金を物質的基盤にして成立する。それは片働き労働者家族をモデルにした家族観にほかならない」(127ページ)。
※ここでは「近代家父長制」が「物質的基盤」をもって成立していることが指摘される。その物質的基盤とされる家族賃金は,資本主義の産物ではないのか? 結局,資本主義が自ら近代的家父長制を生み出す必然性をもつわけではないが,しかし,それを取り込むので,内部に解消に向かう「踊り場」として近代家父長制を保持するという議論。
※資本主義の形成が「19世紀型近代家族」を形成する。これが家族史研究の定説。さらにこれが労働者家族へと大衆化してできあがるのが「20世紀型近代家族」。日本においては「20世紀型」の普及は戦後のこととなるが。そこでは資本の戦略としての若年定年制が重要な役割を果たした。それはたんなる遺制のなせるわざではない。こうした具体的な歴史的事実を念頭においた分析が必要。机の上の論理でなく。さらに現代では先進国においては「M字型雇用」の解消がすすんでおり「20世紀型近代家族」でさえもが,過去のものになりつつある。
2)竹中恵美子「新しい労働分析概念と社会システムの再構築」(竹中恵美子編『労働とジェンダー』明石書店,2001年,竹中・久場監修『叢書 現代の経済・社会とジェンダー』第2巻)より
――「労働力の商品化をその成立の基礎条件とする資本制経済は,賃労働の再生産過程を労働力の商品化体制として組織している。……資本主義生産様式の下での家父長制の物質的基礎は,近代が生みだした公・私の二項対立により,UWを専ら女性役割とする性分業を労働力商品化体制として包摂している点にある」(28ページ)。
※竹中氏は家庭内の女性労働をUWとする限りで,マルクスの賃金論とそもそも異なる。マルクスはそこへの支払いがあるから労働力の再生産が可能になっていると分析したのだが,竹中氏はそれを見ず,マルクスはこれを市場外にゆだねた,市場外での「労働力商品化体制」をマルクスは見ていないとする。
――「なぜUWの担い手が,男性ではなく女性になったのか……。一つは,機械制大工業がひらいた工場体制の確立――家族を生産単位から消費単位へと転換し,母性機能をもつがゆえの女性の生産労働機能の剥奪(家父長制イデオロギーとの結合)――であり,二つは,資本の効率の原理の支配である。つまり労働力の再生産が,性分業を前提にした近代家族として組織された最大の理由は,それが一方で資本の効率性の論理に適うだけでなく,他方で男性の女性に対する権力的支配の論理に適うからに他ならない。そもそも家父長制は,独立変数として存在するものではなく,いかなる時代においても特定の生産様式と結びついてその独自的形態が与えられる。その点で資本制的家父長制は,性分業を包摂した労働力商品化体制の中に確立したといえる」(28ページ)。
※資本制的家父長制は家庭内の女性のUWによるとされる。「男性の女性に対する権力的支配」は,何によって必要とされたものであり,どのように形成されたのか?
――「二宮氏にあっては,労働力の商品化と労働力の商品化体制とが全く区別されていないばかりか,労働力の商品化体制が労働力の商品化にすり替えられている……。更に言えば,二宮氏の資本制の理解が,資本制=市場領域に限定されていることである。こうした資本制の理解に立つ限り,その中に家父長制を包摂する必然的論理が生まれようはずはない。……
まず第一点は,氏の資本制理解の狭さである。……資本は市場外で生産される賃労働を欠いては生産は成り立たず,賃労働もまた資本による労働力の購買を抜きにして再生産は成り立たない。この相互補完の生産体制こそ,自己再生産システムとしての資本制経済の本質に他ならない。
……『資本論』はあくまで資本一般の理論であり,分析の目的は,市場領域においていかに資本が自己増殖するかの一般的メカニズムを解明することに焦点が置かれている。……労働力商品がどう生産されるのかという労働力商品化体制そのものは,この中では直接的な分析対象となっていない。……二宮氏の誤りは,この労働力商品化と労働力商品化体制とを同一視し,労働力商品の生産過程が市場外にあること,そして労働力商品を生産する単位(家族)とその構造(UWの担い手=女性)を全く見ようとしない点にある。いわゆる伝統的経済学を一歩も出ない典型であると言わざるをえない。また二宮氏は,拙論は家父長制の物質的基礎を何ら説明していないと批判されるが,労働力商品化体制を欠いた氏の論理からその論拠が見えないのは当然であろう。……
第二点は,二宮氏が,家父長制は前近代的生産様式の下でのみ存在するとして,近代社会における家父長制をすべて封建的遺制とし,その物質的基礎を前近代的生産様式である自営業の存続に求める点である。……もしそうであるとすれば,性差別からの脱却は,資本制社会システムそのものを改革するための中心課題ではなく,脱封建制あるいは近代化のための課題ということに矮小化されてしまう。
第三点は,二宮氏の主張からすれば必然的な帰結として,近代家族は平等家族として措定されざるをえない。しかし他方で二宮氏は,片働き家族の中に『近代的家父長制』の存在を認めている。……二宮氏のジェンダー・エクイティの戦略として,家族賃金の解体は見えても,UWを女性役割としたジェンダー関係の理論的枠組みを欠く氏の論理から,そうした戦略が出てこないのはむしろ当然すぎる帰結であろう」(29~31ページ)。
※要するに竹中氏による二宮氏への批判は,「家庭」を見ていないということ。市場の外にある「労働力商品化体制」をマルクスがどこまで対象としていたかについては,賃金論への正確な理解が必要。ただし,家庭のなかの男女の上下関係などについては,たしかに直接の分析対象ではない。どこまでが視野におさまり,どこから先がはずれているかは1つの問題。
3)二宮厚美「財界の労働政策とジェンダー視点の再検討」(『前衛』2005年8月号)より
――「端的にいって,支配関係というのは,たとえば資本による労働者の支配,独裁者による住民の支配といった場合を想定すればわかるように,二極間の支配従属関係をさす。だが,差別というのは,たとえば男と女,白人と黒人,年長者と若年者など二項をならべておいて,企業が行政といった第三者が一方を上において優遇し,他方を下において冷遇する,という三極関係のなかで成立する概念です。……
この区別をわきまえていれば,現代社会(そして厳密な意味での資本主義社会一般)には,男女差別は存在しても,家父長制といった男による女の支配関係は成立する根拠がない。……近代家父長制の成立基盤を資本主義社会に求めて成功した例にお目にかかったことはありません。それは当然なので,資本主義の論理は家父長制を突き崩すことはあっても,その社会的基礎を用意したりするものではないからです。
……現代では,支配関係で問題になるのは,労資関係であって,男女関係ではありません。現代社会を家父長制概念でつかむと,この点がぼかされることになります」(109~110ページ)。
【論争の問題点】
1)竹中氏の問題点。
――家事労働をUWだとしていること。マルクスの読み違え。
――そこから「労働力商品化体制」をマルクスが分析していないとすること。
――労資関係と男女関係のいずれもが「支配」関係としてとらえられているが,さらに両者の関係が明確になっていないこと。
2)二宮氏の問題点
――竹中氏がいう「労働力商品化体制」ではなく,「労働力商品化」から論理を出発させることで,竹中氏以上に宇野派的な『資本論』理解の一面をもってしまっていること。あたかも「純粋資本主義の論理」のような?
――資本主義における「家族」形態の変化という具体的事実への言及なしに,『資本論』の「論理」を現実にあてはめる機械的な型紙主義の傾向をもつこと。
――その結果(?)としての,資本主義は性差別にニュートラルだという現実離れの結論。性差別撤廃との闘いの課題は,剰余価値生産の追求との闘いではないのか。
1)二宮厚美「ジェンダー視点による社会施策の諸問題」(佛教大学総合研究所編『ジェンダーで社会政策をひらく』ミネルヴァ書房,1999年)より
――「資本主義の特質がまず何よりも労働力の商品化に求められるとすれば,ここでの議論も労働力の商品化から始めなければならない。私の印象では,ジェンダー論の多くは,マルクス主義フェミニズムの潮流も含めて,労働力の商品化の持つ意味や意義に無理解であったり,不十分な場合が多く,そのために資本主義そのもののとらえ方にも歪みや誤解が生る(ママ)ケースが多い」(99ページ)。
※なぜ「労働力の商品化から始めなければならない」のか。資本主義において労働力の商品化を推進するのは資本の再生産関係であって,「商品化」の論理などではない。結果として,宇野派への譲歩になっていないか?
――「商品交換の他方の当事者である資本家は,労働力という商品の購買者であるかぎり,通常の商品交換の売り手が男であるか女であるかに関心を持たないように,労働力商品の売買過程でも売り手の性差には第一義的関心を持たない。関心は取引の対象である労働力の価値,つまり安いか高いか,そしてその使用価値,つまり剰余価値生産に役立つかどうかに向けられる。そこでさしあたり労資が最初に向き合う労働力市場では,資本家は性差にたいしては直接の関心外,ニュートラルであるということができる」(99~100ページ)。
※「労資が最初に向き合う労働力市場」とは何のことか? 歴史的に「最初」? そうであればそこには,すでに女性に対する低賃金労働の強制などがあった。理論的に「最初」であれば,それは資本主義的労働市場における話ではない,それを自立して実在するといえば空想となるような労働市場のことか? そうであれば,そこから現実の資本主義における男女労働者への資本のふるまいの相違が導かれないのは当然だが。
――「重要なことは,資本を資本として誕生させる労働力の商品化が,同時にその内在的必然性として性差別や『近代家父長制』を生みおとすのではないということである。一言でいえば,資本は生まれながらにして性差別を内包しているわけではない。……だがそうかといって,資本が男女平等論者というわけでもない。資本にとっては両性間の平等や不平等は直接の関心事ではなく,どうでもよいことにすぎない。平等かどうかが問題になるのは,労働力商品の当事者の間の関係であって,労働市場では資本家と労働者が『法律上では対等な人』としてあらわれることが何より問題なのである」(101~102ページ)。
※後にみるように二宮氏は「踊り場の家族」としての「近代家父長制家族」を認めている。その踊り場の経過は「必然性」のないものだったのだろうか。いずれにせよ,現実の家族関係の変化,労働者家族の実態の変化から論理を組み立てるのでなく,氏のアタマにある「論理」にそって現実を裁断するような発想がありはしないか。
――「資本主義と家父長制の関係に対するマルクスの見方は,竹中・久場らとは対照的なものであった。その点にふれておこう。
まず第一に……労働力の商品化がその内的必然として労働力の再生産過程において家父長制を措定するものではないこと,これが『資本論』が労働力商品化体制に近代性分業家族を対置しなかった理由である。労働力の商品化でいいうることは,資本一般は労働者の家族形態や両性関係に頓着しないから,仮に労働者家族が伝統的家父長制家族をひきずり,性別役割分担をともなって労働市場にあらわれたとしても,それが労働力商品の市場原理に抵触しないかぎり,いわばまるごとそれらを包摂するということである。労働者家族の形態はそのかぎりで資本の論理から相対的に自立した問題としてあらわれる。
第二にただし,労働力商品化は伝統的家父長制家族と衝突し,矛盾しあう場面を迎える。……『今では資本は未成年者または半成年者を買う。以前は,労働者は彼自身の労働力を売ったのであり,これを彼は形式的に自由な人として処分することができた。彼は今では妻子を売る。彼は奴隷商人になる。』
妻と子の労働力商品化がなぜ家父による妻子の販売になるかといえば,言うまでもなく,それは労働者の家族が伝統的家父長制のもとにおかれたままだからである。……マルクスはこれを,労働力商品化と伝統的家父長制との間にあらわれる矛盾としたのであった」(107~110ページ)。
※頓着しないはずの資本がマルクスの時代から差別的低賃金を女にあてるのはなぜか。それを100年を超える長期にわたって維持するのはなぜか。
――「『資本論』の論理は竹中らの『労働力商品化→近代性分業家族成立』の推論にあるのではなく,『労働力商品化→妻子の労働力商品化→商品交換原理と伝統的家父長制との衝突→伝統的家父長制の廃棄』という推論をとる。ただし……後半分の『伝統的家父長制の廃棄』を進めるのは階級闘争にになわれた社会政策の役割である」(110~111ページ)。
※『資本論』の論理は,労働力商品化を出発点にすえる抽象的な論理展開を内包するものではない。歴史的な出発を論ずるのであれば,「資本の本源的蓄積」における女性の扱いを問題にすべし,理論的な出発を論ずるのであれば,無制限の剰余価値追求という資本の論理から始めるべし。
――「労働力の商品化とともに生まれる資本の運動は,その内的必然的産物として『近代家父長制』の成立をよびおこすわけではない。『資本論』をマルクス主義の原典とするならば,少なくともマルクス主義は『労働力商品化→近代家父長制成立』の見解に与するものではない。伝統的・古典的家父長制にせよ近代家父長制にせよ,それが内部に人格的支配従属関係を含むものである以上,労働力商品化の原理は形式的にみていずれの家父長制とも衝突しあうこと,これがマルクス主義の着眼するところであった」(113ページ)。
※『資本論』は現にあるイギリス資本主義の分析書。マルクスの着眼は「家族」に限定されず多様である。
――「資本主義の論理が以上のようなものであることは,ただちに資本主義が性差別的ではないとか,ジェンダー・エクイティであるといったことを導きだすものではない。ここまでに言えることは,労働力商品化体制とか資本の蓄積衝動とかにことよせて『資本主義そのものが性差別だ(ママ)』と必然視することはできない,ということである。ジェンダー視点から資本主義を分析することばきわめて重要であるが,それはジェンダー主義で資本主義観をつくりだすこととは別のことである」(123ページ)。
※資本が剰余価値の無制限の拡大を追求する手段として性差別を活用するとき,それを「資本主義そのものが性差別的だ」ととらえることの何が問題になるのか。
※二宮氏の議論は「労働力商品化」から性差別が導き出されねば,すなわち資本主義における性差別の必然性が否定されたと考えるもの。そもそもそれは何か証明されているか? また,なぜ「労働力商品化」が出版点にすえられねばならないかの理由は?
――「資本がつくりだす『男女の形式的平等と実質的不平等との間の矛盾』の打開を担う労働者階級は,できあいの古典的家父長制家族を歴史的出発点にして性差別解消の階段を登り始めることになるが,ことは簡単にはすすまなかった。階段を登り始めて,しばし到達したのはいわば中二階の踊り場であった。その踊り場の家族が『近代家父長制家族』とよばれるものである。この近代家族は……家族賃金を物質的基盤にして成立する。それは片働き労働者家族をモデルにした家族観にほかならない」(127ページ)。
※ここでは「近代家父長制」が「物質的基盤」をもって成立していることが指摘される。その物質的基盤とされる家族賃金は,資本主義の産物ではないのか? 結局,資本主義が自ら近代的家父長制を生み出す必然性をもつわけではないが,しかし,それを取り込むので,内部に解消に向かう「踊り場」として近代家父長制を保持するという議論。
※資本主義の形成が「19世紀型近代家族」を形成する。これが家族史研究の定説。さらにこれが労働者家族へと大衆化してできあがるのが「20世紀型近代家族」。日本においては「20世紀型」の普及は戦後のこととなるが。そこでは資本の戦略としての若年定年制が重要な役割を果たした。それはたんなる遺制のなせるわざではない。こうした具体的な歴史的事実を念頭においた分析が必要。机の上の論理でなく。さらに現代では先進国においては「M字型雇用」の解消がすすんでおり「20世紀型近代家族」でさえもが,過去のものになりつつある。
2)竹中恵美子「新しい労働分析概念と社会システムの再構築」(竹中恵美子編『労働とジェンダー』明石書店,2001年,竹中・久場監修『叢書 現代の経済・社会とジェンダー』第2巻)より
――「労働力の商品化をその成立の基礎条件とする資本制経済は,賃労働の再生産過程を労働力の商品化体制として組織している。……資本主義生産様式の下での家父長制の物質的基礎は,近代が生みだした公・私の二項対立により,UWを専ら女性役割とする性分業を労働力商品化体制として包摂している点にある」(28ページ)。
※竹中氏は家庭内の女性労働をUWとする限りで,マルクスの賃金論とそもそも異なる。マルクスはそこへの支払いがあるから労働力の再生産が可能になっていると分析したのだが,竹中氏はそれを見ず,マルクスはこれを市場外にゆだねた,市場外での「労働力商品化体制」をマルクスは見ていないとする。
――「なぜUWの担い手が,男性ではなく女性になったのか……。一つは,機械制大工業がひらいた工場体制の確立――家族を生産単位から消費単位へと転換し,母性機能をもつがゆえの女性の生産労働機能の剥奪(家父長制イデオロギーとの結合)――であり,二つは,資本の効率の原理の支配である。つまり労働力の再生産が,性分業を前提にした近代家族として組織された最大の理由は,それが一方で資本の効率性の論理に適うだけでなく,他方で男性の女性に対する権力的支配の論理に適うからに他ならない。そもそも家父長制は,独立変数として存在するものではなく,いかなる時代においても特定の生産様式と結びついてその独自的形態が与えられる。その点で資本制的家父長制は,性分業を包摂した労働力商品化体制の中に確立したといえる」(28ページ)。
※資本制的家父長制は家庭内の女性のUWによるとされる。「男性の女性に対する権力的支配」は,何によって必要とされたものであり,どのように形成されたのか?
――「二宮氏にあっては,労働力の商品化と労働力の商品化体制とが全く区別されていないばかりか,労働力の商品化体制が労働力の商品化にすり替えられている……。更に言えば,二宮氏の資本制の理解が,資本制=市場領域に限定されていることである。こうした資本制の理解に立つ限り,その中に家父長制を包摂する必然的論理が生まれようはずはない。……
まず第一点は,氏の資本制理解の狭さである。……資本は市場外で生産される賃労働を欠いては生産は成り立たず,賃労働もまた資本による労働力の購買を抜きにして再生産は成り立たない。この相互補完の生産体制こそ,自己再生産システムとしての資本制経済の本質に他ならない。
……『資本論』はあくまで資本一般の理論であり,分析の目的は,市場領域においていかに資本が自己増殖するかの一般的メカニズムを解明することに焦点が置かれている。……労働力商品がどう生産されるのかという労働力商品化体制そのものは,この中では直接的な分析対象となっていない。……二宮氏の誤りは,この労働力商品化と労働力商品化体制とを同一視し,労働力商品の生産過程が市場外にあること,そして労働力商品を生産する単位(家族)とその構造(UWの担い手=女性)を全く見ようとしない点にある。いわゆる伝統的経済学を一歩も出ない典型であると言わざるをえない。また二宮氏は,拙論は家父長制の物質的基礎を何ら説明していないと批判されるが,労働力商品化体制を欠いた氏の論理からその論拠が見えないのは当然であろう。……
第二点は,二宮氏が,家父長制は前近代的生産様式の下でのみ存在するとして,近代社会における家父長制をすべて封建的遺制とし,その物質的基礎を前近代的生産様式である自営業の存続に求める点である。……もしそうであるとすれば,性差別からの脱却は,資本制社会システムそのものを改革するための中心課題ではなく,脱封建制あるいは近代化のための課題ということに矮小化されてしまう。
第三点は,二宮氏の主張からすれば必然的な帰結として,近代家族は平等家族として措定されざるをえない。しかし他方で二宮氏は,片働き家族の中に『近代的家父長制』の存在を認めている。……二宮氏のジェンダー・エクイティの戦略として,家族賃金の解体は見えても,UWを女性役割としたジェンダー関係の理論的枠組みを欠く氏の論理から,そうした戦略が出てこないのはむしろ当然すぎる帰結であろう」(29~31ページ)。
※要するに竹中氏による二宮氏への批判は,「家庭」を見ていないということ。市場の外にある「労働力商品化体制」をマルクスがどこまで対象としていたかについては,賃金論への正確な理解が必要。ただし,家庭のなかの男女の上下関係などについては,たしかに直接の分析対象ではない。どこまでが視野におさまり,どこから先がはずれているかは1つの問題。
3)二宮厚美「財界の労働政策とジェンダー視点の再検討」(『前衛』2005年8月号)より
――「端的にいって,支配関係というのは,たとえば資本による労働者の支配,独裁者による住民の支配といった場合を想定すればわかるように,二極間の支配従属関係をさす。だが,差別というのは,たとえば男と女,白人と黒人,年長者と若年者など二項をならべておいて,企業が行政といった第三者が一方を上において優遇し,他方を下において冷遇する,という三極関係のなかで成立する概念です。……
この区別をわきまえていれば,現代社会(そして厳密な意味での資本主義社会一般)には,男女差別は存在しても,家父長制といった男による女の支配関係は成立する根拠がない。……近代家父長制の成立基盤を資本主義社会に求めて成功した例にお目にかかったことはありません。それは当然なので,資本主義の論理は家父長制を突き崩すことはあっても,その社会的基礎を用意したりするものではないからです。
……現代では,支配関係で問題になるのは,労資関係であって,男女関係ではありません。現代社会を家父長制概念でつかむと,この点がぼかされることになります」(109~110ページ)。
5・女性労働の実態分析
5)マルクスは「女性労働者」をどういう視角から分析しているのか。
・長時間・過密労働,「過労死」などの男性や児童・少年労働者との共通する角度から。そこから女性・児童労働が果たす役割を積極的に評価しながら,男性労働者もふくめて労働時間短縮の重要性をいう。
・女性についてのみ「道徳的」な問題に特別の力点がおかれるという側面。「性道徳の二重規範」の一定の反映。
※女性にのみ一方的に「貞節」を求めるビィクトリア朝期の性道徳。
・未来社会の家族に向けて女性(児童も)の就労を必要とする。
※ただし,そのことについての叙述の量は多くない。「女が働くことによる問題ばかりを指摘していないか」という意見が出てくる。
※「資本主義は性差別にニュートラル」という見解もあるが,「妻子を売る」から男女の平等までには多くの闘いが必要。資本主義自身が性差別を内包しているのでは。
・次に『資本論』が労働現場の女性をどう分析したかについても,見ておくことにする。マルクスにとって女性労働者は,労働者種族のなかの例外ではない。その逆に,目前の資本主義における労働者たちのいわばひとつの中核としてとらえられている。Ⅰ435本文冒頭から436の3行目まで――あらゆる職種,年齢,性からなる労働者の群れ。Ⅰ768ページ冒頭から769ページの終わりまで――1861年の国勢調査で,イングランドとウェイルズの最大の労働者は「家内奴隷」(召使階級)であり,その多くは(数字で確認のこと●)女性であった。
・資本主義的蓄積の敵対的傾向について,一方における富の蓄積と他方における貧困の蓄積。マルクスの見た女性労働者たちは,その貧困を一身に体現するものとなっている。Ⅰ852~855ページ――鉱山・工場・農業での女性労働に対する「良妻」視角からの監督官の批判。――炭鉱女性の男性に比べて低賃金。Ⅰ1122ページ――栄養最悪な労働者のひとつに女子裁縫工など。Ⅰ803~807ページ――レース編みの家内労働における「女主人の家」での過酷な女性・児童労働(人数も)。――親が子どもを絞り上げ,子どもは親を見捨てる。・Ⅰ808ページの冒頭の6行――女性・児童労働濫用の限界が分散した家内工業を工場経営に転化させる。女性の低賃金,栄養不良とともに,下請経営者としての女性が女性や児童を苦しめること,さらには女を含む親が子どもを搾取するとの指摘もある。
・またマルクスがとりわけ女性労働者の分析において注目しているのは,その「道徳的堕落」「頽廃」の問題である。Ⅰ688の最後の2行から689の1行目まで――婦人労働の資本主義的搾取による精神的な萎縮。Ⅰ441の注(93)442の2行目まで――児童労働調査委員会報告の引用。炭鉱で働く若い娘や婦人の「品性の堕落の危機」。Ⅰ678の7行目から678の終わりまで――鉱山における婦人と児童の労働禁止,女性が馬の代りに運河船の曳航も。Ⅰ502の「しかし」の段落から503の本文終わりまで――リレー制度による15時間拘束の隙間時間が若い女性労働者を売春宿へ。Ⅰ797ページ後ろから7行目から798後ろから3行目まで――瓦製造マニュには女性の児童労働も。「ひどい道徳的堕落」が不可避(児童労働調査委員会報告書)。Ⅰ1167ページ――農村の住宅の過密が羞恥心と礼儀感覚を失わせる。関連してⅠ1170ページの注には「近親相姦」の指摘がある。Ⅰ1187ページ――農業「労働隊」における「公然交合」(フーリエ)は日常茶飯事。誤解のないように加えておけば,もちろんこれは女性だけの一方的な「堕落」などではありえない。だからこそマルクスは労働者階級としての貧困の蓄積の事例としてこれをあげている。「買春ツアー」や「風俗」という名の売買春が,日常生活に公然と組み込まれている現代日本を思うとき,これを日本資本主義の重要な構造的問題としてとらえる視角の大切さを痛感させられる。
12)マルクスの「家内労働」では職住一致であり,家父長制的な労働組織が家内にあった。これが機械化によって破壊され,一方に職住の分離が,他方に女性労働・児童労働という労働力価値の分割が行われていく。ただし,女性・児童労働については家父長が妻子を売る(416~9)という関係に注意。近代の労働者であっても契約の主体は男であり(野麦峠を思わせる),女性や子どもの自立・権利・男女の平等が現実となるのは,はるかに後のこと。それは資本とその国家に対する闘いによって初めて可能となったもの。
7)〔女性労働者の役割と実態・堕落〕
・Ⅰ435本文冒頭から436の3行目まで
――あらゆる職種,年齢,性からなる労働者の群れ。
・Ⅰ688の最後の2行から689の1行目まで
――婦人労働の資本主義的搾取による精神的な萎縮。
・Ⅰ441の注(93)442の2行目まで
――児童労働調査委員会報告の引用。炭鉱で働く若い娘や婦人の「品性の堕落の危機」。
※Ⅰ678の7行目から678の終わりまで
――鉱山における婦人と児童の労働禁止,女性が馬の代りに運河船の曳航も。
※Ⅰ852~855ページ
――鉱山・工場・農業での女性労働に対する「良妻」視角からの監督官の批判。
――炭鉱女性の男性に比べて低賃金。
・Ⅰ502の「しかし」の段落から503の本文終わりまで,
――リレー制度による15時間拘束の隙間時間が若い女性労働者を売春宿へ。
・Ⅰ797ページ後ろから7行目から798後ろから3行目まで
――瓦製造マニュには女性の児童労働も。「ひどい道徳的堕落」が不可避(児童労働調査委員会報告書)
・Ⅰ1122ページ
――栄養最悪な労働者のひとつに女子裁縫工など。
・Ⅰ1167ページ
――農村の住宅の過密が羞恥心と礼儀感覚を失わせる。
※関連してⅠ1170ページの注には「近親相姦」の指摘がある。
・Ⅰ1187ページ
――農業「労働隊」における「公然交合」(フーリエ)は日常茶飯事。
・Ⅰ803~807ページ
――レース編みの家内労働における「女主人の家」での過酷な女性・児童労働(人数も)。
――親が子どもを絞り上げ,子どもは親を見捨てる。
・Ⅰ808ページの冒頭の6行
――女性・児童労働濫用の限界が分散した家内工業を工場経営に転化させる。
・Ⅰ768ページ冒頭から769ページの終わりまで
――1861年の国勢調査で,イングランドとウェイルズの最大の労働者は「家内奴隷」(召使階級)。
6・マルクスは女性労働の拡大を望んだ
6)マルクスは工場法による「女性保護」をどうとらえていたか。
・マルクスは工場法を評価し,それにふくまれる女性保護を評価したことにより,女性の働く権利を奪う立場に立ったという議論がある。
・労働時間短縮による「女性保護」の視点。マルクスが見たのは女性10時間労働まで。他方で,女性の就労は家族関係の新しい発展にとって不可欠と考えていた。
※工場法の評価をめぐって。原剛『19世紀英国労働者階級の生活状態』(●●年,勁草書房)によると,資本家にも労働運動にも双方に「女性を家庭へ」という志向があった。女性の働く権利の問題では「後退」といえるが,他方で,社会そのものの存続にかかわる「利益」(子どもの権利も)の問題もあり,それら総体についての評価が必要。
・こうした資本主義による労働者への貧困の強制に抗して,労働者たちは労働組合をつくり,労働時間の改善に取り組んでいく。マルクスがとりわけ力をこめて語ったのは工場法の制定と改善を勝ち取る,標準労働時間獲得の闘いであった。工場法はまず,児童と女性の労働条件改善に取り組んでいく。
・女性に対する最初の労働時間規制は,1844年の12時間労働である。Ⅰ486最後の4行~487の4行目まで――1844年工場法で18才以上の女性労働を12時間に,夜間労働も禁止。「不平を言ったという事例は一つも聞かない」(工場監督官報告書)。Ⅰ493最後の6行~494の3行目まで――1833年までは朝5時半から夜8時半までが法的な「昼間」だった。Ⅰ489ページ――1847工場法で女性労働は11時間に,48年から10時間に。
・Ⅰ432ページ――12時間以上の労働は私生活の侵害であり,早死など労働者家庭の不幸をもたらす(報告書の引用のみ)。ここで報告書が語っているのは女性・児童労働者の苦悩だけではない。男性労働者に対してさえ,12時間以上の労働はきわめて過酷なものだった。現代日本では年間3000労働時間が「過労死」を生みだすひとつの目安といわれているが,12労働時間×6=72週労働時間,72×4=284月労働時間,284×12=3298年労働時間となる。労働密度や住宅・衛生・栄養事情,労働の内容や強度など単純比較はできないが。今日からみて非人間的な基準であったことは間違いない。
・工場法による女性保護が,労働現場からの女性排除を結果し,「近代家族」を増大させたとの見解がある。労働者階級における男女比の歴史的推移,女性比率の現象が見られる場合には,それが「保護」によって行われるようになったのか,あるいは戦後日本のように若年定年制などの差別政策が主たる原動力となったなどについて,時代や国によっての実証研究が求められる。「男は仕事,女は家庭」の「近代家族」が,欧米など発達した資本主義国で労働者家族にも普及していくのは20世紀になってから,日本においては戦後の事態であった。ただし,マルクスが女性・児童労働を未来への準備と重視していたことは,ここでも想起しておく必要がある。少なくとも,マルクスや『資本論』が労働現場からの女性排除を意図するものでなかったことは明白である。
・なお,マルクスは労働者階級における貧困の蓄積と,世代を越えた労働者種族の再生産との関係についても深い分析を与えている。Ⅰ454最後の1行~456の3行目――剰余価値への盲目的衝動は,労働日の精神的・肉体的限度を突破していく。資本は労働力の寿命を問題にしない。Ⅰ457の中央の段落――労働者が早死にすれば次の世代がすぐに必要となる。そこで資本は自らの利害にしたがって標準労働日を指向するように見える。Ⅰ463の冒頭から464の3行目まで――資本は社会によって強制されなければ,労働者の健康と寿命を顧慮しない。
7)工場法の評価をめぐって。原剛『19世紀英国労働者階級の生活状態』によると,資本家にも労働者にも双方に「女性を家庭へ」という志向があった。これは女性の働く権利の問題では「後退」といえるが,他方で,より大きな社会そのものの存続にかかわる利益をもった。
8)〔女性労働時間の制限〕
・Ⅰ486最後の4行~487の4行目まで,
――1844年工場法で18才以上の女性労働を12時間に,夜間労働も禁止。「不平を言ったという事例は一つも聞かない」(工場監督官報告書)。
・Ⅰ493最後の6行~494の3行目まで
――1833年までは朝5時半から夜8時半までが法的な「昼間」だった。
※Ⅰ489ページ。1847工場法で女性労働は11時間に,48年から10時間に。
・Ⅰ432ページ
――12時間以上の労働は私生活の侵害であり,早死など労働者家庭の不幸をもたらす(報告書の引用のみ)
※男性労働者に対してさえ,12時間以上の労働がどれだけ過酷であったかを示す。
9)〔未来の家族の準備〕
・Ⅰ838本文冒頭から839本文最後まで
――家内労働への規制は父権への干渉。大工業は「古い家族制度とそれに照応する家族労働との経済的基礎とともに,その古い家族関係そのものを解体する」。「大工業は,家事の領域のかなたにある社会的に組織された生産過程において,婦人,年少者,および児童に決定的な役割を割り当てることによって家族と男女両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基礎をつくり出す」。
・【マルクスの手紙】マルクスからクーゲルマンへの手紙1868年12月12日付「いくらかでも歴史を知っている者ならだれでも,大きな社会的変革は婦人を醗酵剤にしてしか起こりえないことも知っています」「社会の進歩は美しき性の社会的地位を尺度として,正確に測ることができるものなのです」。60ページ。--「美しき性」という表現の問題,ヴィクトリアニズムと?
ヴェロニカ・ビーチイ「女性と生産――女性の労働に関する社会学理論の批判的検討」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【性分業の理論がないため女性賃労働の分析が欠けている】
「家事労働や家父長制概念のような女性解放運動で重要な新しい理論上の検討領域が出てきたにもかかわらず,また女性の中にフェミニストの歴史家が実際に研究上の進出をしてきたにもかかわらず,資本制生産様式の中の女性の賃労働の位置づけの分析にみられる諸問題には,ほとんど注意が払われてこなかった。……女性の賃労働の分析自体は,女性運動においても,マルクス理論においても,理論上の検討課題とされてこなかった。……
……私は,マルクスの研究が家族および性分業の理論を欠くところから,マルクスは女性の労働の特殊性について適切な説明をすることができないと,したがって資本制生産様式において家父長制イデオロギーが性分業を再生産するために機能する方法を提示できないと,論じる。このようにマルクスは,労働過程の形態の分析と,性分業の分析を関連づけることができない。フェミニストにとって,マルクスのような理論家の著作を読み返し,とりわけフェミニストの問題を問いながら,性分業についてのフェミニスト分析と,労働過程のマルクス主義の分析を統合することが,緊急課題である。」129~132ページ
【女性労働分析にあたっては『資本論』の工業化と産業予備軍に注目する】
「この節で私は,『資本論』第一巻のマルクスの分析の二つの側面を検討する。私からみれば,それは資本制生産様式における女性の賃労働の位置を理解するのに不可欠である。その第一は,マルクスの労働過程の分析,とくにマニュファクチュアから近代産業への移行に関するマルクスの検討である。第二には,マルクスの産業予備軍の概念を扱う。」158ページ
【マルクス主義では男女の水平的分業が説明できない】
「本節では,近代産業への転換期における労働過程のマルクスの分析と,マルクスの産業予備軍の理論が,資本制生産様式における女性の賃労働を分析するのに用いられる方法を指摘しようとしてきた。私はまた,検討してきたそれぞれの箇所で,女性を家庭内へ閉じこめた性分業の存在と,家族が体現した家父長制イデオロギーが,女性労働が資本にとって有利であるために,どれほど前提とされなければならないかを示してきた。このことは,もし資本制生産様式における女性の賃労働の位置の特殊性が理解されうるとすれば,それは,性分業と家族からであって,(マルクスが実際に依拠したような)女性の『自然な』劣った身体強度という前提からではないことを示している。
ここで検討したマルクス主義分析の限界を評価し,そしてさらに今後も考察を必要とする問題を提示することも重要である。この時点で私が基本的に主張したいのは,家族-生産関係を中心に考察するマルクス主義者の解釈が,垂直的分業を説明できるということである。マルクス主義者の解釈は,女性が近代産業の中心において非熟練や半熟練の仕事に雇われる傾向と,資本制での産業化の副産物として全盛を極めた低賃金で過重労働の仕事に女性が雇われる傾向を,説明できるのである。しかしマルクス主義者の解釈は,水平的分業を説明できない。すなわち,彼らの解釈は,なぜある近代産業の中心では女性労働の需要が生じ,他の部門では生じなかったのかを,適切に説明できない。」171~172ページ
※それは基本的には男女の肉体の差,筋力と子育ての機能の相違から,くわえて「生命」への畏怖と結びついた女性崇拝や,逆の女性蔑視などの社会的意識から説明される? 絹産業と女性の深い結びつき,貨幣経済と女性との深い結びつきなど。
7・「価値以下の賃金」をめぐって
・マルクスがいう「価値以下の賃金」をめぐって,あらためて賃金論を述べておく。マルクスは労働力の価値に家族の生活費がふくまれるとしたが,実際に支払われている賃金(労働力の価格)は,その水準に達しておらず,その結果として「妻の生活費」あるいは「妻の家事労働」は支払われていないのではないか。こういう見解が主婦論争の中にあり,またこうした理解を可能とする「実際に支払われている賃金は価値以だ」という賃金論があるからである。結論からいうと,これは『資本論』の読み違えである。
・労働力の価値と価格の関係について,マルクスがいうところの骨格を追ってみる。Ⅰ677の冒頭から10行目まで――労働者の現実の賃金は,ときに価値以下に下がり,ときに価値以上にあがる。※Ⅰ1065ページ――産業循環における賃金の上昇とそのストップは,資本の拡大再生産を保証する枠内にとどめられる。※価値との乖離に関するひとつの考察。このように一般の商品と同様,労働力商品についても価値と価格は乖離する。価格が価値以下になる場合もあれば,価値以上となる場合もある。※Ⅲ370ページ――資本の過剰は賃金の高騰を生み,結婚を容易化し人口をふやす。そして,一般の商品と同様,需給が一致すれば両者は一致する。Ⅲ603ページ――需要と供給が一致すれば賃金は労働力の価値に一致する。もし,労賃が恒常的に「価値以下」ならば,労働力商品は価値法則の貫かないものになってしまう。
・さらに,マルクスは労働力の「価値以下」について,次のようにも述べている。Ⅰ295の中央の段落――労働力の価値の最低限界は,労働力を萎縮せずにおれないレベル。それは労働力の価値以下への価格の低下。Ⅰ544ページ最後の2行から546の本文終わりまで――労賃を価値以下に引き下げると正常な限界は踏み越えられ,労働力は萎縮して再生産される。相対的剰余価値生産が可能になるのは価値以下ではなく,価値そのものの低下が生まれるとき。Ⅲ1508ページ――労働力の「現実的価値」は肉体的最低限より高い,高さは肉体的・社会的欲求によって決まる。※これは「モラーリッシュ」の別の形での表現でもある。
・Ⅲ1512ページ――労賃が労働力の価値以下だが,肉体的最低限を上回っている場合。このようにマルクスの「価値以下」という用語法は必ずしも統一的ではない。そこには,1)肉体的最低限以下という場合と,2)そうではない場合の2種類の用語法がある(●おそらくそうでない場合は,未整理な段階での草稿,時期を確かめること)。しかし,すでに見てきた賃金による「労働力の再生産」の論理からすれば,マルクスの賃金論が,賃金を「再生産」を可能とする「正常」なものとしていることは明白である。
・ただし,マルクスには次のような文章がある。Ⅰ1025ページの終わりの5行から1026の2行目まで――実際の運動では価値以下への労賃の強制的引き下げが重要な役割を演じ,それが一定の限界内で労働者の必要消費元本を資本の蓄積元本に転化する。Ⅲ399ページ――賃金の価値以下への引き下げは経験的事実だが,『資本論』では分析しない。これが「実際の賃金は価値以下だ」あるいは「生活費以下だ」ととらえる見解の一つの根拠ともされた。
〔注〕単純化していえば,1)マルクスは労働力の価値を家族の生活費とした,2)しかしマルクスは実際の賃金は「価値以下」であるとした,3)だから「価値どおり」の賃金を求めることが賃上げ闘争であるといった理解である。さらに中にはこの「価値どおり」「本来」の賃金額を数字で示すという取り組みも行われた。
・しかし,『資本論』では分析しないというマルクスの見解は明らかに修正されている。それは第1部で分析されることになる。1030ページの本文冒頭から1031の本文最後まで――18世紀末から19世紀はじめ,イギリスの日雇い農業労働者には最低額以下の賃金を教区救済金でまかなうという絶対的最低賃金を押しつけた。Ⅰ1099の本文――潜在的過剰人口としての農業労働者は「つねに片足を受救貧民的赤貧の泥沼に突っ込んでいる」。Ⅰ1151のうしろから7行目から1152の最初の段落の終わりまで――借地農場経営者が支払う少ない賃金と,不足分を補う教区救済金。ここでは賃金は最低限以下,農村労働者は教区の農奴に。※Ⅰ1254ページ――16世紀の浮浪人の子どもは逃げれば奴隷にされた。※Ⅰ1255ページ――19世紀にも教区奴隷はいる。Ⅰ1240ページ――1765~1780年には最低限以下の賃金が強制され,これが貧民救済で補充された。Ⅰ1263ページ――救貧税によって農村労働者の賃金を,不可欠な最低限まで補足させる。
・見てわかるように,「価値以下」の賃金は「教区救済金」「救貧税」によって補足されている。つまり賃金と救済金の総額によって,これら農村労働者はかろうじてではあっても「労働力の価値」の範囲内の生活費を手にしていたのである。もし,そうでなければ彼らは数十年にわたって生きることはできなかっただろうし,ましてや労働者種族を再生することもできなかったであろう。
・あわせて,ここには,労働力の価値がいつでも必ず賃金によって支払われるものではないという見解もふくまれている。これは20世紀後半以後の労働力価値が賃金と社会保障によって支払われていることを理論的につかまえさせる重要なヒントとなっている。
4)〔価値以下,価値以上への労賃の変動〕
・Ⅰ677の冒頭から10行目まで
――労働者の現実の賃金は,ときに価値以下に下がり,ときに価値以上にあがる。
※Ⅰ1065ページ
――産業循環における賃金の上昇とそのストップは,資本の拡大再生産を保証する枠内にとどめられる。※価値との乖離に関するひとつの考察。
※Ⅲ370ページ
――資本の過剰は賃金の高騰を生み,結婚を容易化し人口をふやす。
・Ⅲ603ページ
――需要と供給が一致すれば賃金は労働力の価値に一致する。
・Ⅲ399ページ
――賃金の価値以下への引き下げは経験的事実だが,『資本論』では分析しない。
※これは明らかに変更されている。
・Ⅰ1025ページの終わりの5行から1026の2行目まで
――実際の運動では価値以下への労賃の強制的引き下げが重要な役割を演じ,それが一定の限界内で労働者の必要消費元本を資本の蓄積元本に転化する。
・Ⅰ1030ページの本文冒頭から1031の本文最後まで
――18世紀末から19世紀はじめ,イギリスの日雇い農業労働者には最低額以下の賃金を教区救済金でまかなうという絶対的最低賃金を押しつけた。
・Ⅰ1099の本文
――潜在的過剰人口としての農業労働者は「つねに片足を受救貧民的赤貧の泥沼に突っ込んでいる」。
・Ⅰ1151のうしろから7行目から1152の最初の段落の終わりまで
――借地農場経営者が支払う少ない賃金と,不足分を補う教区救済金。ここでは賃金は最低限以下,農村労働者は教区の農奴に。
※Ⅰ1254ページ
――16世紀の浮浪人の子どもは逃げれば奴隷にされた。
※Ⅰ1255ページ
――19世紀にも教区奴隷はいる。
・Ⅰ1240ページ
――1765~1780年には最低限以下の賃金が強制され,これが貧民救済で補充された。
・Ⅰ1263ページ
――救貧税によって農村労働者の賃金を,不可欠な最低限まで補足させる。
8・マルクス以後の課題
7)マルクスの歴史的制約と研究上の課題。
・「性道徳の二重規範」の影響にかかわる問題の確定。その理論的体系全体への影響は。
・専業主婦への「支払い」をめぐる議論を「賃金論(労働力再生産費論)」をヒントに発展させること。〈企業は労資関係,家庭は家父長制〉という二元論でなく。
※資本による主婦の「剰余労働」はあるのか? 夫の労働力再生産への寄与は労働力価値の創造なのか? かりに創造であったとしても夫への「支払い」という形式でそれは支払われているということか?
・マルクスの時代には「救貧法」はあっても社会保障はない。全市民的な権利としての社会保障が成立した今日では(不十分ではあっても),生活に必要な「支払い」の男女平等をもはや賃金問題に解消することはできない。子ども・高齢者との関係も考慮にいれつつ,賃金と社会保障の両面で経済的自立と男女平等の土台を構想する必要がある。
11)マルクスの歴史的制約を最後にいれる。社会保障と賃金とに発展したことを。その上で「労働力価値」の引き上げに関する戦略を加えていく。社会保障の充実は「生存権」の保障という,「価値」への支払いにとどまらない新しい論理を含んでいる。資本主義の現実分析だけでなく,未来に向けた生活向上の戦略を。
〔未来社会における「労賃」〕
・Ⅲ1538ページ
――労働者の個人消費に入り込む部分(労賃の一般的基礎)は拡大される。
※最低限・最上限はあるにしても,もはやそれは労資の力関係によって決められるものではない。
3)労働総研の賃金問題プロジェクト研究も念頭におく必要がある。「個別賃金」を第一義的にかかげることの問題性。「個別」とはいえ,額が大きくなれば「親子」の生活が可能になるが。男女差別の解消や,女性の自立できる賃金を求めることは当然だが,「個別」化が労働者家庭の総収入減や子ども・老人への「扶養」を解体させるものであってはならない。女性の経済的権利の充実と社会保障の充実をあわせて第一にかかげるべき。
4)戦後日本の労働運動は「福祉国家」ではなく「賃金闘争」に重点をおいた。西欧では経済成長におうじた福祉の充実がもとめられた。その歴史的な背景の相違という問題がある。ここは労働運動に対する問題提起として。
13)フランスにおける家族手当て・子育て支援の実際について。『女性のひろば』2005年8月号・山本論文。
8)〔補論〕今日的ないくつかの論点にかかわって。
・「家族賃金を解体して,男女平等の個別賃金へ」という戦略をめぐって。その際に,実際にある家族の総収入の増加(少なくとも低下しない)が視野にふくまれているか。あわせて子どもへの養育責任,高齢者の生活保障も考える。現状では,戦略的には,むしろ個別化よりも,1)男女の働く権利の同等化(男女共通の労働時間短縮を中心に),2)社会保障の充実が強調されるべきではないか。
・日本における社会保障の貧困をどう考えるのか。戦後日本の労働運動は「福祉国家」ではなく「賃金闘争」に重点をおいた。西欧では経済成長におうじた福祉の充実がもとめられた。その歴史的な相違の背景は何か。社会全成員への人権保障という視角の強弱か。社会民主主義思想とのかかわりは?
・2005年『労働白書』から。女性への支払いの少なさと少子化との相関関係は明確。
9・おわりに
不破哲三「女性が美しく輝く世紀に」(『ふたたび「科学の目」を語る』新日本出版社,2003年)
【エンゲルス『起源』の先駆的な見地】「一つは,人類の社会が始まった最初のころについての話でした。社会をつくった最初の時期には,人間は女性への差別というものを知らなかった。子どもを産む女性は,家族の中心で,社会的にも尊敬される立場を占めていました。……
この状態が壊れたのは,かなり昔のことで,いわゆる共同体社会の最後の時期――家族というものの形が,それまでの女性中心から男性中心に切り替わった時のことでした。それ以来,それまでは女性の役目だった,家庭のなかで舵をとる権限も,男性が独占するようになりました。エンゲルスは,その変化の過程をずっと調べあげて,これを『女性の世界史的な敗北』と名づけたのです。」110ページ
※何が「敗北」をもたらす最大の要因だったか? 今日の歴史学によって,その過程はどのように評価されているか?
「第二の点は,その差別から女性が抜け出すこれからの展望の問題です。
エンゲルスがこの本を書いたころは,差別の解消と言いますと,選挙権の問題とか,法律の上で男女の平等を実現するということが,中心問題でした。しかし,エンゲルスは,本当に女性への差別をなくすには,法律の上だけではダメだ,現実に社会のくらしのなかで男女の平等を実現できるようにする必要がある――この問題を初めて提起したのです。これはまさに,時代を超えたすばらしい見解だった,と思います。
では,現実に社会的に平等になるには,何が必要か。女性だけが家事に縛られている間は,本当の社会的な平等はない。経済であれ政治であれ,女性が社会の公の生活のなかで平等の地位を得る為は,子育てや家事などを社会全体の力でささえる,こういうところまで社会の仕組みを変えてゆく必要がある。エンゲルスはそこまで考えたのです。
法律の上の平等は,資本主義の時代でも獲得できるだろう。しかし,いま見たような社会的な平等には,もっと高度な条件が必要になる。それを実現することは,資本主義を乗り越えて社会主義に進むなかでこそ解決できるのではないか。実は,これが,男女の平等の問題について,19世紀の80年代に,エンゲルスという大先輩が明らかにした見通しでした。」111~112ページ
※法的(形式的)平等にとどまらない社会的(実質的)平等をエンゲルスは問題にした。それには家事からの女性の脱出が必要であるとした。この点については,今日の日本を重ねるなら,労働時間の短縮が以前として重要問題であることを加える必要がある。労働時間が短く,社会保障の整備がすすんでいる北欧などでこそGEM(ジェンダー・エンパワーメント指標)が高いことは,重要な歴史的証拠となる。
【エンゲルス『起源』を発展的に読み直すべき点】「まず……日本の女性は,それほど簡単には『敗北』しなかったということなんです。
……3世紀の卑弥呼という女性です。邪馬台国というところの女王でした。なぜ邪馬台国の王が女性だったのか?
その背景として,宗教的な事情とかいろいろあげられますけれども,ともかく日本列島に生まれた最初の国家が,女性の卑弥呼を王とする『女王国』であり,そういう国として中国の歴史の本(『魏志倭人伝』)で紹介されました。……
……11世紀に生きた,『源氏物語』を書いた紫式部という女性です。『源氏物語』は……女性が書いた,世界で一番古い小説だと言われています。女性が小説を書くということは,この当時,世界にはあまり例がないのです。しかも,日本では,女性の文学は『源氏物語』だけではありませんでした。清少納言の『枕草子』とか,当時の女性の文学活動は,多方面にわたっていました。……
実は,11世紀に女性の文学活動がこんなに盛んだった根底には,『ひらがな』の文化というものがあったのです。その前の時代には,日本人は,自分たちの言葉を表すのに,すべて漢字を使っていました。『万葉仮名』といって,『いろはにほへと』を全部漢字で表していました。それから百年か二百年かかって『ひらがな』が生み出されました。女性が創ったとは言えませんが,『ひらがな』が当時『女手』と呼ばれていたことからいっても,『ひらがな』文化を発展させ普及していった担い手が女性であったことは,間違いないと思います。それがやがて,男性・女性の区別がない日本社会の共通の文化に発展したわけです。……13世紀になりますが,北条政子という女性です。彼女は,日本最初の武家政権である鎌倉幕府の最初の将軍,源頼朝の妻でした。頼朝が死んでから,“尼将軍”と呼ばれて,幕府の政治の中枢をにぎりました。
ただ形だけの中心ではないのです。当時,京都の天皇政権が幕府打倒の戦争を決めて,鎌倉に攻めかかろうとしたことがありました(承久の乱)。鎌倉幕府は大変動揺したのですが,その時,集まった武士たちを,声涙ともにくだる大演説で叱咤激励して立ち上がらせ,ついに天皇政権の軍を打ち破ったのは,尼将軍政子でした。……
こうした事情も,彼女だけの問題ではありませんでした。同じ武家社会でも,後代とは違って,当時は,女性でも,土地や財産をもつ権利がありました。鎌倉幕府には,いろいろな地方を支配する地頭という重要な役職がありましたが,それに任命された女性もいました。このように,女性が一人前の権利をもつ存在として認められていたことの,きわだった現れが,尼将軍政子だったのです。
こういう状態がどこで変わったのか。歴史家の研究によりますと,南北朝内乱というものがあった14世紀以後のようです。そして,それが最後には,江戸幕府と明治以後の専制政治のもとで,がんじがらめの女性差別の体制に仕上げられてゆきます。」112~115ページ
※なぜ,日本では「敗北」の時期が,ヨーロッパなどとこれほどまでにずれたのか。なぜ14世紀以後なのか,なぜそれが明治まで時代をおって深刻化していったのか? それは日本固有の特徴なのか? 東アジアではどうか,たとえば中国では? また,これほどまでのずれをゆるすようなものであれば,私有財産の発生を「敗北」の普遍的原因とすることには何らかの留保が必要ではなかろうか?
「法律上の平等という点では,20世紀はたいへんな躍進を記録した時代でした。20世紀のはじめには,女性が参政権をもっていたのは,国としては,ニュージーランド一国だけでした。しかしいまでは,世界中で,女性が参政権をもたない国はほとんど見当たりません。それだけの大変化が起きました。
それにくわえて重要なことは,世界の大部分はまだ資本主義の段階にあるのに,エンゲルスが問題にした社会的平等の実現が,いまや世界的な課題になってきた,ということです。
1979年,いまから23年前に,女性差別撤廃条約というものが,国連総会で採択されました。この条約のなかには,120年前に,女性の社会的平等のためにこれが必要だとエンゲルスが強調した目標が,国際条約の取り決めとして,うたわれているのです。
――子どもを育てることには,男も女も,社会全体がともに責任を追う必要がある。
――社会と家庭で,男が伝統的にになってきた役割を,女性の役割とあわせて変更することが,男女の完全な平等のためには必要である。
――親が家庭への責任(家事・育児)と,職業上の責任および社会活動への参加とを両立できるように,必要な社会的サービスの提供,たとえば保育施設のネットワークの設置などを,国が促進してゆく必要がある。
こういうことが,条約のなかに,明文で書きこまれているのです。
前にお話したように,エンゲルスは,そういう社会的仕組みの実現は,資本主義の段階では無理だろう。社会主義になってこそ見通しが開ける,という考えを述べていました。ところが,女性差別撤廃条約では,その課題が,すでに資本主義の段階で世界の共通課題として打ち出されるにいたったのです。
私は,この条約が結ばれたとき,女性解放の運動が,社会の変革の運動を追い越した,そう言ってよいほどの意味があると思って,条約の内容を読みました。」117~118ページ
※社会的(実質的)平等が,資本主義の枠内において世界的に実現の課題となっている。「女性解放運動が,社会変革の運動を追い越した」ということは,裏を返せば,エンゲルスにとっては「社会変革」がより間近であるとの予測があったということ。他方で,資本主義から未来社会へむけての発展が,資本主義の枠内における民主的な改革を不可避とする道を歩むようになり,実質的平等の条件づくりが民主的改革の深度に左右されるようになったといこと。これらはエンゲルスが予期しなかった社会発展の展望といえる。
文献注
1)マルクス主義フェミニズムのマルクス理解にかかわるいくつかの論点(川東英子「マルクス主義フェミニズムに関する一考察――上野千鶴子氏の見解の批判的検討」/竹中恵美子編著『グローバル時代の労働と生活――そのトータリティを求めて』ミネルヴァ書房,1993年を活用して。ページ数は基本的に同書による。上野氏の見解の引用については,同『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』岩波書店,1990年による。)
2)上野千鶴子編『主婦論争を読む1・2全記録』勁草書房,1982年による。
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伊藤セツ「世帯・家族・個人と,階級・ジェンダー――1990年代前半の社会政策学の動向から――」(西村ひろ通・竹中恵美子・中西洋編著『個人と共同体の社会科学』1996年,ミスルヴァ書房)
・【家族賃金をめぐって】「中川(スミ)氏は,特に,『家族賃金』の考え方の源泉を,マルクスの労働力の価値論に求めるのは正当ではないとし,『マルクスは,労働力の価値を労働者家族の再生産費としてとらえたが,それは,彼が,家族単位の労働力の再生産をあるべきものとして理念的・規範的にとらえたからではなく,それが当時の労働者の社会的平均的な再生産条件であったからである。現在ではこの条件は変化しつつあり,その意味で家族再生産費としての労働力の価値規定とその分割論は歴史的限界をもつ』ことを,指摘した。
中川氏の説には私も大方同意するが,氏も『家族賃金』という概念を定義せず,いつどこで現れたかについての言及はなかった。『家族賃金』要求が19世紀後半のイギリスの熟練工の労働運動の中に現れた歴史的背景や労働者の階層性の検討(吉田恵子「19世紀イギリスにおける家族賃金」『明治大学短期団学部紀要』第51号,1992年,参照)を抜きにして,フェミニズムの側からのマルクス主義批判のキーワードとなりつつある『家族賃金』という用語を,そのまま用いることは安易すぎる。
また中川氏は,家族再生産費としての労働力の価値規定とその分割論の歴史的限界についてふれ,その限界とは労働力の再生産のある部分が社会保障によって充足されることをさすと説明され,このような変化に対応するにはマルクスの理論は限界があるという意味のことを言われた。しかし,このことは,すでに,黒川俊雄氏によって『労働力再生産費の社会化』という理論が提起されていた(黒川俊雄『労働力再生産費の「社会化」について』『経済』1973年3月号)ことと関連づけて発展させるべき論点であろう。」114ページ
※中川氏がいう「歴史的限界」の具体的内容はどのようなものか? 社会保障の成立? そうであれば確かに「労働力再生産費」論の発展の問題。
※「ファミリー・ウェイジ」については原剛氏を参照のこと。「家族賃金」論という用語を安易に借用しない。キチンと自分なりに定義づけをして行うということ。「家族賃金思想」なのか,「家族の再生産費分析」なのかということだろうが。
【労働力価値の分割をめぐって】「続いて『共働きの一般化は,他方で労働力の『価値分割』をもたらすことになる。――『価値分割』は,一つの『価値』がまずあって,それが賃金として現象する際に二つに分割されるという意味なのか。それとも,そもそも『分割された価値』として,賃金の本質に関わる問題なのか。そのことは,労働力の再生産の単位をいかに考えるか,という問題とも深く関わってくる。前者は,その単位を基本的には『家族』におくことを想定し,後者は必ずしも『家族』におく必要はなく,基本的には『個人』である。賃金理論においても,『価値分割』の理論は二つに分かれるように思われるが,労働力の再生産の単位についての問題は,なお不明確である』(江口英一氏等『現代の労働者階級』124ページ)」115ページ
※「価値分割」論への理解の「不明確」。しかし,2つの考え方のいずれもが「規範論」に立っている弱点をもちはしないか? 現にある労働者階級の労働力再生産を分析した結果として,複数収入が日常となっているという分析がマルクスにあったということを,それをそのまま認めるべき。「あるべき賃金」論は,マルクスのものではない。
【個別単位化をめぐって】「フェミニズム一般は,個人単位の社会政策を支持するが,伊田広行氏は,『シングル単位論観点による社会保障制度・税制度の再検討』(竹中恵美子編『グローバル時代の労働と生活』ミネルヴァ書房,1993年)の中で,家族単位制は家父長制を温存するものであり,『性差別をなくし,本当に多様性を認めるためには,女性および男性が結婚しているか否かに関わりなくひとりの人間として社会的に出現できる条件を作る必要があり,そのためには,異性愛カップル(家族)を共同体視あるいは単位視してそれを前提とするのではなく,シングル(個人)を単位とするような政策体系に変更しなければならない』という。氏は,結婚し家族をつくることを標準・前提とすることを批判し,『シングル単位は,より大きいグループ(家族)を作る自由も論理的に許容するが,家族を前提とすること(カップル単位)は,より小さいシングル生活を選ぶ自由を阻害する』と言われた。」117~118ページ
・「個人単位社会政策が理想なのではなく,個人も世帯も不利益をこうむらない社会政策を目指すということが理想なのであり,問題がすりかえられるべきではない。」118ページ
※個人が尊重されるということと,家族とを対立させることは誤り。人間社会が持続するためには子どもの生産が不可欠であり,家族をもって子どもをつくり育てることを選択する人たちの生活は保障されねばならない。とりわけ「個人」に解消されがたい子どもと高齢者の人権保障は,親子のかかわりを強く求めずにおれないものとなる。成人男女の関係のみから社会制度を論ずることの一面性に陥らないように注意する必要がある。
※なお,伊藤セツ氏の特にマルクス主義にかかわる見解はその後,大きく展開しているように見える。
水田珠枝「社会主義と女性解放――その理論と現実」(『日本の科学者』1992年9月号)
【『資本論』への評価】「マルクス主義は基本的に,生産を再生産より重視する思想として形成された。……かれが労働者の典型としたのは,『資本論』(第1巻,1867年)で描いているように,生産に従事し自分の賃金で妻子を扶養する男性家長であった。かれの分析は,資本主義的生産における家長である男性労働者の搾取に重点がおかれ,家族という再生産の領域における女性の差別と抑圧にはほとんど切り込まなかったのであり,したがってそれは,男性労働者には解放の理論であっても,家族に拘束される女性にとっては同じような意味を持たなかった。
このようなマルクスの理論から直接に,女性解放の理論を導きだすのはむずかしい。商品化されない家事労働を負わされ,男性に部分的にあるいは全面的に扶養されている女性の状態を,疎外論や剰余価値論を適用して説明するのは困難であり,生産力の直接の担い手でない女性を,社会変革の主体に位置づけることはできない。しかもマルクスの場合は,それ以前の時代から女性解放論の支柱とされてきた『平等』や『人権』という概念を,引き継ぐことはしなかった。かれにとって『平等』や『人権』は,資本主義体制の枠内のブルジョワ的要求だったからであり,この点でもかれの理論から女性解放論を構築するわけにはいかない。
19世紀も末に近付き,参政権,売買春禁止,高等教育の要求などの女性運動が展開される時代になると,マルクス主義も女性解放を組み入れる必要にせまられた。それはマルクスの死後,エンゲルスの仕事として残された。エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』で,歴史を規定する要因は生産と再生産であるといい,生産力の発展を歴史の推進力としてきた唯物史観に,女性が深くかかわる再生産というもうひとつの軸を導入し,人類史を次のように説明した。
……エンゲルスの歴史観について,ここで注目したいのは,ひとつは,生産力と生産関係を中心に歴史を説明してきた唯物史観に,再生産を導入したことであり,次に,女性解放には,女性の社会的労働への従事による経済的自立が必要条件であるとしたことであり,第三に,再生産の組織としての家族は,歴史の過程で次第にその意義を縮小していくと認識したことである。かれは人類の歴史を,血縁関係が重要な意味を持っていた時代から,家族が個別化し,家族の権威的性格が女性の家庭外労働によって弱まり,さらに家族が経済的機能を失う過程とみた。そしてその過程は,女性が解放される過程だと考えたのである。」42~43ページ
※『資本論』を何も読まないマルクス理解? あるいは解説書ですませているのか? 1)『資本論』は女性労働者をあれだけ分析しており,大量の女性労働者の出現による男性賃金の低下や,労働者家族における収入源の複数化現象を「価値分割」の名で分析している,2)『資本論』には労働力の生産とともに再生産の分析がふくまれている,したがって,それがエンゲルスによってはじめてマルクス主義に持ち込まれたという評価は事実に反する,3)マルクスが家族を分析しなかったという点については,何をマルクスに期待するかかの相違という問題があるが,しかし,労働者家族の「個人的消費」が社会的には資本主義の再生産の重要な契機となっていることが分析されている,これは家庭を単純に「私的」とのみとらえることへの先駆的な警告ともなっている,4)女性解放のために女性の経済的自立が必要なことは,『資本論』の中に語られている,5)「平等」や「人権」をブルジョワ的要求だとするような主張は『資本論』のどこにもない。5)の論点は一時期のレーニンには根拠をもつかも知れないが,いずれにせよマルクスそのものをまじめに検討したうえでの評価とは考えがたい。
水田珠枝「女性史における家族・階級・意識――米田佐代子氏への疑問」(『歴史評論』1981年3月)
【エンゲルスへの評価をめぐって】「エンゲルスは,『家族,私有財産,国家の起源』で,歴史の発展を規定する要因として生活資料の生産と生命の生産とをあげている。男性と女性は,性的差異のために,このふたつの生産に異なったかかわりあい方をする。産む性である女性は生命の生産の負担を負い,生活資料の生産を中断しなければならない時期があるのにたいし,男性は中断することなくエネルギーをそれに投じることができる。生産力の上昇が機動力となり,人類が原始的生活から脱却してある段階にまで達すると,生活資料の生産で優位にたつ男性は,生産物や生産手段を掌握し,女性を従属的地位におくようになる。この男女の支配服従関係を固定化し再生産する組織が家族であり,男性支配のこの家父長的家族は,古代から現代にいたるまで継続してきた。この男女の支配服従関係はまた,支配する性と支配される性の性格を形成し,それぞれの性格をあたかも男女の生まれながらの本性であるかのようにかたちづくってきた。奴隷制,封建制,資本主義という階級社会は,このような性差別を内包する家族を基体として成立する。」18ページ
※エンゲルス『起源』につづけて述べられているが,エンゲルスが決定的に重視している「女性の世界史的敗北」の論理が紹介されない。また,家族を支配の再生産装置という視角からしか紹介しない。これもまたエンゲルスの紹介あるいは敷衍としては,実に妙である。
【エンゲルスのビクトリアニズム】「家族擁護の立場を主張する米田氏は,エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』での機械制大工業による家族生活解体への批判を援用する。エンゲルスは,『婦人の労働は,まず第一に家族を完全に解体させる』といい,女性労働の圧力による男性労働者の失業は,『妻は家族を養い,夫は,家にいて子守りをし,部屋の掃除をし,料理をする』というさかだちした家族をうみだし,『両性およびそのなかにある人間性を,最も卑劣なやり方ではずかしめている』という。米田氏は……婦人運動史はこの視点から分析すべきだとする。……
わたくしは,人間らしい生活の要求は,既存の家族とその生活擁護という方向をとった場合,『真の意味での人間らしい生活』へむかわず,性差別を温存してしまうといいたいのである。米田氏が家族擁護論を主張するのは,性差別が家族内部で再生産されるという事実を無視あるいは軽視しているからなのであり,こうした立場からは,性差別の克服,女性の経済的・精神的自立,女性解放への展望,さらには『真の意味での人間らしい生活』への前進は期待できない。エンゲルスの家庭生活崩壊批判についていえば,男性労働者が家事をすることを人間性をはずかしめるとしたことは,エンゲルスもまた性別役割分業を人間本来の姿としたヴィクトリア時代の風潮から自由でなかったことを物語るものだろう。」22ページ
※児童・女性労働が男性の失業者を生み,古い家族関係を転換させる。それがどんなに恐ろしいことのように見えても……というのはマルクス『資本論』の一節。他方,初期のエンゲルスにビクトリアニズムの浸透があるかどうかは,マルクスその人についてと同様に検討してみるべき課題ではある。
※エンゲルス『状態』についても調べてみること。ただし,彼らにも理論的成長があることを含みこんで。
水田珠枝「女性解放の視点(3)」(『未来』1980年6月号?)
【家族賃金をめぐって】「ハートマンがこの論文でとり上げた『家族賃金』の問題は,マルクス主義が家父長制を否定しきれないものを内包していることを示唆している。かの女は,妻子を養える『家族賃金』は,女性の労働力の利用にたいする家父長制の要求と資本主義の要求との妥協の産物であり,『家族賃金』によって,労働者階級の女性は経済的,精神的に男性に従属させられているとみる。マルクス主義でいう労賃とはまさにこの『家族賃金』なのであり,ひとりの労働者の賃金を種としての労働者の再生産費とすることのうえに,マルクス経済学は成り立っている。したがって,この経済学を基礎とするかぎり,マルクス主義は家父長制を拒否しえないのであり,フェミニズムを統合する場合も,家父長制の問題をさけなければならなくなる。家父長制を破壊する社会主義をというハートマンの要求は,かの女が意識していると否とにかかわらず,『資本論』体系の組みかえをせまっていることになる。」23ページ
※とんでもない誤解。マルクス主義を「家族賃金思想」だとする。この人はじつはマルクスを読んでいないのではないか? マルクス主義者の解説書の悪影響か?
水田珠枝「女性解放の視点(4)」(『未来』1980年7月号?)
【家族に対するマルクスの無関心】「マルクス主義者だと称するかの女たちのマルクス批判は手きびしい。かの女たちは,『マルクスの作品には,女性特有の従属を分析しようという関心はほとんどない』といっている。女性の従属には,男性による女性の労働の支配のほかに,性,生殖,身体の支配についてマルクスはほとんど注目していない。初期の作品『ドイツ・イデオロギー』(1845~46)では,人間の社会的活動として,必要を充足する手段,あたらしい必要の生産,生殖という三つの契機をあげているけれども,第三の生殖については『自然的なもの』として歴史分析の外におかれている。『資本論』(1867年)においても,労働力の再生産費は問題になっても人間を再生産する諸関係は重視されず,生殖は労働者の本能にまかせられている。女性が労働と生殖という二重の役割をにない,女性労働者をふくめての労働者階級の団結がおおきな問題であるのに,マルクスはそれを認識せず,『共産党宣言』でかれが団結を訴えている『万国の労働者』は,間違いなく男性なのである。
このほかにも女性の問題についてのマルクスの無理解ぶりを列挙したのち,著者たちは,『マルクスは,人間の再生産という社会関係に独自の内容を認めなかったので,女性を資本と家父長制の両方の関係にではなく資本との関係においてのみみた。したがって,こういう女性の地位の分析に矛盾という感覚は存在しない』『マルクスは,人間の再生産という社会関係での女性の従属を理論化するための,概念上の道具も何も提供していない』といい,『これらの理由によって,マルクシスト・フェミニスト〔著者たち〕は,その理論におおくの不十分さがあるとしても,エンゲルスに帰らなければならない』とする。」37~38ページ
※「性・生殖・身体の支配」は,直接的な性暴力を分析しないという点ではそのとおりだが,なぜそれが可能になるかという社会的背景の分析は,やはり経済的・政治的なものではないのか。
※『ドイツ・イデオロギー』での「生殖」は果たして「歴史分析の外におかれている」といえるか。
※「生殖が労働者の本能にまかされている」のはその通りだが,その本能の発揮が資本主義においてどのような社会的意義をもつかについては分析されている。そのこの意義を水田等はとらえそこなっていないか。
※「エンゲルスに帰らなければならない」論への批判は,『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクスの研究整理(牧野論文)による。なぜマルクスが「家父長制」(男性支配)を見なかったなどと平然と語れるか。『資本論』を読んでいない。
水田珠枝「女性解放の視点(5)」(『未来』1980年8月号?)
【マルクス評価】「このようなマルクス主義の機能主義化の源流は,マルクス自身の家族にたいする消極的姿勢にもとめることができると著者はみる。マルクスは『資本論』で,労働力の再生産は問題にしたけれども労働力の再生産の場であるプロレタリア家族を分析しなかったし,労働力の価値については論じたけれども家事労働についてはとり上げなかった。しかもマルクスが『資本論』を執筆している時期は,女性も子供も労働市場にひきだされ,女性と子供のプロレタリア化が進行していたにもかかわらず,かれは現実と違って,妻も子供も働かない家族をプロレタリア家族の典型として『資本論』に登場させたのである。」39ページ
※「プロレタリア家族の典型」論については,まるで事実と異なる。そのような思い込みを水田に与えたものはなんなのだろうか?
水田珠枝「女性解放の視点(7)」(『未来』1980年8月号?)
【マルクスと家事労働論】「著者によれば,前資本主義的社会では,経済関係と両性関係は重なりあっており,近親組織は生産組織であった。ところが商品生産が一般化すると,近親による生産組織は崩れ,家庭はもはや生産の場ではなくなり,私的領域,男女の愛と性の領域となった。男性の場合は,生活が生産の場と私的領域である家庭とに二分し,かれは社会的生産活動で失われた人間性を家庭での女性との関係で回復しようとする。女性の場合は,生活が家庭に限定され,男性の人間性回復の手段となり,手段化された(女らしい)人間として自己を形成する。……」27~28ページ
※その「男性の人間性回復」の場が,また「手段化された」女の生活の場が,同時に,資本の再生産過程の一環であることをマルクスは『資本論』で分析している。その意義は果たしてとらえられているか?
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A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』(勁草書房,1986年)
アネット・クーン/アンマリー・ウォルプ「フェミニズムと唯物論」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年))
【唯物論とマルクス主義者の区別,唯物論の貢献】「フェミニストの理論研究をめぐる議論のうち,私たちはマルクス主義の理論,とりわけ唯物論の独自の理論的貢献をとり上げている。唯物論とはエンゲルスの定義を採用すると,
唯物論的な見解によれば,歴史における究極の規定的要因は,直接的生命の生産と再生産とである。しかしこれは,それ自体さらに二とおりにわかれる。一方では生活資料の生産,すなわち衣食住の諸対象とそれに必要な道具の生産,他方では人間そのものの生産すなわち種の繁殖が,これである(Engels,1972,p.71:邦訳8頁)。
……マルクス主義者,とりわけ古典的なマルクス主義者の分析の出発点は,唯物論者の分析とは反対に生産様式,ことに資本制生産様式の運動と変容の法則,および価値の生産とこの様式の中で資本が蓄積する方式を説明することにあった。私たちの視点からは,女性の従属は,生産および再生産様式に対する女性の関係のしかたによって歴史的に分析されるべきであるのに,この課題が,伝統的なマルクス主義思想の中ではほとんどとり扱われてこなかったことに問題があるといえる。……この状況は,まさにヴェロニカ・ビーチイが『マルクス主義を修正しない限り,マルクス主義者が女性の従属を正しく検討するのは不可能だ』と指摘したとおりである。たとえば,性分業を分析に正しく導入する試みを通じて,マルクス主義の修正が迫られている。本書の論文が検証しているように,ほんどのマルクス主義的分析は,女性をマルクス主義の問題設定の中での一般的なカテゴリー,すなわち階級関係,労働過程,国家等に解消することによって,女性の抑圧の特殊性を明らかに見逃してしまっている。なぜならマルクス主義的分析は,しらずしらずの内にその必要はないことを前提にしてしまっているからでる。その前提とは,歴史上のいかなる時点のどんな集団や党派に対しても,マルクス主義的分析は有効であり,マルクス主義の原則による資本制の変革は,男女を問わず社会の全成員の解放をもたらすだろうというものである。女性の状態の唯物論的分析は,マルクス主義の修正へ向かう度合いに応じて,マルクス主義フェミニズムの構築を目ざす結果となる。」8~9ページ
※ここでは「唯物論」は生命の生産と再生産にかかわる,マルクス主義の一部の理論という独特の評価をうけ,その上で,しかし,その理論にもかかわらず古典的マルクス主義者は「女性の抑圧の特殊性」を見逃しているとされる。理論的可能性の側面と,実際のマルクス主義者の分析との乖離が問題にされている。
ロイジン・マクダナウ/レイチェル・ハリソン「家父長制と生産関係」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【ケイト・ミレットはマルクス主義を拒絶する】「(ケイト・ミレット『性の政治学』について)ミレットの見解の主な弱点のひとつは,彼女が次のように述べたときに暴露されたのではない。すなわち,ほとんどのマルクス主義者の分析は,家族や結婚は経済的あるいは制度的手段によってのみ変質させられる経済的現象にすぎないという仮定を含んでいる,と述べた時ではない。そうではなくて,階級に対する性の優位性を主張することによって,マルクス主義の理論的空白を埋めようとしたときにあらわれたのである。」「ミレットは特定の種類のマルクス主義だけではなく,マルクス主義そのものを拒絶する。そして家父長制を階級システムに匹敵するものとして,時としてそれ以上に基本的なものとして考え,唯物論の分析から遠く離れて,社会学的な分析に入っていく。」15~16ページ
※マクダナウ,ハリソンは「唯物論の分析」を堅持することを主張する?
【史的唯物論を女性の従属と結ぶことの必要性】「家父長制の分析を進めるなかで,史的唯物論との結合が必要があるとしても,史的唯物論の方法を,女性の従属に適用し拡張することについては,依然として問題が山積している。それらの諸問題は,主として次のような事実に起因している。つまり『フェミニストのかかえる問題,すなわち女性の男性への従属という事実とその事実がもつ意味や,そのような従属に対する女性の闘いという事実とその事実がもつ意味』(Mackintosh,1977,p.119)が,マルクス主義の中では中心的な問題とはなっていないという事実に起因している。」「正当派マルクス主義者は,家父長制を世帯労働のひとつの組織形態と定義するのであるが,それはもし,同時に以下の点の位置づけがなされないならば,十分なものとはいえないということが論じられるだろう。つまり,『女性が家庭内で働くという社会関係,すなわち女性の生殖役割によってつくり出された社会関係』の性による分割は,両性間の関係が支配と従属の関係になるようにどのように構造化されるのか,という点についての位置づけである。」32~33ページ。
※正統派は「家父長制を世帯労働」の一形態ととらえる? 女性の家庭における地位の問題は,同時に女性の社会的地位の問題でもある。両者は同一ではない。とすれば,女性の社会的地位を論じずに,家庭内のおそらく「家内労働」の問題を論ずることはできない。
【「再生産」の意味が『ドイデ』と『資本論』では変わっている】
【エンゲルスはマルクスの家父長制概念をそのまま受け継いでいる】「エンゲルスは,マルクスの使用した家父長制という概念を,次のような点において,ほとんどそのまま受けついでいる。すなわちエンゲルスは,家父長制家族を生産単位である世帯の労働組織にもとづいた,歴史的に特定の制度であると考えるという点においてである。……エンゲルスは,私有財産の発達を男性のどん欲な性質に帰してはいない。……エンゲルスは,『家族・私有財産・国家の起源』の中で,次のように書いている。『妻の貞操を,したがって子の父性を確保するためには,妻は夫の権力に無条件にゆだねられる……家父長制家族とともに,われわれは書かれたれ歴史の領域にはいる』(Marx and Engels,1970,p.489:邦訳岩波文庫,77頁)。」41~42ページ
【エンゲルスは夫による妻の労働力支配を認識していた】【妻の出産機能の属する階級次第である】【エンゲルス『状態』の性的逆転論】
「『家族・私有財産・国家の起源』の中で,家庭内での女性の労働が私的なものになっていくということに関連する議論がなされている。家父長制家族において,また『一夫一婦制』家族においてはもっと,『家計の管理はその公的な性格を失った……それは一つの私的奉仕となった……妻の公然または隠然の家内奴隷制の上に築かれていた』(Marx and Engels,1970,p.501:邦訳岩波文庫,97頁)のである。私たちはここで,エンゲルスが次のように認識していたということを,はっきりと指摘しておかなければならない。つまり家父長制家族は,男性の労働組織としてはその重要性は減少したけれども,家族の中で,妻の労働に対する支配は引き続き行なわれているということを,彼は認識していたのである。エンゲルスは,女性の抑圧を,性分業(女性は私的な家内労働,男性は社会的・公的労働)と男性による生産財の所有,そして人間の再生産の一夫一婦制的関係に関連づけているけれども,女性は異なる階級に属するので,その出産機能も異なるということを十分には識別していない。言い換えれば,生産レベルでの階級分割が,所有者と奴隷とをどのように区別していたのかということについては示したが,このような機能文化が,女性にとっては最初の機能分化のうちの出産レベルにおいて,どのように反映されるのかとういことについては,事実なにも示していないのである。女性は後継者(将来の生産手段の所有者)を生むものと,将来の奴隷労働者を生むものとに分けられた。かくして,社会的使用に供するために出産するという,女性の自然な肉体的な機能は,資本制生産の社会関係を永続させるために,必要な二つの経済的機能に変形される。余剰生産物が非対称的に専有された瞬間から,女性たちは,それぞれの夫の階級的地位にふさわしい二つの別個の機能を遂行するようになった。したがって,このことから,階級社会における家族形態は,生産様式から直接生じるのではなく,生産様式に付随する生産関係によって媒介されるとみなされなければならないということになる。
それゆえ,人間の再生産という社会関係は,階級に特定的な関係である。そのような関係は,家庭内での妻の労働を支配する形態や,妻の性的貞操を支配する形態から成っている。ちょうど労働過程が,いつも特定の生産様式とその社会関係の中に位置づけられているように,出産過程もまた,それらの中に位置づけられる。歴史的にもまた,出産過程は――労働過程と同様に――支配関係によって形成されてきた。とりわけこの場合は,家父長制という関係によって,形成されてきたのである。結婚すると,妻は一定期間の生活,すなわち死ぬまでの生活とひきかえに,労働力と生産能力の双方を夫の支配にゆだねる。妻の労働能力が実際に実現されるかどうかは,夫の階級的地位次第である。……資本の手中への生産手段の漸進的な専有と集中によって,家内生産における男性の長がもはや財産を所有しなくなったとき,妻の生産労働に対する夫の権威の基盤は失われた。そういった権威もまた,資本の手中にわたったのである。その結果,女性は労働力の中へ参入する。このような女性の労働力への参入は,妻が夫から自立するという可能性への道を開いた。『自由』市場で女性の労働力が交換されるということに関与している。このことは,事実,マルクスとエンゲルスがすでに予言していた。しかし予想されていなかったことは,それに続いて生じてきた労働力の『非効率的な,再生産』ということであった。資本は安価な労働に対してどん欲であるから,男性よりも女性を好んで雇用したのである。『イギリスにおける労働者階級の状態』の中でエンゲルスは,プロレタリア女性は賃労働者として『解放』され,かつその夫の失業によって生じる,家族内の労働関係の逆転を指摘している。
われわれが認めなければならないことは,このように完全な性の地位転倒が生じたのは,両性がはじめからたがいにあやまった関係におかれていたせいだ,ということである。もしも,工場制度によって必然的にひきおこされる夫にたいする妻の支配が,非人間的であるとすれば,それなら妻にたいする夫の原始的な支配もまた,非人間的でなければならない(Engels,1969,p.174:邦訳第2巻25ページ)。
性分業が『自然なこと』であるとは,どうしても考えられず,むしろ性分業は,資本制工業化の初期の段階における,特定の経済条件のもとで生じたと考えられる。」43~45ページ
※エンゲルスの家族・男女関係理解も個人的な認識の歴史に位置づけて。
【エンゲルスの二重の生産論は評価する】【家族は依然『経済単位』であり妻は夫に従属している】
「エンゲルスは,特に,ブルジョア家族の中にある,性的支配から生じる矛盾に注目した。たとえばエンゲルスは,次のように指摘する。つまりブルジョア女性についていえば,一夫一婦制は嫡出子である相続人を保証するので,ブルジョア男性にとっては機能的なものであるけれども,男と女とでは,その結果は異なる。つまり,男性は性的自由を手放すことを拒否するために,売春制度をもたらし,女性は姦通という形をとって,性的反乱を起こすのである。それゆえ私たちはデルマーに同意して,エンゲルスが生産と再生産という二重の,しかも互いに結びついた特徴に関して,重大な問題を提示しているという点を評価しなければならないであろう。
エンゲルスの家族の起源についての研究が,一つの成果をうちたてたとするならば,それは,女性の抑圧を生物学の問題というよりむしろ,歴史の問題,つまり史的唯物論が分析し,革命的政治学が解決すべき類の問題であると主張したことにある(Delmar,1976,p.287)。
しかし,ヴェロニカ・ビーチイが述べているように,『エンゲルスはフェミニストが絶えず議論してきたことを認識していない。つまり家父長制家族は,産業資本制社会の中に依然として存在しており,その存続は,資本制生産様式にとって基本的な経済的・イデオロギー的重要性をもつということを認識していなかったのである』(Beechey,1977,p.47)。したがって,ザレツキーの『近代産業の発生は,私有財産を集中させ,家父長制家族の経済的基礎を取り除いてしまった』(Zaretsky,1976,p.107)という一面的な提言には,用心する必要がある。家長が,男性,女性および子どもの労働を組織する生産単位としての家父長制家族は,除去されてしまったということについては,私たちは同意できる。しかし,労働者階級の妻の労働は,家族の労働組織という側面を依然として有しているために,正統派マルクス主義者の家父長制という用語の定義においてさえ,家父長制の一つの要素は存続しているということは強調されなければならない。……もし,私たちが,家父長制というものは,女性の生殖力と性に対する男性の支配という概念を含むものであると理解するならば,その場合にあきらかに言いうることは,この意味での家父長制は,あらゆる階級の女性に存在し続けているということである。家父長制が,ブルジョア家族におけるように夫によって直接的に維持されていようと,プロレタリア家族におけるように福利厚生の規定によって補強されていようとも,そのような支配を行使させている制度は,いまなお家父長制家族であるといえる。言い換えれば,家族とは,依然としてエンゲルスが名づけた『経済単位』であり,そこでは妻は夫に従属している。」48~49ページ
【工場は工場主のハレムである(エンゲルス)】【家父長制分析の基盤は生殖力の支配と分業】【労働者家族における男性支配の経済的説明が不十分】
「マルクスは,前資本制生産様式における家内生産という社会関係に言及するときには,例外なく家父長制家族という概念を用いた。エンゲルスはこの議論を継承し,家父長制家族を第一義的には家庭内での性分業に関するものと考えると同時に,それは産業上の労働関係にも広くかかわっていると考えた。エンゲルスが述べるところによると,雇い主が支配するのは女性の被雇用者の労働だけではなく『肉体と魅力との支配である……そいつの工場は同時にそのハレムである』(Engels,1969,p.177:邦訳第2巻29ページ)。エンゲルスは,一方における一夫一婦婚での女性の性的従属と,他方における家庭内,および私的領域と公的領域の間での性分業という観点からみた女性の経済的従属との関係を理論化しようとした。女性の生殖力と性の支配および性による分業(と性による財産の分割)という女性の従属の二つの側面は,共に家父長制についての理論的分析の基盤を形成するにちがいない。一夫一婦制――すなわち合法的に生産手段を相続するために,女性が男性に終生従属すること――に対するエンゲルスの批判は,とくにブルジョア家族と前資本制生産様式における自給自足の家族にあてはまるものであった。処女性と一夫一婦制は,ブルジョア階級における人間の再生産という社会関係に関連しているということは,いまなお論証可能である。しかし一夫一婦制,少なくとも論理的には,非ブルジョア家族においては余分なものであるはずなのに,なぜ非ブルジョア家族においてもそれが存続しているのかについては,エンゲルスの分析にしたがっても,それほど明確ではない。労働者階級の女性が,家族の中で性的に従属し続けていることについての経済的説明が不十分であるということは,次のことを示唆している。家族の中での女性の位置を決めるイデオロギーとしての家父長制は,家父長制的関係の永続化の基盤となる諸々のメカニズムの複合体の中の,ひとつの重要な特徴であるにちがいないということである。」49~50ページ
※世代をこえる労働力の再生産を「自分」のために保障させるという生殖の支配。これは資本による支配とは独自の要素となる。老後のための子ども。他方で,欲求解消の手段としての性支配という問題もある。
※「経済的説明」――夫による稼得(裏を返すと女に稼得がしづらい社会状況),これについては北欧などとの対比が効果的。
【マルクス主義には生殖力への支配の観点がない】「私たちは,本章において,象徴的な側面における家父長制の分析と,正統派マルクス主義者のそれのいずれもが,いかに一面的であるかということを示そうとしてきた。そして私たちは,マルクス主義フェミニストが十分な分析を行なうには,家庭や生産における性分業の組織形態を,出産や性の歴史的に特定の組織形態と関連づけるという試みがなされなければならない,ということを論じてきた。家父長制の二重の概念――第一に,一夫一婦制のもとでの女性の生殖力や性の支配,第二に,性による分業(性にる財産の分割)を通しての女性の経済的従属――が保持されているということは,女性の出産機能,むしろそれをめぐる関係が,性分業に包摂しきれないということを意味している。したがって家父長制は,性分業の範囲を超えるものとして理解されなければならない。」51ページ
※社会そのものの再生産の理論化が必要。「女性の出産機能」を社会関係の中にどう位置づけるか。本能という独自の推進力と,これに社会的な意味を与える力との関係は。
アネット・クーン「家族における家父長制と資本の構造」(A.クーン/A.ウォルプ編『マルクス主義フェミニズムの挑戦(第2版)』勁草書房,1986年)
【マルクスは男性賃金家族を想定していた】【家父長制と生産様式は一方が他方を規定するような関係ではない――両者は歩調があわない】
「ガーディナー,ヒメルワイト,マッキントッシュの主張によると,マルクスは労働力の価値を分析する場合には,妻と子どもとが賃労働に従事しないようにプロレタリア家族の単位を想定していた(1975,p.3)。このようなマルクスの見解は,いま示した,資本は女性や子どもを労働人口のなかに引き入れるという傾向とは明らかに矛盾する。マルクスは,この矛盾については語らなかった。しかし『資本論』に提唱されている分析諸条件から家族-世帯の生産関係を排除すると,その結果,決定的に重要な一つの事柄に明らかに注意が払われなくなる。それはつまり,女性のプロレタリア化は,労働者階級内での家族関係の維持にきわめて現実的な脅威となり,したがって家庭に基礎をおく主婦労働――これは,比較的低いコストで労働力の再生産を保障しているが――が資本に与えている恩恵をも脅かすということである。……
マルクスは『資本論』その他の著述の中で,資本制下での,一方における資本の力と,他方におけるプロレタリア家族形態ならびにブルジョア家族形態との間の関係について分析するという体系的な試みをほとんど行なってはいない……。これに対してエンゲルスは,『家族,私有財産および国家の起源』の中で,家族を中心的な論点として実際に取り上げている。エンゲルスが歴史上における家族形態を例示する場合,彼は,家父長制的関係を(つまるところ封建的関係もしくは資本制関係に照応する)ものとみなしているけれども,本章では,私の疑問はまさにこのようなとらえ方に向けられる。なぜなら,家父長制と生産様式との関係はエンゲルスが考えているよりももっと問題性をはらんだものであり,それぞれには異なった歴史概念が刻まれていると考えるべきだからである。したがって,この二つの構造を類同のものとみなすことはできないし,また一方が,他方を規定するとか他方によって規定されるというふうにも理解してはならない。本書の他の論文でものべられているように(第2章参照),家父長制とは,生産様式に関して相対的な自律性をもつものとして把握されるのが最も適切なのである。……エンゲルスの場合,家族形態に関する社会関係の分析は,歴史を決定的な要素として刻印している。それにもかかわらず,『文明社会』の中での相異なる生産様式の下における家族形態の変遷のダイナミックスを分析する場合の私のモデルは,明らかにエンゲルスのそれとは異なった認識論のうえに築かれている。要するに,家父長制の社会関係というエンゲルスの概念は歴史的な概念であるとしても,それをある生産様式に特有の社会関係にあてはめている点で問題が残る。この両者の歴史は,言ってみれば歩調が合わないのである。……エンゲルスの主張は,男性の優位は私有財産が作りだす一現象であるという前提に基づいているので,後者の廃止は必然的に前者の消滅をともなうはずのものであった。このような家族分析には,家父長制は抽象構造であって,それは私有財産が存在するすべての社会構成体の社会-家族関係に浸透している,という含蓄が含まれている。しかし,私は分析をさらに一層掘り下げてみて,次のことを指摘したい。つまり,家父長制的関係が表現される明確な形態は,どんな社会構成体の中でも所有関係,もしくは階級関係の特定の性格に応じて異なるということである。したがって,資本制下での家族形態に対するエンゲルスの叙述は,どちらかといえば不十分――ブルジョア家族についてはきわめて表面的であり,プロレタリア家族については現実に多くの点で誤っている――といえる。にもかかわらず,『起源』を読むことは,資本の政治経済に対する古典的なマルクス主義的アプローチにあらわれる間隙を埋める手段となる可能性をもち,また,家族の社会的作用と歴史的作用に対する社会学的説明や社会学主義的説明から一歩前進しうる生産的な方向の開始を告げるのである。」63~76ページ
※家父長制と生産関係は一方的な規定関係ではないが,相互関係による影響を受けて存在することは,ここで認められている。
【家父長制には社会構造と心的構造の両面がある】
「ここで私が主張したいのは,家父長制が,次に述べる二つの構造の内のどちらか一方として理解される傾向にあるということである。つまり,家父長制は社会関係,すなわちエンゲルスが主張した意味での生産と私有財産とを特徴づける構造として把握されるか,あるいは,心的構造,すなわち主体形成および象徴構造を特徴づけている構造として把握されるのか,そのいずれかだということである。これに対して私は,以下のことを指摘したい。つまり,これら二つの見解は必ずしも二者択一的なものではないのであって,心的関係は社会関係と所有関係のこの二つの象徴作用の表現の場としてみることができるということ,さらに,たれら相互の関係をこのよう問うていくことは家族関係の性格を再考し,イデオロギーの問題を再定式化することにもなるということを提唱したいと思っている。」68ページ
※確かにマルクス主義には「性道徳」(性暴力をも合理化するような)に焦点をあてた分析がほとんどない。家族の歴史的形態に対応した「社会的意識」の具体的な内容。そもそも一般論として「社会的意識」の分析が希薄。
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〔資料〕マルクス『資本論』メモ〔全文は別紙〕
●第1部(以下,ページ数は新日本出版社上製版による)
〔労働力の価値について〕第1巻291ページの終わりの4行~293の本文まで(注45の前まで),295の中央の段落,544ページ最後の2行から546の本文終わりまで,677の冒頭から10行目まで,885の最初の段落,992ページの後半の段落,
〔モラーリッシュの意味に関連して〕395冒頭から396の1行目まで
〔女性労働者の形成〕435本文冒頭から436の3行目まで,680の(a)から681の本文最後まで,688の最後の2行から689の1行目まで,
〔炭鉱での男女混合労働と道徳的堕落〕441の注(93)442の2行目まで,678の7行目から678の終わりまで
〔長時間労働による労働者階級の再生産への障害の形成〕454最後の1行~456の3行目,457の中央の段落,463の冒頭から464の3行目まで
〔女性労働時間の制限〕486最後の4行~487の4行目まで,493最後の6行~494の3行目まで
〔女性労働者の買春〕502の「しかし」の段落から503の本文終わりまで,
〔召使階級の数〕768ページ冒頭から769ページの終わりまで
〔女性児童労働〕797ページ後ろから7行目から798後ろから3行目まで,
〔女性労働の限界による産業革命の進展〕808ページの冒頭の6行,
〔未来の家族の準備〕838本文冒頭から839本文最後まで
〔労働力の再生産と個人消費〕976終わりの5行から977の本文最後まで,979ページの本文第1段落,
〔価値以下への労賃の低下〕1025ページの終わりの5行から1026の2行目まで,1030ページの本文冒頭から1031の本文最後まで,1099の本文,1151のうしろから7行目から1152の最初の段落の終わりまで
〔女性・児童労働が男性労働者の賃金を引き下げる〕
1182の本文の終わりの6行
●配布しない部分
第1部
〔レース仕上げの女主人の家〕803ページ3行目から807の7行目まで
〔婦人労働についてのエンゲルスの補足資料〕852(3)から855(4)の前まで
〔労働者家族の収入〕927ページ本文うしろから3行
〔国民的労賃の比較要因〕953ページ
〔産業循環の中での賃金の運動〕1065ページ
〔栄養最悪な女子裁縫工〕1122ページ
〔道徳的堕落〕1167ページ,1170の注,1186~87
〔浮浪者が奴隷にされる〕1254ページ,
〔価値以下賃金を救貧法が補填する〕1240ページ,1263,
〔綿工業の児童奴隷制〕1295
第2部
〔正常な労賃〕785
第3部
〔結婚の容易化〕370
〔家族全体にあたえられる労賃の総額〕395
〔労賃のその価値以下への引き下げ〕398
〔需給が一致すれば労賃と労働力の価値は等しい〕603
〔労賃の最低限界と労働力の現実的価値〕1507~8
〔労働力の価値以下だが肉体的最低限以上〕1512
〔労賃の一般的基礎〕1538
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