昭和天皇がA級戦犯合祀に「反対」の考えを持っていたことの理由が周辺人物によって語られた。
「反対」の理由の1つは、それによって「祭神の性格が変わる」ということで、2つは「戦争に関係した国」との間に「禍根を残す」ということだったらしい。
昭和天皇のA級合祀反対 『関係国と禍根残す』元侍従長発言、歌人に語る(東京新聞、8月4日)
靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に対する昭和天皇の考えとして「戦死者の霊を鎮めるという社(やしろ)の性格が変わる」「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残すことになる」との懸念を、故徳川義寛元侍従長が歌人の岡野弘彦氏(83)に伝えていたことが三日、分かった。昭和天皇がA級戦犯合祀に不快感を示していたことは、富田朝彦元宮内庁長官のメモなどで判明しているが、具体的な理由までは明らかになっていなかった。A級戦犯合祀をめぐる論議にあらためて一石を投じそうだ。
合祀への懸念は、昭和天皇の側近トップだった徳川元侍従長が一九八六年秋ごろ、昭和時代から皇室の和歌の指導に当たってきた岡野氏に明かした。岡野氏も昨年末にまとめた昭和天皇の和歌の解説書「四季の歌」の中で触れている。
岡野氏によると、徳川元侍従長が昭和天皇の和歌数十首について相談するため、当時岡野氏が勤めていた国学院大を訪れた。持ち込んだ和歌のうち八六年の終戦記念日に合わせて詠んだ「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という一首が話題になり、岡野氏が「うれひ」の内容を尋ねると、徳川元侍従長がA級戦犯合祀に言及。「お上(昭和天皇)はA級戦犯合祀に反対の考えを持っておられた。理由は二つある」と切り出した。
その上で「一つは(靖国神社は)国のために戦に臨んで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのにそのご祭神の性格が変わるとお思いになっておられる」と説明。さらに「戦争に関係した国と将来、深い禍根を残すことになるとのお考え」と明言したという。
元侍従長は「こうした『うれひ』をはっきりお歌になさっては差し障りがあるので少し婉曲(えんきょく)にしていただいた」と話したという。
昭和天皇は戦後、靖国神社を八回参拝したが、A級戦犯合祀が明らかになる前の七五年十一月が最後だった。
A級合祀「靖国の性格変わる」 昭和天皇が側近に(朝日新聞、8月4日)
靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)について、昭和天皇が「戦死者の霊を鎮める社であるのに、その性格が変わる」などと憂えていたと故徳川義寛・元侍従長が語っていたことがわかった。歌人で皇室の和歌の相談役を務めてきた岡野弘彦氏(83)が、徳川元侍従長の証言として、昨年末に出版した著書で明らかにしていた。
著書は、「四季の歌」(同朋舎メディアプラン)。同書によると、86年秋ごろ、徳川元侍従長が、岡野氏を訪れた。3~4カ月に1度、昭和天皇の歌が30~40首たまったところで相談するため会う習慣になっていた。
その中に、靖国神社について触れた「この年の この日にもまた 靖国の みやしろのことに うれひはふかし」という1首があった。
岡野氏が「うれひ」の理由が歌の表現だけでは十分に伝わらないと指摘すると、徳川元侍従長は「ことはA級戦犯の合祀に関することなのです」と述べたうえで「お上はそのことに反対の考えを持っていられました。その理由は二つある」と語り、「一つは(靖国神社は)国のために戦にのぞんで戦死した人々のみ霊を鎮める社であるのに、そのご祭神の性格が変わるとお思いになっていること」と説明。さらに「もう一つは、あの戦争に関連した国との間に将来、深い禍根を残すことになるとのお考えなのです」と述べたという。
さらに徳川元侍従長は「それをあまりはっきりとお歌いになっては、差し支えがあるので、少し婉曲(えんきょく)にしていただいたのです」と述べたという。
昭和天皇がA級戦犯の合祀に不快感を示していたことは、朝日新聞社に対する徳川元侍従長の証言(95年)や、富田朝彦元宮内庁長官のメモ(06年)、卜部亮吾侍従の日記(07年)でも明らかになっていた。
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