ゼミで「慰安婦」問題を学んだ第1世代の旅行の様子。
-----------------------------------------------------------------------------------
最近の出来事(2004年9月特別編)
2004年9月6日(月)~9日(木)……3年生ゼミ旅行で韓国へ!
「ナヌムの家」「水曜集会」「うまいもの」「日韓改革の取り組み」
2004年9月6日(月)……全員集合,韓国へ飛ぶ。
今朝は10時の起床であった。
いつものようメールをチェックし,青汁オレンジ,ヨーグルトの栄養を体内に投入する。
リュックに荷物をつめこみ,シャワーをあびて,
12時10分には相方とともに外に出る。
JR「加島」から「尼崎」へ。
12時35分発の空港バスに乗る。
車中「大日本帝国の人」となって,関空へ。
1時30分には集合場所へ。
おお,すごい,予定の時間に,15名全員がそろった。
「絶対に遅れてくる」と確信していたI田先生も,すでに空港内をブラついているという余裕であった。
先日の「1日集中ゼミ」の資料を,I田先生と3年生Tみさんに渡す。
荷物が少しだけ,軽くなる。
搭乗手続きをすませて,いったん解散。
われわれはいつもの「そじ坊」へ。
日本食とのお別れの儀式を,つめたいそばでとりおこなう。
スリスリとわさびをおろしながら,これからはトウガラシの人生なのだなと,しっかり覚悟を決めていく。
「大日本帝国の人」となって時間をつぶし,3時20分にはゲートに集合。
ワイワイ,ガヤガヤとみんなで搭乗。
3時50分には,関空を飛び立つ。
ふたたび,おお,すごいものだ。
飛んだ瞬間にI田先生は,眠りに落ちた。
その向こうで,F尾さんがはやくも,大量のお菓子をテーブルにひろげている。
「ところせまし」のお菓子の群れである。
コーヒーを飲みながら,車中「大日本帝国の人」となり,
日本海へ抜け,朝鮮半島を横断して,仁川空港へ。
台風が近いのだが,飛行機はこれといってゆれることもなかった。
入国審査でものすごく時間をとられる。
同じ時間についた飛行機が多いらしい。
学生Tみさんが,入国審査で「チュチュミ?」(つつみ)と名前をよばれて,
笑われたらしい。
なにか,韓国語の面白い言葉に音がにているのだろうか。
6時30分,ロビーで,この旅の通訳兼案内人のYジャと合流。
「日本旅行」の現地ガイドさんもおり,ホテルまではYジャの出番はない。
大型バスで,ソウル市内へ,「豊田(プージョン)ホテル」へ向かう。
日本語の達者なガイドさんと,いろいろ話す。
「ナヌムの家」には何度もいったが,「水曜集会」には参加したことがないという。
「民主化世代」なのだろう。
政治問題への関心が深いように思えた。
8時すぎには,ホテルに到着。
荷物を部屋に放り込み,ただちにバスにもどって,「セジョン・ホテル」へ。
その近くの焼肉屋さんを,Yジャが予約してくれているのである。
ホテルからは,相方の専門学校仲間Aやちゃんも同行する。
学生時代に北朝鮮でハルモニ(かつて「従軍慰安婦」とされたオバアサン)の話を聞いたという,
つわものである。
これでわれわれは総勢17名にふくれあがった。
ニンニクを焼き,牛肉を焼き,味噌やキムチとともに,何種類もの葉っぱでくるんで食べる。
これがウマイ。
そして,葉っぱの種類がものすごい。
もちろんビールもゴキュゴキュである。
実は,この店,今年の2月にはじめて韓国へ来た際に,
案内と通訳をお願いしたLさんにつれてきてもらったお店であった。
「ここはウマイ」という定評が確立しているらしい。
酒をのまない学生たちは,いったん,ここで解放する。
われわれ「飲む組」5名は,次の店をもとめて街にでる。
「ミョンドン」の街で,日本の同業者U先生に偶然出くわす。
神戸の研究会でたびたび顔をあわせる相手で,お互いに,「なぜ,こんなところで」,
「そんなバカな」と,しばし,顔を見つめ合う。
聞いてみると,U先生も「ゼミ旅行」だという。
う~む,世間はせまく,アジアもせまい。
Yジャの友人,Kムさんと合流する。
日本への留学経験があり,こちらでも日本語を勉強しているという。
途中,長さ30センチのソフトクリームに,相方とI田先生が食らいつき,
それを食べきらないままに2次会の会場に入る。
店の選択は,かなり,行き当たりばったりである。
Yジャ,Kムさん,Aやちゃん,I田先生,相方と,こちら。
「今日はじめて会いました」という顔が多いのだが,うまいキムチとマッコウリが,あっというまに人をなごます。
時間は軽々と12時をすぎ,われわれもシブシブ店を出る。
YジャとKムさんの「地図が読めない」的あやうい案内をうけ,
途中,コンビニにもよりながら,ついに1時にはホテルにもどる。
Aやちゃんは,自分で調達していたゲストハウスへもどる。
学生たちは,全員,すでに部屋に入っていた。
2時には,バッタリと寝る。
由井正臣『大日本帝国の時代』(岩波書店,2000年)を読みおえる。
ジュニア新書「日本の歴史」の1冊である。
「大日本帝国憲法」発布(1890年)から,サンフランシスコ講和条約の発行(1952年)までの歴史が,
コンパクトに読みやすくまとめられている。
列強によるアジアの分割と,これに負けじと「対抗」する日本の野蛮な姿。
侵略と植民地化のなかでの民衆の立ち上がりに対する目配りもあり,これはオススメの1冊である。
とても勉強になった。
2004年9月7日(火)……濃厚このうえなき「ナヌムの家」。
朝,BS放送をながめながら,買っておいたヨーグルト食べる。
夕べも日本はゆれたらしい。
どうなっているのだ,近畿・東海地方は。
あわせて,台風が猛威をふるっているともある。
こまったものだ。
ニュースのあとには,アメリカのリビング・ウェイジ(生活賃金)闘争の番組がはじまる。
ハーバードの学生たちが,大学にはたらく「現業労働者」のあまりの低賃金に抗議してはじめたらしい。
学生たちの座り込みが,マスコミにもとりあげられ,
労働者,卒業生,他大学の学生の支援もうけて,運動はひろがる。
莫大な資産をかかえた大学当局は,ついにこの社会的圧力に譲歩を余儀なくされる。
AFL-CIOの会長もかけつけるという,アメリカ市民の「連帯」の姿が見える番組であった。
10時20分にはホテルのロビーに集合。
すでにAやちゃんも,やってきている。
雨のなか,昨日の大型バスに乗り込む。
今日からはガイドさんがおらず,すべての韓国語会話はYジャにまかされることになる。
朝まで起きていた(起こされていた)学生もおり,バスのなかには寝息がひびく。
こちらは,「トウモロコシパン」をかじって,車中「外交の人」となる。
「トウモロコシパン」は,ふつうのパンにトウモロコシ味のクリームがはさまったもので,
いくつかの粒コーンにもでくわした。
不思議な気もするが,案外,これがいけるのである。
1時すぎには,「ナヌムの家」に到着。
なつかしの白い犬に吠えられる。
サザン好きのボランティア青年チュヒョクと,
この間,連絡をとりあってきたY嶋さんと再会する。
7ケ月ぶりの顔である。
オランダに留学中だという日本人の院生もいる。
ボランティアで2週間ほどこちらにいるのだという。
台風のために「今日の日本からの飛行機は全便欠航」らしい。
どうやら,あやういところだった。
運が良かったということにしておこう。
Y嶋さんに,日本からもってきた2冊の本をプレゼントする。
1冊は自分で書いた『現代を探求する経済学』,もう1冊は面川誠氏の『変わる韓国』。
あわせて持参した日本酒も見せてみるが,「酒は飲まないので」といわれてガックリ首が落ちる。
しかし,それは仕方がない。
大きな仏サマがいる2Fホールに荷物をおかせてもらう。
「ナヌムの家」の設立,運営には,大きなお寺が深くかかわっている。
1Fホールに移動すると,子どもたちが,ニュースの発送を手伝っている。
この子たちもボランティアである。
いちばん年長の男の子2人は,学校でタバコを吸っているところを見つけられ,
「ここに1週間送られている」のだという。
Y嶋さんが,愉快そうに教えてくれた。
なるほど,韓国のボランティアには,そういう役割もあるらしい。
1時35分から,まずはビデオ『私たちは忘れない』を見せてもらう。
97年になくなった,カンドクキョン(姜徳景)さんの追悼番組である。
最後まで,病院のベッドで,自分のパスポートの更新を心配する言葉を発しつづけていた。
日本政府への「抗議」と,日本での「証言」活動を心残りにしてのことであろう。
2時すぎからは,北朝鮮のハルモニ,パク・ヨンシムさんのビデオを見る。
『写真に記録された「慰安婦」』。
ビルマのラングーンでアメリカ軍によって「保護」されたパク・ヨンシムさんは,
そのとき日本兵士によって妊娠させられていた。
防空壕の前に4~5人がならび,その右端で大きなおなかに手をあて,暗い表情をうかべている,
「慰安婦」関係の本には,良く掲載されているあの写真の当人である。
結局,子どもは生まれてこなかったという。
1937年,「南京大虐殺」の年に南京にだまされてつれていかれ,
「キンスイ楼」という慰安所で「性奴隷」としての生活を余儀なくされる。
42年にはビルマのラングーンに移動し,そこでは「若春」という名前で呼ばれる。
44年,日本軍の「玉砕」によって,アメリカ軍に「保護」されたという。
いずれも短いビデオのなかに,過去の歴史と,過去の清算を行おうとしない現代の日本政府の責任が描かれる。
2時40分から「日本軍『慰安婦』歴史館」を見学する。
展示物のひとつひとつを,詳しくY嶋さんが解説してくれる。
ラングーン「玉砕」当時の米軍の新聞には,
JAP “COMFORT GIRLS”の文字が見える。
現在,韓国に生存するハルモニは約130名で,そのうち10名が,いま「ナヌムの家」にいる。
確認されている「慰安所」の数は多く,日本軍が展開したほぼ全域に渡る。
沖縄にも134ケ所,大阪にも,満州にもあり,インドネシア周辺ではオランダ人「慰安婦」も数百名に達していた。
一般に「従軍慰安婦」と呼ばれるが,「従軍」にこめられた「自らすすんで」あるいは,
「現地での仕事を承知したうえで」という意味は事態を適切に表現しない。
また「慰安婦」というのも,女性を「所有」した側からの呼び名である。
ハルモニたちは「性奴隷」という用語をいやがっているが,次第に,
「日本軍性奴隷」が適切な用語となって定着していくのであろう。
韓国では「挺身隊」や「処女供出」という言葉がつかわれる。
しかし「挺身隊」は,性奴隷以外の「女子勤労挺身隊」を含み,用語としてやはり必ずしも的確ではない。
1932年の上海事変に際しての「慰安所」開設が,資料で確認される最初のものとなっている。
実際にはそれ以前から,同種のものがあったようだが。
この開設にあたって,軍は長崎県知事に女性の提供をもとめている。
当時,東アジアへ出て行く公娼,いわゆる“からゆきさん”に,長崎出身者が多かったからである。
それを「上海にまわせ」ということである。
戦争に異常事はつきものだろうが,当時のその異常事に照らしても,
「慰安所」制度は女性たちの人権侵害という点で国際的に突出している。
そこには,女性蔑視,植民地人民の蔑視とともに,異様な精神主義という日本軍の特殊な性格も強く反映しているようだ。
朝鮮半島を植民地化した日本は,「土地調査事業」を行い,農民の手から土地を奪い取る。
その結果,多くの農民が流浪民化し,
あるものは朝鮮半島を去って大陸へ向かい,
またあるものは日本軍関係者による「いい仕事がある」という誘いにのらずにおれなくなる。
同時に,日本から,当時の朝鮮にはなかった公娼制度がもちこまれる。
戦地への「慰安婦」の送り込みに対して,「天皇陛下からの贈り物」という軍のことばも残されているという。
復元されたある「慰安所」には,金だらいがある。
実際,沖縄でつかわれていたものだそうだが,
当時は1つのコンドームが何度もつかわれ,それを消毒液で洗うのもこの金だらいでのことだったという。
軍だけではなく,企業が所有する「慰安所」も存在した。
九州や北海道の炭鉱などにあったという。
「慰安婦」たちは,性病であると軍医に認定された時にだけ,
性奴隷としての連続レイプの苦痛から,一時的に「解放」されることになる。
ただし,その場合にも,性以外のさまざまな労働が強制されている。
沖縄の首里城近くから発見され,ここに展示されている軍のコンドームには
「突撃一番」という名前がつけられている。
「慰安婦」への「支払い」には,軍票がつかわれたことがある。
敗戦と同時にまったく無価値となった「紙幣」だが,
円の大量流出によるインフレをふせぐことと,
現地経済をコントロールすることを目的に軍によって発行されたものであった。
「慰安婦」の数は正確にはわからない。
何より日本政府が資料の全面公開をいまだに拒んでおり,
終戦時に証拠隠滅のために書類を償却したことの影響もある。
5万人から20万人と推測されている。
アメリカ政府の公文書館も,もっている情報をすべて公開しているわけではない。
特に,「慰安婦」たちへの「聞き取り調査」の公開が重要だと思われる。
「慰安婦」問題が政治問題化してのち,日本政府からは謝罪のことばが発せられる。
しかし,その後も,閣僚等による「慰安婦は公娼だ」「戦争にレイプはつきものだ」といった発言が相次いでおり,
謝罪と反省の言葉はまったく形式的なものに終わっている。
「レイプはつきもの」がたとえ事実であったとしても,
政府自身が集団的で恒常的なレイプの強制を,これほどの規模で制度化した例はないのである。
戦後長く沖縄にくらしていた,ペ・ポンギ(○奉奇)さんは,
「沖縄返還」をきっかけに「慰安婦」であることを告白せずにおれなかった。
サンフランシスコ講和条約の発効(1952年)により,
旧植民地の人々の「日本国籍」は自動消滅し,以後,彼らには「外国人登録」が必要となる。
「返還」により,日本政府がこの登録の有無を調べたところ,ペ・ポンギさんにはそれがなかった。
「滞在資格がない」という政府の指摘に,
「自分は慰安婦であった」「好きでここにいるのではない」「日本政府が勝手につれてきたのに,今度は出て行けというのか」という,
反論が行われた。
こうして,はじめて日本軍「慰安婦」であったことの名乗りがあげられた。
ペ・ポンギさんが亡くなる同じ年の91年には,
キム・ハクスン(金学順)さんが,韓国ではじめて名乗り出る。
女性蔑視の思想が強く,「慰安婦」には「恥」「汚れ」の思想が強制されていたが,
87年の民主化に前後して「儒教」思想からの精神的な解放もすすんでくる。
女性の地位向上をもとめる団体も生まれてくる。
そういう社会全体の大きな変革のなかで,「慰安婦」たち自身にも自己評価の「パラダイム転換」が起こる。
キム・ハクスンさんは,自ら名乗り出た。
92年1月8日から,ソウルの日本大使館前での抗議行動(=水曜集会)が毎週行われるようになる。
唯一,阪神淡路大震災のときにだけ,ハルモニたちが,みずからこれを取りやめた。
たくさんの日本人が死に,たくさんの在日コリアンが死んだことが,
ハルモニたちの心を動かしたらしい。
日本国内には,この問題の解決にむけた具体的な効力をもちうる運動が非常にすくない。
民主・社民・共産による共同での法案提出が,ほぼ唯一の動きだが,
現在までの国会の力関係で,提出された法案はいずれも採択されるにいたっていない。
ハルモニたちはたくさんの絵を描いているが,ナヌムの家の入口にたつ銅像は,
キム・スンドク(金順徳)さんが描いた「咲ききれなかった花」をモチーフとしている。
「花」は「慰安婦」自身の象徴である。
最後に,キム・スンドクさんの肖像を指紋でつくる「指紋画」に,みんなで自分の指紋を残し,
歴史館での学習を終える。
学生たちは,文字通り「声なし」の状況である。
数人に感想を聞いてみると,「知っていたことではあるけれど……」と,
文字をつうじた学習をこえた,
事実の重みの心身への浸透があるようである。
ホール1Fにもどり,4時10分から,直接,ハルモニの話をうかがう。
カン・イルチュル(姜日出)さんが話してくれた。
Y嶋さんが,ことばを要約してつたえてくれる。
「学生のみなさんが来てくれたことに感謝します」。
「植民地支配の時期に日本語を学んだが,中国で57年くらすうちにすべて忘れてしまった」。
「いまは解放され,日本と韓国は別の国。今後日本の侵略がなければ幸せです」。
「若い人の交流はいいこと。日本人に強制されたが,東洋人としては同じ。問題解決のために連帯しましょう」。
「小泉首相は好戦的。互いに死ぬことのないように」。
「16才(日本の数え方だと14才)で,『慰安婦』にされた。12人兄弟の末っ子。どこにいくかもわからず,朝鮮北部から中国に連れて行かれた」。
「長春まで連れて行かれて,ムン・ピルギ(文必○,いまナヌムの家にいる)と知り合った」。
「さらにハルピンへ行き,ソ連との国境近くのボタンコウ(牡丹江)へいかされた」。
「そこで,北海道出身の日本人女性と知り合った。その女性は解放後も中国でくらし,13年後になくなった」。
「その後,彼女の家族は日本へいった」。
「私は『慰安婦』の時に,腸チフスにかかった。伝染病で,当時は特効薬もない」。
「患者が山積みにされて火がつけられたが,一番下にいたので助かった」。
「キムヨンホという男性が朝鮮独立軍に連絡して,45年6月に自分は救われた」。
「腸チフスは針で血を出すなどの治療でなおした」。
「キツリン(吉林)で偶然,さきの北海道の女性と再会した。姉妹のよう思っていた」。
「いまもアタマに傷がある。これは兵隊に壁にぶつけられたときの傷。包帯を傷の穴にいれて血をとめた。いまも後遺症で鼻血が出る」。
「延世大学とナヌムの家の共同で2003年にトラウマ・チェックをした。昔の後遺症があるという結果がでた」。
「子どものころ学校にいっていた。その頃には勉強のできる子どもだった。いまは頭痛,鼻血ばかり。今日も針を打ってきた」。
「日本へもどったら,私たちのために行動してほしい。日本人も朝鮮人も顔は同じ。お互いが争えば,いまは共倒れになる。争わないでほしい」。
「みなさんには感謝する。兵隊は悪かったが,若い人に罪があるとは思っていない」。
「私は2000年3月3日に中国から帰って来た。両親はなくなり,兄弟もほとんど死んでおり,姉1人だけが生きていた」。
「先日,小泉首相とノムヒョン大統領の会談があったが,『過ぎ去った昔のことだ』とでもいいたげだった」。
「植民地時代の36年間,米を見たこともないほどの生活だった。謝罪してほしい」。
「『慰安婦』問題が未解決だということは,今後に争いの可能性を残すということ。謝罪してほしい」。
「中国からもどったあとで,子どもを呼び寄せた」。
「TVなどに出ると,子どもが恥ずかしいというが,それは日本の責任であり,韓国民の考え方の問題」。
「小泉首相は戦争の準備をしている。今年も小泉首相は靖国神社に参拝した。これがアジアとの摩擦の火種になる」。
ここで話は一段落し,質疑・応答の時間に入る。
お話いただいたことへのお礼を述べ,問題が起こされたのは過去のことだが,
その過去を現在の日本政府がどう評価するかについては,
若い世代をふくめて現在を生きる日本人全員が責任を負っている,とこちらも語る。
「いままで苦労してやってきた。この状況は悲惨である。あとにつづけたくない」とことばが返ってくる。
つづいて,北海道出身の日本人「慰安婦」と植民地から連行された「慰安婦」に,待遇に違いがあったかを聞いてみる。
「少しちがった。日本人は将校クラスの相手を主にしていた」。
「その女性は顔が効いたので,その女性とうまくつきあうことが必要だった。その女性はなぐられなかった」。
「しかし,その女性も,泣きながらくらしていた」。
次に,中国に長くくらしたとのことだが,「慰安婦」であったことにより,中国政府からは生活支援はあったのかと聞いてみる。
「支援はまったくなかった」。
「長春につれていかれたときには,近くに731部隊があった。秘密だったが,何をしているかは,まわりの人にはわかっていた」。
「さきの日本人女性は,もとは事務所ではたらいていた。キップのいい女性だった」。
「その女性は長春で解放軍の病院でなくなった。その時自分はキツリンにおり,会うことができなかった。心残りだ」。
「長く中国にいたが,ソ連と中国は同じ共産主義なのに仲がよくなかった」。
つづいて,学生K下さんが質問する。
何がきっかけで韓国にもどりましたか,とまどいはなかったのですか。
「韓国時代の同級生がTV局にワタシをさがしてくれるようにたのんだ。89年にはワタシが中国にいることがわかったようだ」。
「そのときにはまだ子どもが小さかったので,2000年になってから帰った」。
「解放後,お金はもらえなかった。自分のもっていたものを朝鮮人にだまされてすべて失った」。
「貧しい生活をつづけたが,3年ほどして中国の病院で働くことができるようになった」。
「89年からさがしてくれた同級生とは,いまも電話で連絡している」。
「中国に残っている孫が,去年,みなさんと同じ大学生になった」。
ここで,ハルモニたちの夕食の時間となる。
外にでて,カン・イルチュルさんと記念撮影をする。
あわせて学生を代表してT輪さんが,日本からもっていったお菓子を手渡す。
「全部自分で食べる」と冗談をいいながら,カン・イルチュルさんは部屋にもどっていかれた。
お話は貴重であり,内容はじつに重いものだが,
その人の温かみに接して,こちらもいくぶん心がなごむ。
学生たちも同じであったと想像する。
われわれの食事は朝夕ともに「自炊」とした。
そこで,大量の食材の買い出しが必要となる。
Y嶋さん運転のクルマに,6人ほどで乗り込んでいく。
居残り組は,炊事場へと向かった。
今夜のメニューは外でのバーベキューのサムギョプサル。
「雨がふったらどうしようか」など,事前にY嶋さんと相談していたもの。
「鶴橋」の「福ちゃん」で何度も食べた,ニンニクと葉っぱとトウガラシと豚肉の料理である。
まずは肉屋へ。
豚肉屋には,ブタの笑った(ように見える)顔面がお面のようにぶら下がり,
豚足も,足先だけでなく,足の付け根までが売られている。
とはいえ,ブタである。
足は,そう長いものではない。
つづいて,スーパーに移動し,野菜や味噌,キムチ,ソーセージ,お菓子,飲み物,紙コップなど,
思いつくものを次々と買っていく。
大量の買い出しだが,これが1人1000円程度の金額である。
2リットル入りのペットボトルにはいった,ビールやマッコウリも,もちろん買う。
炊事場にならんで,みんなで野菜を洗い,ザクザクと切り,
食器をならべていく。
すでにゴハンは炊かれていた。
ボランティアの職員さんや,2人のハルモニもあらたに加わって,にぎやかに食べはじめる。
その様子を,椅子にすわってながめているハルモニもいる。
「激辛青トウガラシ」と「普通青トウガラシ」をまぜて,ロシアン・ルーレット風にみんなで食べる。
現場は,犠牲者続出の修羅場と化した。
叫ぶもの,ふるえるもの,涙ぐむもの,飲みまくるもの……。
味噌をつけて食べると,それほど辛いとも思えなかったのだが,
「センセイは舌がおかしい」と学生にあきれられる。
残念なことに,このあたりで,デジカメがつかえなくなってしまう。
充電してあるハズの電池が,なんとまあ,実際にはほとんどカラで,
夕べ,コンビニで買ったこちらの電池では,どうもうまく動いてくれない。
Yジャによると,日韓の電池のちがいで,そういうことがあるらしい。
日本から,あらかじめ予備の電池をもっていくべきだった。
その一方,せっかくもっていったボイスレコーダーは,活躍の機会をもたなかった。
歴史館見学とハルモニの話が流れるようにつづき,自分のリュックをさぐる時間がとれなかったのである。
以後はすべての写真を,ゼミ写真班の「精鋭」たちにまかせることにする。
T田・O坪・N海・Tみ。
ものすごい「精鋭」である。
いいかげん満腹になったところで,サムギョプサルを仕切っていた,ペ・チュンヒ(○春姫)ハルモニの「指導」のもと,
ホールでの「宴会」の準備にはいる。
一方で片づけが,もう一方で,カラオケの準備が。
たくさんの学生たちが,右往左往しながら,ともかく流れに乗っていく。
ペ・チュンヒさんは,満州で「慰安婦」としての生活を強制され,
その後,朝鮮にもどることなく,1951年から81年までを日本ですごした。
キャパレーで歌をうたっていたこともあり,81才とは思えぬ,ハリのある声で日本の歌をうたう。
翌朝,ボランティアさんに聞いたことだが,
ペさんは,NHKのBS放送で,ひさしぶりに演歌歌手の千昌夫を見て,
「ああ,トシをとったなあ,ワタシもトシをとるはずだ」とつぶやいていたそうだ。
「異国まで来たんだから,センセイががんばらないでどうする」と日本語で詰め寄られ,
ひさしぶにこちらもカラオケを歌う。
激辛青トウガラシで汗がでて,ビールを飲んで汗がでて,さらに歌をうたって汗が出る。
杖をついて,歩くのもたいへんそうな,ハン・ドスン(韓道順)ハルモニが,「アリラン」をうたってくれる。
86才である。
大きな声はでないが,Yジャや相方が横にすわって,なにやら話している。
それにしても,ハルモニの「ブルーライト・ヨコハマ」に,
学生たち全員の合唱が起こるというのは,どういうことか。
なぜ80年代生まれの学生たちが,「ブルーライト・ヨコハマ」を。
遠い「異国」で新たな「謎」が生まれた。
10時30分には片づけに入る。
ドタバタ,ドタバタと片づけていく。
テキパキと動く学生,ボーゼンと立ちすくむ学生,
「自分で決める」ということに慣れない学生も多いが,
これは,ともかく経験と訓練を重ねるしかない。
小雨がパラつきはじめるなか,たくさんの布団を運び出し,
女性陣はホール1Fへ,唯一の男性であるこちらはホール2Fへあがっていく。
前回,2月の訪問とは,まるで実感のちがった「ナヌムの家」体験である。
2月には,この問題にあまりに無知であった自分を知り,
また,日本人でいることがいたたまれなくなるような気分におそわれ,
あいさつにでてきてくれたハルモニの顔を直視することもできなかった。
今回は,そこに肉声をかわし,楽しい時間をともにすごすことによる「交流」の成果が重ねられる。
この半年,いろいろなことを学び,問題に向かう自分なりの覚悟をつくってきたこともあるが,
「問題解決にむけて連帯しよう」という,ハルモニのことばには,勇気づけられたところが大きい。
カーテンのむこうに大きな仏サマのいる,八角形のホールで, しばしノートをひろげ,
12時すぎには眠りにつく。
2004年9月8日(水)……緊張の「水曜集会」,そして夜は運動の交流。
他人の迷惑をかえりみず,飽くことなく大声で朝を告げまくるニワトリの声。
さらに散歩につれていけと,吠えまくる犬の声がつづき,
その犬を“ウルサイ”と叱りつけるハルモニの大声で,完全に目をさます。
6時30分にはシャワーをあびる。
明け方には,1Fホールのオンドルに熱が入ったらしい。
あまりのあつさで,クーラーのスィッチがいれられている。
朝が早いハルモニたちの生活にあわせてのことなのだろう。
2Fにはオンドルがなくって助かった。
夕べから準備がすすんでいたキムチチゲと,たまごのお粥が,Yジャのリーダーシップのもとに完成させられていく。
そのあいだ,歴史館のまわりをブラブラ歩いていると,10時発予定の大型バスが,はやくも8時前にやってくる。
降りてきた,黒いサングラスのいかつい運転手さんが,オハヨウゴザイマスと日本語で声をかけてくれる。
どうも,時間をまちがえたということではないようだ。
8時すぎから,朝食をとる。
チゲやお粥の他に,キムチや韓国のりもならんでいる。
食べながら,I田先生がひどく蚊にさされた腕を見せる。
「どうしてなんだろ」「もっと若くておいしそうな血が,まわりにいっぱいあるのに」。
面白かったのは,オンドルの熱にうなされた,Aやちゃんの「夢」。
夢のなかで「Y嶋さんとチュヒョクが,ずっとかまどに火をくべていた」。
「悪そうな顔してた?」
「すっごい,スの顔で」。
どうも,この男性2人組に悪気はなかったらしい。
食後の片づけをしながら,学生T輪さんが,「デジカメのメモリーがなくなった」「おかしい」「買ったばっかりなのに」と騒いでいる。
そこで,「じゃあ,その電池をゆずってくれないか」といってみるが,
「なんてこというんですか。ワタシのデジカメをなんとかしてください」と逆襲される。
その後,問題はT田さんの手で解決されたらしい。
「メモリースティックをいれてなかった」という,超初心者以前的ミスがその原因であった。
朝日のなかで,ノートをひろげていると,Y嶋さんがコーヒーをいれてくれる。
「歌うまいですね。事務所で仕事をしながら聞いていました」。
トホホホホ……。
あれこれ雑談。
この8月に「ナヌムの家」の主催で,展示会があったという。
ハルモニたちの肖像写真と,ハルモニひとりひとりの「歌」を聞かせる展示である。
そのためにつくられたという,写真解説集『断絶の系譜』を1冊いただく。
「一部,文章の書き直しが必要なのでお金はいいです」とのことである。
肖像写真はY嶋さんの作品である。
Y嶋さんは,プロの写真家である。
「面白いものを見せてあげましょう」といわれ,I田先生・相方とともに,歴史館の事務所・資料室にいれてもらう。
ソウルでの展示につかれわた大きな写真パネルがあり,
ハルモニ1人1人の歌を聞かせる機器があり,
壁には,たくさんの文献資料もならんでいる。
I田先生が,韓国でのこの問題の取り上げ方などについて,いろいろと質問をしている。
そのあいだに,目についたいくつかの本のタイトルをメモしていく。
どこでもノートをひろげる姿が面白かったのだろう。
事務所を出るときに,「こういう場所,好きそうですよね」とY嶋さんに笑われる。
10時には「ナヌムの家」を出発する。
今日は水曜日であり,ソウルの日本大使館前で行う抗議集会「水曜集会」の日なのである。
ハルモニたちは,マイクロバスに,
こちらは,いかつい黒サングラスの運転手さんの大型バスに乗り込んでいく。
何人かのボランティアさんとは,ここでお別れである。
サザンオールスターズのファンであるチュヒョクが,
「また来てください」「女の学生さんばっかりですよね」「ラッキー」と1人で納得している。
「なにかサザングッズを送るよ」というと,「CD送ってください」と笑いながらいう。
まだ1週間しかここにいないオランダからの女性留学生(日本人)に,チュヒョクはすっかり従えられている。
どうも,そういうタイプの人間らしい。
お互いに,たくさん手をふって別れを終える。
バスにはY嶋さんにも乗ってもらい,あれこれと話をしながらソウルへ向かう。
まず,大学の予算ですすめている出版企画『ナヌムの家を訪れて(仮)』をあらためて説明し,これへの執筆協力をお願いする。
「ハルモニの写真や絵の解説をしていただき,日本の若い人たちに訴えたいことを自由に書いてほしい」と。
「〆切は12月末ということで」。
「う~ん,文章は苦手なんだけど」といいながらも,「そういう趣旨であれば,やりましょう」と快諾していただく。
ありがたいことだ。
総合文化学科叢書の1冊である。
なんとか今年度中には出版し,いまの4年生たちにも渡してあげたい。
大学とは原稿料などの相談をつめる必要があるのだろう。
つづいて,いままで日本各地で行ってきた「証言集会」のこと,これから計画している「証言集会」のことなど,
いろいろと「ナヌムの家」の活動について教えてもらう。
女性学インスティチュートあたりを主催の中心にして,大学にハルモニを招くこともむずかしくはないようである。
そう多くの費用がかかるわけでもない。
これは今後の課題として,考えていきたい。
さらに,日本で問題解決にむけた具体的な運動をどうつくるかについても,話が及ぶ。
「若いひとたちのピース・ウォークを『政治性がない』と批判する人もいるが」
「肝心なことは,その『政治性』をもつと称する年配の人たちと,若い人たちの豊かな感性をいかに結合していくかにある」。
「結局,問題はいつも政治にいきあたる」
「政治をつくりかえるプログラムを広く共有した市民運動が必要だと思う」。
まったく同感である。
11時すぎ,少し早めにソウル市内に到着する。
「時間があるので」と,Y嶋さんに「3・1独立公園」(塔〔タプ〕コル公園)を案内してもらう。
ここで最初に,大日本帝国からの独立をもとめる「宣言」が読み上げられたという。
日本の植民地支配に対する,1919年の朝鮮民衆による闘いである。
労働者,学生など,さまざまな人々の闘いが大きなレリーフに残されている。
ちゃんと女性の闘い,さらにはキーセンの闘いも,まったく同等にレリーフに残されている。
当時の日本政府は,これに対して徹底的な弾圧と殺戮をもって対抗した。
わずか86年前の事実である。
この闘いで命をうしなった父・母をもつ世代が,たくさんいる。
11時40分には,日本大使館前に到着する。
「韓国挺身隊対策協議会」(挺隊協)が,集会全体を運営している。
今日は第623回目の集会である。
この「継続の力」はすさまじい。
われわれも,日本でつくってきた,黄色い,大きな,手作りの横幕をひろげていく。
大使館を守る韓国の警察隊の姿に,学生たちは緊張の色を隠せない。
通常30名程度の参加者だというが,なぜか今日は80名をこえ,
それにあわせて警官隊の数もふえてくる。
トランシーバーをもって学生たちに話しかけてくる私服警官の様子は,日本とまるで同じである。
「挺隊協」で働いているS田さんという方が,「発言を準備されていますか」「せっかくこられたのですからなにか発言してください」
「先日は同志社大学の学生さんが発言されていきました」と声をかけてくれる。
こちらがしゃべろうかとも考えるが,しかし,ズラリとならんだ10人のハルモニには,
若い声こそはげみになる。
こういう場に「強そう」な3人に声をかけて,短時間での発言準備を依頼する。
発言を通訳するYジャの顔にも急速に緊張がはしっていく。
「岩のように」という,歌の合唱がはじまる。
「どんな困難があっても,強い,岩のような意志をもって,打ち破っていこうという歌詞」だと,
S田さんが教えてくれる。
「あとで学生さんたちにつたえてあげてください」と。
日本人の若い女性である。
まず「挺隊協」のメンバーが演説を行い,つづいて日本からの弁護士グループ,韓国の僧侶,シスターたちと,
集会参加者の発言がつづく。
つづく5番目が「神戸女学院大学石川ゼミ」の出番であった。
最上級の緊張を顔にうかべた9人が,横幕をハルモニたちの前にかかげ,
その前で3人の学生がしゃべっていく。
度胸満点のゼミ委員長O西さん,
見るからに意志の強そうなK下さん,
そして,どんな場面でも緊張とは無縁にみえるN海さん。
急いで書いたメモの1行1行を,まず学生が読み上げ,それをYジャが韓国語に訳してつたえる。
事前にメモの内容は見なかった。
メモがつくられていることも知らなかった。
しかし,予想をこえる出来である。
学ぶこととともに,覚悟を決めて行動するということは,人をしっかりと育てるものである。
昨日,話をしてくれたカン・イルチュル・ハルモニが,大きな拍手を送ってくれたのがうれしかった。
そのあとも,何組かの発言がつづき,韓国語でのシュプレヒコールもつづく。
韓国のテレビ局がカメラをまわし,われわれの横幕には,新聞記者であろう人たちのカメラが何度も近づいてくる。
横幕にハングル文字で書いた言葉は,「私たちも謝る。日本政府も謝れ!」である。
ゼミ生全員で一文字,一文字,Yジャの「お手本」をまねて書いたものである。
そして,そのメインの言葉のまわりに,今回の参加者全員が自由に日本語で一言を書きこんだ。
端の方には,「あやまれ~」と叫ぶワルモノの絵もある。
抗議と連帯の熱気のなか,1時前には,集会が終わる。
東京から来て,憲法9条「改正」問題の重大性を訴えた弁護士さんのグループや,
同じく日本からやってきたAALAの副理事長さんとも名刺をかわす。
こんなところで名刺が必要になるとは思っていなかった。
テグ(大邱)で,ハルモニたちの生活支援をしているというパクさんを紹介されるが,
こちらには,もう交換できる名刺がない。
Y嶋さんからは,「次に来たときには,ぜひ『ナヌムの家』からテグまで足をのばして」と要請される。
パクさんも,明るく元気な女性であった。
やはり,この種の運動には,女性の力が大きくはたらいている。
集会参加者のうち40人ほどで,近くの食堂になだれこむ。
毎週,集会のたびに,ここに来ているらしい。
われわれは二手にわかれ,こちらは,Tみ・T田の「精鋭」写真班およびI田先生といっしょに,食事をとる。
互いにからだがキムチくさいと「自慢」しあい,
「この3つからえらべ」という食事は,I田先生が勝手に「ビビンパ4つ」にまとめていった。
しばらくして出てきたビビンパに,全員でクビをひねる。
ナムルがのっかった日本の石焼風を想像していたのだが,それとはまるでちがう,さっぱりとしたシロモノである。
これは「この店流」で,季節の野菜をつかう特別製なのだそうである。
それにしても,韓国の料理はほんとうによく野菜を食べる。
バスの待ち合わせ時間がせまってきたので,たくさんの人が食事をしているなか,先に店を出させてもらう。
何人かのハルモニに声をかけ,手をふってもらって,外に出る。
集会中は放心状態に近かった何人かの学生も,普通の気分にもどったようだ。
近くの大きな交差点で,Y嶋さんとお別れする。
25時間つきっきりで,ホントウにお世話になりっぱなしであった。
どうも,ありがとうございました。
おかげで,無駄のない充実した時間をすごすことができました。
学生たちもそれぞれにあいさつをする。
これで,この旅行のすべての「公式行事」は終了である。
急に肩のあたりが軽くなり,アタマの上がスッキリする。
こういうエネルギーのいる取り組みを成功させるためには,
「他人にまかせる」ということが大切なのだと,あらためて実感する。
「なんでもかかえこんでしまう」ことが多いわが人生の,重要な改善課題である。
2時20分には「豊田ホテル」にもどる。
フロントで「宿泊が予約されていない」といわれて驚くが,
予約者氏名が,なぜか学生F尾さんの名前になっており,それで話がかみあわないだけのことであった。
「明日の朝8時40分にロビー集合」「それまでは完全自由時間」とみんなに言いわたし,
1Fエレベーター前で解散とする。
部屋にもどり,シャワーをあびて,ひと眠りすると,韓国の世間ははやくも夕方になっていた。
相方は,ホテルのプールで泳いできたという。
6時には,ロビーに降りていく。
Aやちゃんと,カン・ジェスク(姜済淑)さんが,すでに待ち構えている。
カンさんは,しばらく前まで「ナヌムの家」で活動しており,
いまは「平和市民連帯」の代表として,アジア各地で活躍している。
「その道」では,かなり名前のとおった方らしい。
紹介してくれたのはAやちゃんである。
Aやちゃんは,以前に「ピースボート」で南北朝鮮を訪れたときに知り合ったという。
東大大学院に4年留学していたカンさんの日本語は見事である。
運転の荒いタクシーに乗って,イムサドウ(仁寺洞)へ移動する。
まずはフィールドワークだと,天道教の教会を案内してもらう。
ここは,子どもの人権を守る運動の世界的な発祥地(1930年)として,記録されているらしい。
大きな記念碑がたっていた。
そして,この教会の教えは,「東学革命」(東学党の乱,1894年)にもつらなったものだという。
「東学」は「西学」(キリスト教)に対抗する宗教という意味をもつ。
このあたりは,韓国のさまざまな歴史の密集地で,観光コースには入っていないが,たくさんの史跡があるのだという。
「伝統的な瓦づくりの家が多かったが,経済成長と開発で少なくなってしまった」
「土地の値段があがったから」。
近くの美術館に入ってみると,真ん中のテーブルにたくさんの料理がならんでいる。
美術館の展示物が新しいものにかえられるたびに,こうして,いわば人集めのために料理がならべられるという。
「どこも同じ曜日にかえるから,その日に美術館をまわるといろんなものが食べられる」とカンさんは笑っていた。
サッパリと煮込んだ大きな豚肉がとてもウマイ。
ほろ酔い気分であろうか,陽気なフレンドリーオジサンに,このブタは,こうやってキムチを巻いて食べるのだと,
大きなヤツを口の中に放り込まれる。
正月や還暦など,お祝いにつかわれるキレイなお菓子もながめ,
さらに,フレンドリーオジサンに,松の実のジュースを渡される。
さっぱりとした甘さがある。
次の美術館は,書展となっていた。
書道かと思ったが,筆をつかって書いた絵であった。
ここにも料理がならんでおり,日本風の巻き寿司があり,
さらに「お盆のダンゴ」だという,丸い小さな餅のなかにハチミツとゴマがはいったものがある。
餅のなかからトロリとしたものが出てくるというのは,はじめての体験である。
「イムサドウは,メインストリートではなく,こういう裏道が面白い」とカンさんがさかんに語ってくれる。
とある裏道の裏道をカクカクと折れて,突き当たりにあった「風流舎廊」という家庭料理の店に入る。
市民運動の仲間たちが集まる,ある種の「隠れ家」であり,気の置けない仲間の集まる店だという。
壁一面に,ここへやってきた人たちの言葉が書かれている。
ハングルあり,英語あり,日本語ありと,じつに国際色豊かである。
かつて民主的な出版事業をやっていた社長が,いまはこの料理店を経営しているのだという。
その社長が,途中で,顔を出して,あいさつをしてくれた。
言葉はつうじないが,顔を見合わせるだけで,互いの心がわかりあえる気がした。
すりつぶしたゴマと味噌をベースにした,すいとんのスープ。
山ほどのネギが入った魚介のチヂミ。
甘辛く味つけされたタコとそうめん。
これを,松の葉の粉がはいっているという,うすい緑色のマッコウリを飲みながら食べていく。
う~む,ウマイのである。
しゃべる,しゃべる,飲む,飲む,食べる,食べる,笑う,笑う……。
カンさんに名刺をいただくが,申し訳ないことに,やはり,こちらには1枚もない。
さらにプレゼントとして,日本でいう共同作業所の障害者たちがつくったお皿をプレゼントしてくれる。
「平和市民連帯」がつくった,日本語の冊子『韓国の歴史文化フィールドワーク』も。
なんだか,たくさんいただいてしまって申し訳ない気分になる。
カンさんは,とても良くしゃべる,明るい女性である。
ご自身でも「運動は楽天的にやらなくちゃ」と,何度も語っていた。
韓国の運動,日本の運動,その共通点と相違点,一段の発展にむけて必要なことについての問題意識……。
たくさんのことを,楽しく,しゃべっていく。
政治については,昼間のバスでのY嶋さんとの話とつうじるところが多い。
日本の運動については,若い世代が中心となった市民運動と,
狭い意味での政治の世界の運動を結合していく「戦略」の必要を,あらためて感じさせられる。
たくさん質問もさせてもらう。
民主化世代の「同志」たちが,政党,市民運動,あらゆる場所に散らばっており,
そこには,社会主義さえ排除する思想がないという。
「社会主義者の出獄は民主化運動の成果です」とカンさんは語る。
「マルクス・レーニン主義は方法論としては今もいい」とも。
70年代半ばからの「反共攻撃」で,革新自治体をささえた「統一戦線」が破壊され,
思想的にもマルクス主義者と市民運動とのあいだに,乖離がうまれた日本の現状が痛ましく思える。
「まともな社会民主主義」が育っていないという問題,
知識人のなかにさえひろく浸透している反共主義。
政党の側からも,市民運動の側からも,互いに力をあわせる姿勢を,より強いものにしていく必要がある。
他方で,日本は韓国より「敵がみえづらい」という運動の複雑さも話題となる。
教育やマスコミによる「見えない支配」の網が発達しており,「韓国もこれからそうなっていく」とも。
最後には「相方=宇宙人」説で,楽しいひとときのシメとする。
11時20分には,店を出る。
コンビニで「日本人の貧しい朝食」を買い,近くの餅屋で,おいしそうな韓国餅を買う。
タクシーでホテルの前まで送ってもらい,カンさんはそのまま同じタクシーで自宅へもどる。
とても,気持ちの良い,刺激的な時間であった。
元気な,いい人だと,心底思う。
「市民による国境をこえた連帯」の大切さを実感する。
あわせて,自分の歴史観が,「近代国家」の地理的枠組みにあまりに深くとらわれすぎていないかと,
ちょっと反省させられもする。
ホテルの前でAやちゃんともお別れ。
彼女は,われわれより1日長く滞在し,またカンさんと会うことになるらしい。
別れ際,相方に向かって「ちょっとジマンしていいかな」と口火を切る。
「兵庫県うかった」「え~っ」。
2人は医療・福祉方面の専門職をめざす受験生仲間でもあるのである。
「今度うちに遊びにおいで」と声をかけて,サヨナラをする。
新聞記者志望だったというだけあって,自立心旺盛な人である。
11時40分には,部屋にもどる。
夜のニュースをながめていると,韓国のKBSが,今日の「水曜集会」を紹介していた。
焦点は,日本からきた弁護士グループによる憲法問題での訴えであったが,
われわれの黄色い横幕も,少しだけ画面に登場していたようである。
こうした運動や主張の内容をありのままに報道するあたり,
韓国のマスコミは日本のそれよりはるかに健全である。
そういえば,カンさんは,マスコミにおける大株主支配の排除という課題についても語っていた。
視野の広い人である。
2004年9月9日(木)……キムチをゲットし,日本にもどる。
7時20分には起き上がり,日本のニュースをながめながら,ヨーグルトを食べる。
シャワーをあび,ノロノロと動いて,8時40分には,ロビーに全員集合。
例の元気のいいガイドさんも,すでに,やってきている。
昨日は山に登ってきたらしい。
9時前には,バスに乗り込み,ホテルをあとにする。
昨日にひきつづき,バスのなかで「トウモロコシ」パンを食べていく。
ところが,今朝は「トウモロコシ」の味がしない。
そして,コーンの粒も出てこない。
パンの袋は同じにみえたのだが,製造メーカーがちがっていたのかも知れない。
車中「日本外交の人」から,「日韓癒着の人」へと変態していく。
9時40分には,2月にも来た「キムチ土産屋さん」に到着する。
空港へむかう旅行者が,みな降ろされる,定番の土産屋といったところである。
たくさんのキムチの試食をすすめられ,それぞれの値段が紹介される。
ハンパにウォンが残っても仕方がないので,「王様のキムチ」と「明太子」を買ってみる。
となりではT輪さんが,「学生はお金がない」「もっと安くしてほしい」と値切り交渉に入っている。
しかし,成果はなかったようである。
うしろで休憩していたガイドさんに,「明太子」のおいしい食べ方を教えてもらう。
「つぶしたニンニク,しらがネギをごま油であえて,これを明太子といっしょに食べる」のだそうである。
そうすると「味の深みがちがう」と。
なるほど,そうなのか。
韓国ではそういう具合になっているのか。
土産屋は大きなビルの地下にあるのだが,その1F出口で,飲み物の自販機と公衆電話が一体になった不思議な機械を見つける。
コーヒーでも飲みながら,ゆっくり長電話をしろということなのだろうか。
さかんに面白がっていたI田先生が,この自販機で「米の飲み物」を買う。
学生たちとまわし飲みをしていたが,味は「アルコールのない甘酒」といったところらしい。
バスにもどり,しばらく走って,10時40分には空港に着く。
搭乗手続きをとり,ガイドさんとは,ここでお別れとなる。
あれこれ,どうも,ありがとうございました。
あわせて,案内や通訳でとてもお世話になったYジャとも,ここでわかれることになる。
「水曜集会」での通訳では,とても緊張し,「ハルモニという音さえ発音できなかった」という。
なるほど,Yジャにとっても,あの手の集まりははじめてだったわけである。
日本にもどるのは月曜日になるという。
さらに,「集会」で完全に目がテンになっていた学生I本さんも韓国に残るという。
「友だちがいるので」とのことである。
たのむから,無事に帰ってきてくれ。
出国手続きを終え,I田先生,相方とともに,コーヒーなど飲んで,ちょっと落ち着いてしゃべっていく。
I田先生は,夕べ,韓国で女性問題を研究している友人たちと会ってきたという。
お互いの情報をあわせて,紹介しあう。
「独身」女性に対する韓国社会のプレッシャーは,依然,相当強いもののようである。
「慰安婦」問題については,政府が自ら,あれほどの規模でレイプを推進することの格別の野蛮さが話題になる。
「民族浄化」といった,なにかの理念があったわけでもない。
それは,後発帝国主義といった一般的な概念だけで理解されるものではない。
日本社会のいまを,世界各地との比較のなかで,歴史的にとらえることの大切さが実感される。
モノをつくる能力はやたらと発達しているが,「人間の社会」としての成熟度には相当に深刻な欠陥があると思える。
自民・民主2大政党体制,憲法「改正」への企みなども話題になる。
12時40分には,予定どおり,韓国を飛び立つ。
眠気と闘いながら,機内「日韓癒着の人」となる。
移動の際には,どこでも必ずガックリと眠っていたI田先生が,なぜか,眠らずに映画に集中していた。
「日本旅行」社による日程表では「機内食あり」となっていたが,出てきたのは,飲み物と「おつまみ」だけであった。
別に,ゆれがひどかったわけでもないのだが。
どうなっているのだろうか,担当者S山さん。
2時10分には,関空に無事到着となる。
シートベルトをはずしてよろしいという安全サインが出たところで,
「ただちに写真を送ってくれ」とみんなに頼み,機内で「これにて解散」とする。
これで,この大学の長い歴史のなか,はじめての公式海外ゼミ旅行は無事終了となった。
次の課題は,この体験を,春からの学びの成果とともに『本』にまとめていくことである。
お世話になった,たくさんのみなさん,ありがとうございました。
学生たちのひとまわりの成長に,強く期待したい。
細谷千博『日本外交の軌跡』(NHKブックス,1993年)を読みおえる。
列強への仲間入りから現代まで,広く日本の外交政策が紹介される。
戦後の日ソ・日中関係が,中ソ関係のあり方に大きく左右されていること,
またアメリカの対アジア政策に深く規定されていることがよくわかる。
やはり,日本の対外政策の意味をとらえるためには,まずアメリカの政策を知らねばならないようだ。
それをコンパクトに教えてくれる文献がどこかにあるといいのだが。
福田内閣時代の「内需主導型」への転換は,アメリカとの摩擦だけではなく,EUとの摩擦激化のなかでのことでもあった。
なるほど,それで「転換」がサミットでの合意になっていくわけか。
ベトナム以後のアメリカの政策変化も重要である。
コメント