今年の前半期に、父と母がなくなりました。
2月18日と5月8日のことでした。
以下は、5月9日の母の通夜で、
長く会う機会のなかった親戚を前に
語ったことのあらましです。
私自身の心の区切りのために書いておきます。
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母の思い出を少しお話します。
母の発病は、私が2~3歳の頃でした。
30歳前後の若さで統合失調症になった母の人生は、
あまり幸せとはいえないものでした。
私にとっても、母にかわいがられた記憶は、
残されたアルバムの写真の中にしかありません。
母は入退院を繰り返していましたが、
家に母がもどることを、
幼い私は、コワイとしか感ずることができませんでした。
病状が悪くなれば、また入院するわけですが、
その直前には、いつもまわりに対して攻撃的になり、
時に、腕力をふるうこともあったからです。
一時期、家の2階に女子学生が下宿していましたが、
その学生を、馬乗りになって殴りつけたこともありました。
子どもだった私は、それを、黙って
泣きながら見つめていたことを覚えています。
18歳の時、私は札幌を離れ、京都へうつりました。
意図した自覚はありませんでしたが、
それは、母あるいは
つらい思い出に満ちた家との距離がとれる点で、
ある種の解放感に満ちたものでした。
20歳になった時、長く、私を育ててくれた父親が
蒸発したとの知らせを受け取りました。
父は、母との離婚の手続きをとり、
医療保護を受けるための手続きもとって
姿を消していきました。
母にとっては50歳前後での離婚です。
父親の行き先は、私にもまったくわかりませんでした。
当時は、親戚のみなさんにも情報が交錯し、
「おまえもグルだろう」と、
離婚を、父と私の共謀であるかのように
言われたこともありました。
「頼ることのできる大人は1人もいなくなったのだな」と
そう強く思ったことを覚えています。
その後、私は、京都で、25歳で結婚しました。
その直前に、妻といっしょに札幌を訪れ、
母といっしょに洞爺湖の方へ、小さな旅行をしてみました。
その時に、みなさんの何人かにもお会いして、
父と母の離婚の際の誤解はといていただくこともできました。
それからは、母とのあいだに手紙のやりとりがつづきました。
病気が病気ですから、書かれていることの中身には、
あまり理解できないところもありましたが、
それでも、思いだしたように、手紙の往復がありました。
今日ここに同席しているH子が生まれたばかりの頃、
中学生だったころ、それから高校生の年代でと、
数年に1度は、親子で母の病院をたずねもしました。
いま思うと、H子が生まれたころの母は60歳前、
高校生の年代には70歳になっており、
当時の私の実感よりも、ずっと年をとっていたのでした。
私が結婚した時に、母に京都の病院にうつって
もらうということを相談しました。
妻が社会福祉の仕事をしており、
そのあたりの事情にづいては、
いろいろわかるところがあったのです。
札幌の病院のワーカーさんとも相談しました。
しかし、環境をかえることが病気に良いとは思われない、
特に母の兄弟姉妹と離れることが、母にはよくない。
また、自治体をこえて移動した時に、
現在と同じケアが行政から提供される保証がないとも言われました。
そこで、これは断念しました。
母本人とも相談した上でのことでした。
その後、私の人生にも、いろいろなことがあり、
最近7年ほどは、母とは、手紙だけで連絡となっていました。
この連休中に、病院のワーカーさんから「容態が悪い」と連絡がありましたが、
その後「もちなおした」とも聞き、
子どもたちと、「夏にはひさしぶりにお見舞いにいこう」と
いささかのんきな計画を立て始めたところに、
昨日、「亡くなった」という連絡が入ったわけです。
大阪から千歳へ向かう飛行機の中で、
このような過去をズッと考えながらやってきました。
なんとも不思議な親子関係だったと思います。
子どもを愛する力を失ってしまった母親と、
コワイという実感しかもてなかった母に
子どもとして接することを求められる息子。
しかし、それが私にとっての母子関係の現実でした。
みなさんには、私が知る以前の若い母の記憶があり、
また、私がよくは知らない、
老いてからの母の思い出があると思います。
それは、私とはずいぶん違ったものかも知れません。
しかし、以上が、親子の当事者として、
私が体験してきた関係です。
じつは、2ケ月ほど前に、
父が、同じく、この札幌で亡くなりました。
私が20歳の時に蒸発したわけですが、
その後、私が27歳の時に、突然、家に電話があり、
その後、子どもたちと札幌を訪れた時に、
2~3度あったことがありました。
父は、30歳から50歳まで、病気の母の世話をし、
子どもであった私を育ててくれました。
それは、たいへんな苦労であったと思います。
しかし、再び出会った父からは、
突如、蒸発したことへの詫びもなく、親子の愛情がもどることはありませんでした。
亡くなる直前に、札幌の病院から、
「これ以上の延命措置をするか」
について確認の電話がありました。
父には、私と別れてから、
長く、親しく暮らした方があるにもかかわらず、
その確認は、「戸籍上のつながり」を理由に
私にまわってくるわけです。
世の中というのは、不思議なものだと思わされました。
亡くなった父は83歳でした。
もし、みなさんのお許しがいただけれるのであれば、
骨になった母は大阪につれてかえろうと思います。
亡くなって、はじめて、安心していっしょにいれる
というのは、おそらく悲しいことでしょう。
しかし、53歳の私の人生のうち、50年間は、
幼い頃のコワさの体験と、そのトラウマを通してしか
母に接することはできませんでした。
言葉が適切ではないかも知れませんが、
こうして母が亡くなったことに、
私は、からだのどこかで安心を感じています。
みなさんには、たいへんにお世話になりました。
たくさんの方に、親しく、見送っていただくことになり、
母もよろこんでいると思います。
長い病から解放されて、
これからは、母も、安らかに時をすごすことができる、
そう信じたいと思います。
今日は、みなさん、ありがとうございました。
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