〔7月5日〕
7月5日は、6時起床の朝であった。
メールをチェックし、
特殊栄養ドリンクをクピリと流す。
ゴミを出して、7時20分には外に出る。
JR「加島」から「伊丹」へ、「大阪空港」へ、
予定の8時には、3年ゼミ生全員集合となっていく。
9時には「大阪空港」を出て、
10時30分の「羽田空港」到着である。
機内「多喜二の人」となっての移動であった。
ドォ~ンという着陸だったが、
となりに座ったO野さんは、
身動き一つせず、眠り続けていた。
「民主青年新聞」の若い記者W田さんと合流。
モノレールで「浜松町」へ、メトロで「日本橋」へ、「早稲田」へ、
ここでいったん解散し、
各自昼食をとることにする。
12時10分、早稲田つけめんをゾゾゾゾゾ。
あまりの辛さに、ダラダラ汗を流して、
記者さん撃沈となる。
1時には、「女たちの戦争と平和資料館」(WAM)に到着。
久しぶりのスタッフみなさんにご挨拶をし、
各自500円分ずつ持ち寄ったお菓子を贈呈していく。
かきあつめられるお菓子の山。
毎日ボリボリ食べても、1週間はもちそうである。
フェリスの先生、学生さんとも合流し、
さっそく学習態勢に入っていく。
「1932年に、海軍陸戦隊が上海に」
「1937年には、南京大レイプが」
「『慰安所』、個別の強姦、地域ぐるみのマスレイプ、
『慰安所』がつくられなかった地域での強姦所など、
レイプには4つのタイプが」
「幼い頃のレイプで泌尿器が傷つき、
生涯おむつがはずせなくなった人もいる」
「漢口の積慶里はおそらく最大の『慰安所』街だった」
「戦後、対日『協力』者を裁いた漢奸裁判で被告とされる」
「被害者が戦後も迫害され、暴力を受けていく」
「アブグレイブ刑務所でも男性被害はTVになるが」
「夫の前でのレイプや家族の『名誉』を守るという『名誉殺人』の対象にも」
「状況理解にジェンダー視角は欠かせない」
1時間ほどの解説を受け、
あとは各自が学んでいく。
思い思いの学習である。
いくつかの資料や文献をリュックをつめて、
3時前になったところで、
こちらはWAMを後にする。
学生たちは、そのまま夜まで学習。
メトロ「早稲田」から「高田馬場」へ、JR「代々木」へ、
車中「メモ整理の人」となって移動し、
本づくりでお世話になっている出版社へ。
書籍編集部におじゃまするのははじめてである。
短いおしゃべりの後、
学生時代の友人と会うことになる。
予期せぬ状況の展開であった。
近くの大きなビルの1Fで、
30年ぶりの「再会」である。
「非正規雇用問題などでの若い世代の取り組みに対する
テレビ、新聞、雑誌のかなり熱心な連絡」
「マスコミの雇用構造が『非正規』だらけであることも」
「自分も現代の蟹工船の乗組員である、
だが、他方には、あの船員たちのように
酒を飲んで話し合うことができないもどかしさの共有もある」
「学習では身近な問題からはいることが大切、
体系に身近な問題を埋め込むのではなく」
「体系的な学びに自らいたる道をつくることに工夫がいる」
やあやあと握手してから、
あっという間の2時間だった。
なるほど、専門家には聞いてみるものである。
JR「代々木」から「新宿」へ、
車中「メモ整理の人」となって移動する。
地図を片手に居酒屋をさがし、
ミドリの帽子をかぶった4年ゼミEてぃと合流する。
6時半には、3年生もドヤドヤと集まり、
にぎやかに宴会の開始となる。
8時までの時間制限があり、
飲み食いは、一挙にすすんでいく。
聞けば、WAMにはその後も新たなグループの到来があり、
そちらとの交流も、多少あったらしい。
店を予約してくれたのは
東京在住の卒業生H野さん(2年前卒)であり、
わがゼミ2期生の卒業生I塚さんも顔を出してくれた。
8時すぎには一次会終了となり、
学生たちは「カラオケ」へ、「クラブ」へと、
元気一杯に繰り出していく。
チーム「ちょっと大人」は、
もっともしゃべろうと2次会へ。
「たった今まで学会に出ていた」と、
鍼灸師のタマゴHろも
「新大久保」から歩いてやってくる。
あれこれのおしゃべりは尽きるところがないのだが、
11時ちょうどの終了とする。
〔7月6日〕
7月6日は、8時すぎ起床の朝であった。
ヨーグルトと野菜ジュースの朝食をとり、
9時30分には、1Fロビーに集合となる。
それにしても、やたらと外国人の多いホテルであった。
タクシーに乗り込み、「九段下」へと移動する。
サミットのためだろうか、
あちこちにたくさんの警察官がいる。
10時すぎには、「しょうけい館」に到着し、
スタッフのみなさんにご挨拶。
記者W田さんとも、再合流。
さらに、今年もガイドをお願いしている
長谷川さんと合流する。
「この建物の3Fには傷痍軍人会がある」
今年はイヤホン初実験での解説であった。
「明治6年(1873年)に徴兵制が確立する」
「徴兵検査は20才の時」
「公娼制があったので、
性病罹患は重要な検査項目のひとつとされた」
「陸軍のデータでも戦病者の8~9%は精神病、
戦場はそのように人の精神を痛めつける」
学生たちは、たくさんのメモをとりながら、
展示をながめ、館内を歩く。
傷ついた軍人たちの戦後を描いた映像も見る。
「目をやられて、子どもの顔が見れなくなった」
「足をやられて正座ができなくなり、
いつもあぐらをかくのを『横着者』といわれ
人づきあいができなくなった」
「いまも戦場で傷つき一晩を一人ですごした
あの夜の恐怖が忘れられない」
1Fには、傷痍軍人・水木しげる氏のコーナーもある。
「目玉のオヤジのヒントは戦傷病者の義眼、
妖怪の世界に描かれるジャングルは戦時の南方の様子だと思う」
長谷川さんが語られる。
11時30分には、「しょうけい館」に荷物をおかせていただき、
九段会館(旧軍人会館)へ移動する。
屋上に移設された護国神社だが、
これは靖国に何かがあった場合にそなえる別宮だとのこと。
靖国の大鳥居をくぐる前にも、
歴史を示す史料がたくさんある。
こちらは薩摩出身の大山巌像。
日露戦争では、満州軍総司令官であった人物である。
暑いので、木陰をえらびながら靖国へ。
まずは境内をジックリながめていく。
一対の狛犬の奥にある石獅子。
『靖国神社誌』(1911年)には
「明治27、8年役の戦利品なり」と明記されている。
日清戦争のことである。
去年は「晋ちゃん饅頭」が人気だった
お土産屋さんだが、
今年はこんな具合である。
「やっくんのねじれ餅」よりも、
(ねじれ国会にかけているなら何とも見事なネーミング)
麻生太郎氏の「男前揚げ」や「太郎ちゃんの暴れ 明太子せんべい」
に力が入っている様子。
靖国政策の相違がなせるワザであろう。
店の横では、軍服のオトウサンが、
こんな展示のテーブルを出していた。
「長野を聖火が走った日には、
このへんのウヨクは人っ子一人いなくなった」
長谷川さんが、当日の様子を教えてくれる。
富国徴兵保険相互会社が贈呈した大燈籠。
兵士の「勇敢な闘い」を描いたリレーフは、
47年2月にいったんコンクリートで塗り固められるが、
57年4月にははがされている。
徴兵保険は、男子15才まで保険料を払っておれば、
徴兵と同時に1000円(そのころのサラリーマンの年収)が
受け取れるものであったらしい。
第一徴兵保険会社(戦後の東邦生命)が
1934年に奉納した神門である。
材料は良質の台湾檜。
正面から見た拝殿である。
何人もの方が、拝んでおられる。
この1つ奥に本殿があり、
さらにその奥に霊璽簿奉安殿がある。
天皇・皇后の休憩所である「齋館」の前で、
「天皇による参拝は行われていないが、
勅使による参拝がこのように」
と、長谷川さんが写真を示してくれる。
映画「靖国」であらためて注目を集めた「靖国刀」だが、
ここに1932年に設置された「行雲亭」があった。
日本刀鍛練会の鍛練所であり、
終戦までに8100口の日本刀を製作したという。
戦没者の魂をまねく儀式を行った
招魂斎庭の跡である。
現在は、多くが月4万円の駐車場に姿をかえ、
靖国の重要な収益源に場所をゆずっている。
2005年に建立されたパール博士顕彰碑。
同氏は、東京裁判での被告28名の
「全員無罪」を主張したことで良く知られる。
とはいえ、博士は裁判の手続きに意義を唱えはしたが、
戦争犯罪がなかったことを主張したわけではない。
もともとは97年、京都霊山護国神社に、
元大本営陸軍参謀・瀬島龍三氏を代表とする
陸士出身の経済人たちがつくったもの。
この碑には英訳がなく、
靖国が配布している英訳つきの「やすくに大百科」には
碑があることの紹介もない。
軍犬慰霊像には、この日は、ドッグフードがそなえられていた。
遊就館の中に入る。
入口にあるのは「ゼロ戦」だが、
これが「ゼロ」という敵性語で呼ばれるようになったのは
もちろん戦後のことである。
1時をすぎて、ようやく昼食。
海軍カレーと海軍コーヒー。
「肉じゃが味のカレーですね」
学生たちの感想だが、
戦時中の軍人食が「うまい」わけはないのである。
30分ほど休んで、館内の展示をながめていく。
展示は撮影禁止であるから、
こちらで、わずかばかりを体感されたし。
映像「私たちは忘れない」を10分ほどながめる。
これは、いまは YOU TUBE に全体がアップされている。
「『北清事変』の歴史的意義をキチンと学んでほしい」
「日露戦争後のポーツマス条約で、
日本は朝鮮への『指導権』を獲得した」
「38式歩兵銃で最後まで闘った、
日本には自動小銃がなかった」
「日本の木造家屋を焼失させる焼夷弾が工夫された、
アタマの重りで屋根の瓦を砕くようになっている」
「これの開発にあたったのがカーチス・ルメイだが、
戦後、航空自衛隊への指導の功績を理由に、
ルメイには勲一等旭日大綬章が授与された」
「アメリカは1945年11月に
九州上陸をはたすオリンピック作戦、
46年3月に関東上陸する
コロネット作戦をすでに立てていた」
「毒ガスやイネを枯らすための枯葉剤も用意していたが、
枯葉剤はベトナム戦争で使用されることになっていった」
「8月15日がなければ、日本全土が沖縄以上の悲惨
を味わっただろう」
「アメリカは、目的の周辺でも爆発するVT信管を開発し、
特攻機の多くが打ち落とされた」
「戦後、昭和天皇は各地を巡幸するが、
1947年6月には兵庫県にもいっている」
(6月12日に神戸女学院を訪れている)
たくさんのお土産もならんでいるが、
この場所ならではのものがたくさんある。
自衛隊の饅頭には、1つ1つに
日の丸や旭日旗、戦闘機、戦車、軍艦の絵があった。
日の丸は、食っていいのか、うまいのか。
5時ちょうどには、靖国を後にし、
コインロッカーを使わせていただいた「しょうけい館」にもどっていく。
歩き詰めの1日である。
最後に、ご自身の父上の話まで紹介していただいた長谷川さんに、
ゼミ生代表が、お礼の言葉を述べていく。
最後の記念の1枚である。
長谷川さん、記者のW田さんとは、ここでお別れ。
今年も多角的充実の学習ツアーとなった。
長谷川さん、ありがとうございました。
W田さん、いい記事を書いてください。
一路「羽田空港」へ。
搭乗口集合までは、自由とする。
レストランがどこも一杯なので、
こちらは、空弁を待合室で食べていく。
目の前の滑走路を、
にぎやかなピカチュウ飛行機が移動する。
みんなが集まったところで
今後のゼミについて相談をする。
「明日のゼミは休みとする」
(ワー、キャー)
「ただし、次回のゼミでは、①今回特に印象的に思えた事実、
②それを印象的に感じた理由を、各自15分で発表のこと」
(「やっぱりドSや、ドS」、「また尋問やで『それで? 根拠は?』」……)。
まったく、最後まで、良くクチの動くメンバーである。
7時20分には、飛行機に乗り込む。
機内「多喜二の人」となっての移動である。
8時50分の「大阪空港」到着。
前の飛行機がトリと接触し、
離陸がずいぶん遅れていく。
しかし、横にすわったT越さんは、
それら一切に気付くことなく爆睡していた。
「大阪空港」でのシメの儀式。
こちらは、9時40分の帰宅であった。
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