松井やより著『愛と怒り 闘う勇気--女性ジャーナリスト いのちの記録』
(岩波書店,2003年)
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1・「松井やより」さんとの出会い
2002年に亡くなられた,松井やよりさんの自伝である。がんの告知から永眠までは82日の期間しかなく,そのなかでこの本のためにペンをとらなかった日は,最後の4日間しかなかったという。書名『愛と怒り 闘う勇気』は,彼女自身の生き方を良く示していると思う。伝記の書評はなかなかむずかしいが,自身による記録の紹介を中心に,その人生への共鳴と感嘆の思いを表してみたい。
私にとっての「松井やより」は,なんといっても「慰安婦」問題解決への取り組みと一体となった名前であった。とはいえ,私がこの名前にふれたのは,おそらく最近2年のことであり,古くから知っていたわけではない。それは彼女が亡くなった後のことである。
2004年,2005年と,私はゼミの学生たちと一緒に,韓国の「ナヌムの家」を訪問してきた。ゼミでは時間をかけて「慰安婦」問題を学び,学内では韓国訪問の報告会を行い,そうした学生たちの取り組みを記録する本も出版してきた。その学びの中で,私は2000年・2001年の「女性国際戦犯法廷」を知り,準備の中心に立った「松井やより」という人を知った。残念なことに,私が彼女の姿をはっきり確認する最初の機会となったのは,彼女の死を悼む1本のビデオの中でのことであった。『松井やより 全力疾走 ガンと闘った2カ月半の記録――アルバムでたどる その時代と生涯』(ビデオ塾,2003年)がそれである。
ただし,2005年6月27日,ゼミの時間に見たこのビデオには,「慰安婦」問題の解決に全力を傾注しつづける彼女の姿とともに,「慰安婦」問題にたどりつくまでの彼女の人生全体の見取り図が収められていた。
私にとっては,その見取り図もまた感動的なものであった。男性中心主義をいまだ色濃い特徴とするこの社会で,自分の生き方をどう選び,どう築いていったか,それが印象深く描かれていた。学生運動の中で感じさせられた「女」への強い抑圧的な視線。女性記者として初めて定年までつとめあげた「朝日新聞」内部での苦労。ジェンダー視角を意識的に排除した最初の10年から,ウーマンリブを契機に「根っからのフェミニスト」となり,「女性の視点」を前面に打ち出していく転身など。人生の節々に,納得できる生き方を選びとっていく勇気が見える。
それらは,主にビデオ後半の「松井やより アルバムでたどる その時代と生涯」に描かれていた。本書は,いわばその書籍ノーカット版である。私は,彼女による社会のとらえ方のすべてに賛成できるわけではない。特に階級関係と男女関係とのかかわりの理解については,違和感が強い。しかし,たとえそうであったとしても,個としての見事に自立した精神,「日本の女性運動の政治ぎらい」(176ページ)を繰り返し批判することにもあらわれる類まれな実践への力,そうした行動の原動力となったであろう「愛と怒り 闘う勇気」を奮い立たせる理性と感情の豊かさ。それらには,やはり驚嘆するほかないのである。
2・「女性国際戦犯法廷」への結実
自伝としての事実上の終章にあたる,第7章「戦争と女性への暴力」を見ておきたい。彼女が人生の終わりを捧げた「女性国際戦犯法廷」である。
2001年12月に,ハーグで出された最終判決の特徴を,彼女は次のようにまとめている。第1は,グローバルな市民社会によって成立した民衆法廷であること。特に,加害国日本で開催されたこと(2000年12月東京九段会館で開廷,また法廷の最初の呼びかけはVAWW―NET ジャパン),性暴力を焦点としたこと,草の根の女性運動によって開かれたことが,重要な内容をなす。
民衆法廷の意義については,旧ユーゴ戦犯法廷の所長でもあったマクドナルド裁判長が,記者会見でこう述べている。「この民衆法廷の権威はもともと民衆自身に依拠し,それがどうして信憑性があるかというと,被害者の証言と民衆の力で集められた膨大な証拠,それらに基づいて作成された起訴状をもとにして,国際法の専門的知識のある人たちが当時の国際法を非常に厳密に適用して出した判決だからである。証言とか証拠集めなどの過程とその結果としての判決,両方の質の高さには自信をもてる」。
第2は,要旨300ページに渡る判決文が,「慰安婦」問題での日本政府の主張に,法的根拠をもった強力な反論を行っていること。①「慰安婦」問題は時効である――戦争犯罪や人道に対する罪に時効は適用されないのが国際社会の流れ(時効不適用条約),②国家無答責(戦時中の法律では国家元首は責任を問われないことになっていた)――人道に対する罪については国家元首(天皇)も免罪しない,③個人に国際的な賠償請求権はない/サンフランシスコ講和条約等で解決済み――人道に対する罪では政府が個人の請求権を放棄させることはできない,等の点である。
第3は,国際法に女性の視点を入れるという「ジェンダー正義」の思想が盛り込まれたこと。これまでの国際法廷は,戦時性暴力を女性が属した集団(家族や部族)の名誉を汚すものと見なしてきたが,ここでは被害女性自身への人権侵害ととらえられた。「慰安婦」制度は「強制売春」ではなく「性奴隷制」であるとされ,あわせて被害女性への階級差別や民族差別という複合的な視点も浮き彫りにされている。
第4は,「慰安婦」問題を日本政府だけの問題に帰さないグローバルな視点があること。「慰安婦」制度を連合国は十分知りながら東京裁判で取り上げず,戦後もその問題解決への取り組みをしてこなかった。主たる責任が加害者である日本政府にあるのは明白だが,そこで問われるべき責任の背後には国境を超えた普遍的な負の思想がある。
第5は,東京裁判の継続であることが明言されていること。東京裁判には,最高責任者である天皇を訴追しなかったこと,植民地蔑視・アジア蔑視の思想があったこと,性奴隷制を取り上げないという女性蔑視があったこと等の弱点がある。それらの裁き残された犯罪を裁く意義がある。
第6は,旧ユーゴやルワンダの国際戦犯法廷につづき,「戦時性暴力の不処罰をなくそう」という国際的な流れを前進させることに貢献したこと。以上である。
この判決には17項目の「勧告」がある。12項目は日本政府に,3項目は旧連合国,2項目は国連および加盟国に対するものであり,日本政府には「一日も早くこの犯罪の事実と法的責任を認めて,謝罪と賠償をせよ」という趣旨が述べられている(以上,221~228ページ)。
判決文の特徴と法廷の意義を,このようにまとめた上で,彼女はあらためて「この『法廷』は被害女性たちに正義を回復するための一つの試みであった。だからその成果はまず彼女たちに捧げたい」と述べている。そしてハーグ判決の最後の一節が,以下のように,被害女性への賛辞で終わっていることを「何より嬉しかった」と書いている。文字どおり「いのちを差し出した」法廷開催の取り組みだったが,それが可能だったのは「『慰安婦』にされた女性たちの苦痛を思えば大したことではないのだ,と自分に言い聞かせたからだ」とも述べている。法廷の成功をもって閉じられた彼女の生涯は,充実した生の探究を,被害者はじめ多くの他者の幸福に重ねあわせた,希有で貴重な例といえるだろう。
彼女が感激した,ハーグ判決末尾の文章は次のようである。「よってこの判決を通じて,本法廷は,日本の軍性奴隷制の被害者となったすべての女性たちを称えたい。判事団は,苦労を乗り越えて生き延び,打ち砕かれた人生を建て直し,恐れと恥をしのんで世界中に自らの体験を語り,私たちの前で証言したサバイバーたちの強靱な精神と威厳を高く評価したい。正義を求めて闘うために名乗り出た女性たちの多くは,称えられることのない英雄として亡くなった。歴史のページに名前が刻まれてきたのは,せいぜい犯罪を犯した,あるいはその犯罪を訴追した男性たちであり,被害を受けた女性たちではなかった。この判決は,証言台で自らの体験を語り,それによって少なくとも4日間にわたり,不法を断頭台に送り,事実を王座に据えたサバイバーたちの名前を,銘記するものである」(229ページ)。
3・「人生の原点」
このような巨大な取り組みを成した彼女の人生は,そこにいたるどのような道筋をもってつくられたのか。その出発点を第1章「私の人生の原点」に見ておきたい。
1934年に京都の岩倉に生まれた彼女は,キリスト教の信仰あつい家庭に育った。侵略戦争がすすむ中,キリスト教の信仰者はそれだけで監視の対象となり,「国民学校」(小学校)時代をすごした栃木の疎開先には,特高警察の見張りがついていたという。この頃,彼女は,飛行場建設のための過酷な勤労奉仕を体験し,軍隊内部の恐ろしい暴力や,理不尽な部落差別にもふれている。
45年末に中国からもどった父からは,日本軍の残虐行為を繰り返し聞かされた。「(父の)体験談は衝撃的だった。『軍靴』と,『桶』と,『防空壕』の三つの話である。『軍靴』とは,上官に非常にサディスティックな将校がいて,中国人を平気で殺しては肉片を切り取って干して自分の長靴の中に隠していたというのだ」。「『桶』の話も同様である。……部隊には中国人の物売りが出入りしていた。その態度が気に入らないと言いがかりをつけて,『桶を持ってこい』といって桶を持ってこさせては首をはねた兵隊もいたという」。「『防空壕』では,作戦のためにある地域一帯の住民を立ち退かせることになり,まずそのへんの建物を壊させた。そして防空壕だといって穴を掘らせ,そこへ住民を全部入れて水を流し込んで生き埋めにした」(12ページ)。
彼女は,父から反戦思想を,母から女の自立を学んだというが,ここでは「『中国の人たちに償いをすることが人間として生きる道だ』という父の言葉は,子ども心に深く根を下ろした」と強調している。
その後,男女共学のミッションスクールである,青山学院の中等部から高等部へとすすんでいく。家庭は裕福ではなく,高等部への進学の際には学年で唯一,日本育英会の奨学生となる。高校一年の頃には父の本棚からマルクス主義関連の本を手にし「目を開かれ」「共感」している。しかし,高校二年の肺結核から,長い闘病生活を余儀なくされる。高校は中退し,闘病は結局20才まで丸4年もつづいていった。その後,大検を受け,東京外国語大学に入学する。当時の東京外大は学生運動がさかんで,中には共産党員も多く,彼女も共産党への入党をすすめられている。しかし「重い病気をして死と向き合った経験とキリスト教的な考え方」のために,入党する気にはなれなかった。「人間の病苦や死や孤独などは,どんなに世の中が変わろうと耐えなければならず,その苦痛を癒すことはマルクス主義ではできないし,一人ひとりの人間の孤独や苦しみを忘れた形での革命には共感できなかった」からである。とはいえ「いまの資本主義社会を変えなければいけない,それにマルクス主義は役に立つとは思っていた」。またスメドレーのルポルタージュを読んで「中国革命には共感」を持っていたともいう(22ページ)。
女子学生は全体の1割程度だったが,思想的なことを話し合うことができる女友だちは多くなく,「資本論だとか,マックス・ウェーバーだとか読書会や研究会に出ていたが,女性はいつも私一人ということが多かった」。そこで直面した問題は「男子学生の態度だった」。自分の意見をはっきりいうと「男子学生から『あなたは女子学生の中で特別だ』という目で見られる」。「女が自分の意見をはっきりいえば,この日本の社会では特殊な目で見られ,怖がられるという圧迫感がつねにあった」。そして「自由に自分を出して生きたい」という強い願いをもったところへ「日米交換留学生計画」の貼り紙が目にとまる。
57年,彼女はアメリカへ飛ぶ。そこでは豊かさに驚くとともに,様々な意味でのアメリカの限界を見ることにもなる。57年にソ連が世界初の人工衛星を打ち上げたときの,ソ連に対する驚くほどの反共意識と競争意識,強烈なナショナリズム。また南部では苛烈な黒人差別も目の当たりにする。バスの待合室も「White」と「Colored」にわけられており,いったん「Colored」に入ると黒人ばかりで,全員が向こうへ行けと合図する。仕方なく「White」に入るが,ここでもまた実に居心地の悪い体験をする。「このとき生まれて初めて『自分はアジア人なんだ』と強く意識させられた」。これがアメリカン・デモクラシーの実態であった。しかし,その反面「女性は堂々とはつらつとしているほうが,男性たちに人気があった。日本と何という違いだろう。だから私も遠慮することなく,自由に発言し,行動できた。本当に日本と比べれば女性にとって天国のように感じたのだ」った(31ページ)。
1年間の交換留学を終え,さらに彼女はヨーロッパに渡る。帰りの飛行機の切符を船にかえれば,それができると聞いてのことであった。働きながらの留学生活中には,「アメリカと違って白人女性と黒人男性が堂々と肩を組んで歩いている姿に感動したこともあった」。しかし「アジア人蔑視がひどいことを身をもって体験」してもいる。荷物をフランスに持ち込んださいに,税関の職員に部屋の中で襲いかかられたこともある。「あらん限りの力で抵抗して何とか難を逃れたが,あの恐怖は忘れることができない」。「アメリカで黒人差別のひどさにアメリカの民主主義の限界を見たように,フランスではフランスの人権思想の限界を見た。いずれもしょせんは白人のためのものであり,有色人種には適用されないものだという印象を抱かざるを得なかった」(39ページ)。
2年半近い欧米留学の後,スエズ運河を通過し,神戸へ向かう1ケ月以上の船旅につく。「この船旅で初めて直接見聞きしたアジアの現実は,衝撃的だった」。インドのすさまじいまでの貧困を前に,「イギリスの植民地支配の責任を考えざるを得なかった」。またマニラでは日本人は上陸そのものを拒否される。「戦争中の日本軍の残虐行為の記憶が生々しい時代で,安全を保障できないというのだ。残念に思ったが,それほどは驚かなかった。日本の侵略戦争への怒りはアメリカ留学中に,アジアの学生たちから折りにふれて知らされたから」である(42ページ)。
「泣き笑いの留学生活は,いま振り返るとき,計り知れない貴重な体験であった」。以下,本書は,第2章「女性記者の日々」,第3章「アジア報道への挑戦」,第4章「シンガポール特派員時代」,第5章「アジアから見た日本――帰国から定年まで」,第6章「国境を越えて生きる」,第7章「戦争と女性への暴力」,終章「21世紀をどう生きるか」,「友人の皆様へ つらいお知らせ」とつづいていく。そこには彼女の引き続く「泣き笑いの生活」とともに,それぞれの時代や社会への彼女なりの視線をつうじた理解がある。それも本書の大切な内容となっている。
4・「愛と怒り,闘う勇気」を引き継いで
2005年6月27日,短い追悼のビデオをいっしょに見た,10名ほどの学生たちは,何かを学ぶ以前に,あまりに巨大な彼女の人生に圧倒されていた。しかし,肝心なことは,結果として何ができるかという制約を自分に与える前に,目前の社会や人間を素直に「愛し」,素直に「怒り」,そしてそれを土台に,現実と「闘う勇気」を持つことだろう。もちろんそれは,学生や女性たちだけの課題ではない。この本は老若男女を問わず,多くの方に読んでほしい一冊であり,それぞれの人生にいかしてほしい一冊である。
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