4月2日,柴田悦子先生に『ジェンダーと史的唯物論』の第1・2章の講評をお願いする。
1)相続する財産がとぼしい労働者夫婦に,なぜ平等が必然化されないのか。そこには主として夫が稼ぎを得る,企業社会の男性中心主義に照応して育てられた意識が家庭の中にもちこまれる。そのレベルでの問題がある。
2)家事の資本主義的社会化が急速に進行し,しつけや基礎的な生活力の教育までもが「塾」などに外部化される。それは,大人が「親」として育つ機会を失い,生活のほとんどを労働と労働力の再生にしかあてられなくなっているということでもある。文字通りのエコノミック・アニマル化。労働者生活を「労働」のに収斂させる生活づくり。
3)ボランティア,住民運動,組合活動など,資本のもとでの労働力の発揮でなく,その再生の過程(消費生活)でもない「自由」な活動におけるエネルギー支出をどうとらえるか。「労働」か,それとは別のものなのか。マルクスが時短論で労働と政治活動の時間を区別しているが,労働者の労働日ではなく生活日24時間をまるごととらえるためには,その「自由」な時間のとらえ方を深める必要がある。
4)関連して,人間の歴史の進歩を人間自身の能力の発展という角度から見るとき,労働をつうじた人間の発達と,消費生活(家事)における発達と,「自由」時間における発達などの相互関係を,資本主義の枠内の問題としても明らかにしていく必要がある。料理や掃除など生活を楽しみ,生活をつくる家事能力の外注化は,人間の発達を促すものとはもちろんいえない。「なんでも外注すればいい」との議論は,実は長すぎる労働時間のもとでの緊急避難の面をもつ。
5)ジェンダーを理論的に論ずるときにも,できるだけ日本の現実と歴史を表象したい。なにより我々は日本社会におけるジェンダーのあり方を問題にしており,また読者には日本の現実こそもっとも良く知る現実だから。
以上,先生からの多くの問題提起を受けた議論のなかから,こちらなりに今後への課題として興味深く受け止め得たこと。
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