今日(4月1日)から明日は東京仕事。
小さく区切られたいくつかの仕事の1つが,雑誌社での論文内容の相談である。
その1つのテーマが「離米」の論壇をどうとらえるか。
雑誌社訪問にそなえて,いくつか思いつくことをならべて,アタマの整理のきっかけとしたい。
1)ザッと見る限り,右派もふくめた「離米」論議に,まだ軍事的従属からの脱却(安保廃棄)論は含まれない。
その限りでは,議論は「日本の政治的独立」の域にはおよんでおらず,アメリカへの不満はいうが,自立については「非現実的」の一言でかたづけられている。
たとえば,在日米軍基地の再編強化(日米の軍事一体化)についての不満はほとんど出ない。
2)とはいえ,なぜ,今これほどまでに「離米」の議論が活発なのか。その理由についてはキチンと考える必要がある。
とりあえずは「離米」の議論を,①靖国史観肯定論ともつながる思想的右派からの議論と,②もっぱら経済問題の角度から発せられる議論とに,大きくわけることができようか。
3)どちらの流れの強まりも,きっかけは東アジアの経済成長と,これに対応した財界による東アジア重視の経済戦略に見える。
日本経団連は,「わが国の基本問題について」(05年1月)で,アメリカを依然として第一のパートナーだと強調しながら,他方で経済的には中国を第二のパートナーと認定している。
すでに中国は「敵」でも「ライバル」でもなく「共同パートナーシップ」の相手とされ,財界は東アジアにおける単独でのリーダーシップを放棄している。
この財界による中国はじめ東アジア市場への急速な接近と,経済外交の力点の移動が,長く伏在してきた反(嫌)中韓派を刺激する重要なきっかけとなった。
4)ところがもっとも断固たる反(嫌)派の思想的背骨をなす靖国史観は,対米開戦をもアメリカの策略と断ずる史観であった。
「遊就館」の展示と靖国への公式参拝に,アメリカ議会からの批判があったように,つきつめれば靖国史観は「対米従属(親米)」路線と両立する性質のものではない。
アメリカの対日占領下で,その占領政策への同調を条件に戦後も日本の支配層であることをゆるされた諸勢力は,戦後一貫して,靖国史観と対米従属のこの齟齬を,従属を上位におくことで「整理」してきた。
その「整理」の仕方が,反(嫌)中を出発点とする靖国史観への忠誠の再確認によって,崩れはじめているのではないか。
ブッシュに「尾をふる」小泉氏が,アメリカからの批判にもかかわらず,この問題では「参拝」という最後の一線を守っている。そこには,こうした大きな規模での,戦後支配層の思想的な揺れが反映しているように見える。
5)他方は,経済問題派である。こちらは,東アジア経済との交流の深まりを,日本の経済(的利益追求)外交の新しい重要な可能性ととらえ,その可能性を追求する手段のひとつとして「アメリカ市場・通貨依存」型の道への批判を強める動きに見える。
とりわけ「マネー敗戦」への注目と,「黒字亡国」等その論旨の繰り返しの拡大は,円がからめとられている「ドルの罠」からの脱却の道として,現実的に「東アジア市場の拡大と共同」という対案が生まれるなかで力を増している。
「国益(経済的利益)のためにこそ親米から親中へ」という動きが強まり,「親中」の経済的可能性を強調しながら,その裏返しとして,94年からの改革要望書へのあらためての注目など,「親米」でいることの「危険性」への指摘が行なわれていく。
小泉・竹中路線による「金融植民地列島」と揶揄された,卑屈ともいえる「対米従属」の経済政策の展開もまた,あわせて「親米」の「危険性」を説く重要なきっかけとなっているのだろう。
その限りでは,「離米」論は,アジア接近への期待論と,一部支配層にとってさえもいきすぎた対米従属的「構造改革」に対する嫌気を連携させるものともなっている。
6)事態の背景には,「東アジアの成長と共同」,世界経済における東アジア経済の地位の急速な上昇という,大きな世界構造の変化がある。
今日,中国市場(それに準じてインド市場),特に最近では中国内陸部市場の開拓とそこへの接近が,アメリカを含む世界の大国に共通した重要な経済戦略課題となっている。
その戦略を達成するために,アメリカでさえ軍事的な中国敵視一辺倒ではいられなくなっており,そこに今日の中国(東アジア)とアメリカとの経済的・政治的な力関係の変化があらわれている。
他方,その中で,日米の軍事一体化はすすめるが,東アジアとの「共同」には足をすすめることのできない日本の政治の現状は,文字通り,世界の大きな流れに取り残されたものといえる。
そのことに対する財界の焦りもあるか。
7)「離米」論は,別の角度から見るなら「嫌中離米」と「容中離米」の2つにわけることもできそうだ。
とはいえ「嫌中離米」が,中国をふくむ東アジアとの経済交流を深めること自体への嫌悪であるなら,それは商品市場面でも通貨面でも「離米」の経済的条件を生み出すことはできない。
それは具体的な実りを生まず,結果的として,「離米」を口にはするが実態としては「従属」の現実を容認し,延長させるだけのものにしかなれない。
そうであれば,おそらく中期的に影響力をのばしうるのは「容中離米」の動きとなるのだろう。
8)ただし,現状では「容中」の中身は曖昧である。
「ポスト小泉には,靖国公式参拝はやめてほしい」。それ程度のことは「美しい新憲法前文」を求める中曽根元首相でさえも語っている。
そして,同時に,氏は東アジア共同体評議会の会長として「国益のための東アジア共同」が不可避であるとの立場である。
日本経団連や経済同友会の財界中枢メンバーがいう「靖国公式参拝反対」も,その先にどのような「友好」策をもっているかは明らかではない。
少なくとも「侵略と植民地支配の清算」を明快に語る勢力は,支配的論壇にはまだ見当たらない。
9)最後に,国際交流は,経済分野であっても「相手」があってのことである。
「国益(経済的利益)」のための「容中」が,具体的に何をどこまで「受け入れる」ものとなるかは,内外世論や政治的力関係に大きく左右されずにおれない。
アジア市場への安定した深い接近は,「対米従属」からの脱却あるいはこれを緩和させる経済的条件の獲得となるが,それは同時に,東アジアにおける日本外交の深刻な孤立の打開を必要不可欠の条件としており,戦争の課題と戦後の無責任への正面からの向き合いを必要としている。
こうした課題の達成を,「国益(経済的利益)」の「誘導」を通じて,財界等とも共同しながら達成していく。そのような取り組みの道を考えていくことが必要だろうか。
今日は,ここまで。
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