「昭和天皇,A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ」(7月20日,読売新聞)。
これでまた,靖国公式参拝を当然視する人々と,これを否定する人々との意見の対立が活発となりそう。
それにしても,まずはメモの信憑性が問題か。
昭和天皇による平和についての「親の心」は,果たしてどのようなものであったのか。
発言が事実であれば,「天皇の靖国参拝」を求める人々と,靖国を活用して戦争を進めたご本人との,意見の相違は明らかだが。
「昭和天皇『私はあれ以来参拝していない』 A級戦犯合祀」(「朝日新聞」7月20日)
こちらには,合祀当時の側近の発言が「裏付けられた」との文章があり,また『昭和天皇 独白録』にたずさわったという半藤一利さんの証言もある。
「私にとってはやっぱりという思い」だと語られている。
昭和天皇,A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ
昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。
昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。
遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。
「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。
また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。
昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後になった。その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。
富田氏は74年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。(2006年7月20日13時1分 読売新聞)
昭和天皇「私はあれ以来参拝していない」 A級戦犯合祀
2006年07月20日11時12分
昭和天皇が死去前年の1988年、靖国神社にA級戦犯が合祀(ごうし)されたことについて、「私はあれ以来参拝していない それが私の心だ」などと発言したメモが残されていることが分かった。当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が発言をメモに記し、家族が保管していた。昭和天皇は靖国神社に戦後8回参拝。78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝していなかった。A級戦犯合祀後に昭和天皇が靖国参拝をしなかったことをめぐっては、合祀当時の側近が昭和天皇が不快感を抱いていた、と証言しており、今回のメモでその思いが裏付けられた格好だ。
メモは88年4月28日付。それによると、昭和天皇の発言として「私は 或(あ)る時に、A級(戦犯)が合祀され その上 松岡、白取(原文のまま)までもが 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」と記されている。
これらの個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐伊大使、66年に旧厚生省からA級戦犯の祭神名票を受け取ったが合祀していなかった筑波藤麿・靖国神社宮司を指しているとみられる。
メモではさらに、「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている」と続けられている。終戦直後当時の松平慶民・宮内大臣と、合祀に踏み切った、その長男の松平永芳・靖国神社宮司について触れられたとみられる。
昭和天皇は続けて「だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた、と記されている。
昭和天皇は戦後8回参拝したが、75年11月の参拝が最後で、78年のA級戦犯合祀以降は一度も参拝しなかった。
靖国神社の広報課は20日、報道された内容について「コメントは差し控えたい」とだけ話した。
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《「昭和天皇独白録」の出版にたずさわった作家半藤一利さんの話》メモや日記の一部を見ましたが、メモは手帳にびっしり張ってあった。天皇の目の前で書いたものかは分からないが、だいぶ時間がたってから書いたものではないことが分かる。昭和天皇の肉声に近いものだと思う。終戦直後の肉声として「独白録」があるが、最晩年の肉声として、本当に貴重な史料だ。後から勝手に作ったものではないと思う。
個人的な悪口などを言わない昭和天皇が、かなり強く、A級戦犯合祀(ごうし)に反対の意思を表明しているのに驚いた。昭和天皇が靖国神社に行かなくなったこととA級戦犯合祀が関係していることはこれまでも推測されてはいたが、それが裏付けられたということになる。私にとってはやっぱりという思いだが、「合祀とは関係ない」という主張をしてきた人にとってはショックだろう。
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靖国神社への戦犯の合祀(ごうし)は1959年、まずBC級戦犯から始まった。A級戦犯は78年に合祀された。
大きな国際問題になったのは、戦後40年目の85年。中曽根康弘首相(当時)が8月15日の終戦記念日に初めて公式参拝したことを受け、中国、韓国を始めとするアジア諸国から「侵略戦争を正当化している」という激しい批判が起こった。とりわけ、中国はA級戦犯の合祀を問題視した。結局、中曽根氏は関係悪化を防ぐために1回で参拝を打ち切った。だが、A級戦犯の合祀問題はその後も日中間を中心に続いている。
昭和天皇は、戦前は年2回程度、主に新たな戦死者を祭る臨時大祭の際に靖国に参拝していた。戦後も8回にわたって参拝の記録があるが、連合国軍総司令部が45年12月、神道への国の保護の中止などを命じた「神道指令」を出した後、占領が終わるまでの約6年半は一度も参拝しなかった。52年10月に参拝を再開するが、その後、75年11月を最後に参拝は途絶えた。今の天皇は89年の即位後、一度も参拝したことがない。
首相の靖国参拝を定着させることで、天皇「ご親拝」の復活に道を開きたいという考えの人たちもいる。
自民党内では、首相の靖国参拝が問題視されないよう、A級戦犯の分祀(ぶんし)が検討されてきた。いったん合祀された霊を分け、一部を別の場所に移すという考え方で、遺族側に自発的な合祀取り下げが打診されたこともあるが、動きは止まっている。靖国神社側も、「いったん神として祭った霊を分けることはできない」と拒んでいる。
ただ、分祀論は折に触れて浮上している。99年には小渕内閣の野中広務官房長官(当時)が靖国神社を宗教法人から特殊法人とする案とともに、分祀の検討を表明した。日本遺族会会長の古賀誠・元自民党幹事長も今年5月、A級戦犯の分祀を検討するよう提案。けじめをつけるため、兼務していた靖国神社の崇敬者総代を先月中旬に辞任している。
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《靖国神社に合祀された東京裁判のA級戦犯14人》
【絞首刑】(肩書は戦時、以下同じ)
東条英機(陸軍大将、首相)
板垣征四郎(陸軍大将)
土肥原賢二(陸軍大将)
松井石根(陸軍大将)
木村兵太郎(陸軍大将)
武藤章(陸軍中将)
広田弘毅(首相、外相)
【終身刑、獄死】
平沼騏一郎(首相)
小磯国昭(陸軍大将、首相)
白鳥敏夫(駐イタリア大使)
梅津美治郎(陸軍大将)
【禁固20年、獄死】
東郷茂徳(外相)
【判決前に病死】
松岡洋右(外相)
永野修身(海軍大将)
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