岩井忠熊『明治天皇-「大帝」伝説』(三省堂、1997年)を読み終える。
1864年、11才で(後の)明治天皇は「蛤門の変」を体験する。その瞬間には、孝明天皇とともに京都御所からの避難が準備された。時代は政治革命のただ中である。
15才で践祚(即位)するが、倒幕か公武一体かの争いのなかで、幼き天皇(朝命)をどの勢力が手にいれるかという「玉」の奪い合いが行われる。
武力倒幕の「密勅」が薩長に下されることにより、将軍家から明治政府への権力移行は一挙に進むが、その「密勅」を幼帝を補佐するはずの摂政・二条斉敬は何も知らなかった。
戊辰戦争をへて、公家出身の岩倉具視が宮中の指導権を握り、ここから薩長勢力とともに「玉」を「能動的君主」に育てる努力が行われていく。
岩倉の死後(83年)、この仕事を引き継ぐ中心となったのは伊藤博文。
89年には明治憲法が発布されるが、実際の政治運営は憲法上の裏付けをもたない、天皇指名による元勲たちが行った。
明治期の「内閣」は、ほとんどが「薩長間のたらい回し」であり、天皇はこの薩長政権をつうじて「大権」を行使した。
ちなみに御前会議は、明治・大正・昭和期にたびたび開かれた国策決定のための最高会議だが、これもまたどこにも法的根拠をもっていない。天皇「大権」にもとづく、法を超越した会議であった。
とはいえ、天皇個人が「君主」の力量を得るには、時間がかかる。たとえば日清戦争は天皇の指導によるものではなく、政治家・伊藤等が天皇の権威を活用しながらすすめるものとなっていた。
また1902年には、元勲・山県有朋が明治天皇と「大声の論争」をするなどのことも起こっており、いまだ天皇の権威はそうしたレベルにとどまっていた。
それゆえに晩年の明治天皇は政治への意欲を減退させ、さらに祭祀への意欲さえも後退させる。
名実ともに「天皇大権」がそれとして生きるようになるのは、維新政府を打ち立てた元老世代が世を去る昭和天皇期以後のこととなる。
ご紹介した本、さっそく読まれたようで、お役に立ちましたでしょうか?
「絶対主義的天皇制」は最近いろいろと不人気ですが、絶対主義というのは、何も君主が一人で何もかも決定するという体制であるということではありません。最近の「立憲君主制」論議は、そこいらあたりを根本的に勘違いしたところから出発しているように思えてなりません。
投稿情報: GAKU | 2008/06/01 15:13
ありがとうございます。いまも少しずつ天皇モノを読んでいます。
そうですか。「絶対主義的天皇制」は「不人気」なんですか。
とりあえず、こちらは資本主義形成・発展の過程に、国家ぐるみの「生き神」信仰的なイデオロギーがまとわりつくということの不思議を出発点に読んでいます。とはいえ、これといって系統的ではありませんから、まあちょいとしたマニアといったところですね。
もう少し学びつづけて見ようと思います。何か面白いモノがあれば、またご紹介ください。
投稿情報: walumono | 2008/06/01 18:03