原武史『可視化された帝国』(みすず書房、2001年)を読み終える。
副題は「日本の行幸啓」、つまり天皇・皇太子による各地の視察についての研究である。
明示的な文章(理論)によって形成されたイデオロギーではなく、天皇や皇太子の姿を見せて(あるいは見せず)、声を発して(あるいは発せず)、時には万を超える聴衆による君が代斉唱や万歳三唱なども加味して、「臣民」に目・耳・体をつうじて「国体」を感得させる。
行幸啓(天皇が一カ所を訪れることを行幸、複数箇所をまわることを巡幸、皇太子が一カ所を訪れることを行啓、複数箇所をまわることを巡啓という)は、そうして誰にも「可視化された帝国」を形成する役割を果たしていった。
著者はその政治手法を「視覚的支配」と呼び、それによってつくられた時代の空気を「政治体制の思想」と表現する。
明治天皇が行幸・巡幸を開始したその時には、天皇もまた本願寺法王や出雲国造とならぶ「生き神」「生き仏」の1人にすぎず、そこから突出した権威の形成に向け、ジグザグをたどりはするが、神道国教化運動や「教育勅語」「御真影」などの意識的な政策がとられていく。
明治・大正・昭和それぞれの天皇に「視覚的支配」をめぐる個性があり、それをあらかじめの計画のもとに一貫したものととらえることは適切でない。
軍服を着、白馬にまたがるなど最初から軍の統帥者として「臣民」の前に姿を現した昭和天皇は、同時に後期の明治天皇が形成した「見えざる神」でもあらねばならず、結局、大正天皇と異なり「臣民」に親しく「お言葉(玉音)」を聞かせることを排して「畏れ多い神」を目指す。
46年元日の「人間宣言」の後、5月には「朕はたらふく食ってるぞ」のプラカードが不敬に問われた25万人参加の食糧メーデーが行われる。
だが、、同年11月の「日本国憲法公布記念祝賀都民大会」では10万人が君が代を唱和し、万歳を叫び、さらに47年5月「日本国憲法施行記念式典」(1万人)でも同様の事態が起こっていく。
天皇その人が直前の戦争にどのような役割を果たし、どのような思想をもち、どのような宗教上の教義を体現しているか、その具体的な内容を知らぬがままの漠とした「畏敬」は、こうして戦後も継続する。
おそらく本書の研究は、①治安維持法等に象徴される「臣民」への武力を用いた支配(視覚的支配に屈せぬ者との関係)、②侵略戦争の段階的な拡大に応じた「視覚的支配」の役割の変化、③元老・宮内側近と天皇の関係などの補足によって、その意義を一層明確なものとするのだろう。
コメント