1842年7月9日(24才) ケルン教会紛争にかんする論文が2審検閲でも出版不許可の場合には、ハンブルクのホフマン・カンペ書店から単行本として出版することを計画する
〇「6週間は新しい弔いのためトリールで過ごさねばならず、残った時間はまったく不快な家族の争論でこま切れにされ、調子を狂わされました。私の家族はめんどうなことをいって私を手こずらせ、自分たちは裕福な暮しをしているのに、一時はそのために私をきわめて重苦しい状況にさらしました」
〇「教会の紛糾を問題とした州議会についての私の第二論説は削除されました」「『ライン新聞』はいま論説のことで控訴しています」
〇「いわゆる『自由人』についてなにかくわしいことをご存じですか」「自由人というのは残念ながらまったくあてにならない存在です。バウアー(ブルーノ)がベルリンにいるのがせめてものことです。彼は少なくとも『ばかなこと』はさせないでしょう」
〇「ルーテンブルクは私の良心を苦しめます。私は彼を『ライン新聞』の編集部に就任させたのですか、彼はまったく無能なのです」(1842年7月9日、アーノルト・ルーゲへの手紙、第27巻、350~352ページ)
1842年7月12日(24才) 姉ゾフィー、弁護士W・K・シュマルハウゼンとトリールで結婚
1842年7月中旬(24才) トリールからボンにもどる
1842年8月9日(24才) 当初〈アネクドータ〉誌に掲載予定だった論文〈歴史法学派の哲学的宣言〉を〈ライン新聞〉に匿名で発表、ただし〈結婚の章〉は検閲で削除される
1842年8月-9月(24才) ユングとオッペンハイムに手紙を書いて、〈ライン新聞〉の編集方針に大きな影響を与える
1842年8月下旬(24才) 〈ライン新聞〉にエドガー・バウアーの連載論文〈中庸主義〉にたいする論駁とユダヤ人問題にかんする論文を執筆する計画をたてる
〇「ルーゲの原稿を同封します。第一号は役に立たないでしょう。ザクセンの状態についての第二号はおそらく使いものになるでしょう」
〇「真の理論は具体的状況のなかで、また現存する諸関係に即して明らかにされ、解明されねばなりません」
〇「『ライン新聞』がその寄稿者によって指導されないで、むしろ逆にその寄稿者を指導することは避けがたいことだと私は思います」(1842年8月25日ごろ、ダーゴベルト・オッンハイムへ、354ページ)
1842年9月上旬(24才) グルッペの著書〈ブルーノ・バウアーと大学教育の自由〉に対し、バウアーを擁護するために、〈O・E・グルッペ博士著《ブルーノ・バウアーと大学教育の自由、ベルリン 1842年》についてさらに一言す〉を執筆、42年11月16日〈ドイツ年誌〉に発表
1842年10月15日(24才) 〈ライン新聞〉は共産主義に〈媚を呈し〉〈色目を使っている〉というアウグスブルクの〈アルゲマイネ・ツァイトゥング〉紙所載の論文に、反論〈共産主義とアウグスブルクの《アルゲマイネ・ツァイトゥング》紙〉を執筆し、向けられた非難をはねのけながら、〈共産主義の批判は現在のような形では理論的現実性をもたない〉と述べ、〈長いあいだの深い研究の後に〉共産主義理念を〈根本的に批判すること〉を約束する、〈ライン新聞〉1842年10月16日号に発表
1842年10月(24才) 第6回ライン州議会の議事にかんする第3論文〈森林盗伐法にかんする討論〉を執筆、このなかではじめて経済問題を扱う、〈ライン新聞〉1842年10月25日から11月3日まで5回にわけて連載される
1842年10月頃-12月(24才) はじめてフランス社会主義者の文献に接する、中でもプルードン著〈財産とは何か?〉、デザミ著〈M・カベの無実の罪とその事件〉、ルルー、コンシデランの著書を読む、毎週〈ライン新聞〉の経営者と編集部の会合に出席、そこでは〈社会問題〉、自由貿易・保護関税問題が論じられる
1842年10月下旬(24才) カール・ハインツェンと知り合う
1842年11月中旬(24才) 政府と〈ライン新聞〉の衝突が激化、11月12日政府は新聞社の社主に通牒を発し、新聞の傾向を変え、与党的にすることを勧告し、さもなければ発禁処分にすると威嚇する、マルクスはケルンの政府首脳に対する社主の長文の回答を執筆、新聞は〈内容の許す限り〉〈形式〉をやわらげる用意のあるむねを表明
1842年11月15日(24才) 〈離婚法草案〉という新聞記事にたいする編集者の脚注を作成、〈時事新聞に関する勅令〉の註解を〈ライン新聞〉に執筆
1842年11月下半期(24才) 一方で傾向をやわらげようとする株主たちと、他方で〈自由人〉に属するベルリン在住の新聞寄稿者と衝突する、後者の共産主義や無神論にかんする浅薄な論文を突き返す
1842年11月15日-12月18日(24才) 〈ライン新聞〉にモーゼル河畔のブドウ栽培農の窮境を報ずる三つの通信文を掲載、ライン州知事フォン・シャーパーは公式声明を出し、虚偽の報道と誹謗と社会不安の激発の罪を新聞にかぶせる
1842年11月22日(24才) 保護関税にかんする評注を発表
1842年11月24日頃(24才) エンゲルスがイギリスに行く途中〈ライン新聞〉編集部を訪問、初めての出会い、〈自由人〉のサークルに対する立場の違いのために非常に冷たいものとなる
1824年11月24日頃-25日(24才) 〈自由人〉との衝突がはげしくなる
1824年11月29-30日(24才) 〈自由人〉と決別、29日に覚書〈自由人にたいするへるヴェークとルーゲの関係〉で、〈自由人〉に対する反対を明らかに、同日マイエンからの絶交状を受け取る、以後〈ライン新聞〉の在ベルリン寄稿者は通信文の送付を中止
〇「検閲は連日容赦なくわれわれをずたずたにし、しばしば新聞を出せないほどです。そのために『自由人』の大量の論文が落とされました。検閲と同じくらい、私自身も思いきって破棄しました。というのも、マイエン(エドゥアルト)一味は世界変革をたくらんだ無思想のなぐり書きをだらしない文体で(この連中が一度も勉強したことのない)無神論と共産主義といったものとまぜあわせ、束にしてわれわれのところに送ってよこし、ルーテンベルクが批判にも自立性にも能力にもまったく欠けているのにつけこんで『ライン新聞』を彼らの意志のない機関紙とみなすのが習い性となってしまったのですが、私はこのような旧態依然たる放尿ぶりをこれ以上許すわけにはいかないと思ったからです」
〇(マイエンへの手紙に)「私の考えを忌憚なくのべました。あいまいな論証、大げさな文句、うぬぼれた自己描写をもっとおさえ、もっと明確に、もっと具体的状況のなかにはいりこみ、もっと専門知識を表にだすよう、私は要求しました。共産主義や社会主義の教義を、つまり新しい世界観を付随的な劇評などのなかにもぐりこませることは不適当であるばかりか、不道徳だと私は思うし、もし共産主義が論じられるなら、まったく別の、もっと根本的な論評が必要だと、私ははっきり言いました。さらに宗教のなかで政治的状態を批判するより、政治的状態の批判のなかで宗教を批判するよう、私は要望しました。というのは、このような言い方の方が新聞の本質や公衆の教養にかなっているし、また宗教はそれ自体無内容で、天によってではなく地によって暮らしており、それが転倒した現実の理論である以上、その現実の解体とともにおのずから崩壊するからです」
〇「おそらく『自由人』はしばらくのあいだ引き下がるでしょう。そういうわけで、あなたがみずから寄稿してわれわれをお助けくださるとともに、あなたの友人にもそのことを要請してくださるよう、切にお願いします」(1842年11月30日、アーノルト・ルーゲへの手紙、第27巻、355~358ページ)
1842年12月10-30日(24才) アウグスブルクの〈アルゲマイネ・ツァイトゥング〉紙との論争の形式で、プロイセンの身分制憲法に反対する三つの論文〈アウグスブルクの《アルゲマイネ・ツァイトゥング》紙第335号と第336号の付録--プロイセンの身分制代表委員会〉を執筆、ヘーゲル風の表現形式に隠れながら民主主義共和国の理念を宣伝
1842年12月19日(24才) 11月18日付の論文〈離婚法草案〉、〈ライン新聞〉に発表される
1842年12月下旬 イェニーをクロイツナハに訪問
1842年12月23日頃 〈ライン新聞〉モーゼル通信員(ペーター・コプレンツ)が州知事フォン・シャーパーの公式声明による誹謗に有力な反論が寄せられないとして、クレーセンがマルクスに反論執筆を依頼
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