9月11日(水)は、6時半起床の朝であった。
目がさめてしまったものは、仕方がない。
あれこれ小仕事を片づけていく。
そこへ「景山先生が発熱ダウン」と連絡があり、
「休んでもらうしかないですね」。
つづいて、兄新参から「女王アリが逃げた」と
ドンヨリした声の電話が入る。
「生き物を飼うには、責任がともなう」
「今後への高い授業料」と、
生物研究部員向けに、
荷物を片づけながら、しゃべっていく。
8時には、戦跡ガイドの村上さんと合流し、
みんなでバスに乗り込んでいく。
那覇空港の軍民強要、弾薬庫といった
窓の外のお話から、
米軍上陸以降の「沖縄戦」、
兵士の3倍も住民が死んだ異常な戦争、
軍と兵士の犯罪をめぐる大江裁判、
野戦病院が壕から住民を追い出したとの指摘も。
8時50分には、平和記念公園へ。
第二の靖国のようにつくられたが、
太田県政時以降、沖縄戦の真実を学ぶこと
のできる場に、次第につくりかえられてきた。
「平和の礎」を前に、お話をうかがう。
6月23日、戦没者は調査によって
毎年追加されている。
ただし、名前だけでは、
どのように亡くなったかの理由はわからない。
長崎からもってきた太陽の火。
夏は子どもが水で遊ぶので、
火は資料館の中で燃やされている。
9時半すぎには、資料館へ。
前半は「沖縄戦」、後半は「戦後の沖縄」が
展示・解説されている。
展望台から見える南の海。
たくさんの人が命を失った崖である。
10時半には、バスに乗り込んで、
アブチラガマに向かっていく。
戦争時の住民避難壕の1つである。
ヘルメットをかぶり、各自懐中電灯をもって、
10時55分にはガマに入る。
内部へのスマホ持ち込みは禁止であり、
写真は1枚も撮れなかった。
11時50分にはバスにもどり、
車内でゴハンを食べていき、
12時すぎには「ひめゆりの塔」に到着する。
このガマに野戦病院が。
そして「ひめゆり」の学徒たちが。
黒ボールペンのインクが切れ、
しばし、赤インクでしのいだ上で、
「このあたり、ボールペンが買えるところは?」
交通整理をしている男性に声をかけると
「これをつかってください、たくさんあるから」と。
本当にありかとうございます。
助かります。
資料館にもグッと学んでいく。
こちらは、特にひめゆりの「証言映像」に集中。
1時45分には、ひめゆりを出る。
ここからの村上さんは、
毎日のように通っている辺野古のお話を。
この数年の沖縄での選挙の結果、
野党共闘の力なども。
2時半には、那覇にもどって、お別れする。
長い時間、ありがとうございました。
3時からの予定が、30分の繰り上げで
琉球新報の新聞博物館へ。
岡田館長が、展示を解説してくれる。
沖縄戦、戦後の”銃剣とブルドーザー”、
宮森小学校へのジェット機墜落、
講和会議での沖縄切り離し、
本土復帰といううそつき返還など。
飛びたいところを飛びたいように
飛んでいるオスプレイの危険性。
千島や沖縄・台湾を、
本土の防衛圏だと歌った「蛍の光」。
こちらは、岡田館長お手製の「沖縄史」。
日本の一部としての沖縄の歴史は、
わずか113年しかない。
4時10分からは、学生同士の意見交換も。
4時半には、博物館をあとにする。
こんな号外もいただいた。
5時には、沖縄タイムスに移動する。
阿部記者から、本土出身者として
本土の人に伝えたいことを、話していただく。
取材現場での米兵とのやりとりは、
他では聞くことのできない話。
からんでくる「日本」のネトウヨへの対応も。
6時20分には、外に出て、
国際通りをブラブラブラ。
阿部さんの他、同じ沖縄タイスムの
そして、新基地建設反対の
運動に取り組む泰さんと、
大人数で、にぎやかに。
6時半から、懇親会。
10時すぎのおひらきとする。
ご参加のみなさん、ありがとうございました。
コンビニ経由でホテルにもどり、
日付変更あたりで、眠っていく。
本日の万歩計は、10246歩。
明日は、旅行最後の1日となっていく。
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