映像「ETV特集 焼け跡から生まれた憲法草案」を見る。
鈴木安蔵等による憲法研究会(1945年11月結成)の活動の様子が、研究会に集まった7人の背景ともあわせて紹介される。共通する背景には、戦時中の軍部による言論弾圧や投獄の体験がある。
主権者が国民であることについては比較的簡単に合意が得られるが、その一方で天皇の地位をめぐっては議論がつづく。国民感情への配慮なしに、新憲法の制定はうまく進まないとの判断があり、これを「国民の委託による国家的儀礼」を司るものとまとめていく。
この憲法研究会草案は、GHQによっても翻訳・研究されるところとなり、これが47年2月のGHQ草案にも反映されていくことになる。
6月からの憲法制定議会では、生存権の規定が新たに加えられ、また義務教育の範囲が当初案の「初頭教育」(小学校)から「普通教育」(小中学校)に拡大される。
研究会草案には植木枝盛の「日本憲法」など自由民権運動以来の民主的国家づくりへの国内の努力が反映し、他方でGHQは草案作成にあたってさらに世界各国の憲法を調査している。GHQ案はどのような社会を形成するかという人類の努力の歴史から切り離されて、唐突につくられたものでは決してない。さらに帝国議会による修正も行われている。
映像「私は男女平等を憲法に書いた」を見る。ベアテ・シロタ・ゴードンの来日記であり、特に憲法24条を書いたシロタの活動を紹介するもの。
1946年2月4日から11日までのわずか9日間でGHQ草案はつくられるが、それはケーディス民生局次長をトップに25名だけでの秘密作業として行われた。人権条項はロースト、ワイルズ、シロタの3人の担当となる。
2月13日には日本政府に渡され、3月4日には日本語訳の調整が行われ、3月6日日本政府はこれを政府案として発表、ただちにマッカーサーが支持を表明する。
途中、4月10日には女性が初めて参加した衆議院議員選挙が行われ、39名の女性議員が誕生する。46年11月3日は日本国憲法の公布が行われるが、その場には、ベアテを含む多くの民生局員が傍聴していた。
報告は「明治維新・日清戦争について」(畑佐さん)。1868年の五カ条のご誓文で早くも天皇親政が強調され、72年には陸海軍省がつくられ藩閥軍とは異なる政府軍の整備が進む、さらに89年の大日本帝国憲法では天皇大権、内閣から独立した天皇の統帥権などが定められる。
日清戦争をめぐっては、1875年の江華島事件、85年の天津条約、94年の日清戦争、95年の下関条約など、いずれも日本側に被害があっての経過でなく、朝鮮半島から大陸に向けて、日本の領土支配を含む影響力拡大をいかに実現するかという角度からの行動となっている。三国干渉への対応も、日本が、ロシア・フランス・ドイツと並び、すでに大陸への支配者の一員としての振る舞いを当然視していることがわかる。
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