「慰安婦」被害についての、初めての中国の報告書である。
あまりに遅い調査ではあるが、「半官半民」の「官」が、ようやく重い腰をあげたことは評価してよいのだろう。
捕虜となった日本軍将校による、「慰安所」設置に関与したとの証言もある。
いよいよ日本政府の孤立は深まっていく。
中国、日本軍従軍慰安婦被害事例関連で初めて報告書(中央日報、7月3日)
12歳の慰安婦。日本軍が下した施設設置命令。祭事を行う祠堂に慰安所設置。 第2次世界大戦当時の日本軍慰安婦被害事実に関連し、中国が初めて出した報告書の内容だ。
中国メディアによると、中国弁護士協会や法律救助基金会などで構成された慰安婦調査委員会が昨年9月から6カ月間、山東・海南・雲南・遼寧・吉林省などで調査を行い、1次報告書を作成した。
これら団体は‘半官半民’であるため、報告書は、1972年の中日国交正常化で日本の侵略に対する賠償権を放棄した後、民間の損害賠償要求努力を黙認してきた中国政府の意中を大きく反映したものだと分析されている。
今回の調査では、日本政府を相手に損害賠償訴訟を進めてきた60人の生存慰安婦のほか、山西省と海南省にそれぞれ16人と1人の元慰安婦が生存していることが確認された。 山西省に住む元慰安婦の1人は12歳当時に日本軍に連行され、慰安婦として辛い経験をしたことが明らかになった。
委員会は、日本軍が同郷会会館や住宅だけでなく、祠堂を慰安所として使用した事実もある、と主張した。委員会はまた、安徽省の日本軍117師団長の戦犯裁判記録を調べ、巣県で中国人・韓国人女性慰安婦20人の慰安所を運営し、東北地域に慰安所を設置しろという命令を下したことも明らかになった。
日本軍が敗戦後にも慰安婦施設を運用していた事実も確認された。 報告書は、国民党の閻錫山将軍のもと‘保安第6大隊’に編入された日本軍残留部隊が1947年まで慰安婦を相手に性暴行を加えた、としている。 これは当時の日本軍将校らの伝聞記録で明らかになった。 国民党軍隊内に日本軍慰安所が稼働していた事実が明らかになり、中国人は大きな衝撃を受けるはずだと、メディアは伝えた。
山西省太原出身で1940年代初めに日本軍に連行された当時13歳のAさんは、浙江省出身の同郷会事務所格である‘浙江会館’を改造した日本軍慰安所で慰安婦生活を強要されたこともあった。 中国メディアは、Aさんは60年間隠してきた悪夢のような体験を委員会に打ち明けながら涙を流した、と伝えた。
調査委員会執行主任の康健弁護士は「今回の報告書は第1次であり、現在、他の地域など範囲を広めて調査を進行中で、近く追加の報告書を出す」と語った。
北京=張世政(チャン・セジョン)特派員
「慰安婦」 日本軍の組織的強制 中国弁護士協会が調査結果(しんぶん赤旗、7月4日)
【北京=山田俊英】中国の中華全国弁護士協会と中国法律援助基金会は三日、第二次大戦中の旧日本軍による「従軍慰安婦」に関する調査結果を公表しました。昨年九月から半年にわたって現地調査し、「『慰安婦』強制は日本軍の組織的行動であることが証明された」と結論づけました。
これまで賠償請求を起こした元「慰安婦」以外に、山西省で十六人、海南省で一人、計十七人の被害者が生存していることが明らかになりました。被害当時の年齢は十二歳から二十一歳でした。
報告書は、山西省の一市四県、海南省の二県、雲南省の三市三県に「慰安所」が設けられていたとしています。山西省太原市では市内の二つの会館に設置。雲南省では民間住宅を奪って「慰安所」にしたといいます。
日本の敗戦後、中国の国民党軍に編入された残留日本軍部隊が山西省太原市に設置した「慰安所」は、一九四七年まで存在していました。
また、八カ所の公文書館を調べた結果、「慰安婦」を強制された三百三十八人の名前が記載された資料が見つかりました。この人たちは四四年四月から四五年八月にかけて日本軍の軍医による身体検査後、河南省、山東省、天津などの日本軍部隊に送られ「慰安婦」にされました。
報告は、第一一七師団長だった鈴木啓久中将ら捕虜となった日本軍将兵が「慰安所」設置に関与したことを供述した調書も掲載しています。
報告書は、弁護士協会のホームページ「中国律師網」で公表されています。調査は、今回明らかにされた以外の地方でも継続中です。
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