9月4日(火)は、7時起床の朝であった。
読谷の海は、このような。
8時には、バスに乗り込んで、
ただちに、恩納村に向かっていく。
亡骸が見つけられた場所。
米軍属による加害である。
いまも新しい飲み物がたくさんならぶ。
毎日のように、献花台の掃除に
来ておられる方もあるとのこと。
9時半には、読谷村の役場に移動。
村の95%が米軍基地だった戦争直後から、
現在の36%まで占領面積を減らした取り組みを。
「この100年は、大和への世代わりや二度の世界大戦、
27年間の米軍統治時代を経て
日本復帰へとつづく激動の時代であった」。
村役場には、9条の碑が立ち、
役場の門柱には「平和の郷」「自治の郷」とある。
「村長室には、憲法99条が
掲げられているという話しも聞いた」。
99条は公務員の憲法尊重擁護義務を定めたもの。
旧日本軍が土地を強制的に
接収してつくった「北飛行場」が、
沖縄戦で米軍の「読谷補助飛行場」につくりかえられた。
返還(取り戻し)は特定の団体によるのでなく、
役場を先頭とした村ぐるみの活動だった。
大きな役割を果たされたのが、
昨夜お話をうかがった山内徳信村長。
「ここは沖縄の戦後史を学ぶ場として重要」
と平和ガイドの北上田さん。
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