9月5日(火)は、6時半起床の朝であった。
外の雨は、あがっている。
みんなはレストランで朝食だが、
こちらは、例によって、
部屋でパンとヨーグルト。
サクサク動いて、7時半すぎにはロビーに出る。
事故の瞬間まで、浪江町の津島地区でくらした
三瓶さんと合流する。
8時には、学生たちと出発し、
かつての地区の様子、事故後の様子、
いまの気持ち、裁判の内容
などをうかがっていく。
9時すぎには、津島地区に到着となる。
下は、事故直後に、室内でも
800マイクロシーベルトが記録された診療所。
たくさんの人がこのあたりに避難していたが、
汚染状況を知っていた国からの指示はなく、
結果的に多くが少なくない被曝をした。
近くの活性化センターは、0・329マイクロシーベルト。
今でいえば、神戸駅前の3倍ちょっとといったところ。
震災後、手を入れることができなかった
ご自宅の現状を見せていただく。
線量の高さのため、子や孫との思い出がつまるこの家が、
朽ちるのを見ていることしかできなかった。
こんな思いをした人間と、
国・東電はなぜ裁判で「争う」のか。
自ら責任をとろうとするのが人の道ではないか。
ひとつひとつの言葉が胸に刺さる。
10時40分には、お別れして、
11時前には、葛尾村の復興交流館あぜりあへ。
葛力創造舎代表の下枝さんから、
まちおこしの様子を聞かせていただく。
古いものを大事にしながら、
若者の創意が生きる新しいものを加えながら。
12時半には、ご近所のおかあさんたちがつくってくれた、
うれしい土地のゴハンをいただいていく。
薬味の朝とれ野菜が、格別にうまい。
1時には、バスに乗り込んで、
村のあちこちを案内していただく。
まずは、地元の神社にご挨拶。
そして、ご神木にもご挨拶。
いまは助成金がいろいろあるが、
その後、地元の産業で残るものの1つは畜産だろうと。
美しい渓流は、前日の雨で少し濁っていた。
今日も、ここまで、福島大学のみなさんと一緒。
ありがとうございました。
最後は、葛尾村のみなさんとも、
みんなでまとめての写真撮影。
2時すぎには、バスにもどっていき、
2時50分には、道の駅なみえで、
「まちづくり浪江」の石山さんと合流する。
市内をめぐりながら、
浪江町の復興の状況をうかがっていく。
津波に中をさらわれた請戸小学校は、
いまは整理されて
震災遺構として保存されている。
あいにく今日は「お休み」である。
つづいて、請戸漁港はながめるだけ。
船は震災前の94隻が、いまで29隻とのことだった。
近くの堤防の上にもあがってみる。
かつて住宅地だった目の前に、
いまは1軒の家もない。
すべてが津波で流された。
つづいて、津波犠牲者の慰霊碑がある
大平山の霊園に。
碑文には、津波翌日の原発事故により、
助けられる命をあきらざるを得なかった
苦悩の記録が刻み込まれている。
他方で、同じ地域には、企業誘致が進んでいる。
こちらは高度集成材の製造センター。
水素製造の大規模施設も。
事故当時の馬場町長時代とその後で、
役場の復興政策は、
かなり大きく変わったようす。
雨が降り出したところで、バスにもどり、
5時40分には、石山さんとお別れする。
雨の中を走る途中、
ネット情報を、カシャカシャやって、
7時には、いわきの旅館・古滝屋さんに到着する。
荷物を置いて、一息ついて、
7時半には、教員3人で外に出る。
楽しみにしていた「居酒屋・おかめ」は、
残念ながら、数カ月前に閉店したと。
別のお店に落ち着いて、
10時半には、コンビニ経由で部屋にもどり、
12時前後には、寝たらしい。
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