昭和天皇は、靖国へのA級戦犯合祀を、やはり不快に思っていたらしい。
だが、合祀者名簿は、すべて天皇の前を通過するのではなかったか。
合祀を止める権限は、昭和天皇にはなかったのか?
そのあたりの仕組みは一体?
A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認・富田メモ委検証報告(日経新聞、5月1日)
故富田朝彦・元宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。
■ 「富田メモ研究委員会」の最終報告
A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認――富田メモ委検証報告
故富田朝彦・元宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。
精査したところ、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」などと昭和天皇の靖国への思いを記した新たな走り書きが見つかった。日付は1988年5月20日で、天皇が「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた同年4月28日から約3週間後。
天皇は「松平(永芳)宮司になって 参拝をやめた」と話し、4月のメモでも述べていた「松岡(洋右元外相)」「白取(白鳥敏夫元駐イタリア大使)」の名を5月20日にも繰り返している。
委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と解釈した。
また、88年5月に富田氏が次期長官に藤森昭一宮内庁次長(当時)が決まったことを説明する際、昭和天皇が「後任に政治家でも来てはと思ったが」と話している記述もあった。富田氏の後に政治家が起用されるのではないかと、天皇が心配していたことがうかがえる。
メモにはこれ以外に天皇が政治、経済、国際情勢などを常に気にかけ、宮内庁側も最新の情報を提供するよう配慮していたことが記されている。87年9月に天皇が開腹手術を受け、88年9月に吐血、89年1月に逝去するまでの宮内庁内の動きも詳述。各委員から「六十数年ぶりの代替わりに備える政府内の動きがよくわかる」との指摘が相次いだ。
が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。
■ 「富田メモ研究委員会」の最終報告
A級戦犯合祀、天皇の「不快感」再確認――富田メモ委検証報告
故富田朝彦・元宮内庁長官が書き残した「富田メモ」(日記、手帳)について、日本経済新聞社が設置した社外有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は30日、最終報告をまとめた。
同委員会は昨年10月から、計11回の会合を重ねメモ全体を検証した。その結果「これまで比較的多く日記などが公表されてきた侍従とは立場が異なる宮内庁トップの数少ない記録で、昭和史研究の貴重な史料だ」と評価。特に昨年7月、本紙が報じたA級戦犯靖国合祀(ごうし)に不快感を示した昭和天皇の発言について「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」との結論に達した。
精査したところ、「明治天皇のお決(め)になって(「た」の意か)お気持を逸脱するのは困る」などと昭和天皇の靖国への思いを記した新たな走り書きが見つかった。日付は1988年5月20日で、天皇が「だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ」と述べた同年4月28日から約3週間後。
天皇は「松平(永芳)宮司になって 参拝をやめた」と話し、4月のメモでも述べていた「松岡(洋右元外相)」「白取(白鳥敏夫元駐イタリア大使)」の名を5月20日にも繰り返している。
委員会は「昭和天皇が靖国神社の合祀のあり方について、明治天皇の創建の趣旨とは異なっているとの疑問を抱いていたのではないか」と解釈した。
また、88年5月に富田氏が次期長官に藤森昭一宮内庁次長(当時)が決まったことを説明する際、昭和天皇が「後任に政治家でも来てはと思ったが」と話している記述もあった。富田氏の後に政治家が起用されるのではないかと、天皇が心配していたことがうかがえる。
メモにはこれ以外に天皇が政治、経済、国際情勢などを常に気にかけ、宮内庁側も最新の情報を提供するよう配慮していたことが記されている。87年9月に天皇が開腹手術を受け、88年9月に吐血、89年1月に逝去するまでの宮内庁内の動きも詳述。各委員から「六十数年ぶりの代替わりに備える政府内の動きがよくわかる」との指摘が相次いだ。
■ 「富田メモ研究委員会」の最終報告
富田メモ研究委員会 検証報告
故富田朝彦元宮内庁長官が残した記録(富田メモ)を丹念に読み解くため、日本経済新聞社が設置した外部有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」は、昨秋から半年余りにわたり様々な角度から検証した。その結果、すでに報道してきた部分だけでなく、富田メモの記述は詳細、正確であり、全体が昭和史の貴重な史料であることを確認した。1日、2日の特集でメモの抜粋と委員による座談会を掲載、併せて4日から外部委員の寄稿を順次掲載する。また、社会面で関連企画を連載する。
委員会は昨年10月から11回開催し、メモ全体の流れや文字、文体などの特徴を分析しながら、細部の検証を進めた。重点を置いたのは(1)内容に事実の裏付けがあるか(2)発言記録の場合、発言者が確定できるか(3)複数の解釈が可能な場合どう考えるか(3)史料として公表すべきかどうか――など。注釈を含む「富田メモ抜粋」は、委員会の結論としてまとめたものである。
富田メモが史料として重要なのは、第一に昭和天皇の最晩年の生の声が記録されていることにある。天皇は1987年(昭和62年)9月22日に開腹手術を受けた。その後、年末に一部の公務に復帰してから富田氏が長官を退任する88年6月まで、容体は比較的安定していた。
富田氏はこの間、用途を天皇との対話の記録にほぼ限った手帳を用意し、言上(ごんじょう=天皇への説明)内容や天皇の質問、発言を詳細にメモした。この手帳には87年12月28日から長官退任直前の88年6月10日まで、27回の言上すべてが記録されている。
健康に不安を抱える中で、退任間近の富田氏に多くのことを語った天皇と、それを漏らさず聞き、記録しようとした富田氏の間の信頼関係、そして富田氏の緊張感がこの時期のメモには横溢している。82年―87年に首相を務めた中曽根康弘氏は「富田長官は誠実な人柄で天皇の信頼を得ていた」と証言している。
富田氏は事前に項目を個条書きにしたメモを用意し、言上に臨んだ。富田氏の説明に対し天皇が幾つか質問や感想を口にし、富田氏が答える。さらに、時によっては言上と直接かかわりのないことを天皇が語り出す。2人のやりとりはこうした形で進んだ。
例えば、富田氏は88年5月6日に言上したが、9日に今度は天皇からお召し(おめし=呼び寄せ)を受けている。この時は富田氏から特に報告はなく、天皇自らが若槻礼次郎元首相、吉田茂元首相、高松宮の思い出などを35分間にわたり語った。
靖国神社参拝に関しても、自らの意志を富田氏に伝えたいという天皇の強い意思が感じられる、というのが委員の共通した見解だった。
委員会では靖国神社に絡む記述をすべて抽出、分析した。しかし、靖国神社がA級戦犯14人を合祀した78年(昭和53年)10月、富田氏はすでに長官に就任していたが、当時の日記に合祀を巡る記述はなかった。また、合祀が報道された79年4月19日、故入江相政元侍従長の日記には「朝刊に靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになつちまふ」とあるが、富田氏はこの時期も「靖国」に言及していない。
委員会では、昭和天皇の発言から遺言ともいえる様々な思いを読み取った。浩宮(現皇太子)さまの結婚には強い関心があり、繰り返し報告を求めたり予算面での心配まで口にしたりした(88年1月26日、3月29日など)。また、71年の訪欧や21年(大正10年)の皇太子時代の訪欧のエピソードを語る語り口からは、2つの旅行が生涯を通じた楽しい思い出だったことが改めてうかがえた(88年5月11日など)。富田氏の後任に政治家が就く懸念を抱いていたことも垣間見えた(5月20日)。
進講者を何度も驚かせた政治、経済、社会に対する幅広い知識、関心や記憶力が、最晩年まで衰えなかったことも裏付けられた。
委員会で記録を分析した結果、天皇とのやりとりはまず要点をメモし、時間をおかずに庁内の自室で整理した可能性が高い。言葉は肉声そのままに近い形で記録されているとみられ、昭和天皇の言葉遣いを研究するうえでも貴重である。
富田メモの史料価値が高いもう一つの理由は、富田氏が公務を詳細に記録していたことにある。宮内省が戦後、宮内府を経て総理府外局の宮内庁になったのが49年(昭和24年)6月1日。富田氏は第三代宮内庁長官である。初代の田島道治氏の日記・手紙類は一部公表されているが、被占領期を含む昭和20年代の天皇・皇室をめぐる状況は昭和末期とは全く異なっている。25年間にわたり長官の職にあった第二代の宇佐美毅氏の記録類は、明らかになっていない。
富田氏は皇室と無縁の警察官僚から宮内庁に転じた。詳細な記録をつけることで、象徴天皇制が安定する一方で天皇が高齢に向かう昭和50年代以降、宮内官トップの職務のあり方を模索し続けたといえるだろう。
宮内庁には行政官庁としての「オモテ」と、侍従ら側近の「オク」という二重構造がある。「入江日記」だけでなく、昭和天皇の晩年まで仕えた徳川義寛元侍従長、卜部亮吾侍従の日記もオクの記録だ。これに対し、富田メモにはオクとは異なるオモテの職務や天皇との距離感、一般公務員とは異質の宮内官の職務の特徴が刻まれている。特に、87年(昭和62年)1月から88年6月の退任までの詳細な公務の記録からは、昭和から次の時代への代替わりも見据えて、いかに多様な仕事をしていたかが分かる。
87年は昭和天皇の初めての沖縄訪問、皇太子夫妻(現天皇皇后両陛下)の27年ぶりの訪米が予定され、皇室にとって節目の年にあたっていた。2月に高松宮が逝去。富田氏は秩父宮以来34年ぶりの皇族の葬儀を取り仕切った。
40歳間近の宜仁親王(桂宮さま)独立も具体化しつつあり、浩宮(現皇太子)さまの結婚問題も考えねばならなかった。そして9月には天皇に腸に通過障害があることが判明、富田氏は長官として開腹手術という重い決断をする。
その間の庁内外の協議や内閣との折衝はこれまで詳細が知られていなかった。当時、中曽根内閣の官房長官だった故後藤田正晴氏は富田氏の警察庁時代の先輩で親しかったこともあり、特に頻繁に連絡を取り合った。
天皇の開腹手術の方針が決まった後、87年9月18日に富田氏は後藤田氏に会った。その際の報告は、天皇の病気と、それに伴って派生する沖縄訪問中止、皇太子による天皇の公務(国事行為)の臨時代行、皇太子夫妻の訪米や宜仁親王独立問題の扱い、マスコミ対応など、対処すべき案件が網羅されていることが分かる。後藤田氏とは2日後の9月20日に再度会い、中曽根首相からの指示を受けた。
後藤田氏は87年11月の竹下内閣発足で官房長官を退くが、富田氏はその後もしばしば相談に訪ねている。2人の関係を抜きに、この時期の宮内庁は語れない。
宮内庁長官の職務の幅の広さは、メモの随所にうかがえる。87年8月10日には、岸信介元首相の通夜に侍従を遣わす際の天皇のお言葉から、天皇の「思し召し」にあった「安保改定」の語句が削られた経緯が簡潔に書かれている。
富田氏は宮家との付き合いにも言及しているが(79年12月31日=2日付で掲載=など)、旧皇族と宮内庁との関係も、11宮家が皇籍を離脱した47年(昭和22年)から40年たってなお強いことも分かる。昭和天皇に皇室全体の家長という意識が生涯強かったこと、皇族との姻戚関係が背景にあるだろうが、委員会では、宮内庁長官の職務が一般官庁のトップといかに異なっているかを示す例に挙げられた。
昨年7月に富田メモを報道した際、公開の是非とともに富田氏自身に公開の意志があったかどうかが問題にされた。委員会ではメモを読み込み、様々な意見を出し合った。共通していたのは、富田氏が(1)昭和天皇が亡くなることがはっきりした時点で、できる限り忠実に天皇とのやりとりを記録しようとした(2)公務について、世間一般の動きを見ながら宮中を記録するという複眼の視点を常に持とうとした――との見方だ。
正確な記録を残し後世に役立てたいという富田氏の考えがメモには反映しており、公開は有意義なだけでなく富田氏の遺志にも沿うのではないか、というのが委員会の最終的な見解である。
委員会の議論では意味の解明ができない個所も残った。富田氏の関心に沿って書かれたメモを正確に理解するためには別の記録との照合も必要で、今後、昭和天皇に関する史料の公開が進むことへの期待は各委員に共通していた。
その意味では、入江元侍従長の「拝聴録」が見つかったことをうかがわせる記述が注目された(88年5月23日など)。この拝聴録は入江氏が昭和天皇の回想を聞き書きしたとされるもので、作業の様子は入江日記に頻繁に出てくる。宮内庁は「存在しない」として非公開決定をし、内閣府の情報公開審査会も2001年にその決定を妥当とする答申を出しているが、存在するとすれば扱いが広く議論されるべき問題であろう。
日本経済新聞社は今回の一連の報道で富田メモの検証作業を終了、メモは富田家が公的機関への寄託などを検討する。
研究委員会の委員は次の通り
御厨貴氏(東大教授)▽秦郁彦氏(現代史家)▽保阪正康氏(作家)▽熊田淳美氏(元国立国会図書館副館長)▽安岡崇志(日本経済新聞特別編集委員)
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