原武史『大正天皇』(朝日選書、2000年)を読み終える。
一夫多妻の明治天皇のもと、大正天皇は1879年に側室の子として生まれる。しかし、当人は一夫一婦制の「家庭」を重視し、子煩悩な父親ともなる。
それは日本でも「近代家族」が確立していく時期に対応し、「家族国家」イデオロギーが形成される時期にも重なっていた。
庶民の目に見えない「畏れ多い」明治天皇に対して、大正天皇は皇太子・嘉仁時代の地方巡啓で人々に姿を見せ、気軽に言葉をかわしていく。
それは幼い頃からの病弱、晩年の言語障害ともあわせて、政府官僚等から威厳のない天皇と見られる根拠ともされる。
1912年に明治天皇が満59才で世を去り、皇太子は32才で天皇となる。時あたかも天皇機関説にもとづく論争が行われる時期であった。
激務がつづく中、大正天皇は次第に体調不良の時期が多くなる。
息子である後の昭和天皇(皇太子・裕仁)は、宮内官僚等により、父・大正天皇ではなく、祖父・明治天皇を手本としての教育を受けていた。
公務を果たすことのできない天皇の長期「不在」の時期に、皇太子・裕仁の「売り出し」がはかられていく。
1921年、皇太子・裕仁のヨーロッパ外遊の様子は映画におさめられ、日本(本土)の人口の1割にあたる700万人がこれを見る。
万をこえる民衆の前で裕仁が「畏れ多い」威厳のある言葉を発し、これに民衆が万歳を叫んで応える君民一体化の儀式が繰りかえされ、これが、明治・大正の「伝統的国家主義」と異なる昭和の「新国家主義」を生み出す土台となる。
天皇と自己の一体化の裏返しとして、政治への不満を「君側の奸」に向け、天皇個人とともに「改革」をすすめんとする類のイデオロギーである。
1921年秋、天皇制(国家)の危機を痛感する政府・宮内官僚等が、言葉の不自由となった大正天皇を強制的に「引退」に追い込み、裕仁を摂政の地位につけていく。
ここから事実上、裕仁は皇太子と天皇を兼任していくことになる。
1926年12月、満47才で大正天皇が亡くなる。手を最後まで握りしめたのは「生みの母」柳原愛子であったとされる。
昭和への移行の中で「明治ブーム」が生み出され、弱い天皇の時代・大正は忘れ去られていくことになる。昭和天皇自身も、明治天皇を語ることは多くとも、大正天皇を語ることはほとんどなかった。
大日本帝国憲法のもと、唯一最高の権力者であった大正天皇だが、その権力の実態は天皇をふくむ人間の集団にあり、政治家としてのイニシアチブを十分発揮することのできなかった天皇は、強く、集団によって制御される一面をもったわけである。
このように近代天皇制も、明治・大正・昭和と多彩。
近代天皇制の出発点に立つ明治天皇については、何を読むのが近道だろう。
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