授業評価アンケートをとって、いつものように映像を見る。
NHKスペシャル「安保とその時代 第3回・60年安保 市民たちの一カ月」。
60分のつもりで見ていたが、
今回は時間が長かった。
途中で終わることになる。
〔以下は、しり切れとんぼのメモ〕
60年安保闘争、警官隊の暴力、樺美智子さん死亡
敗戦から15年、まだ戦争の記憶が強く、大衆食堂のおかもちにも安保反対の文字(背後に民商の文字)
運動の拡大につれ、抗議の矛先は岸信介に、安保の内容論議は十分でなく、岸自認とともに運動は終息、以後今日まで条文はかわらない
挫折、敗北、センチメント
2010年5月沖縄那覇、在日米軍基地の根拠が安保条約
57年岸首相就任、ただちに渡米、旧安保の改定申し入れ、背景は基地反対闘争(700以上の米軍基地、犯罪・事故、アメリカへの不満)
米軍が日本を守る規定、日本に情報を与える規定がなく、内乱条項があった、著しく不平等、岸はより対等になる改定で国内の不満をおさえようと
アイゼンハワーも同意、改定してでも基地が必要だと
新安保案、事前協議の義務、内乱条項の撤廃、共同防衛の義務
世論の二分、賛成-対等化を評価、反対-アメリカの戦争にまきこまれる危険が増す中曽根康弘・科学技術庁長官(当時)、賛成
反対運動の中心、安保改定阻止国民会議、労働運動が社会党・共産党によびかけて吉田かせい、軍拡・核武装につながるのではないかという不安
60年1月19日、条約調印、あとは両国議会での承認
アイゼンハワーの来日も決定、反発した「全学連」、指導したブント
安保の本質は軍事条約、それは粉砕しなければ、戦闘的なデモンストレーションを
米軍駐留が双務的になる、これは日本が軍国主義化すること
江田五月、父は江田三郎(社会党書記長)
横道孝弘、父親は社会党議員、成田・飛鳥田・・・7人衆と呼ばれた
60年5月19日、ここから激動の一カ月、岸が国会で採決を、可決されれば一カ月後に自然承認となる、6月のアイゼンハワー来日の前に成立させようと、自民党内部からも議論がつくされていないと反対の声
中曽根、強行採決に危惧、安保反対とともに岸の政治行動に反対という声が、アイク来日の日に自然承認があわされていた、アイクへの媚態ではないかという声も
社会党は国会内で座り込み、衆院議長室封鎖、議長は500人の警官隊を導入して議員をごぼう抜き
水野きよし・赤城防衛庁長官の秘書官、あの時には国会に右翼が入っており、右翼に秘書バッチ(国会通行の自由)をつけさせてごぼう抜きに参加させていた
清瀬一郎衆院議長、5月20日、自民党議員だけの議場で採決、安保条約可決、1ケ月後の自然承認を
ここから運動は岸退陣を求めるものになる、岸退陣あるいは国会解散を求めて
ここから運動の指示がなくても、人々が集まるようになった、一般市民・労働者・主婦も、安保反対・岸を倒せ
東京大田区では暖簾デモ(店の暖簾をかかげて)、(民商)
戦後15年、やっと商売が軌道にのった、平和であってこその商売
中野区でも100軒の商店が店をしめて抗議デモに、オレたちが主人公というパワーがあった、戦後日本は生まれ変わったんだというパワー
まだ生々しい戦争の記憶、安保でアメリカの戦争にまきこまれるのではないか
60年5月24日、知識人、20をこえる大学300人の教員が国会へのデモ、戦争中の自分たちへの悔恨がある、軍国青年だったという
作家・大西巨人、言語道断
「若い日本の会」文化人、石原慎太郎は自民単独での強行採決に抗議、しかし改定には賛成、江藤じゅんに学んだ、国民大衆は政治案件については無知に近い、反対の運動は必然だったろうが論理はまったく通らないものだった
反対の声は全国に広がる、各地の基地周辺でも、山形県、アメリカは開墾した土地をとっていった、神町キャンプ、57年返還運動で土地をとりもどす、安保改定でまた同じことが起こるのでは、アメリカは人間をいじめる国
函館、高校生の運動、函館東高校、学校新聞アンケートで生徒の7割が改定反対、徴兵制復活への恐れも、戦後民主主義の蹂躙、民族独立行動隊の歌(デモの歌)
熊本・荒尾、三井三池炭鉱(当時日本一の出炭量)、大量首きりとのたたかい、首切り反対と安保反対と、両方のつながりは強行採決、石炭から石油への強引な転換、国民のたたかう力を奪おうとした
沖縄・宜野湾、米海兵隊普天間基地の周辺でも、アメリカの施政権下だったが本土の大学に進学した学生たちも、「沖縄返還運動、本土復帰」が先、反安保も当然だったが
当時の沖縄には安保条約は適用されてい、本土との往来にもパスポートが必要、沖縄出身の学生たちはパスポートを剥奪される危険をおかして安保闘争に参加、目立って運動した学生は沖縄にもどるとパスポートの再発行がされなかった(本土にもどれない)
マスコミ、内閣支持率は最低、岸の不人気には経歴も影響、東條内閣の商工大臣、岸は反安保を一部の声と断じ、「声なき声」に答える、いまは「声ある声」だけだと発言
60年6月4日、品川駅に全学連1000人座り込み、全国各地でスト、560万人、国会前に13万人、請願署名は最終的に2000万人、「声なき声」の会(全学連や労働組合に属さない一般の人の会)・中心は政治運動と無縁の絵画教室の若い女性教師、元憲兵・会社の社長・主婦・高島田の人も、東京郊外にたくさんの団地、ここの主婦たちも、生活の中の身近な関心事だった、日常のくらしの一番大きな問題に安保があった、銀座のフランスデモに、感激した・市民というのはこういうものかと、全然知らない人の手があたたかい
ブント幹部、葉山氏、運動にお祭り的大衆的高揚が生まれてきた、安保の本質を理解しない反政府運動に
石田雄、安保から民主主義に問題がすりかわった、不平等性の改善はあったが自発的な従属に入った、安保の本質を考えない状況はいまもつづいている、安保の根底にあるのは武力による抑止
岸は外交分野でも大きな抵抗にあっていた、ソ連・中国は警戒、露骨な挑戦と受け止めた、フルシチョフの強い非難、日本を侵略する国はないのになぜ基地を、岸の反論、防衛条約、侵略された場合の準備だけ、国論を分裂させようとするもの
アイゼンハワー来日に先立ち、ホワイトハウスの報道官が来ることに
60年6月10日、自然承認まであと9日、共産党・全学連反主流派が羽田空港に動く、ハガチー秘書、アメリカ大使館に向かうクルマを3000人が取り囲む、社会党幹部等も、米軍のヘリによって救出、記者会見、反対派一部の共産主義者、大統領来日は予定どおりにと発表
中曽根、アイク来日は小さなこと、それよりも国民の結束が大切、来日に反対
60年6月15日、国会周辺10万人の市民、全学連主流派はこの日を天王山と、午後3時2万の学生が国会前に、葉山氏・ブントの基本方針のもとで、反主流派がハガチー事件で運動をもりあげたことへの対抗もあった、5時半南通用門から国会突入開始、機動隊は放水、社会党江田書記長は双方引けと指示するが、学生は国会内に、7時すぎ第四機動隊が反撃(武器としての警棒使用許可、鬼の四機)、たくさんの怪我人、社会党の議員も秘書も怪我人をはこんだ、マスコミの報道陣もなぐられた
樺美智子(東大4年)が亡くなった、翌朝まで負傷者589人
山形の農民、あの時日本はかわると思った
政府にも動揺が、岸は終日国会内の総理大臣室に、闘争に断固たる姿勢で、強力に排撃する、自衛隊の投入を検討
中曽根、閣議で心配だといったのは私と赤城防衛庁長官だけ
水野清・赤城長官秘書、赤城氏は防衛庁幹部を集めた、事務次官・・たいへんなことになる、相手は日本人、それを撃ち殺すことはできないと
結局、国会への自衛隊出動はなし
岸はアイク来日の断念をアメリカに伝達
60年6月17日、マスコミは突如反安保闘争への批判、大手7者共同宣言、「暴力を排し、議会主義を守れ」、暴力闘争への批判、言論の自由を保障せねば、ここから新聞の論調もおさまっていく、知識人の多くも暴力反対の流れに、他方で全学連はますます挫折感をもって暴力を
60年6月18日、全国統一行動、自然承認がその夜に迫る、最後の抗議、深夜0時をまわると承認となる
60年6月23日、藤山・マッカーサー調印、新安保発行、岸自認表明
中曽根、岸は樺氏が亡くなった前も後もかわらなかった・・・
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