「ナヌムの家」の村山さんが、沖縄戦当時の「慰安婦」の状況を調べている。
それは日本軍「慰安婦」歴史館の展示に反映されるようだから、この夏には学生たちと目にすることができるだろう。
大切な歴史を語り継ごうとする若者たちの取り組みも立派である。
「孤児院で子の世話」/沖縄戦当時の従軍慰安婦(沖縄タイムス、3月16日)
韓国のナヌムの家・日本軍「慰安婦」歴史館の研究員らが県内の慰安所跡や「従軍慰安婦」にされた女性たち、朝鮮人軍夫についての聞き取り調査を始めている。同館のリニューアルに向け、沖縄戦当時の慰安婦の状況や新たな証言をまとめ、展示する予定だ。同館の村山一兵研究員は「沖縄戦中の慰安婦の状況について詳しくまとめ、六月ごろから展示したい」と準備を進めている。
調査は十四日から十七日までの四日間。初日は一九四五年ごろ、羽地村(当時)の田井等孤児院で過ごした座覇律子さん(75)=本部町=と、沖縄戦中に朝鮮人軍夫が働く港近くに住んでいた友利哲夫さん(75)=名護市=が証言した。
当時十三歳だった座覇さんは孤児院で元慰安婦だった女性らに育てられた状況を説明。「ササキのおばさん」と呼ばれていた元慰安婦について「日本語は分からないが、子どもたちの洗濯や世話をしてくれた。美人で、とても優しかった」と振り返った。
孤児院近くにあった野戦病院でも元慰安婦の女性が看護師として働いていた。座覇さんは、孤児院を出た後に周りから女性らが慰安婦だったことを聞かされたといい、「慰安婦と言われてもまだ幼かったので、女性たちが何をされていたのかも分からなかった」と語った。戦後、女性らが帰国する記事を見て、「当時は無事に帰国するんだと思ったが、女性が大変なことをされたことを後で知った。今、当時を振り返ると帰国後どんな気持ちで暮らしているのかと思うと胸が苦しい」。
ナヌムの家には現在、慰安婦にされた女性七人が生活している。同館には、渡嘉敷島で慰安婦として働かされたぺ・ポンギさんの生涯が展示されている。
従軍慰安婦の歴史継承訴え/平和会、街頭で寸劇
平和運動に取り組む県内の大学生などでつくる「平和(ぴょんふぁ)会」メンバー約三十人は十五日、那覇市の国際通り周辺で、歴史教科書から削除された従軍慰安婦問題の継承を訴える寸劇や歌を披露した。
「もうやめよう、慰安婦問題と性暴力」のメッセージや亡くなった慰安婦の写真などを掲げ、「日本軍に強制連行された被害者は戦後ずっと苦しんできて、今でも誤解や差別を受けている」と訴えた。歴史継承の思いを込めた「継いでゆくもの」を合唱。従軍慰安婦として連行された朝鮮人の女性が、周囲の人から差別される様子を表現した寸劇が演じられた。
「慰安婦の無念知って」 学生らイベントで訴え(琉球新聞、3月16日)
平和活動に取り組む「平和(ぴょんふぁ)会」や沖縄国際大学の平和学ゼミの学生ら約30人が15日、日本軍「慰安婦」問題を多くの人に知ってもらおうと、那覇市のパレットくもじ前広場でイベントを開いた。韓国の「ナヌムの家」で暮らす「慰安婦」の被害女性たちの写真や女性たちが書いた絵を掲げたほか、歌や劇を披露。被害女性の苦しみ、問題を語り継いでいく大切さ、米兵などによる性暴力がなくならない現状を訴えた。
ナヌムの家に住む被害女性たちは高齢で、ことしに入って2人が立て続けに亡くなった。2人は亡くなる前に「日本は謝ったの?」と話していたといい、交流のあった平和会のメンバーらがその無念の思いを伝えようと企画した。
ナヌムの家で1年間ボランティアをした経験のある平和会の川満美幸さん(23)=沖国大4年=は「慰安婦問題にはさまざまな見方や考えがあると思うが、無関心でいるのではなく、まずは知ってもらいたい。日本政府は事実は事実として認めてほしい」と強調した。
ナヌムの家・日本軍“慰安婦”歴史館研究員の村山一兵さん(27)は「慰安婦問題は今でも解決されていないし、性暴力もなくならない。このことを若い人たちも忘れずに考えてほしい」と訴えた。
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