靖国問題をめぐる新資料が,国会図書館から提示された。
莫大な分量の資料であるから,今後,その検討がすすむに応じて,様々な問題が出てくることになるのだろう。
とりあえず,以下の記事が示す大問題は,戦犯合祀を主導したのが国側であった事実である。
侵略を反省しない靖国史観は,政府自身のものだということである。
国と靖国神社が一体で合祀進める 内部資料明らかに(朝日新聞,3月28日)
戦没者の靖国神社への合祀(ごうし)をめぐり、旧厚生省と靖国神社が打ち合わせを重ね、一体となって合祀の基準を決めていたことが28日、国立国会図書館刊行の「新編 靖国神社問題資料集」に収録された内部文書から明らかになった。BC級戦犯の合祀について、厚生省側から、目立たないように合祀してはどうかと提案する場面の記録もある。新憲法の政教分離の原則がありながらも、合祀が国主導で進められたことを示す資料といえる。
文書は、靖国神社が所蔵する「靖国神社合祀者資格審査方針綴(つづり)」の一部。国は独立回復後の56年から3カ年計画で、停滞していた合祀事務を積極的に進めていた。文書によると、58年4月9日に「合祀基準に関する打合会」が靖国神社の社務所内であり、旧厚生省引揚援護局の職員4人、神社側の5人、奉賛会の関係者6人が出席した。
BC級戦犯に触れ、厚生省の担当者が「個別審議して差し支えない程度で、しかも目立たないよう合祀に入れては如何(いかん)。研究してほしい」と提案、神社側は「総代会に相談してみる。そのうえでさらに打合会を開きたい」と応じている。
同年9月12日の「打合会」では、A級戦犯として処刑された東条英機元首相らも含む「戦争裁判刑死者調査表」が配られ、議論になった。
厚生省側は「まず外地刑死者(BC級戦犯)の合祀を目立たない範囲で了承してほしい」と要請。神社側は「新聞報道関係の取り扱い如何で国民的反響は重要な問題として考えなければならない」と応えている。
78年に合祀されるA級戦犯の名簿が旧厚生省から神社に送られたのは66年2月。新資料によると、69年1月31日に厚生省側と神社側がA級戦犯12人について「合祀可」と再確認し、「外部発表は避ける」とした。70年6月25日には「諸情勢を勘案、保留とする」と再確認している。
〈新資料集の刊行〉 小泉内閣時代に靖国参拝の論議が再燃したことなどを受け、国立国会図書館が06年1月に作業を開始。合祀者の資格審査に関する靖国神社所蔵文書や、中曽根内閣時代の「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」の議事概要など、非公開だった資料を含め808点を収録。旧厚生省が合祀事務への協力を各都道府県に要請した文書や、連合国軍総司令部(GHQ)の靖国神社調査担当者が集めた文書、千鳥ケ淵戦没者墓苑建設の経緯に関する文書もある。A4判で約1200ページ。5月初旬をめどに同図書館のホームページでも公開する予定。
国会図書館公表 戦犯合祀旧厚生省が主導(東京新聞,3月29日)
靖国神社への戦犯合祀(ごうし)で、合祀事務を担当していた厚生省(当時)と神社側が頻繁に打ち合わせを行い、同省側から神社側に合祀を積極的に持ちかけるなど主導権を握る形で話が進められていたことが「新編 靖国神社問題資料集」に収録された靖国神社所蔵の合祀資格審査などの資料で二十八日分かった。
厚生省と靖国神社が戦後、緊密に連携しながら合祀事務を進めていたことを具体的に示す資料が明らかになったのは初めて。
戦没者の合祀は通常、旧陸海軍の名簿をもつ厚生省側が「祭神名票」と呼ばれる書類に氏名や所属などを記載して神社側に送付する。これを基に神社側で合祀基準に当てはまるかどうかを審査して行われていた。
資料集によると、一九五八年四月の打ち合わせで、厚生省側から「(BC級戦犯を)個別審議して差し支えない程度でしかも目立たないよう合祀に入れてはいかが。神社として研究してほしい」と持ちかけた。
同年九月の打ち合わせでは、東条英機元首相らA級戦犯を含む祭神名票について「名票作成は全部できているから、いつでも上申できるよう準備は完了。県を通じると目立つので考慮した」などと神社側に説明した。
神社側は翌五九年から、厚生省から届く祭神名票を基に「昭和殉難者」として、BC級戦犯の合祀を開始。六六年には、A級戦犯の祭神名票が届き、七〇年の神社の総代会で合祀の方針が決まったが、当時の筑波藤麿宮司が合祀時期について「宮司預かりにしてほしい」と要望。在職中に合祀することはなかった。
靖国神社の「合祀に関する検討資料」によると、六九年一月に開かれた厚生省との会合で、神社側はA級戦犯について「合祀可」との見解を記した文書を提示したが、「総代会の意向もあるので合祀決定とするが外部発表は避ける。合祀通知状は直接遺族に届けることとして、県を経由することはしない」と注記。しかし、翌年六月には「諸状勢を勘案保留とする」と後退している。
筑波氏の後、宮司に就任した松平永芳氏が七八年の秋季例大祭前に合祀に踏み切った。
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