以下は,こうち男女共同参画センター「ソーレ」が発行する,ソーレメールマガジン「FROMソーレ」Vol.46 (発行2007年1月)に掲載されたものです。
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日本資本主義の2つの特徴──超長時間労働と女性差別
〔ジェンダー視角への接近〕
こんにちは。私は兵庫県西宮市にある神戸女学院大学で経済学を教えています。大学院では日米の鉄鋼産業の関係を研究しました。日本からアメリカへの鉄鋼輸出や,鉄鋼企業の対米進出,それと自動車産業との関わりといったことを,かなり細かい数字を扱いながら研究していたわけです。その私が「ジェンダー視角をもった経済学」の必要を感ずるようになった理由の1つを(本当はたくさんあるのですが),次に紹介してみます。
〔女子学生への差別を目の当たりにして〕
じつは大学院生の頃までに私が学んだつもりでいた経済学には,資本家と労働者,大企業と中小企業といった言葉は登場しても,男性資本家と女性資本家,男性労働者と女性労働者といった言葉は,どこにも登場しませんでした。
しかし,学生たちは,女性であるというだけで就職差別を体験します。「女に営業なんかできるわけない」と面接官に直接いわれた学生もいれば,女性だからと質問に答える権利を与えられなかった学生もいます。「セミナーに参加させてください」と連絡した時に,女性が連絡すると「満席」と断られ、目の前で男性が連絡をすると「空きがあります」と対応される。こういうことがたくさんありました。
さらに入社後の差別については,みなさん良くご存じのとおりです。セクハラの被害も深刻です。私が知っている限りでも、営業職の女性が他の会社に行った時に、そこの男性職員に身体のラインを上から下へなでられたということがありました。脚立の上にあがっていて足をさわられたとか、露骨に「あなたを誰がものにするかが職場の話題になっている」といわれた卒業生もいます。そして,被害者であるにもかかわらず、女性の側が職場を辞めずにおれない現実も生まれてくるわけです。
私が教える女子学生たちは,こういう問題に直面せずにおれない。そこで,それにかみあった経済学を語ることの必要に迫られたわけです。これらのことは「女性労働者問題」を扱う文献には詳しくあったのでしょうが,少なくとも経済学の基礎理論の範囲には登場しないことがらでした。資本家にはなぜ圧倒的に男性が多いのか,なぜ労働者の内部で女性が底辺に置かれるのかといったことの解明がなかったのです。
〔主婦とは何ものなのか〕
もう一つ,女子大で経済学を語る上で欠かすことのできない問題は「主婦」の役割です。学生たちの人生の選択肢に──望んで選択するかどうかは別にしても──専業主婦があるのは事実です。パートや派遣などで比較的短時間の労働をしながら(とはいえ日本の非正規雇用は労働時間が長いですが),主として家事をすると自覚するような働き方もあります。これがまた経済学の基礎理論にはほとんど登場しないことなのです。
こうして,はたらく女性と主婦という学生たちの未来の生き方のふたつの重大問題に迫られて,「性」の登場しない抽象的な労資関係や生産関係にとどまらないで、経済学のなかに男女関係の視角を盛り込まねばならないと考えるようになったわけです。
〔女性差別を継続させる力は何か〕
その後,関連する文献をいろいろ探してみました。まず女性労働者の問題ですが、企業社会における女性差別に対しては、非常に戦闘的な闘いの歴史があり,その闘いが勝ちとってきた成果も大変に大きなものとなっています。06年にも住友金属を相手にした裁判闘争での画期的な勝利和解がありました。
また労働者全体のなかでの男性と女性の関係,あるいは女性差別についても一定の分析がありました。全労働者のなかに男性より賃金の低い女性たちをつくり(工業先進国のなかでは男性労働者の賃金も相当に低いのですが),それによって男性労働者の不満をそらせる。そういうねらいがあるという指摘です。関連して,男性労働者と女性労働者のあいだにくさびを打ち込み,労働者全体の団結を阻むということも指摘されていました。これらはいずれも妥当な分析だろうと思います。
しかし,その一方で残された課題もあるように思われました。たとえば性の相違を理由とした差別を,なぜ少なからぬ労働者が当然のこととして,あるいは仕方のないこととして,こんなに長く受け入れつづけるのかという問題です。憲法が「両性の本質的平等」を語って,すでに60年にもなっているのですから。
また,労働者の名で実は男性労働者に焦点をあて,女性労働者を非本来的で特殊な労働者と位置づける研究が多いという印象も持ちました。今日のように全労働者の4割が女性であるという現状の中で,これと同じやり方で問題を分析することが妥当でないことは明らかです。
〔経済構造の中での主婦の役割は〕
他方で,主婦について少なくないのは,消費生活の主体という角度からの検討でした。また消費者運動や平和運動、住民運動、子育てや保育や介護など,さまざまな運動の担い手だという評価もありました。
しかし,資本主義の経済構造の中で,本当に主婦は消費者としての役割しか果たしていないといえるだろうか。家族の生活を支え,夫や子どもの健康を支える家事労働の社会的役割が,本当にそれでとらえられているといえるのだろうか。そうした問題を正面から扱う研究はほとんどありませんでした。主婦は資本主義の経済構造にとっては副次的なものであり,重要ではないのだと,脇に追いやられている感じがしました。ですが,こういう議論は,経済学に現代の経済構造の全体を分析する力がないことを告白するものでしかありません。
〔世界一の長時間労働と野蛮な性差別の結合〕
こうした疑問の謎解きをすすめる1つの作業として,日本経済の戦後の動きをながめ直して見ることにしました。その結果,気づかされたのは「世界最長の長時間労働」と「先進国でもっとも野蛮な部類に入る性差別」が,じつは互いに支えあう不可分の関係にあるということです。
高度成長期(55年から73年)の日本には,女性だけの若年定年制が広く存在しました。25才定年,30才定年,結婚定年,出産定年などが企業内の公的ルールとしてあったのです。女性だけの結婚退職制に違法判決が初めて出たのは1966年になってのことでした。財界・大企業は,意図的に女性を若い段階で企業社会から排除していたのです。
その理由は何でしょう。1960年で,男女の賃金格差は100対42.8と,女性の賃金は男性の半分もありません。そうであれば人件費削減を追及する財界・大企業が,どうして女性たちを職場から追い出すようなことをしたのか。それは「女は家庭」という「古い考え」だけから説明できるものではありません。
そこには財界らしい金儲け第一主義=「資本の論理」が貫かれています。その基本は,相対的に体力があり,産前産後休暇や生理休暇のいらない男を柱とした,世界でもまれな長時間労働体制づくりです。その結果,「家庭のことはオマエにまかせた」としか言えなくなる男性企業戦士のメンテナンス(めし,風呂,寝る)と,次の世代の労働者の育成(子育てと教育)が女性たちに強制されることになりました。これが資本主義の経済構造における「主婦」の社会的な役割となります。夫の労働力の日々の生産と,次世代労働力の育成です。
〔財界による性別役割分業とM字型雇用の形成〕
これは非常に意図的につくられた体制です。たとえば1966年の中教審答申は「愛の場としての家庭」を述べて,妻が夫を「愛」の力で支えることの必要を強調しています。同じ時期に,たとえば三鬼陽之助という財界研究者は『女房タブー集』という本のなかで「亭主は、戦場たる職場で全力でたたかい、女房はその戦士たる夫につかえ、かつ家を守る」と語りました。政府の経済審議会(会長は経団連会長)が,女性パートの活用を強調した時にも,「家庭責任」は女性が負うということを大前提としていました。
こうして高度経済成長期は,一方で財界・大企業が政府をも巻き込んで,「男は仕事,女は家庭」の性別役割分業を労働者家族に急速に広めた時期であり,他方で女性に「M字型雇用」を強制していく時期ともなりました。この「M字型」に抵抗し,退職せずにがんばった女性には,財界・大企業の政策に逆らう「ふとどき者」のレッテルが貼られ,大変な差別と攻撃が行われていきました。
その後の注目すべき出来事としては,75年前後をピークとした専業主婦比率の低下の開始,80年代の女性差別撤廃条約批准と雇用機会均等法の制定(85年),日経連が有期雇用の拡大を主張した「新時代の『日本的経営』」(95年),97年と06年の均等法「改正」,労働基準法からの女性保護の撤廃,男女共同参画基本法の制定などがありました。しかし,財界の動きを見る限り,そこには男性中心の過労死をいとわぬ超長時間労働体制の確保と,これを保障する女性への家事労働の強制が一貫しています。そして,その役割を果たした上で,なおかつ働きたい女性には低賃金の非正規雇用を強制し,その役割を拒否する女性については「過労死の男女平等」へと組み込んでいく。フェミニズムの普及にもかかわらず,事態の改善がすすんでいるとはいえない状況です。
〔企業と家庭をつなぐ視角の根本〕
すでに字数がつきました。じつは企業社会と労働者家庭をこのように統一してとらえる視角は,驚くべきことに19世紀後半のマルクスにすでにあったものです。マルクスは『資本論』の中でこう述べています。「社会的観点からみれば,労働者階級は直接的な労働過程の外部でも,死んだ労働用具と同じように資本の付属品である」。そして「彼らの個人的消費でさえも,ある限界内では,ただ資本の再生産過程の一契機でしかない」。これは資本主義における家事労働の意味を考えるうえでも,なかなかに含蓄の深い言葉だと思います。
詳しくは私の論文「『資本論』の中のジェンダー分析」(鰺坂真編『ジェンダーと史的唯物論』学習の友社,05年)や「格差社会とジェンダー」(労働者教育協会『季刊・労働者教育』学習の友社,第125号,06年12月)などをご覧ください。論文の多くは,私のブログ「はげしく学び,はげしく遊ぶ」(http://walumono.typepad.jp/)にもアップされています。
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