以下は,北海道札幌月寒高等学校同窓会会報「つきさっぷ」(第32号,2007年2月28日)に掲載されたものです。
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1975年に月寒高校を卒業し,その4月に京都に移ってから,京都や大阪にくらす関西生活歴は,すでに30年を超えています。最近は,時おり札幌にもどることがあっても,うかつにバスにも乗れない有り様です。実のところ気分的にも,札幌に「もどる」というよりも,「行く」という感じが強くなっています。
72年入学の1年生時代を,私は,広いグランドに面した木造の校舎ですごしました。校舎の端にあった1年10組は,格別にすきま風の吹きぬけやすい寒い教室でしたが,それでも友人たちと,文化祭のために合唱の練習をしたり,外でバレーボールをやったりと,楽しくすごした記憶があります。
2年生,3年生の時には,道路側に面したコンクリートの校舎に移動となります。木造からの脱却です。「理系」クラスの中で,わがクラスは,どうも勉学に「もっとも難あり」のクラスだったようで(私も立派にその一員でしたが),最大の活躍の場は体育祭のバスケットボールとなっていました。当時は体育の先生を中心とする教員チームが圧倒的な力を誇っていましたが,そのチームと五分のたたかいを見せたのは,わが2年9組,3年9組だけであったと思います。
私はもっぱら応援役でしたが,そんな仲間とともに学校帰りに「お焼き」をかじったり,36号線に抜けた交差点にあった小さなラーメン屋に寄ったこと等が,とてもなつかしく思い出されます。
クラスとともに私の高校生活の中心にすわっていたのは,マンドリンクラブの活動でした。圧倒的に女子多数のメンバー構成の中で,マンドリンチェロという大きめの楽器をガシャガシャと弾き,「男だから」というだけの理由で部長につけられ,毎日,右往左往をしていました。静内へ演奏旅行に出かけたり,クラブ創立何十周年かの取り組みで,市民会館で演奏させてもらったことを覚えています。
長く関西にいるうちに,当時の友人達とは,ほとんど交流がなくなってしまいました。この10年でも,修学旅行を引率する教師としてやってきた友人と京都で会ったこと,また群馬にいる友人がたまたま大阪にやって来たときに,一緒に酒を飲んだこと,そんなことが2度ほどあった程度です。50才を目前とするこれまでの人生には,人並みに小さくない起伏がありましたが,いまは関西の老舗女子大の教員に落ち着いています。
『軍事大国化と「構造改革」』(学習の友社),『ジェンダーと史的唯物論』(学習の友社),『「慰安婦」と出会った女子大生たち』(新日本出版社)などを,どこかで見かけた時には手にとってみてください。平和を守り,人の尊厳を大切にすることの大切さを,これからも若い世代に語り続けたいと思っています。
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