2005年10月23日(日)……京都のみなさんへ
以下は,10月16日に京都学習協の現代経済学ゼミナールで配布したレジュメです。
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〔2005年第4回京都現代経済学ゼミナール〕
ジェンダーを読む(第6回)
――日本軍「慰安婦」問題と現代――
2005年10月12日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔講師のつぶやき〕
今日は,みなさんの感想の紹介からいきましょう。
●学校で習う歴史は丸暗記が主で楽しくないものでしたが、今日の講義は新しい歴史的事実も知れ楽しかったです。紹介された文献も読んでみたいです。
――やっぱり「やらされる勉強ではなくやる勉強」ということですよね。以下,同じような感想が多いですね。フィンランドの子どもたちの世界一の学力の話なども思い出します。
●女性を中心にして歴史をみていく方が、とてもおもしろく感じました。学校でならっていた歴史より全然、自分の中に入っていっていました。学校でもこういう授業があったら良かったのに・・。
●時間の関係で走られた講義だったが、「学びあう女と男の日本史」面白かった。女性の執筆者が多いこともありわかりやすい。活字も大きいのでじっくりよみきりたい。なお感想に対する講師のおもい、考え方の説明はこれからもおねがいしたい。なかなか勉強になるので。
●歴史をふりかえると現在の社会がいろんな形で変化してきた過程であることがよくわかった。これからの未来に展望がもてた。
――過去の歴史がいろいろだったということは,現在とこれからも変化がつづいていくということです。歴史に学ぶことの意義のひとつは,それを肌で実感することですね。あわせて,もう少しつっこむならば,その歴史の変化が何を原動力として起こってきたのか。その問題を探ることです。その課題に照らせば,歴史学の成果にもまだまだ研究の課題が多いということになるのかも知れません。
●女性がけがれた存在ということと、部落問題がつながっている! 新鮮でした。「支配者の側からの歴史しか見ていない」という点はそのとおりだと思います。「家族私有財産・・」を再読しているのですが、なかなかすすみません・・。
――ぜひ網野善彦さんの本を読んでください。必ずしも学会の通説ということではないようですが,日本の西と東の相違や,天皇の「神」としての社会的役割やその権威をめぐる争いなど,おもしろい話がたくさん出てきます。個人的には,なにより網野さん自身が,とても面白そうに歴史を発掘している姿を楽しく思っています。「学問は楽しい」ということです。
●日本の歴史の中での男女の関係を古代から現代まで、大急ぎで読みましたが(帰りの電車の中でじっくり全部よんでみます)、私が、私達が考えていた(思い込まされていた!?)ものと、全然違うということに驚きました。日本の歴史研究が、男性の視点でほりおこされているということなのですね。でも最後に読んでいただいたルイス・フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」では、江戸時代の庶民の女性はかなり自由に生きていたようですね。次回も頑張って勉強したいと思います。
――女性の地位については,公的世界での力(権利)を失っていくという側面と,それにもかかわらずたくましく生きていた庶民の生活という両面があるわけですね。それだけに女性と社会をがんじがらめに縛り上げる明治の体制は非常に特異に見えます。ではなぜ明治政府はそれを望んだのか。おもしろいテーマですね。
●紹介された文献はいくつか自分で読んでみようと思う。歴史の勉強はもっと身を入れてやらねばと痛感しました。男女問題は、社会問題、歴史問題等々でもある。
――たとえば史的唯物論は,人間の社会を歴史と構造の両面から見ていきますね。人間の社会というのはどういう発展の歴史をもっているのか。特にそのことを自分の生きている日本の歴史に即してとらえていくことは大切ですね。「ヨーロッパの話ばかりではわからない」と労働者にいわれた野呂栄太郎が,明治維新や日本史全体の研究に取り組んで行ったという姿勢も思い出します。
●テキストの朗読でなく、工夫して下さい。
――自分が歴史研究者ではないため,他人の研究に依拠せずにおれないところが悲しいところですね。能力及ばずです。他方,どのテキストをつかい,どのページをつかい,どの個所を読むかについては,それなりに準備をしたつもりです。選択の観点としては,前回のレジュメに書いたように,◇具体的な日本史研究に学ぶ――まず事実に通じる。◇男女関係の歴史的な変化の大きさに注目――ジェンダーは歴史的に変化するもの。◇女性の歴史的役割の大きさにも――特に経済生活の中で。この3点を意識してみました。よりすすんだ学習は,ご紹介の参考文献でお願いします。
●原始の男女の時代から、現在の男女の時代まで数時間で進めていかれたのに感動。変化がおもしろかった。
●女性の側から見た歴史を学ぶのは初めてです。大々変興味深く勉強できました。
●祖母は矯風会でした。「戦争協力・推進の役を果たした。」と初めてうかがいました。戦後の祖母は、3人息子の末息子が、いつまでも戦地から戻らず、戦死の報に泣き、その報の後の月日に、フィリピンで会った人(兄)の話に泣き、横井さんが帰って来られたら泣き、フィリピンの野戦病院跡で泣きました。孫の心に「戦争反対」を浸みこませた祖母でした。よくぞ教えてくださいました。ありがとうございます。
――女も男も「時代の子」ですね。「いつでも戦争をするのは男で,反対するのは女だ」といった単純さは現実の歴史にはありません。そして「時代の子」であるだけに,その時代をどうつくるかという姿勢が個人に問われるわけですね。侵略の歴史はすでにおかしてしまった過ちですが,その歴史をどう反省するかは現代の課題です。
●ナヌムの家のマリオさんが京都に泊まられた時、皿洗いに行ってました。「石川さん!オー!」とおっしゃってました。暖かい写真をとられる方ですね。
――もとは朝日新聞の記者をされていたようですね。写真集もたくさんあるようです。何かの賞をとられてもいました。年末にまたお会いする予定です。
さて,次は質問とそれへの回答です。何度もキャッチボールを重ねて,お互いの認識を深めていきましょう。
●(直接講義に関係ないのですが)男性の過労死すれすれの長時間労働が、女性の短時間労働へと導いているという点で、まさに私の家庭でもそうで、私もパートになった方がよいのかと悩んでいます。労働時間短縮の運動が必要だと改めて思います。家では夫の家事育児能力の形成が必要なようですが・・。石川さんが家庭生活で努力していること、夫婦間で大切にしていることがあれば、もしさしつかえなければ教えて下さい。
――う~ん,大学の教師は労働時間がいわゆる「フレックス」ですから,あまり参考にはならないでしょうね。いつも翌月のスケジュールを互いに調整することはしていますが。男の「家事育児能力」については,ここだけの話ですが「ほめて育てる」というのがコツかも知れません。「大人なのにそんなこともできないのか」といわれると,もうそれだけでスネてしまいますから。
●今回の選挙について、自民党の刺客とか女性の候補者が担った役割ウンヌンと、一応学歴高く教養ある女性があのような役割を喜々と(私にはそうみえた)して担った(演じた)ことが私には大変不思議に思われてなりません。いつの時代も、その役を担う女性がいることはあると思われますが(戦争を後おしする、慰安婦を社会悪であるか必要であったかと認める)なぜなのでしょうか?
――そういう役割を果たす人は,女性だけでなく男性にもたくさんいますね。「慰安婦いなかった」と大声でいう人には,男も女もいるわけです。つまり男か女かの相違の前に,どういう政治的立場か,政治的な考え方の持ち主かという問題があるわけです。今日の学びのテーマですが,かつての侵略の歴史を反省しない政治が長くつづいていることは重要です。その上で,男女関係の問題として私の目に「おもしろく」見えたのは,前回お話したように当選したある女性議員が「総理ほめてください」と男である総理に「こびて」見せたところです。「強くてリーダーシップを発揮する男」と「忠実にそれに従う女」という,実に古典的な男女関係の構図が見えたような気がしたものですから。
●社会保障の充実、労働時間の短縮は大いに賛成・支持します。社会保障の充実については、経済成長が最優先でなければならず、それが達成されてから社会保障へまわってくるという考え方があります。この反論をお願いします。
――日本の社会保障は,大雑把にいえば戦後一貫して拡充の道をたどりました。それが抑制・削減に転換するのは1970年代半ばのことです。そのころの高齢者医療は全国どこでも無料でした。それくらいのことは30年前の日本の経済力でも現にやれたということです。そこからの転換が起こった最大の理由は,国家財政を大型公共事業と軍事費に優先的に費やす政治姿勢の明確化です。それをゆるさずにおれなかった社会の側には,社会党が「革新自治体」をはなれ,公明党との提携にすすむという重大事件がありました。このような歴史については,たとえば真田是『新版・社会福祉の今日と明日』(かもがわ出版,2003年)などをご覧ください。
――いまの日本の経済力(GDP)は世界で2位です。第1位はもちろんアメリカです。しかし,それより経済力の小さな国々で,日本やアメリカよりはるかに社会保障が充実している国はいくらでもあるわけです。つまた日本社会の問題点は,社会保障をする実力がないのではなく,それをやる政治の意志がないということです。
●(資料の)36ページ、戦時体制と女性の所で、明治民法へと発展していく所と、現在の選挙結果“小泉自民党”のいう民意の反映で、憲法改悪にもつながりかねないのでは?と重ねて考えるのは考えすぎ・・?でも逆点もありかな。
――憲法「改正」は自衛隊による海外での人殺しを可能にするということですから,それを支持するということは,戦争体制をととのえることになっていきますよね。その動きをとる政党を支持するという点では,確かに共通性もあるのでしょうね。他方で,今日には当時とは違う反戦平和の運動の強まりもあり,そこに参加している女性もたくさんいます。また憲法「改正」の本性が,まだ国民に良く見えていないという問題もあります。そこを明らかにしていく取り組みが必要なのでしょうね。
――より一般的な問題としては,「長いものにまかれる」「強い人・かしこい人にまかせておけ」という他力本願を国民全体で抜け出していくこと大切なように思えます。つまり裏をかえすと個人の自立ですね。「自分のアタマで考え,自分のアタマで判断する」。「世間に埋没しない」「マスコミに流されない」ということです。そのためには,まず運動の先頭に立つ人が,その主張の説得力を深めていくことが必要ですよね。社会全体の知性が問われていると思います。しっかり学んでいきましょう。
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以下は今日のテーマである「慰安婦」問題についての「民主青年新聞」連載中の原稿です。まだ新聞には第1回分しか掲載されていませんから,みなさんには特別サービスの早期公開です(実際の掲載原稿には若干の手直しが入ります)。
〔民青新聞連載〕
歴史の真実を学ぶ旅 ハルモニをたずねて(仮)
2005/09/24
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
第1回・「慰安婦」問題に取り組む
みなさんは日本軍「慰安婦」問題を知っていますか? かつての侵略戦争で日本軍は,戦場での兵士の性欲を「処理」するために,数万とも数十万ともいわれる若い女性を「拉致」し,長期にわたって一方的なレイプを繰り返しました。被害者には当時植民地とされた朝鮮の女性が多く,10代前半の幼い子どもも少なくありません。1日に60人の相手をさせられたという証言もあります。
「慰安所」は民間業者による商行為だったという主張がありますが,「慰安婦」の輸送や調達,「慰安所」の建設や運用に関する軍の文書も残っており,事実上の経営主体が当時の日本政府と軍であったことはすでに明白です。
被害者の中には,途中で自殺した女性もあり,日本兵に殺された女性もいます。また,たとえ死にいたることなく「解放」(戦争終結)の日を迎え,生まれ故郷にもどることができたとしても,多くの女性を待ちかまえたのは,病気とトラウマ,偏見と差別など自己肯定感とは無縁の長い人生でした。
苦しみに耐え,長く沈黙のうちに身と心を閉じ込めていた被害者ですが,繰り返される日本政府の暴言に怒りをおさえることができず,1990年代には「私が『慰安婦』です」という勇気ある告白を開始します。そして,日本政府に公式の謝罪を求め,歴史教科書をつうじて子どもたちに真実を教え,二度と同じ過ちが起こることのない保障づくりを求める取り組みに立ち上がりました。しかし,このうめくようにふりしぼられた被害者たちの声に,日本政府は今日まで誠意あるどのような対応も行なっていません。
この全体がいわゆる「慰安婦」問題です。「慰安婦」という名の性奴隷を生み出し,「慰安所」という名のレイプセンターで,彼女たちに毎夜のレイプを繰り返したのは60年前の日本人たちです。しかし,その歴史の事実を隠し,謝罪さえしない現在の政府をつくっているのは,今に生きる私たちです。私は,現代日本の誰一人として,その責任から自由ではないと考えています。
私たちのゼミは2004年・2005年と,この日本軍「慰安婦」問題に取り組んできました。教室で学び,「夏休み」には韓国の「ナヌムの家」にかつての被害者を訪れ,直接その体験をうかがい,併設された「日本軍『慰安婦』歴史館」に学び,またソウルの日本大使館前で日本政府に謝罪を求める「水曜集会」に参加してきました。
2004年の3年生たちは,韓国訪問の後,ここで自己満足してはならないと,学内で報告会を開き,また大学に対して「慰安婦」問題を学ぶ講義を求め,「ナヌムの家」の被害者に大学で証言を行なってもらう機会を要求しました。これらの取り組みは実をむすび,被害者は今年12月20日に大学へやって来ます。また授業科目は「慰安婦」問題を含む「戦時性暴力」をテーマとして,来年4月には開講の予定となっています。
さらに学生たちは,より多くの学生・市民に問題を考えてもらうための本をつくることに挑戦しました。『ハルモニからの宿題』(冬弓舎)がその成果です。ハルモニというのは朝鮮語で敬意を込めて「おばあさん」を呼ぶ言葉です。10月に準備をはじめ,3月には出版というあわただしさでしたが,この学生たちのがんばりが翌2005年のゼミと大学に,ある種の空気を育てる力となっていきました。大学での学びは,いまある社会の問題と結びついている。そのあたりまえの空気が,静かに広がりはじめたのです。
第2回・すべてを疑い,自分で確かめる
2005年の3年生ゼミの学びは,春休みの宿題からはじまりました。吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書),不破哲三『歴史教科書と日本の戦争』(小学館)の2冊を読んで,全員が要約レポートを書きました。これが,ゼミ開始時点でのゼミ生共通の知的出発点となっていきます。
4月からのゼミでは,まず先輩たちがつくった『ハルモニからの宿題』を学びました。テキストを事前に読み,その中で自分が関心をもった事柄を調べ,その調べてきたことを互いに報告しあって議論するというやり方です。その結果,たとえば4月18日の第2回ゼミでは,早くも日韓基本条約,人身売買,教科書問題,関東大震災と朝鮮人虐殺,キーセン観光,天皇制,クマラスワミ報告など,「慰安婦」問題にかかわる重要なテーマが次々と学生の側から語られました。
「慰安婦」問題はなかったとする立場の文献も検討しています。5月16日には,新しい歴史教科書をつくる会『新しい日本の歴史が始まる』(幻冬舎)の座談会を,また6月6日からは1ケ月をかけて西尾幹二・藤岡信勝『国民の油断』(PHP研究所)を読みました。「ここに書かれていることは本当だろうか」と疑問を出し合い,その問題を自分たちで調べ,確かめ,次の回のゼミに報告しあって議論するというやり方です。たとえば6月13日には,幕末日本をめぐる国際的圧力,日清戦争後の国際情勢,琉球の歴史,マッカーサーの北東アジア認識,反日教育の実態などが大きなテーマとなっています。
さらに7月4日には,出版されたばかりの日中韓3国共通歴史教材委員会『未来をひらく歴史』(高文研)に進みますが,この時点ではすでに,どのようなテキストも鵜呑みにすることなく,自分たちが主体となって事実を確かめていくという読み方が定着していました。この読み方は,様々な主張がぶつかりあう問題を自分のあたまで考えていくうえで,非常に有効なやり方だと思っています。
他方で,ゼミではたくさんのビデオを見ることに時間を割きました。戦争やレイプ,大量虐殺など,私たちが日常生活では実感しづらい出来事を,できるだけリアルに体感しようと考えてのことです。『証言・侵略戦争』『沈黙の歴史をやぶって』『ハーグ最終判決』『日本の慰安婦問題』『写真に記録された「慰安婦」』『証言・中国人強制連行』『ビルマの日本軍慰安婦』『アウシュビッツからベルリンへ』『大娘たちの戦争は終わらない』等です。「慰安婦」を強制された被害者の苦悩と憤りの強さ,「私が殺しました」と語る元日本兵の涙の声,そして中国人の屍の山,ギッシリとならんだ頭蓋骨,これらの映像が人の人生や命の重みを直接肌に伝えてくれます。
通常の授業は90分ですが,私たちのゼミは3時から8時までの毎週5時間が普通となっています。このハードな学びを了解したうえで学生はゼミに加わっていますし,たくさんのゼミ生が学び調べる主体となれば,5時間は決して長すぎるものではありません。
第3回・「現実」にとびこむことを恐れない
今年も9月12日から15日まで3年生ゼミで韓国を訪れてきました。3年生たち14名の他に4年生,卒業生,他大学の学生,一般市民の計5名も同行しました。夏休みの集中学習として,8月31日には朝10時半から6時までのゼミも行なっています。その日は『未来をひらく歴史』を検討し,靖国神社の遊就館で手にいれた大本営編集のビデオ『帝国海軍・勝利の記録』も見ています。
韓国のソウルへは,9月12日夜8時の到着となりました。13日の朝からさっそく「ナヌムの家」へと移動します。たくさんの資料がそろった「日本軍『慰安婦』歴史館」では,スタッフの詳しい解説を聞き,時間をかけて学んでいきます。再現された「慰安所」の前では,1人の学生が倒れてしまいました。彼女はほどなく学びにもどることができましたが,それほどまでに,ここにある事実が見る者に与える力は大きいということです。
帰国後の小さなレポートで,ある学生はこう語りました。「衝撃的なことばかりで,ショックを受けました。日本で勉強してきたはずなのに心にズーンと重たかったです。涙が出ました。ここは本を読むだけでは知ることができない体験ができる場所だと思いました。直接歴史にふれることができます。なぜ先生が私たちをここに連れて来たかったのかがわかった気がしました」(F・Yさん)。
夕方には,かつて「慰安婦」を強制された被害者から直接証言をうかがいました。語ってくれたのは,ムン・ピルギ・ハルモニです。「15才で騙されて中国へ連れ去られた。『オマエたちの国は,オレたちが奪った,だからいうことを聞け』そういわれるのが一番悔しかった。焼けた火かき棒を脇腹にあてられ,病院に送り込まれたこともある。週末には1日20人のセックスの相手をさせられた。ようやく家にもどれたのは3年後だった。小泉内閣はどうして謝らないのか。日本人は本当にひどい」。うつむきながらの小さな声での証言ですが,内容は聞くものを圧倒します。このような証言をした夜,ハルモニは眠りながらうなされることもあるのだそうです。
学生たちは書いています。「(話を聞いて)こわくて仕方がなかった。聞くだけでこわくて仕方がないのに,体験したハルモニはどうだったんだろう。私にはわかりきれないのではないかと思った」「話を聞いているとき,自分のおばあちゃんと重なって見えて現実から目をそらしたくなってしまった」「(でも)私たちも逃げてはいけない。ここで逃げたら,またずっとハルモニを苦しめつづけることになる」(F・Tさん)。
「証言は,言葉ではどう表現すればいいかわからないほど私に重たくのしかかった。ハニモニが日本人たちは本当に憎いとおっしゃったときは,ずさっと胸に突き刺さった。日本が憎くてもいい。当然だ。せめてハルモニが日本に望むことを知り,それをかなえる努力をしたいと今は思っている」(K・Rさん)。
夕食づくりを楽しんだあと,学生たちはペ・チュンヒ・ハルモニとカラオケを楽しみました。屈託なく笑い,ハルモニとふれあい,お菓子を食べて歌を歌う。しかし,その心の中には,この日,自分たちが見聞きした事実や,自分たちがおかれた立場をどうとらえ,どう消化するかについての問題整理の過程があったのでしょう。この日の体験の力は,翌日の「水曜集会」につながります。
第4回・歴史をうけつぎ,歴史をひらく
9月14日朝,私たちは「ナヌムの家」を後にして,8人のハルモニとともにソウルの日本大使館前へと向かいました。日本政府に「慰安婦」問題の誠意ある解決を要求する第674回の「水曜集会」に参加するためです。集会でひろげる横幕は,前日の夕食の前につくっておきました。「謝罪しよう。私たちは本当の日韓友好を実現したい」。白い布の中央に,こう大きくハングルで書きこみました。そして,そのまわりに全員が日本語で一言ずつを書き込んでいます。
会場へ向かうバスのなかで,集会での発言者を決める「あみだくじ」が行なわれました。この方法に誰からも不満が出なかったのは,誰が当たっても,その役割を引き受けるという構えがあったからでしょう。1時から集会がはじまり,大使館を警護する警官隊と70~80人ほどの集会参加者のあいだに横幕を広げ,学生たちは次のように発言しました。
「この横幕には『謝罪しよう』と書きましたが,ここには日本政府だけではなく,日本国民みんなで謝ろうという思いが込められています」(H・Tさん)。「昨日証言してくださったハルモニの手はすごく小さくて,体も小さくて,こんな小さな体で,大きな軍人の相手をしていたかと思うと本当に胸が痛みました」(Oさん)。「歴史は『知らなかった』ではすまされません。私たちは選挙権を得て,日本という国をつくっていく立場になりました。自分たちが学んでいることや,実際に見たことを友人やまわりの大人に伝えていきます」(N・Aさん)。集会の最後には,日韓の若者たちが手をつないで力をあわせる,韓国流のにぎやかなパフォーマンスにも参加しました。
帰国後の私たちには,この体験と「慰安婦」問題の解決にむけた願いをどう広げるかという課題が残されました。ある学生はこう書いています。「毎週毎週,違う日本人がきて,『きれいごと』をならべて,自己満足して帰っていった。ハルモニたちに,そう思われない行動をこれから示さなきゃいけないと思っています」(H・Tさん)。「私たちは『歴史の目撃者』であると同時にその担い手でもなくてはいけません。目撃した後のステップが大切だということを自らの水曜集会への参加という体験でも身にしみて実感することができました」(S・Mさん)。
秋の第1回ゼミでは,さっそく次の取り組みが具体化されました。まずは学内報告会です。韓国での行動を記録したビデオを上映し,あわせて「慰安婦」問題とは何か,私たちはそれをどう考えるかについての導入学習的な報告をする予定です。新しい本づくりについては,つくりたいという声と手にあまるという声の両方が出ています。他方,韓国の国会が元「慰安婦」のための記念館建設を決議し(2004年),「戦争と女性の人権博物館」が2006年にソウルに建設される予定である一方,同じソウルで交流した韓国の学生たちの多くが「慰安婦」問題に強い関心を示さなかったことは,学生たちに新たな整理の課題をなげかけてもいるようです。
いま大学には「9条の会」や,映画『ベアテの贈りもの』の上映(主催は学院)に取り組む学生たちがいます。2004年に始まった私たちの「慰安婦」問題への取り組みは,学内のこうした活動を生み出し,励ますうえで,大きな力を発揮したと思っています。私たちのゼミのスローガンは「はげしく学び,はげしく遊ぶ」です。この連載では紹介できなかった「遊ぶ」の部分もふくめて,詳しい韓国旅行の様子については,次のサイトをご覧ください。(http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/)。
さて,今日の講義の流れについては,あらかた以下のように考えています。大雑把なメドとしてご理解ください。
1)「講師のつぶやき」(1時30分~2時00分)
◇「講師のつぶやき」「質問にこたえて」
2)「日本軍『慰安婦』問題と現代」(2時00分~4時20分)
◇「慰安婦」問題とは何か
◇公娼制と「慰安婦」問題のかかわりは
◇「戦争だから仕方がない」論をめぐって――当時の国際法,海外の軍隊
◇侵略(加害)の事実と反省しない戦後日本の政治――国民の意識
3)質問と意見の交換,質問・感想文を書く時間(4時30分~5時00分)
〔今日の講義の材料〕
1)〔講座のスケジュール〕2004年度現代経済学講座の「講師のつぶやき(第7回)」より
〈第6回・日本軍「慰安婦」問題と現代〉
日本軍「慰安婦」問題には,性暴力,公娼制,民族差別,非人間的な軍隊のあり方など,多くの問題がからみあっています。被害女性は,日本政府に誠実な謝罪と個人補償を求めています。これをいまだに解決できない日本の政治には,「ちかん」「DV」「セクハラ」「性差別」「風俗」に鈍感な日本社会全体の意識が反映されてはいないでしょうか。「男女平等」にかかわる社会的意識の成熟という角度から,現代の日本を考えてみます。
2)アジア女性資料センター『「慰安婦」問題Q&A』(明石書店,1997年)より資料
・日本軍「慰安婦」問題の基本点
3)早川紀代『植民地と戦争責任』(吉川弘文館,2005年)より資料
・日本軍と公娼制,「軍国の女」
4)吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書,1995年)より資料
・当時の「国際法では何が禁止されていたか」
・「軍隊に慰安婦はつきものか――各国軍隊の場合」
5)石川康宏ゼミナール編『ハルモニからの宿題』(冬弓舎,2005年)より資料
・「知っておかねばならない侵略の事実」
・「戦後日本とアジアのかかわり」
2005年10月11日(火)……大阪AALAのみなさんへ
以下は,8月23日に大阪AALAで行なわせていただいた講演の記録です。
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大阪AALA8.23講演会
『東アジア共同体と日本の進路』
―― 「脱ドル」「脱米軍支配」の動きの中で ――
講師:神戸女学院大学・石川康宏氏
(1)東アジアの中の日本の役割
①東アジアの歴史
まずこれから考えていく問題の背景であるアジアの歴史をどう考えるかという問題です。21世紀にどのようなアジアをつくっていくかと実践的に問題を立てる場合に,次の4つの段階区分が大切だとおもいます。
まず、自生的発展の段階です。これは誰からも外部から侵略されることのない段階です。その段階にも東アジアの内部には敵対もあり、社会の興亡もありましたが、しかし外部に支配されることのない時代です。これが圧倒的に長期にわたって続いています。
外部からの支配が始まるのは、早くみても16世紀以降となります。ヨーロッパの国々、イギリスであるとかオランダであるとかがやってきます。東インド会社といった経済的・政治的拠点をつくりますが,あの時期が始まりです。
そして20世紀後半になると,そうしてつくられた西欧帝国主義による植民地はすべてなくなります。こうして見ると,大国への東アジアの領土的従属は16世紀から20世紀の足かけ500年程度となります。何万年という東アジアの歴史の中で、他国によって侵略され牛耳られていた時間というのはほんの一瞬の出来事であるわけです。
ただし,その一瞬の出来事の中で「自存自衛」といいつつ,人民の生命と生活の破壊という点で,度はずれた悪い役割を日本の帝国主義がはたしたことは忘れられません。
このように
(ⅰ)自生的発展の段階
(ⅱ)16世紀以後の西欧帝国主義による植民地支配の時代
(ⅲ)日本が西欧帝国主義を押しのけて支配を広げた20世紀前半の時代、
(ⅳ)そして日本だけでなく西欧もまた支配からの撤退を余儀なくされた20世紀後半の時代
というように歴史的に見ることができます。
②植民地体制の崩壊という、世界史的変化
次に、植民地支配の崩壊です。これは,世界史的に見ても歴史の非常に大きな変化でした。東アジアにおいても,ジグザグの過程をへながら、植民地体制の崩壊が進みます。この過程は、フランスやアメリカなどの大国が懸命に植民地体制を維持しようとするのに対して,これを植民地人民が世界の世論とむすびついて闘っていく過程でもありました。
戦後,東アジアで中国は独自の道を歩みます。第2次世界大戦まではイギリスやフランスやドイツ、日本の影響下に「半占領」状態におかれていたわけです。アヘン戦争等をきっかけにしてイギリスの侵略を受けました。それが戦後独立をします。そして1949年に人民民主主義革命をやって、共産党の政権を作り上げます。これに対して「西側の盟主」を自認したアメリカは、封じ込め政策をとり、そのような国家体制の存続を許さないという姿勢をとります。さらに,この問題をひとつの基準に,アジアの各国に対しては、アメリカ側につくのか,中国側につくのか,その選択を求めていきます。こうして東アジアにも,いわゆる「冷戦」体制がつくられていきました。
ベトナムやインドネシアは独立のための戦争を余儀なくされます。日本人は1945年に戦争が終わったと勝手に思い込みがちですが,日本帝国主義の敗戦ののち,東南アジアには西側帝国主義が戻ってきます。そして,この戻ってきた西側帝国主義を追い出すための独立の戦いが繰り広げられることになるわけです。
それが最も長期にわたったのがベトナムです。ベトナムはフランスの植民地でした。そこへ日本が入り込みます。そして日本軍は食糧などを現地で奪い取るという仕組みでしたから,北ベトナム地域では200万近い人間を餓死させます。そのベトナムから日本が撤退します。日本の敗戦の後,ベトナムはただちに独立を宣言します。
しかし、ここへフランスがもどってきて,独立を力ずくで押さえ込むための戦争が開始されます。結局,このフランスとの戦争に区切りがつくのは,1954年のことです。デエンビエンフーの闘いをへたあとのジュネーブ協定です。しかし,フランスが撤退すると同時に,アメリカの介入が本格化します。こうしてベトナムは次にアメリカとの戦争を余儀なくされます。それが1975年まで続くわけです。ベトナムの人民にとっては,第二次大戦の集結以後,30年にもおよぶ長い戦いがあったわけです。その傷跡はいまも非常に深く持っています。
さて,こういう大変な犠牲をともなう闘いを重要な推進力として,植民地体制崩壊という世界史的な変化は起こっていったわけです。ベトナムの闘いが,フランスにつづいてアメリカをも敗北に追い込んでいった。このことの歴史的意義は大変に大きかったと思います。世界史的な意義をもった勝利だったといえるわけです。
③ 東アジアによる東アジアの建設
そういう戦後の独立にむけた闘いの過程の上に立って,いま東アジアで起こっているのは,アメリカの支配を最終的に脱却した東アジアづくりです。「脱米軍支配」、「脱ドル支配」が政府首脳の集まる会議の公式のテーマになっています。いかにしてアメリカの支配から逃れるかということが、運動団体ではなくて各国政府自身の課題となっているわけです。
その取り組みの中心に立っているのが、ASEANの10ヶ国です。最初は5ヶ国でしたが10ケ国まで増えました。ASEANの一つの特徴は、東南アジア友好協力条約(TAC)でまず平和を確保すること、平和があってこそ貧困からの脱却が可能であるということを根本的な共通認識としていることです。たとえば今年の12月にマレーシアで東アジア首脳会議が初めて開催されますが,ここでも会議参加への前提条件となっているのはTACに加盟している国であるということです。平和の追求前提として考えている国でなければ共同の輪には加われないということです。
もう一つ、ASEM(アジア欧州会議)という組織がすでに出来上がっていることも重要です。これはアジアとEUとの定期会議です。ほんの数十年前まで,EU各国はアジアを植民地支配していた当事者です。フランスやイギリスやオランダなど。これらの国と東アジアは,すでに対等の関係で国際会議を定期的に開催するという地位を確保しています。大国の力に従属した植民地から,この世界を構成する主人公の一人へという巨大地位の変化と,世界全体の構造変化が,ここにもあらわれています。あわせて,この過程は,西側帝国主義といわれた国々に,「植民地なき独占資本主義」への脱皮を求める過程でもありました。この点については,後にまたふれます。
④ 問われる日本の進路
さて,こうした巨大な変化が起こっている中で,東アジアの一員たる日本にはどういう役割が求められているのか,これが日本の政治に問われていることであり,とりわけ日本の民主的改革を求める人たちに問われていることです。アジアの変化に関心をもって見守ることは大切ですが,それだけでは傍観の姿勢にとどまります。問われているのは「われわれは何をするか」を考えることです。
私としては,いまなお「新しい植民地主義」の政策をとる時代遅れの帝国主義アメリカに追随するのでない,次の4つの政策が大切ではないかと考えています。
一つは、東アジアとの共同の姿勢を明確に,その自立を探究する努力をともにするということです。ここでは当面,脱アメリカということが焦点になるでしょう。
二つ目は、しかし,このことは日本が東アジア各国のための犠牲になるということではありません。東アジアの共同のなかで,日本の国民生活の向上が追求されるべきです。その点で,実は、日本経済はアメリカ市場への過度の依存を特徴としてきましたが,東アジア市場との結びつきを強めることは,日本経済がアメリカ市場依存,さらにはドル依存から脱却し,経済主権を確立していく重要なきっかけを与えるものになると思っています。
三つ目は、東アジアにおける共同や連帯の中身の問題です。財界本位ではない真の連帯の探究が必要です。日本経団連は「東アジア自由経済圏構想」を語っており,これは地域的にはASEAN+3の13カ国に合致しています。しかし,地域的範囲の合致がただちに目的の合致を意味するわけではありません。そこには,当然,日本の大企業の利益を優先する共同体建設への強い衝動が反映します。私たちはそれは許してはならないと思います。共同体に参加する各国が互いに成長しあえる関係をつくる努力が必要です。
四つ目に、日本農業の問題です。共同体づくりの中で,日本には生産・供給と同時に,大きな市場としての役割も求められます。各国から農産物購入への強い期待も出てくるでしょう。この中で,日本の農業とアジアの農業の調和のとれた発展をめざすことが必要です。農業はもう東アジアに依存した方がいいという見解もあるようですが,世界の食糧事情を考えたときに,それは再び日本が貧しい国から食糧を奪い取る過ちをおかすことにつながりかねないと思います。
地球環境の破壊は農地を減少させています。その中で長期的には地球人口は増え続けています。そうした状況の中で,日本が農業を行なう能力を持っているにもかかわらず、これをつぶして東アジアに依存するとなれば,それは世界的規模では十分でない農産物を日本が金で奪い取り,世界の飢餓を拡大する新たな圧力をつくることになります。こう考えると,やはり国際的責任として日本国内でつくることのできるものはちゃんとつくる。日本でつくれないものは輸入する。この姿勢をはっきりさせることが大切だろうと思います。
今日のお話は,この4つの問題にそっていえば,主に一点目の東アジアの共同と自立を支援するという問題,特に東アジアの通貨制度の問題に焦点を当てて考えてみたいと思います。
〔補足1〕植民地体制の崩壊とレーニン『帝国主義論』
次にすすむ前に,戦後の植民地体制の崩壊をどうとらえにかについて,少し補足をしておきます。私も,若い時代に勉強を始めたときには、現代の世界はレーニンの帝国主義論で基本的にとらえられるといわれました。現時点でもそういう意見は多いと思います。しかし,日本共産党の前回の大会での帝国主義規定に対する問題提起に際して、私自身はかなり深刻に考え直させられました。あらためてレーニンの帝国主義規定をふりかえってみると,それは,全世界的な植民地体制と先進国による植民地争奪戦争を特徴とする世界史的段階だとなっています。これに対して,現在の世界はどうなっているかというと、全世界的な植民地体制は明らかに崩壊しています。崩壊しているわけですから,崩壊した植民地の奪い合いというものはありえなくなっています。
関連して,レーニンは帝国主義の段階を資本主義の最高にして最後の段階といいました。なぜならばレーニンにとっては帝国主義から抜け出すためには内戦を通じた社会主義革命しかなかった。そこで闘いに強い期待をかけたレーニンは,帝国主義の次には社会主義が来ると展望し,それ以外に帝国主義を抜け出す道はないと考えたわけです。彼の生きた時代に,そのような実践的な闘いの指針を示したことは重要だったと思います。しかし,現実の歴史はレーニンの展望とはちがう形で進みました。資本主義の枠内で植民地体制は崩壊し,社会主義的変革を待つことなく帝国主義からの脱却が明らかに可能になっているわけです。
そうした歴史の変化のあらわれとして「植民地なき独占資本主義」の形成もあるわけです。不破哲三氏が『党綱領の理論上の突破点について』(新日本出版社,2005年)という本の中で,多くの植民地をもった旧帝国主義から,植民地を持たない独占資本主義への変化を資本主義の「発展」と呼んでいますが,これは重要な観点だと思います。資本主義の枠の中で「帝国主義ではない資本主義」に資本主義を発展させることができるし,それは資本主義社会の発展法則にもかなったことではないかという問題提起になっていると思います。これは,裏を返すと,いまだに「新しい植民地主義」政策をとるアメリカは,この発展に乗り遅れている時代遅れの資本主義だということです。ヨーロッパの資本主義がもっているたくさんのルールが,アメリカにはない。そのこともこの時代遅れの資本主義という問題と深くかかわっていると見るべきでしょう。日本が対米従属というアメリカ追随の道をとりつづけることは,この世界史的には古い,国際的にははた迷惑な帝国主義の存続に力を貸すということにしかなりません。
さて,戦後植民地体制は崩壊するわけですが,じつは国連憲章には「植民地の解放」を明示した箇所がありません。45年10月の国連発足に先立って,サンフランシスコで憲章づくりの会議がありました。そのときにソ連や中国は「植民地の解放」を憲章に入れるべきだと主張します。これに強く抵抗したのは,フランスやアメリカでした。その結果,戦後の植民地の解放は独立戦争をはじめとする,植民地各国の闘いをつうじてしか実現しえなかったわけです。国連の変化についてふれるなら,国連は発足の瞬間には加盟国51ヶ国で,うちアジア・アフリカの国はわずか12ヶ国でした。それが現在は191の加盟国で,アジア・アフリカの国は112ヶ国です。100カ国増えているわけです。国連の姿についても,歴史的な変化のなかに位置づけてとらえる必要があるということです。
さて,植民地なき独占資本主義の形成の問題ですが,ベトナム戦争の集結におけるフランスの状況を紹介しておきます。もちろんこれを集結させた最大の力はベトナム人民自身の闘いだったでしょうが,あわせてジュネーブの休戦協定が実現するためには,フランス国内の政権交代が重要な役割を果たしました。戦争の継続を主張したラニエル内閣は、アメリカ政府に,ベトナムへの原爆投下を求めた政府でした。そのような政府から「光栄ある撤退」をかかげたマンデス・フランス内閣へと,政権の交代が起こるのです。それはフランス国民自身がつくった政治の変化でした。第2次世界大戦が終わった後、なぜフランスの若者たちを地球の裏側まで派遣し,殺し,殺されの闘いに参加させねばならないのか,この問題をフランス国民は考えずにおれなかったわけです。このように世界史的な植民地体制の崩壊というのは,植民地そのものがなくなっていくと同時に,旧植民地保有国がその性質を変えていくという,二重の意味での「脱植民地化」をすすめるものであったわけです。
その後も,フランスの変化はつづきます。1960年は「アフリカの年」といわれるほどに,アフリカでの独立国の誕生がつづきましたが,その年の独立17ケ国のうち,フランスからの独立国が14ケ国です。アフリカではアルジェリアの独立戦争が,フランスの変化をつくるうえで決定的な役割を果たしました。同じ1960年に国連総会は「植民地独立付与宣言」を採択しています。アジア・アフリカ12ケ国でスタートした国連ですが,戦後独立した各国は国連に加盟し,植民地保有をめぐる国連内部の世論をつくりかえていくわけです。そして,多数決の力が発揮され,15年前には「植民地の解放」を憲章にいれることを拒んだ国連を,植民地への「独立付与」を求める国連へと方向転換させていくわけです。ここにも,旧植民地人民が世界史を動かす歴史の主人公へと転換していく過程が,良く現われています。
(2)「アジア太平洋」か「東アジア」か
①平和と安定を求めた東南アジア諸国連合(ASEAN)
本題にもどりましょう。戦後の独立した東アジアのあり方をめぐる,アメリカと東アジアのいわば綱引きの問題です。まずASEANの設立と発展の経過です。ASEANは,1967年に5カ国(タイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、シンガポール)で設立されました。これらの5ヶ国は,当時,アメリカやイギリスに親しい国であったことはまちがいありません。
しかし,この組織は,アメリカ側にたって当時激化していたベトナム戦争を支援するといった軍事的役割を果たす組織ではありませんでした。そうでなかったことはいろいろな形で表れてきます。たとえば,1971年,ベトナム戦争の最中に、ASEANは外相会議で東南アジア平和自由中立地帯宣言を発表します。この瞬間に中立をうたうのは非常に勇気のいることです。当時東南アジアでは、ベトナムにつくのか、アメリカにつくのかが厳しく問われる「冷戦」体制がつくられていました。その中で,ASEANは,いわばこの「冷戦」体制に与しない,平和を希望するという道を選択し宣言したわけです。
1975年にはベトナムが勝利します。そしてベトナムは統一され,東南アジアに社会主義をめざす国家が建設されます。こうした情勢の中で、1976年,ASEANは初の首脳会議を開き,ここで「協和宣言」を発して東南アジア地域における各国の平和共存をうたいます。お互いの国の体制は各国人民が決めることであり、互いに内政干渉をするべきではないと確認したのです。そして,この同じ会議で東南アジア平和友好条約(TAC)をつくります。この条約の第1条はこうなっています。「この条約は、締約国の強化、連帯及び関係の緊密化に寄与する締約国の国民の間の永久の平和、永遠の友好及び協力を促進することを目的とする」。こうしてASEAN各国は,ベトナム戦争なきあとの東南アジアにおける平和の探究を積極的に展開しはじめるのです。
②「アジア太平洋」を通じたアメリカによる新たな支配の画策
1989年,アジア太平洋経済協力会議(APEC)が設立されます。アジア太平洋というのは,地球儀を見ればわかるように,ひとつのまとまった地域としては存在しません。それでも無理やりこうした会議がつくられていったのは,アジアの経済成長が注目されてのことでした。89年の段階でAPECの設立に主導権を発揮したのは、オーストラリアのホーク政権でした。アジアがめざましい経済成長に入っているので,その経済成長から自分たちも利益を得ようということです。
他方で,90年には,マレーシアのマハティール首相が,東アジアのことは東アジアでやると,アメリカやオーストラリアなどを抜きにした東アジア経済グループ(EAEG)を提唱しました。すなわち、ASEAN(当時5ケ国)+3(日本、中国、韓国)による東アジア経済共同の提唱です。
89年のベルリンの壁の崩壊,91年のソ連崩壊をへて,アメリカは東アジアに対する政策を組み立て直します。「経済・軍事グローバリゼーション戦略」をアジアにも適応してくるわけです。軍事的には,もう対抗するソ連がいないのだから,国連のいうことも聞かずに,好き勝手にやらせてもらう。経済的には,アメリカの多国籍企業を世界各地に本格的に進出させ,そのために必要な「構造調整」や「構造改革」を世界の各国に押しつけていくということです。対日政策も例外ではありません。テレビのコマーシャルを見ればわかりますが,アリコ,アメリカンホームダイレクト、アフレックスと,アメリカの企業ばかりです。さらに新生銀行だけではなく,たくさんのカタカナ銀行も入っています。
93年にクリントンは「新太平洋共同体構想」をぶちあげます。成長する東アジアへの新しい経済介入の開始です。それまであまり関与することのなかったAPECに強い圧力をかけて、初めての首脳会議をアメリカのシアトルで開催させます。これを通じてアメリカ多国籍企業にとって都合のよいアジアをつくる。それができる土壌をつくるために,「貿易・投資・為替の自由化」をつうじて東アジア各国の経済構造をかえさせようとしたのです。マレーシアはこの会議の開催に異議をとなえて欠席しました。結果的には,クリントンの思うようには進みませんが,それでも東アジアには97年の通貨危機がもたらされます。
③ 貿易・為替・投資の自由
94年にAPECは「ボゴール宣言」を採択します。これは、加盟各国が貿易・為替・投資の自由を年限を区切って進めることを決めたものです。アメリカ側はこれを,アメリカ大企業が入って自由に金儲けができる状況をつくりあげるための条件づくりと位置づけました。これはアメリカングローバリゼーションの推進策ということになります。
ところが多面で,その2年前の1992年の段階でASEANは「自由貿易協定」の設立を決定しています。つまりASEANの側は,平和のもとでの貧困の克服に向けた連帯と発展のための自由化を進めようとしていたのです。こうして,東アジアの側とアメリカの側とで,それぞれに異なる思惑をもった「自由化」の取り組みがここで交錯することになったわけです。長く東南アジアは外資導入と外資の活用を重要な成長政策としてきましたから,結果から見れば,アメリカの狙いに対する警戒心の弱さという問題もあったかも知れません。その問題が露呈し,両者の対立が顕在化していくのが97年の通貨危機です。
④1997年のアジア通貨危機
アジア経済はその後も急速な成長を遂げていきます。各国通貨の価値も上昇しました。その中でアジアの通貨をヘッジ・ファンドに代表されるアメリカの投機家たちが大量に通貨を買いつけ,値があがったところで売りさばくという行動をとりました。被害をうけた中心はタイのバーツです。バーツを安く買って,高く売ればもうかります。バーツ売りによって,バーツの値が下がっていっても,先物取引であらかじめ高く買ってもらう契約をしておけば,バーツ安の中でもヘッジ・ファンドはもうかります。
タイは工業製品を作るとき海外から資源輸入しなければなりませんが、バーツが安くなると自動的に輸入代金が値上がりします。バーツ安になるということは,海外から入っていた経済資金が再び海外に逃げてしまうということでもあります。こうした結果を避けるために,タイの通貨当局は手持ちのドルを売る「ドル売り,バーツ買い」の市場介入を行なって,バーツの価値下落を防ごうとします。しかし,この行動には限界がありました。手持ちのドルがなくなったところで,通貨当局には,もう打つ手がなくなるということです。こうして一国の通貨当局によっても手の打ちようがないほどの巨額の投機によって,バーツは暴落し,タイ経済は破綻します。同じ危機はインドネシア、マレーシア、韓国、フィリピンにも波及していきました。これが97年のアジアの通貨危機です。これは誰にも予期することのできない自然現象のようなものではありません。ヘッジ・ファンドを窓口とした各国大企業を含む投機家たちによる意図的な「攻撃」の産物です。
⑤ ASEANのAPEC離れ
このときにASEAN各国には,APEC離れの決断が進みます。通貨危機の発生に対して,APECはいかなる予防能力ももちませんでしたし,危機発生以後も特にアメリカは一切の援助を行ないません。それどころか,むしろアメリカ政府自身がヘッジ・ファンドの「活躍」の下準備を行なった当事者でした。危機のあとも,アメリカが被害国にすすめたのはIMFからの借金だけです。しかも,その借金は「貿易・投資・為替の自由化」をさらに促進し,また借金返済のための公共料金値上げ,増税などをふくむ国内経済の「構造調整」政策を条件とするものでした。それはヘッジ・ファンドの「活躍」の条件をさらにひろげることをめざしたものでした。それでもIMFの融資を受けざるを得なかった各国では,インドネシアなど政治の転換がすすみます。IMFの条件にしたがった,あまりに厳しい国内経済政策がとられたからです。じつはこの「構造調整」政策は,70年代から80年代にかけてアフリカやラテン・アメリカにも強制されたもので,ラテン・アメリカでは90年代以後,これに対する反撃という形で,アメリカいいなりでない政治づくりが進んでいきます。
さて,この過程で「構造調整」を拒否した国がありました。マレーシアです。ここはIMFが求めた一層の規制緩和ではなく,逆に,投機的な短期資金の流出入に対する規制強化をはかります。その結果,通貨危機の被害国の中ではもっとも早い経済の再生に成功します。後にIMF自身もヘッジ・ファンドの野放図な活動を規制することの必要を語り,また経済再生に向けたマレーシアの道を評価するようにもなっていきます。
こうした危機の中で,97年,はじめてASEAN+3の会議が実現します。ここで日本政府がどういう役割を果たしたかについては,後にふれますが,ともかくこの通貨危機をきっかけにして、アメリカ抜きのASEAN+3という定義会議が行なわれるようになったことは重要です。マハティール首相は,この動きを自身が90年に提唱した東アジア経済協力の別の形での実現だと評価していきます。
(2)通貨・金融協力による「脱ドル」の動き
〔補足2〕ドル特権とは何か
さて,ここから東アジアにおける「脱ドル」の動きがはじまるのですが,「脱ドル」を考えるためには,まず「ドル支配」とは何かを知っておかねばなりません。簡単にその問題にふれておきます。
戦後の世界経済のスタートにあたり「世界の貿易はブロック化しないように自由化する」、「その際の決済通貨はドルとする」ということを決めた会議があります。1944年のブレトンウッズ会議です。この線にそってつくられた国際合意がIMF協定です。そこにはアメリカ政府による戦後世界経済づくりへの方策がありました。第2次大戦直後、先進国で経済競争力のある国として生き残ったのはアメリカだけです。貿易競争をすれば圧倒的にアメリカが有利です。つまり世界の貿易を自由化すればするほど,アメリカは際限なく商品を売ることができると考えたのです。
ケネディ・ラウンド、東京ラウンド、ウルグアイ・ラウンドといった会議がありましたが,これは各国の貿易自由化に向けて,関税の引き下げなどを推進する会議でした。日本が「米輸入の自由化」を認めていくのは,ウルグアイ・ラウンドの取り決めにそってのことです。
貿易には当然代金の支払いが必要ですが,国によって通貨が異なる。アメリカは,これが円滑な貿易の障害になるとして,すべての貿易をドルで決済しろと求めました。世界各国はドルを保有することが必要になるわけですが,アメリカは35ドルを金1オンスと交換するという国際公約をして,各国がドルをもつことの「保証」をつくっていきました。ところがここにアメリカの「特権」が隠されています。たとえば日本の貿易が安定的な黒字になるのは1965年で,それまで戦後20年間はドル不足で悩んでいました。植民地を失ったアジアは海外から資源を買わねばなりませんが,それはドルをもっている限りでしか買うことができない。そのように各国は手持ちドルの量が「輸入の天井」となるわけです。
しかし,アメリカだけはこの制約をもちません。アメリカは輪転機を回してドルを印刷すれば,とりあえずはいくらでも海外に支払うことができるのです。海外から「天井知らず」でものを買うことかできる。これがアメリカの「ドル特権」です。この特権を確保するために,アメリカは世界貿易の決済通貨をドルにしつづけることに固執しますし,「ドル離れ」が起こらないようにしています。ドルの価値が低くなりすぎれば,どうしても海外で「ドル離れ」の傾向が出てきます。日銀は「円高・ドル安」を回避するとの名目で,世界一のドル持ち国家となっていますが,これはアメリカのドル特権を維持する役割を果すものにもなっています。
①97年通貨危機への日本政府の対応
さて,話をもとにもどします。アジアで通貨危機が起こったとき、日本政府はなかなか面白い行動をとります。通貨危機に陥っている国々にたいして、アジア通貨基金(AMF)づくりの構想を提示するのです。タイのようにドル不足に陥った瞬間に,この基金からお金を融通する仕組みをつくろうということです。
このように日本政府が通貨危機を放置するのでなく,これへの対策をとろうとしたのには理由があります。特に85年の「プラザ合意」以降,アジアへの日本企業の大量進出が行なわれていました。日本企業はアジア各国に工場や事務所を配置し,そのネットワークをつくっています。ところが通貨危機のような重大な変動が起こると,日本企業もまたそのネットワークがうまくつかえなくなる。そういう独自の利害関係があるのです。だから,アジアに一定の安定した秩序を日本独自の利害がアジアに対してあり、自らの金儲けのためにアジアに一定の秩序をもたせる行動をとっていくわけです。榊原英資氏は当時,大蔵省国際局にいて,このAMFを作ろうとした張本人です。榊原氏はその実現に向けた根回しをしていきますが,最終的には,アメリカに相談したときにサマーズ財務長官の激怒にあって,構想はつぶれてしまいます。AMFが,アメリカの強い影響下にあるIMFから独立して活動するものであったからです。
それでも日本政府は,翌98年に「新宮沢構想」を提示し,今度は二国間の支援協定という形で,通貨融通の新ルールをつくります。マレーシアにも支援をしますが,アメリカとの関係では,この時は,ラテンアメリカの通貨危機へのアメリカの対応策に協力することと引き換えで,この構想の実現を達成しています。
②2000年チェンマイ・イニシアチブ
ASEAN自身もこうしたルールづくりを進めていきます。中心は,2000年のチェンマイ・イニシアチブです。これはASEAN+3での多国間の通貨スワップ協定です。スワップというのは交換,つまりお金を交換しあうということです。先のタイの事例でいえば,タイが通貨投機の攻撃を受けたときに,手持ちのドルが足りなくなる。その時に,たとえば日本政府がタイのバーツと手持ちのドルを交換してやるというものです。こうして,97年と同種の通貨危機を東アジアのどの国でも再現させないという仕組みをつくっていくわけです。
③2002年日中通貨スワップ協定
さらに,この多国間協定の一環として,中国の中央銀行である人民銀行と日本の日銀との間で通貨スワップ協定が結ばれますが,この協定にはドルの融通ではなく,互いの通貨の融通であるという特徴があります。アジア各国がアメリカ等と貿易をする限りでは,どうしてもドルが必要です。しかし,アジア各国同士の貿易比率が高まっていけば,そこではドルをつかう必要性がなくなる。そこで,ヨーロッパにおけるユーロのように,共同体内部の共通通貨をつくるという動きも出てくるわけです。実際,この協定を結んだ当事者である日銀理事(当時)の松島正之氏も,これはアジア通貨形成への意思表示だと言っています。これは,明らかにドル特権に抵触します。それにもかかわらず,日本の大企業の利益を優先する立場から,このような動きが出てきているわけです。これは注目に値する動きです。
④2003年第1回東アジア会議
2004年にはアジア政党会議が開かれました。その前年2003年には第1回東アジア会議が開かれています。ここに集まった各国が重大な話題としてとりあげたことは「脱米軍支配」と「脱ドル支配」でした。チェンマイ・イニシアチブはその路線のひとつの具体化であり,また日米安保条約に対する強い警戒心と反発も,これら各国にとっては当然のこととなっています。そして,安保条約の強化をはかっている日本の財界が,同時に経済的利益のために東アジアにおける「脱ドル」の動きに一定の加担を余儀なくされている。こういうねじれ現象が起こっています。
(4)日米同盟強化の東アジアへの接近を語らずにはおれない財界
①2003年「奥田ビジョン」(日本経団連)
2003年、日本経団連は「東アジア自由経済圏」構想を含む「奥田ビジョン」を提示します。中期的な財界の経済戦略文書です。実は,この中にもアジア通貨基金の創設という方針が入っています。AMF構想です。さらに日本経団連会長の奥田碩会長は著書『人間を幸福にする経済』で,アジアの「通貨統合」ということばさえつかっています。そのような政策をとらねば,東アジアの企業間ネットワークを活用した利益追求が思うようにできないと考えているわけです。
②2005年「わが国の基本問題を考える」(日本経団連)
今年の1月18日には,「わが国の基本問題を考える」という文書が出されました。これは憲法9条と96条を変えようという,財界からの憲法改悪への大号令になった文書です。この中で,日本経団連はアメリカを「最大のパートナー」と位置づけながら,つづいて経済的には中国を「第二のパートナー」と位置づけています。
さらに文書は,「東アジア自由経済圏の構築と日米同盟の強化」を外交の二本柱にかかげています。しかしアジアは日米同盟の強化に強い警戒心をもっています。他方でアメリカは東アジアの共同体づくりに強く反対しています。つまり財界のこの方針は,世界の誰からも受け入れられないものとなっています。それにもかかわらず,アメリカへの従属という大前提のもとで,経済的利益の一層の拡大を追求しようとすれば,このような方針を打ち出すしかない。アメリカいいなりの姿勢を断ち切ることができれば,問題には整理がつくわけですが,それができないために,財界は外交戦略において深刻な混迷に陥っているわけです。
③2005年「日中通商・経済関係のさらなる拡大に向けて」(日本経団連)
文書「日中通商・経済関係のさらなる拡大に向けて」でも,アジア経済の発展に向けては「日中共同でリーダーシップを」といっています。ASEANと中国との深いつながりを考慮すれば,もはや日本だけでリーダーシップをとるという方針を立てることはできない。こういう判断を財界自身がもっているわけです。
④2005年「日本の『ソフトパワー』で『共進化(相互進化)』の実現を」(経済同友会)
さらにおどろくべきは,経済同友会の文書「日本の『ソフトパワー』で『共進化(相互進化)』の実現を」です。経済同友会は同じ財界団体とはいえ,日本経団連のような事実上の意思決定機関ではありません。むしろ,調査や研究に力点をおき,必ずしも財界全体の総意を得ることなく,様々な見解を発表します。財界のオピニオン・リーダーといわれることもある団体です。
しかし,それらのことを差し引いたとしても,この文書には驚くべき見解がいくつも込められています。たとえば「これまで日本は米国一辺倒であったが……米国以外に,特にアジアの中で,パートナー〔中国〕が必要になっている」。日本は「アメリカのためを思って意見が言える」国に変わらねばならない。ただし,意見する際には韓国,東南アジア,中国,インドなどと友好関係をもち「日本が矢面にたつこと」がないようにしなければならない。こういう調子です。さらに「通貨の統合」について,それが「通貨主権の放棄である」と明確に語ったうえで,「率先して自国通貨(円)を捨てることで共通通貨を大きく推進させ,東アジア共同体の実現に貢献する事ができる」と語っています。
経済同友会は財界の意思決定機関ではなく,日本経団連に比べれば,かなり自由にものをいう組織ですから,これが財界主流の見解になっているということではありません。しかし,こうした見解が,財界の一部からとはいえ,その内部から出てくるところに,利益第一主義をとる財界の経済戦略と従来型の対米関係との今日的な軋轢の重要なあらわれがあると思います。
⑤政財界周辺部からの共鳴する発言
経済同友会は「アメリカはアジアに関与するとは限らない」と言っていますが、同様のことを榊原英資氏は,より明快に語っています。「アジア諸国の台頭、アメリカのゆるやかな没落という世界の大きな流れを考えるとき」と,榊原氏は現在のアメリカが長期的には没落の過程にあるととらえています。いまは最後の力をふりしぼってイラクなどへの戦争政策を取っているが、財政危機も深刻であり,アメリカの支配はもう長くは続かない、その中で日本の国益を考えたとき,アメリカについていくのでなくアジアと親しい関係を築いていくことが必要だというのです。榊原氏ははっきりと「親中路線」が必要だといっています。
もう一人,山下英次氏の見解も見ておきます。山下氏は,中曽根康弘氏が会長をつとめる「東アジア共同体評議会」で積極的に発言している方で,『ヨーロッパ通貨統合』という本を書いています。この本のなかで山下氏は東アジア共同体の形成を前提しながら,その実現のために日本に必要なことの第一は,外交姿勢の根本的転換すなわち「アメリカ離れ」だとはっきり語っています。そして,アジア通貨基金(AMF)の実現が必要だとして,その意義について「ウォール街の業界の利害にとらわれることなく,適切な政策上の助言をアジアの新興市場に対して行うに観点からも,ぜひとも必要」と,アメリカ金融界からの独立を強調しています。これらは,まだ政財界主流の見解はありませんが,その周辺部に,すでにこうした見解が一定の潮流を形成していることには注目が必要です。
(5)自由・平等の東アジア共同体に向けて
①2005年12月東アジアサミットに向けて
今年の12月には,東アジアサミットが初めて行われます。東アジアだけの首脳会議です。アメリカは参加できません。日本政府は盛んに,オブザーバーでもいいからアメリカを入れてくれと主張しましたが,アジアの回答はノーでした。さらに何度も断られるので、いまアメリカは招かれても入らないという態度です。ここでも,日本は東アジアとアメリカの板ばさみの位置に立っています。
年末の会議の参加国は16ヶ国になりそうです。ASEAN+3の他に,インド、ニュージーランド、オーストラリアです。これは大変な規模です。インドと中国だけで人口は24億ぐらい。これに他の国をあわせると30億を大きく超えます。地球人口の半分を代表する国々が集まるわけです。ニュージーランドやオーストラリアはもとも親米的な国家で,この会議にも最初は参加しないといっていました。会議に参加するためにはTACへの加入が条件とされましたが,オーストラリアはTACを「時代遅れ」といっていました。ところが,いまはTACに加入するからサミットに参加させてほしいという具合に,態度がまったく逆転しています。アメリカの力でサミットはつぶれるに違いないといった読みがあったのかも知れず,その読みがはずれてあわてているのかも知れません。それにしても,それほど東アジアの独自の力は強いということです。
この会議の開催自体にアメリカは強い反対をしています。ライス国務長官やアーミテージ氏等が繰り返し反対をいっています。そのようにいう場合のアーミテージ氏の発言の特徴は,ひとつは中国への敵意があらわだということです。そして日中関係の円滑化を日米安保へのクサビだととらえています。『WEDGE』という雑誌にもそう書いていますし,5月1日の「朝日新聞」でも同じことをいっています。
②アメリカの恫喝は影響力を失ってきている
しかし,このようなアメリカの恫喝が影響力をもつのは,もはや日本くらいのものです。じつはアメリカにとっても中国は,単純な敵視だけですむ相手ではありません。経済関係を見ると,アメリカにとって最大の貿易赤字相手国はもはや日本ではなく中国です。これは,裏を返すと,アメリカの消費生活が中国で生産された安い電化製品や着るものを買うことなしに成り立たなくなっているということです。
ですから,台湾海峡への軍隊派遣などの強硬策もとっていますが,あわせてアメリカは中国との一定のバランスのとれた関係を維持せざるを得ないでしょう。こうまでアメリカ自身が中国との経済関係を深めている以上,中国の孤立化などはもちろん不可能です。米中経済関係についてですが,カーラ・ヒルズというクリントン政権の元通商代表は,中国からの輸入でアメリカは貿易赤字だが,それは必ずしも中国の強さだけを意味しない,日本が生産拠点を中国に移し,それによって日本からの輸入が減少し,中国からの輸入がふえているだけだといっています。日本から見れば,中国の工場を経由するいわゆる迂回輸出が増えているということです。
ただし,中国を生産拠点としてのみ見ることはもはやできません。中国自身が巨大な消費市場として成長しつつあります。これを象徴するのが「中産階級」の形成です。この「中産階級」の階級という用語は厳密に学問的なものではありません。これは,がんばってローンなどを組めば,自家用車くらいは買うことができる,そういう消費力をもった階層といったことです。これがいま急速に拡大しており,その人たちの中から土地やマンションの投機的購入を行なう人たちも生まれてきています。こうした消費力がさらに多くの人に拡大すれは,中国の消費力は恐ろしい規模に達します。貧富の格差の拡大という問題もありますが,最下層にランクされる人は中国でも減少しています。
年末の東アジアサミットに参加するインドでも同じような「中産階級」の力強い形成がいわれていますが,東アジアおよび南アジアは,巨大な消費市場として世界に登場しつつあります。これは日本にとっては過度のアメリカ市場依存を脱する条件の形成でもありますし,実はアメリカの大企業にとっても大切にせずにおれない大量の顧客の形成という意味をもちます。アメリカの対中政策は,いつまでもアーミテージ流の敵視一辺倒ではすまないでしょう。
③東アジアにおける脱帝国主義支配の根底にある経済の成長
さて,次に,東アジアが戦後あるいは90年代の通貨危機以降,脱帝国主義支配,脱アメリカ支配を抜け出す道を歩んできた,その根底の推進力となった経済の発展に注目しておきます。脱アメリカ支配がスローガンになるということは,アメリカに依存しなくてもやっていける経済力という土台があるわけです。
とはいえ,東南アジア各国も中国も,日本やEU,アメリカからの外資を導入しており,これらに多くを依存する経済という一面をもっています。しかし,すでに述べた国内消費力の形成は,これら外資にとっても重要な問題であり,逆にこの市場から離れることができない状態が生まれています。他方で,東アジアの各国は,外資を野放しにするのではなく,これをそれぞれにコントロールする試みを行なっています。どういう資本を受け入れるか,どういう活動を行なわせるのか,特に最近ではそうした活動の内容を,「自由貿易協定」(FTA)という形であらかじめ二国間の協定によって明らかにしています。
たとえば、先日,日本とマレーシアの間にこの協定の大筋合意がなされました。一昔前であれば,東南アジア諸国と日本の協定であれば,日本側がODAなどのカネで協定の内容を買うということもありえたかも知れません。しかし,いまはそうはなっていません。たとえばマレーシアは現在小型の国民車生産を押し進めています。そこに日本の小型車が大量に入れば,この計画は頓挫してしまいます。そこで日本財界の強い圧力にもかかわらず,この協定ではマレーシアへの2000㏄以下の完成車輸出への関税完全撤廃は2015年までのこととなり,それ以上の大型車が以外のものが2008年ないし2010年までの撤廃であるのとは明らかに区別がなされています。こうした二国間協定に,双方の様々な力関係が反映するのはやむを得ないことですが,しかし,それを単純に経済侵略のための協定ととらえることはできません。むしろ,ASEAN各国もまたこの協定を結ぶことを求めています。そこには,戦後長く外資の導入と活用の政策をとってきた東南アジアの側の自信もあるのでしょう。
④財界の手をしばる内外の社会的圧力
財界は財界いいなりの二大政党制をめざしていますが,しかし,中国はじめ東アジアとの関係については「政冷経熱」ではだめだと言う認識を持っています。政治関係が冷たければ,やはり経済関係にもかげりがでる。中国への新幹線売り込みにも「靖国」が小さくない影響を与えたといわれるわけです。そこで財界としては、せめて大企業の経済活動に悪影響がでない程度には政治関係を改善したい。ところが一方でそういっている財界自身が,憲法改悪を推進し,日米軍事一体化を進めているわけです。支離滅裂という状態です。
当面「政冷経熱」の焦点になっているのは「靖国問題」です。北城恪太郎・経済同友会代表幹事は,2004年秋の段階ですでに小泉首相は靖国へ行くべきでないと語っています。北城氏は,靖国への公式参拝が日本企業の経営に悪影響を及ぼすからと明言しています。また,前の代表幹事である小林陽太郎氏は小泉首相に直談判をして,首相とのあいだで激論になったといわれています。この後,小林氏の自宅に右翼からピストルの弾が送りつけられることもおこるわけです。また安倍晋三氏は「日本の伝統を金で売るのか」という言い方で,これらの財界人に「反論」します。さらに,今年2005年の4月には中国や韓国でいわゆる「反日デモ」が行なわれます。これをきっかけに日本経団連の奥田会長も,小泉首相は靖国に行くべきでないという見解を明らかにします。首相の個人の信念は尊重するが,それが常に国益と合致するとは限らないという表現でした。もちろん,この国益というのは事実上,大企業益ということです。
しかし,それが大企業益からの行動であったとしても,これが日本と東アジアの関係改善につながることには変わりがありません。話題をひろげてみるなら,これは大企業の利益第一主義とこれを内外の社会的な力で制御することとのひとつの典型といえるかも知れません。かつては植民地をたくさんもっているということが利益第一主義にかなう条件でした。しかし,戦後の植民地支配がゆるされない段階では,先進国の大企業は友好関係をもってこそ途上国での経済的利益をあげることができます。さきほどふれたEUと東アジアとの定期会議ASEMも,EUの側からすればそうしてつくらずにおれなかったものでしょう。どちらについても大企業の利益第一主義というそれ自身の本質に変化があるわけではありません。その本質の現われ方が,社会的な力の強さと内容に応じて変化してくるわけです。同じように,利益第一主義だからこそ「靖国参拝」が利益のジャマになれば,参拝をするなという立場をとる。これをさらにすすめていけば,かつての侵略戦争の誠意ある反省をしなければ利益があがらない,アジアに平和を追求する姿勢をもたねば利益があがらない。こういう具合に,内外の世論の力で利益第一主義を規制していくことが可能であるように思います。これは「ルールある資本主義」の外交版といえるかも知れません。
⑤まとめ
簡単にまとめておきます。第一に,いま東アジアに起こっているのは、アメリカの支配を脱し,東アジア自身が自らの力で経済発展をとげて道を開いていくことです。経済的にも軍事的にもこれが追求されており,政治的な力の問題では年末の東アジアサミットの開催が,この動きに拍車をかけるものとなるでしょう。ただし,これは東アジアの側がアメリカを敵視していくということではありません。アメリカとの間にも対等・平等な関係づくりが課題となっていくでしょう。
第二に,そうした動きの中で日本の財界は、自らの利益第一主義を原動力に,東アジアのドル離れにすでに手を貸しつつあります。それはアメリカへの従属と東アジアへの接近との股裂き状態を生み出しており,財界はまさにその混迷の中にあります。
第三に,従って私たちの取り組みは,政財界よる日米軍事同盟強化の方針を孤立させ,アジアとの連帯と共同を深める方向に外交方針を転換させるということになります。それは東アジア全体の自立を押し進める大きな力になると同時に,日本経済にとっても過度のアメリカ依存を脱し,経済主権を回復していく重要なきっかけとなるでしょう。東アジアの経済成長と,安定した市場の確保は財界の利益第一主義にもぴったりとかなうものです。
〔補足3〕過度のアメリカ市場依存からの脱却
少し補足しておきます。日本経済の過度のアメリカ依存という問題についてです。日本のアメリカに対する従属を考えるとき、軍事的従属が最大の要であるということは間違いありませんが,あわせて経済のレベルにもアメリカいいなりを生み出す重要な条件があります。それがアメリカ市場への過度の依存です。そしてアメリカへの輸出の依存は「円高ドル安」の回避を必要としますから,それが日銀による大量のドル買いをつうじた「マネー敗戦」につながっています。アメリカへの輸出競争力を維持するためには円高回避のためのドル買いが必要となります。しかし,いくら日銀がドルを買っても長期的に見ればドル価値は低下の道を辿っています。つまり日本経済は,アメリカ市場を確保しようとすれば,どんどん安くなるドルを買って自らの資産価値を低下しながら,アメリカのドル特権の維持に貢献する他ないという状況に追い込まれているわけです。
こうした状況から脱するためには,アメリカ市場だけに依存するのでない,それ以外の安定した輸出市場を確保することが必要です。「中産階級」の形成という形で急拡大する東アジア共同市場への安定したアクセスは,この状況を脱するための重要なきっかけとなるものと思います。
〔補足4〕 脱植民地化の苦悩を越えねばならない日本社会
もうひとつ,かつての侵略戦争に関する国民意識の問題についてです。アジアとの友好を考えるときに,過去の加害の事実を正面から見据えることが必要だと思います。その点で,日本の政治を転換していくためには,国民自身の認識を深める作業が必要だろうと思います。戦後のアメリカによる占領政策のもとで,侵略戦争の最高責任者である昭和天皇=ヒロヒトは,いっさいの戦争責任を問われていません。そのことを戦後の多くの国民は受け入れました。また1957年にはA級戦犯容疑者であった岸信介を首相の地位につけています。そこには,かつての戦争が加害の戦争であったことへの自覚の弱さがあると思います。その弱さを乗り越えることが必要です。
大学生と話をしていると中学・高校での歴史教育の弱点も痛感させられます。高校では日本史が必修ではありません。受験で世界史をとる学生はほとんど日本史の知識を充実させることなく高校生活をすごすことになるわけです。また,戦争についてある程度の知識をもっている学生も,原爆のこと,沖縄戦のこと,空襲のことなど,被害の知識はもっていても,加害の知識が希薄なことが多いです。310万の日本人が命を落とすあいだに,2000万人を超えるアジアの人の命を日本は奪っていきました。このことを若い世代が知らないのは,本人の責任である以上に大人の責任です。まともな歴史教育を子どもたちに残すことのできなかった大人の責任です。「今どきの若い人はそんなことも」などと若い人を責めるのはおかどちがいということです。学校教育が不十分であれば,家庭で,労働組合で,市民の学びの場で,それを意識的に埋めていく責任が大人たちにはあると思います。
昨年私はゼミの学生たちと一緒に,韓国の「ナヌムの家」へいってきました。かつて日本政府と軍によって「慰安婦」を強制された被害女性たちがくらしている場所です。事前に数カ月みっちりと勉強してから行き,「ナヌムの家」に併設された「日本軍『慰安婦』歴史館」で学び,さらに被害女性から直接につらい体験の証言をうかがいました。これはやはりショッキングです。「自分の祖母におきかえたら」ということばも学生からは出ていました。翌日には,ソウルの日本大使館前で,被害者たちとともに日本政府に対して公式謝罪を要求する集会にも参加しました。突然もとめられた発言ですが,学生たちは堂々と自分たちの意見を語りました。学びを重ねることと,自分の責任で社会に深くかかわる体験を積むということは,若い学生たちを急速に成長させるものだと,この瞬間に思いました。この集会には日本AALAの秋庭さんも参加されていました。
日本へもどってからも学生たちの取り組みはつづきました。1つは本づくりです。そこには「ナヌムの家」訪問を「自己浄化」の材料にとどめてはいけないという気持ちがありました。問題の解決にむけてもっとたくさんの人にこれを考えてほしい。その願いをこめた本をつくろうということです。翌年3月には『ハルモニからの宿題』という本をまとめあげました。10月から12月末までに原稿をまとめていくというスケジュールでした。短期間でつくりましたから不十分さもありますが,そこには歴史問題・「慰安婦」問題に正面から向かい合おうとする学生たちの誠実な姿勢がこめられています。みなさんにもぜひ読んでいただきたいと思います。
また学内で「ナヌムの家」訪問の報告会も行ないました。教職員の方の参加もありましたし,ここで学んだ学生の中から,今年の4月からの私の翌年度のゼミに参加する学生も出てきます。「『慰安婦』問題をたくさんの学生が学ぶ授業をつくってほしい」という申し入れも大学側に行ないました。これについては「慰安婦」問題だけではなく「広く戦時性暴力を考える授業」が検討されていると聞いています。また「直接多くの学生に被害者の声を聞いてほしい」という要請もし,これは今年の12月20日に大学に「ナヌムの家」から被害者の方に来ていただくことが決定しています。このように半年前には「慰安婦」ということばを知らない人も多かった学生が,わずか半年で急速な変化をとげていきます。
この学年の1年後輩たちが,今年2月に「9条の会」をつくりました。今回の選挙にあたって若い人の声を聞くといった趣旨で『毎日新聞』の記事にもなりました。また「両性の本質的平等」をさだめた憲法24条を書いた映画「ベアテの贈りもの」が,11月10日に学院主催の行事として行なわれますが,これにむけた学生たちのたくさんの取り組みもすすんでいます。
「いまどきの学生……」という声を聞くことがありますが,私にとっての実感は「いまどきの学生はなかなかよくがんばる」というものです。ただし,それには学びが決定的に重要です。その学びの場を提供もせずに,まるで若い人がものを考えないようにいうのは,社会を良くしたいという人の側の怠慢です。今日のこの学習会も,熱心な学びの場ではありますが,参加されたみなさんの平均年齢はかなり高くなっています。ぜひ,半年先,1年先のこの取り組みに,若い世代の参加をどう実現していくかと,その問題をしっかり活動方針にすえていただきたいと思います。長い時間,ありがとうございました。
2005年10月1日(土)……みなさんへ
以下は,全法務労働組合の労働学校での講演録です。
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〔全法務労働学校〕
第8講義「『男女共同参画社会』に向けての労働運動の課題」
-労使関係のなかに家庭をとらえる-
講師 神戸女学院大学教授 石川 康宏氏
おはようございます。与えられた題目はレジュメ集の最後ですが、「『男女共同参画社会』に向けての労働運動の課題」です。男女共同参画社会にはカギカッコをつけさせてもらいました。それはいま政府が言っている男女共同参画社会というのは、どこまで本気で男女平等を進める気があるのかという疑問があるからです。それから「男女共同参画」という言葉が決定される過程では、男女の平等という言葉をあくまで回避したいという強い力が働いたとも聞きました。共同参画というのは、意図したところは決定に対して参画はさせるが、結果として男女平等になるかについては知らぬということ、それが「男女平等」という言葉を採用しなかった1つの大きな理由になっていると聞いています。そうはいっても、それまで男女の平等だとか、共同とかについて、この国が本気で腰を上げたことはなかったわけですから、少々弱点があったとしても、こういう言葉を言わずにおれなくなったというのは社会の変化だろうと思います。社会の変化を不十分な中途半端な男女の平等ということで終わらせるのか、もう少し徹底したかたちに進めていくことができるのかというところに労働運動の課題があると思います。
副題に「労使関係のなかに家庭をとらえる」と入れておきました。私も職場で組合活動をやってるわけですが、労働運動ということになると職場の中の労働条件をどうするかという話は、それが要求の出発点ですからよくするわけです。もう一方、一足飛びにその職場の中の要求を実現するための法的な制度はとか、政治の姿勢はという話もよくするわけですが、家庭の問題がそこですっぽり抜けることがあります。いままでの経済学や政治学も家庭をどう位置づけたらいいのかについてあまり突っ込んだ研究がされてこなかったという問題があると思うんです。きょうは必ずしもこれがいまの日本の議論の到達点とか、通説という気はないんですが、問題提起的に家庭や家族というものを労使関係の中にどう位置づけることができるかについて話をさせていただきたいと思います。
レジュメに沿って最初からお話させていただきます。まず私自身がどうして男性・女性問題について関わるようになったかというところから導入として話したいと思うんです。私自身は経済学を専門にしています。若いころやってた経済学は、日本とアメリカの鉄鋼産業の関係はどうなっているんだというものだったんです。大学院ではそういうことをやって、要するに思想的カラーが出ないものを研究素材にしていたわけです。思想的なカラーがはっきり出ますと就職がないという問題がありましたので、産業論の研究をしていました。その中で日本の労働者の労働条件はとか、アメリカの労働者の労働条件はということは考えていたわけですが、しかしそこで男性と女性の関係というのは一切出てきませんでした。ところが私が95年に神戸女学院大学という女子大に赴任したわけです。震災のあった年です。私が行ったときは建物が2つ、3つ潰れていて、私も研究棟がなくて1年半プレハブにいました。大学へ行って一般教養で経済学を教えるわけです。経済学部ではありませんから、文学部の中で1コマ経済学を教えるということですから、非常に基本的な労働者としての権利とか、労使関係という話をしていたわけです。ところがあるときにそれは不十分じゃないかに気づかされたんです。それは自分が担当したゼミの学生が卒業していくころから気づいたわけです。
1つは強烈な就職差別を女子学生たちが受けていく。たとえばT自動車のセミナーの事例ですが、トヨタ自動車の説明会に参加した女子学生が、ちょうどきょうの会場のように前に会社の人事の人間が立っていて、応募してきた学生たちがフロアに座っている状況です。人事の人間のところには座席表があって、座席表とや通りに学生たちは座っている。「この列の人、答えてみてください」と人事の人間が質問をします。その列は縦に当てられていった。その列の中にうちのゼミ生がいたわけです。ゼミ生は当然自分を売り込まなければいけないですから一生懸命考えました。ところが飛ばされたんです。飛ばされた瞬間は何が起こったのかわからなかったんですが、周りの人間はよくわかった。というのは同じ列の後ろにいた女性も飛ばされたんです。つまり男にだけ答える機会が与えられたということです。それが午前中にあって、午後は小グループに分かれて議論があったんですが、彼女の参加したグループはほかの大学の女子学生が怒って、「Tトヨタ自動車というのは男性と女性を差別する気なんですか」と抗議して謝罪をさせた。謝罪させたのは大したものですが、いまだにそういう差別があるんだと痛感させられたわけです。
それからセクハラで、もちろん被害者であるにも関わらず離職せざるを得なかったケースを何件も知る羽目に陥ったわけです。通常、私たちが経済学で労使関係というのは資本家がいて、労働者がいて、ここに雇用契約があってという話をするときに、労働者一般で話を済ませてる。しかし実際には男労働者と女労働者でかなり企業社会の中で、職場の中で地位に格差があるのではないかという問題です。その問題について触れないで、恐らく女性に対して経済学をしゃべっても本当に自分が置かれている社会状況にまで深まった話にならないのではないかと思わされたわけです。それが1つのきっかけでした。労働者と一口に言うけど、男労働者と女労働者は本当に地位は等しいのか、一緒くたにしていていいのかという問題です。
もう1つ。経済学の世界でも全く同じ問題提起がありました。90年代前半ですが、社会政策学会というかなりまじめに日本社会をどうしたらいいかを考える学会ですが、ここで東大のある女性の先生が「社会政策学会はいままで日本の労働者階級の状態について研究してきた。しかしそこには大きな欠落がある。そこで研究されてきた労働者は主として男労働者だ。女労働者は例外としてしか位置づけられてこなかった。これでいいのか」という問題提起をされたんです。確かに皆さん方もいろいろな労働運動あるいは労使関係の本を読まれることがあると思うんですが、そのとき目次を開くと1章、2章、3章、4章と労使関係について話が進んでいって、一番最後に男女平等についてという女性の問題が特殊な、例外的な事例として位置づけられている本のスタイルは多いんです。これは私たちの仲間がつくっている本でも比較的よく見られる傾向です。しかし実際に男性と女性の比率は社会の中で半々です。半々であるという関係が本の中では、あるいは研究上整理されたものの中では6対1とか、7体1という比率で整理されていくのがはたして事実の研究として妥当なんだろうかということです。
そんなことから次第に男性・女性関係について考えるようになったということです。それがきっかけでした。私は経済学そのものは20歳ぐらいから勉強してきたのである程度年季が入っていると思うんですが、男性・女性関係については、いまの大学に震災以後、就職してからですから、まだ研究が浅いんです。ですから問題提起として聞いていただけたらと思います。
(1)労働運動に期待したいこと。
1つ重要な問題は、日本の労働組合運動は歴史的に男性正規労働者を中心にしてやってきた歴史があるわけです。これはそうならずにおれない歴史の必然性があったから、それがいけなかったという話ではないんです。ところが男性が中心であることによって女性の置かれている社会的な立場、地位に対してなかなか心が届きづらいという問題が出てくるわけです。女性が置かれている社会的状況というものを正面から考える機会はなかなか男性には与えられません。その問題をぜひ労働運動として考えていただきたいことが1つです。
2つ目には、よりましな社会づくりを考えていくわけですが、労働時間をこう短縮するとか、社会保障をこう充実するという話はよく出てくるわけですが、資本主義の中にルールをつくっていくときに、男女の関係をどう作りかえていくかがどれだけ熱心に考えられているのかという問題です。もし考えられていないとすれば、心のどこかに男性と女性の人権の格差が意識せずに植え付けられている。男中心で別に構わないじゃないかという意識がありはしないかということです。そこは自己点検が要ると思います。
具体的な運動の中の男女の平等ですが、会議の中で女性がお茶をくむかどうか、これはなかなか心情として複雑な問題です。女性の側からすればなぜ女だけがお茶をくまないといけないんだという気分と、もう一方で私がここでお茶をくまないと私は変な女だと思われはしないかという気分と、半々のところで腰が据わらない状況になるわけです。別に茶を女が男に出してあげねばならないというルールはないわけですが、そういった問題についても自己点検されたことがあるかということです。
それから組合の会議の持ち方ですけど、会議の時間によっては女性が参加しづらい時間、主力が男性の正規雇用者であったために、そこを基準にしてすべてのものごとが決まっている場合があるんです。たとえば夜遅くに会議をやることになったときに、小さな子どもがいる女性労働者は非常に参加しづらい条件があるわけです。いまの職場の中でだれでもがみんな参加しやすい時間に会議をするのは非常に難しいわけですが、しかし子どもを抱えているような女性たちでも参加しやすい機会をちゃんと設けることに心を砕いているかどうかです。そこに心を砕くことがなければ、労働組合の中でがんばれる女性の運動家というのはなかなか出てこない。妙に本人に根性があったという場合を除いてなかなか出てこないことになってしまうわけです。男性の場合もそうなんですけど、男性も組合運動家として育っていく場合には経験と学習が要ります。成功する経験も失敗する経験も要りますし、先輩と一緒にやって先輩のやり方を見ている経験もあります。だから育つわけです。女性についてもそれと同じだけの経験を積む機会が与えられているかということです。家庭責任は女にあるという意識は、組合運動をされている民主的な皆さん方の中にも根強くありますから、そうすると女性が職場で仕事をし、労働組合運動もやり、なおかつ家庭責任も負うということになれば1つの体で身が持たない。労働組合運動の中でがんばりたいという意識があっても、そこまではできないという問題も出てくるわけです。そこまではできないという壁をどうやって取り除いてあげるかを考えないと、女性の運動家がなかなか中心には育ってこない問題があります。そういった様々な角度から労働運動、自分たちの身の回りの運動についても自己点検をしていただきたいと思います。
(2)です。事例として男性の目はどこまで届いているかということです。女性が置かれた社会的地位についてです。
よく私たちが労働組合運動をするときに、まず労働者が置かれている状態、条件をよく分析してみようと言います。それが案外、男性労働者中心型で職場の労働条件だけを問うているケースが多いんです。女性がこの社会の中でどういう地位に置かれているんだろうか、これを考えてみたいということです。女性の置かれている社会的地位というのは男性の置かれている地位とかなり違うという側面が見えてくるわけです。
1つ目に、まず女性労働者であることの大変さの問題があります。もちろん日本社会の場合には労働者がだれでも大変だという問題があるわけです。サービス残業300時間を含めて、世界で一番の長時間労働を強いられている。なおかつそれに耐えられない人間は不安定雇用層に落ちていけという具合に差別される。階層構造がつくられているわけです。男性フルタイマーだけでいま日本の労働者の労働時間をとっていくと、年間の労働時間が3000に近い。3000というのは大体過労死ラインです。過労死した人が前1年間どれくらい働いていたかをタイムカードなどで調べていくと、大体3000時間がボーダーラインです。いま日本で実際生きていて働いている男性労働者のうち6人に1人が3000を超えていると言われています。相当異常な社会です。男女共通のもしフルタイマーで、いわゆる総合職コースで、幹部職コースでバリバリやれば男女共通にしんどい仕事をしないといけないという、そもそも日本の労働者が置かれた条件の劣悪さがあります。
ところが女性の場合はそれだけではないんです。先ほど就職試験の話をしましたが、差別がいっぱいあるわけです。たとえば卒業生が被った差別は、まだ私のゼミを卒業した学生たちは一番上で30歳ぐらいですから、そんなに長く働いていろんなことを体験したわけではないんですが、入社のレベルで差別をいっぱい体験します。ことし21歳の学生がいま就職活動をやってるわけですが、半導体のRという会社は面接で「女なんかに営業はできない」と断言されたそうです。面接に来ている学生を前によくそんなことを言ったと思うんですが、さすがにそういう会社は減っていますけど、本音のところはそうだという会社はいっぱいあるんです。
それからSハウスに就職した学生の事例ですけれども、同期で男性も女性も入っています。西宮に配属されてるんですが、「私が女であるという理由で私にだけお茶くみの教育がされました」。同期入社の男性にはされない。これは男の側は大して問題意識なしに済むかもしれないんですが、女性側からしたら、同じ入社試験にパスして通ってるのになぜ私だけがお茶くみの教育を受けなければならないか。彼女がそのとき覚えたお茶くみの相手は18人いたそうです。まず18人分の湯飲みを覚えないといけない。そしてある人は日本茶、ある人はコーヒー、ある人は紅茶、ある人はブラック、ある人は砂糖が幾つと、そういう教育がされたそうです。ものすごくばかばかしいと言ってました。これは男性では目の行き届かないことが多いところです。
他の事例としてN證券に就職した学生です。N證券の広島県福山市の営業所に勤めた。毎年その職場の課ごとに研修に行く人を出す。若い人でこれから仕事を覚えていくために、出世するために業務の研修があるわけです。毎年すべての課から1人ずつ出せというルールになっている。その学生が就職しました。1年目は男性が行きました。2年目も男性が行きました。3年目も男性が行きました。男性と女性が両方いるんです。恐らく職場全体で何人研修に出せといえば男も女も一定の比率でいると思うんです。ところが課で1人となった瞬間に、その中の多数派である男の中から男だけが出ていく。彼女は3年間勤めてやっとわかったんです。こういう具合にして昇進の格差が男女の間にできていくのがわかった。研修してある程度教育を受けて、ペーパーのテストがあって、はじめて出世できるというのはよくある話です。出世のコースから女性が外されていくということです。それは別にN證券だけの話ではなくて、出世するための教育、研修が男女平等にされていない職場の比率はかなり高いです。
結果的に全国の統計で見ると、いま4大卒で男性と女性の賃金格差はどうなっているか。同じ期間働いたとしても100対70ぐらいです。うちは女子大ですが、隣に関学という男女共学の大学があります。学生時代全く同じ成績で、同じ入社試験の点数で、同じ会社に入った。同じように能力を発揮した。でも100対70になるんです。なぜその格差が付くかというと、昇進の格差なんです。皆さん方の職場もそうだと思いますけど、上司になるに従って男社会になっていきます。日本の民間企業は部長の中で女を見つけようと思うと、部長を45人かき集めなければいけないんです。それでようやく1人女部長というのがいるわけです。男部長とは言いません。なぜなら部長は全部男なのが当たり前だと思っているから、女が部長だと珍しいので女部長と呼ばれるわけです。女社長になるともっと珍しい。テレビも寄ってくるようになる。上司に上がれば上がるほど男性中心になっていきます。上に上がらないと給料が上がらない。これが男性と女性のいまの賃金の大きな格差になっていくわけです。そのとき女性の労働者も労働者です。彼女たちの労働者としての権利は守られているんだろうかという問題です。これを考える必要があるわけです。
2つ目に、家事と労働の両立の大変さという問題です。男性正規労働者を中心にして労働組合運動がつくられているという問題があります。日本の労働者の主力は男性だと財界側は位置づけています。男性は一方で企業戦士である。企業戦士に批判、不満を持っている人も案外組合戦士である。組合戦士にならずにおれない状況があるわけですが、結果としてどちらも家庭不在になりがちである。そのときに家庭不在になっている男性労働者のほうは、「おれは世のため、人のため、みんなのためにがんばっているんだ」という意識でがんばってるわけです。ところが世のため、人のために外に出ている間、家庭や子どもはだれが見ているんだという問題があるわけです。そこを女性に我慢しろと言うことが、はたして男性と女性の関係でフェアなのかという問題です。アンケートを取ると若い世代になればなるほど、男性・女性は平等だと、女も働いたほうがいいという意識は高くなっていますが、男性の長時間労働と育ってきた境遇の問題があって、実際にはなかなか家事に参加できない状況があります。すると女性は職場では一人前に働け、働かないんだったら文句を言うなと言われながら、うちへ帰ったら家事をしなければいけない。子育てをしなければいけない。子どものリュックサックの中の道具はお母さんが点検するものであって、お父さんが点検するものではないという家庭スタイルです。組合運動をされているような民主的と言われる人が集まってる家庭であったとしても、やはり家庭の中の偏りのある性別分業は歴然としてあるわけです。
そこには根本問題として男性の意識の問題の他に、男性のあまりに長い労働時間の問題があります。家庭にいる時間がそもそも異常に短い。とりわけ日本社会の年労働時間2300というのは世界最長レベルですから、家庭にいる時間は極めて短いものになっていきます。その結果、女性に家庭責任が被さってきますから、子どもが産まれた瞬間に仕事を続けるかどうするかが女性の大問題になるんです。男性はその瞬間に、結婚だから寿退社と言われはしない。男は責任が重くなったからもっと働けと言われる。ところが女に対しては寿退社でめでたいと言われるわけです。そうすると経済的に女性の側に自立できない人が増えていきます。男性の賃金で食っていかないといけないという具合になっていきます。家庭の中にも、だれのおかげでメシが食えてるのかという言葉がときとして出てくるような権力関係が、国家権力ではありませんけど、家庭内のミニチュア権力関係が男女の間にも出てくることになるわけです。
最近、私の周りを見ても若い女性たちにとって結婚するか、しないかというのは選択肢の問題になってきている。その理由の1つは、結婚すれば自分の面倒を見るだけではなくて旦那の面倒も見ないといけなくなる。なぜそんな苦労をわざわざ買ってしないといけないのかという考え方です。あるいは下手に結婚して子どもを持てば、私がやりたいことができなくなって、旦那の世話と子どもの世話だけで人生が終わっていく。それは嫌だという考え方です。その選択が女性たちに問われています。
3番目ですが、性暴力の問題です。これもなかなか男性の頭がついていかないところです。なぜならば男性は被害経験がほぼないからです。うちは女子大ですが、学生に対して痴漢に遭った経験を聞いたら、ほぼ100%です。中学・高校時代に電車で通っていた学生はほぼ100%被害を受けています。これが日本社会の実態なんです。
私はいま住んでいるのは大阪ですけれども、大阪に御堂筋線という地下鉄がありますが、あれが一番大阪で痴漢の多い電車だと学生たちの間では定評があるんです。大阪の地下鉄には「痴漢、アカン」とポスターがいっぱい張ってあります。東京は「痴漢は犯罪です」と書いています。結局同じです。相当大量の痴漢が日常的にいるからあのポスターが貼られ続けているわけです。しかし、この社会は本気でそれを取り締まっているんだろうか。本人が嫌だ、止めろと言ってる。痴漢は強制的な力ずくの暴力です。それをこの社会は本当に取り締まっているんだろうかということです。私はいまマンションで暮らしていますけど、マンションにはいわゆるピンクチラシが週に1回は必ず入ってます。中身は「あなたの部屋まで行って売春をします」というチラシです。それが60分何円、これだけコースがあると書いてあります。あれが野放しにされてるのがこの社会の実態です。本気で取り締まっているとはとうてい思えないです。売春防止、売春は禁止と言ってますけど、そういう社会にわれわれが慣らされていないかという問題があるわけです。
女性は日常的に,こうした暴力の被害者になり得る可能性があるわけです。女性が安心して暮らしていけるためには労使関係を変えるだけではダメなんです。社会保障をよくするだけではダメなんです。性暴力がない社会をちゃんとつくってもらわないと女性は安心して暮らせないのです。果たして,そこまで男性の目は届いているのかということです。
最後の4番目。女性が目指さずにおれない社会改革の多面性と書きましたが、もちろん女性がフルタイマーで働くためには、あまりにも長過ぎる男性基準の長時間労働を何とかしてもらわないといけない。もっと短時間労働にしてもらわないと女性はフルタイマーで働きづらい問題があります。男女共通の労働時間短縮が必要です。
女性が職を失う大きな理由になるのは子育てと介護です。子育ての公的支援があまりに貧しいために仕事を辞めないといけない。あるいはおじいちゃん、おばあちゃんが倒れたときに介護が全部肩にかかってくる。それで仕事を辞めないといけない。これも公的支援の貧しさから生まれている問題です。社会保障が貧しいがゆえに、自分の思うような生き方ができないという問題です。
それから家庭や社会の中での性別役割分業が、女性が男性のお世話をするのが当然であるというかたちで固定化されています。職場の中では基幹職は決定や企画は男がやって、その遂行やそれに必要な雑務を女がする。男が主としてやって女がお世話をするんです。家の中でもお父ちゃんがお茶と言ったときにお母ちゃんが出してあげる。男の世話をするんです。洗濯も、男が着た衣類であっても洗濯をするのは女である。女が男の世話をする。その性別役割分業も女性にとっては必ずしも居心地のいいものではない。なぜ私だけがということです。それも女性たちにとっては自分たちが暮らしやすい社会をつくる上では重要な改革の課題なんです。男性たちの目は届いているかということです。
(3)です。戦後の企業社会と男女平等ですが、とくに労働と家事の問題に焦点を当てて、戦後60年間の社会の中で女性の労働の位置づけがどう変わってきたかについて考えてみたいと思うんです。
まず戦前までの長い歴史です。「女性の世界史的敗北」という言葉をどこかで聞いたことがあるかもしれませんが、3年生、4年生になるとかなり社会の様子が見えてますからあまり世間知らずなことも言わなくなるんですけど、1年生ぐらいに「将来どうするんですか」と聞くと、よくこんなのが出てきます。「お金持ちの男の人と結婚して専業主婦になりたい」。3歳の子どもが大きくなったら花屋さんになりたいと言ってる分にはかわいいんですが、18にもなってまだそんなに呑気なことを言ってるのかと思うわけです。男性サラリーマンはどれだけ給料があると思うのか。「結婚の相手は1000万ぐらいはあって」と言うんですが、年収1000万の人間がどれだけいるのかという話です。そういう事実を早いうちに知ったほうがいいですから、日本の全サラリーマン、男性労働者全部の統計を見せる。厚生労働省の統計はボーナス込みで月収90万以上までしかないんですが、その年収1080万円以上がどれだけいるか。0.7%です。たとえば経済学の授業をしています。目の前に女子学生100人います。0.7%しか1000万円以上はいませんから、目の前の100人の女子学生が全力を尽くして金持ちのサラリーマンをつかまえに走ったとしても、1人もゲットできない可能性があるということです。これがこの社会の現実と言った上で、なおかつ0.7%は日本中の全労働者であって、全労働者という以上は15歳、18歳もいるし65歳もいるということです。0.7%は圧倒的におっちゃんだということになる。そう話したときに、ようやくこの世の中は私は働かないといけないようになってるみたいだということになるわけです。
その事実を知るまでの間は,案外、お母さんは専業主婦だからと。確かにそうなんです。専業主婦比率のピークは1975年です。そこから女は昔から家にいたという根深い誤解も生まれてきます。女はもともと家庭のことをしていたのだという発想です。これはまるでマチガイです。たとえば徳川時代のお代官様の時代がありましたが、あんな時代に女が家の中で家事だけやっていて生きていける家庭なんてどれだけあったのか。日本の主力の当時の労働者は農業、林業、漁業です。それらは全部家族労働です。いまだって田舎に行って田植えの季節といえば、小学校の子どもだって駆り出されている現実があるのに、何100年も前の生産力が低い社会の中で、父ちゃんやじいちゃんや男はがんばっているが、女は家庭の中にいて、五公五民で持って行かれる年貢がちゃんとつくれたなんてバカな話はないんです。女もみんな働いていたわけです。
その女性たちの中に主婦が誕生するというのは、実は資本主義形成期のことなんです。主婦というのは歴史的にある瞬間に形成されるんです。それは女が働かなくても食っていけるだけの生産力、あるいは夫の稼ぎが生まれるというのが大前提なんです。最初に主婦は、日本社会の場合には明治10年代、20年代ぐらいにお金持ちの家庭に生まれてきます。つまり旦那が金持ちということです。当時の大きなお屋敷の見取り図、設計図のようなものがあります。それを見ると女中部屋がある。お金持ちの家庭には共通して女中部屋があります。住み込みの女中さんがいるわけです。若い女の娘が住んでいる。大体明治、大正ぐらいの専業主婦は、自分で冷たい水でコメをといだりはしない。家庭の中の切り盛りを女中を使ってする。まず生まれた専業主婦というのは突出したお金持ちの主婦でした。ですから昔は奥様というのは、いいところの奥様という意味だったわけです。
その後、戦後の憲法ができました。憲法によって生存権が認められて、24条で男女平等が認められて、27条で労働権が保障されるようになった。その瞬間に女性たちは、たとえば国会議員選挙などにも終戦直後は次々と立候補するわけです。いままで虐げられてきた女たちも何とかして社会の中で発言権をといいます。ところが不思議なことが起こるんです。それは戦後、働く女性は確かに増えたんですが、それ以上に専業主婦の比率が高まっていく現象が起こるんです。戦後、「専業主婦の大衆化」と言われる現象が起こりました。サラリーマン主婦の誕生です。戦前のようなお金持ちではない。戦後のサラリーマンの妻が専業主婦になるという現象です。そして,専業主婦の比率が一番高くなるのは1975年です。こんな統計も世の中にはあるわけです。
なぜ働く女性が一方で増えながら専業主婦が増えていったのか。高度経済成長期にそれが典型的に形成されるんです。「M字型雇用」というものです。女性の働く比率を見ると、20代前半がピークです。若いときは働いてません。学校に行ってます。中卒でちょっと働く、高卒でちょっと働く、専門学校出てちょっと働く、20代前半にはいっぱい働いてます。これがしばらく続きますが,結婚・出産の時期にグッと落ちてきます。働かなくなります。離職するんです。そこで谷ができて、30代後半になると、子どもが親の相手をしてくれません。子どもは勝手に遊ぶようになります。しかも,子どもに学費が要る。お父ちゃんの給料では足りない。そこで,お母さんはもう一回働きに出るわけです。30代後半から40代にかけてもう一回一山きます。ところがこの一山は正規雇用では復活できないのでパートになるわけです。そしてなだらかに年齢とともに減っていきます。これが「M字型雇用」というものです。これが高度経済成長期に形成されます。
現瞬間でもM字型の谷のない社会がいっぱいあるんです。ヨーロッパへ行くと、とりわけ北欧各国はこれが逆U字型と言われていて、結婚したから離職する人は社会の趨勢としては存在しないんです。子どもが産まれたから離職するというのは存在しない。日本社会に生きていると、何か日本を基準にしてものを考えがちですが、よく国際比較をしてみると、日本は先進国の中ではかなり異常な国なんです。M字型の谷が最も深いという意味でも異常な国になっています。
ところが当時も女性は差別されていました。賃金などはひどいです。60年で、男が100に対して女が42.8です。半分以下の給料で女は働かせることができる。そうすると経営者の立場に立ってみれば、男1人分の賃金で女2人雇える。格別の筋力を必要とする肉体労働でない限りは、男性も女性も同じように訓練したら同じように仕事ができるわけですから、なぜ男1人分の給料で女を2人雇って60過ぎまでボロボロになるまで働かせなかったのかという問題が出てくるわけです。実のところ財界は、女性を若年定年制、若い年齢で辞めさせるということをずっと行っていく。現代のわれわれにはなかなか理解しがたいことですが、50年代、60年代当時25歳定年制とか、肩たたきじゃなく、就業規則に書いてあるんです。男の定年は55だが、女の定年は25である。あるいは30である。あるいは結婚したら辞める。子どもができたら辞めると就業規則で書いてある。たとえば女性だけの結婚退職制に違憲だと判決が下ったのが1966年です(住友セメント事件)。定年差別に違法判決が初めて違法判決がでたのが1969年です(東急機関工業女子若年定年制事件)。それまでやり放題だったということです。
いまフジテレビで女子アナという人たちが活躍してます。裏側では接待でコンパニオンみたいなこともさせられてますから、あれもどうかと思うんですけど、30過ぎたアナウンサーがいっぱい出てきます。60年代のフジテレビは28歳で女性は定年です。それに抗議してフジテレビの女性たちが会社の中で全員が赤いバラをつけて抗議活動したというたたかいもあるんです。
そのように、日本の経済界は女性たちを家庭に帰すことを意識的に行ってきました。低賃金で利用できるのに家庭に帰すのはなぜだろうか。そこには男性と女性の労働力全体を企業社会にとって、財界にとって都合よく使うという戦略があったんです。戦後、日本の財界はまず徹底的にこき使う労働者として男性を選択したんです。男は生理休暇が要らない。産前産後休暇も要らない。当時のことですから、育児休暇なんて存在しないわけです。男は安上がりである。しかも男はちょっと刺激すると男同士すぐ競争してがんばって仕事をしてくれる。これをまず中心に据えようということです。男性は「企業戦士」とか、ひどい場合には「エコノミック・アニマル」と言われるような長時間労働の主体として育て上げられるわけです。
さっき日本の平均労働時間は2300と言いました。いまフランスとドイツは1500台です。ということは年間800時間の格差がある。年間800時間、1年250日働くとして毎日3時間以上の格差があるんです。皆さん方が9時に職場を出て、きょうは遅いというとき、ドイツ、フランスの父ちゃん、母ちゃんは6時に帰っている。皆さん方が7時に帰るとき、ドイツ、フランスは4時に帰っている。皆さん方が年に数回、不思議なことに5時の定時にあがってしまった。明るい、どうすると言ってるときに、ドイツの人はそれから3時間前に帰ってますから2時に帰っている。それが例外的ではなくて毎日それだけ格差がある。私たち日本人には人間はこれぐらい働くのは当たり前だと思いこんでいる人が多いですが,国際比較をしてみると日本は相当変な社会です。働くのが人生であって、それ以外というのが付属物みたいになってます。これはおかしな社会です。
このおかしな社会をつくるために男性を徹底的に働かせようという戦略を取ったわけです。高度経済成長のまだ貧しい社会の中で、男たちは朝早くから仕事へ行きます。夜遅く帰ってきます。企業戦士として鍛え上げられていきます。すると問題が起こってくるんです。自分の生活の面倒なんか見てられない。栄養のある食いものなんか考えていられない。ストレスたまるから夜に酒を飲まないとやってられんとなるわけです。そうすると企業社会は困ったことになる。長時間労働をさせて搾取するからこそ、たとえばわがトヨタ自動車は儲かる。きょうの朝元気にやって来た労働者は、夜になったら最大限搾取されてフラフラになっていなければならないのだが、明日の朝には元気になって帰ってきてもらわないといけないとなるわけです。それはそうです。毎日労働者をこき使わなければいけないわけですから。きょうの夜フラフラになって帰った労働者が、明日の朝に元気になって出社してくるためには何が必要か。このフラフラ労働者をメンテナンスする係が必要なわけです。
フラフラ労働者はうちへ帰ってすぐに「メシ」と言います。メシを出してあげる人が必要です。「風呂」と言います。すると風呂を沸かしてあげてる人が必要です。「寝る」と言います。布団が敷かれてないといけないんです。洗濯のことなんて考えたことはない。うちへ帰ったらその辺にバラバラ脱いで、ザバーッと風呂に入って、後ろからメンテナンス係が片づけていく。こういうメンテナンスがあってはじめて企業戦士は成り立つんです。「おれは子どもの友だちの名前なんか知らない、小学校担任の先生の名前も知らない、おれは人生は企業に捧げているのだから」、こういう人間をつくろうと思ったらメンテナンス係が必要です。
ですから60年代に意識的に女性は早く会社を放り出されて行く。典型的なのは、同じ企業の中で職場結婚したら、絶対に女は辞めろと書いてある就業規則です。男労働者を徹底的に働かせるためには、女は絶対メンテナンスの係にならねばならないということです。ですから戦後、高度経済成長の中で、男女平等だと言われながら、女性の専業主婦比率は一貫して上がっていくのです。
ただし,その一方には専業主婦のいる家庭に対する憧れという問題もありました。憧れは2つの方向から忍び寄ってくるんです。1つは戦前の奥様のいる家庭は金持ちだったということです。戦後、高度経済成長の中で大企業の正規労働者に少しずつ小金が貯まってきます。そうすると小さな家ではあるが、団地ではあるが妻を家に置いておくことが可能になってくるんです。もう一方、妻の側にも、私の母ちゃんは東北の田舎でドロドロになって毎日仕事をしていた。年に1回も口紅を引いたことのない女であったが、私は旦那のおかげで家で子どもと一緒にお父さんの帰りを待っていられる身分になった。私も出世したものだという上昇志向です。
それから日本は第二次大戦の後、7年間アメリカに軍事占領されますから、その後もアメリカの文化がものすごく入ってくるわけです。アメリカのホームドラマもテレビでいっぱい流されます。50年ごろのアメリカというのは、専業主婦比率が80%ぐらいです。女はほとんど働いてない。戦争の瞬間は男はいませんからみんな働いていたんです。戦争が終わって男が帰ってきたら、女たちはもう一回家庭に帰っていくんです。当時のホームドラマを見るとお金持ちのアメリカの家庭、大きな郊外の家、広い庭、車がある、そういう家庭です。そして家庭の中の女性は大体ぜんぶ専業主婦です。朝息子たちのために弁当をつくってやります。旦那のために弁当をつくってやって送り出していきます。その後、お母さんは後片づけをします。昼はPTAの活動に行きます。夕方帰ってきて、家でケーキを焼いて子どもの帰りを待っています。そういう豊かさに対する憧れが、女が家庭にいる専業主婦のいる家族に対する憧れになっていくわけです。そういう憧れも重なって、専業主婦比率が高まっていきます。
ところが75年をピークとして専業主婦比率は下がります。今日までこの傾向は続いています。つまり女たちは働くようになっていくわけです。きっかけは2つありました。
1つは、高度経済成長が終わったことです。それまで19年間の高度成長がありました。いま中国の経済成長がすごいと言います。あれで大体年率10%の経済成長です。日本は19年間連続で約10%です。いまの中国のような急激な変化が19年間も続いたんです。19年の間、男たちの給料は右肩上がりで上がり続けました。革新自治体をつくるような運動の力もあったわけです。給料は上がっていきました。ところが75年までには高度成長は終わりました。リストラがスタートするんです。その瞬間、男の給料はあがらなくなります。過去19年間上がり続けましたから、父ちゃんの給料は上がるという前提でローンが組まれているわけです。家を買ってしまったとか、車を買ってしまっている。なおかつ70年代というのは受験競争が激化して子どもたちにものすごく金がかかる時代でもあるんです。ところが父ちゃんの給料は上がらない。だがローンはある。そこで私が働きにいかねばなるまいとなる。70年代後半から、まずパートで女性が社会に出て行くようになります。パートであれ、派遣であれ、雇用されて給料を受け取る人間は労働者です。労基法でさえそう書いてあります。労働者の中に女性たちが入っていくわけです。
もう1つ、女性が働き始めるきっかけとなったのは、その直前にあったウーマンリブという運動です。日本の社会の中ではおもしろおかしくテレビで描かれて真面目な運動ではないという印象が与えられましたが,ウーマンリブは60年代後半からアメリカで起こった運動です。当時のアメリカは専業主婦比率がすごく高かったんですが、その専業主婦たちから生まれてくる運動です。「私は思い描いていた幸せを手に入れた。よく働いてくれる旦那も手に入れた。かわいい子どもたちも手に入れた。郊外に広くはないが家も構えた。私の夢は全部かなったはずだ。ところが得体の知れない不安が私を襲う。私の人生は旦那のメンテナンスだけか。私の人生は子どものメンテナンスだけか」。ここで子どものメンテナンスというのは未来の労働者を育てることです。「私のための私の人生はどこにあるんだ」「私の生きがいは何だ、人に尽くすだけが女の生きがいなのか」という自問自答が始まるわけです。これがウーマンリブの運動です。これが60年代後半から70年代に日本に入ってくるんです。そこで日本の女たちの中にも、ずっとメンテナンス係でいいのか、内助の功というけど、それでいいのかとなるわけです。この2つが重なって、70年代後半から女性が社会進出を始めるようになります。
さて、その時代は実は日本で革新自治体が潰されていく時代でもあったんです。いま若い学生に革新自治体と口で言うと、「革新」の文字が出てきません。すでに革新自治体は死語なんです。わかりやすく言うと、田中康夫型自治体とでも言ったらいいんでしょうか。あるいはもう少しマシなものと。要するにわけのわからんダムなどに金を使う暇があったら、その金でちゃんと子どもたちの30人学級をやりましょうとか、ダムを造らないことによって失業者が出るというならば、その部分は長野県の森林整備のために雇いましょうという、余計なことに金をかけないで人間のために金をかけようという自治体です。それが日本中にたくさんあったわけです。たとえば私が大学時代を過ごした京都には、蜷川虎三といういかつい名前の知事がいて、この府政が強烈だったんです。高齢者の医療費は完全無料だとやったんです。どういうことかというと、全部府が払ってやるというわけです。なぜならばじいちゃん、ばあちゃんは戦後苦労して何十年間も働いてずっと税金を納め続けてきた。その人が老後になってようやくホッと一息つけるときに、金がないから医者に行けないなどという社会にしてはいけないというわけです。全額府が負担してそれを見事にやって見せたわけです。何年間も続いたわけです。それを見ていた東京都の美濃部都知事という人がいました。前半まともで後半におかしくなりましたが、この人が東京でもそれをやって見せた。そういう社会保障重視型の自治体が日本中にいっぱいできてきたんです。鎌倉も、名古屋も、大阪も、沖縄も、神戸もいっぱいできてきた。全人口の4割が革新自治体に暮らす状況になったんです。政党として中心に立ったのは社会党と共産党だったわけです。そうすると日本中で都道府県の自治体の選挙をやるたびに社会・共産が勝っていく状況が70年代前半まで続くんです。そこで73年についに自民党がこれはまずいと思って「福祉元年」を宣言するんです。自民党自身が「福祉を、社会保障をやりますから社会・共産にばかり票を入れるのをやめてください、自民を応援してください」と言わずにおれない状況ができたんです。ところが70年代半ばから、社会・共産ワンセット型の自治体に対する攻撃が強まるんです。社会党が自民党にすり寄っていく状況が生まれる。これで日本の革新自治体は潰されていくんです。そしてつくり上げられた高齢者医療費無料化が、最終的には日本全国に広がりましたが、これが潰されていくんです。70年代終わり、80年代初頭から社会保障が潰されていきます。
日本の家庭に焦点を当てて考えると,お父ちゃんは70年代後半、高度経済成長が終わって給料が安くなりリストラが始まりました。お母ちゃんは不足分を補うために社会に出ています。本来であればその家庭をケアするために子どものための社会保障、お年寄りのための社会保障が手厚くないといけないんですが、これが80年代ぐらいから潰されていくんです。81年の臨調行革以降、今日まで25年間、社会保障の制度改悪がない年はないわけです。つまり全部社会保障に頼らずに自分の家庭でやれということになっていく。すると80年代前半に家庭の中にいろんな歪みが出てきます。たとえば過労死、これが社会のだれもが知ってる言葉になったのは80年代前半です。子どもの荒れ、つまり世の中にいろいろ悪いことがあったとしても、お父さん、お母さんが子どもを守れる防波堤としての条件が親から失われていきます。父ちゃんは家庭からどんどん姿を消していく、お母ちゃんも姿を消さざるを得なくなったいった。しかし,子どもたちの世界にはどんどん情報が入ってくる。なおかつ受験競争が激化します。日本中の中学校で子どもたちがバットでガラスを割るのが始まるのは80年代前半です。これを文部省は力ずくの生徒指導で全部押さえ込みましたから、90年代になるともっと鬱屈したかたちでこれが出てくるわけです。典型がいじめです。ストレスを他人に対するいじめで解消するのが始まります。
さらに80年代前半に起こったのが熟年離婚の広がりです。専業主婦をやっていたお母さんたちが、働き疲れた父ちゃんが定年になった瞬間に、退職金を2分割して母ちゃんは去っていく。それから高齢者の自殺、幼い子どもたちがたった1人で晩ご飯を食べる「孤食」が始まるのが80年代です。一家の団らんが家庭から消えていくわけです。朝昼は難しくても、晩飯ぐらいはみんなで食おうというのが日本から消えていく瞬間です。このときには「女よ家に帰れ」、女が社会に出るから悪いという攻撃もされました。しかし,父ちゃんの給料が上がらないで母ちゃんが家にいると、それでは食っていけないのです。女性たちの中にも男性と同じように自分の能力を試したい、自分の力で食っていきたいという希望が強くなっていきます。
80年代以降も、女性が社会に出るのが拡大していきます。その結果、雇用の中で今度は男女平等を求める動きが出てくるわけです。たくさんの女が職場へ出てみたら、職場の中はとんでもない男女差別の社会だった。これを乗り越えていかないと女たちが自分たちでメシを食うことができない。女が差別されているのは、女労働者が差別されているということであって、労働者全体にとってこれは重大問題です。女の権利が低く踏みにじられているから、それよりちょっとましだと男の権利もその程度に押さえ込まれているわけです。女が重しになって男が沈んでいくという関係です。これを乗り越えるために雇用機会均等法が86年につくられました。それまで日本で職場の中の女性差別を、それは違法だと言える法律はなかった。憲法しかなかったんです。定年で女性差別するのはどう違法だと裁かれたか。公序良俗に反するということです。定年で女性差別するのはこの法律に反しているという、この法律というものがなかった。86年に初めてできたわけです。これは不十分さはありましたけど、それまで何もありませんでしたから、巨大な前進だったわけです。さらにこの86年の法律にはかなりザルの側面がありましたから、ザルの目を埋めようという運動も進んでいくわけです。
90年代です。90年代の不況の中で、労働者に対して男性にも女性にも攻撃がかけられるわけです。ここで大変重要だったのは、不安定雇用層が意識的につくられ始めたことです。いつでも辞めさせることのできる無権利労働者を意識的につくることが始まりました。きっかけは95年の「新時代の日本的経営」です。日経連が出したこの文書の中で、正規雇用の労働者の中に不安定雇用層をつくりましょうということが初めて掲げられたわけです。95年というのは意味があったんです。実は93年、94年、95年とサミットでアメリカがそういう国際合意をつくっているんです。なぜアメリカがわざわざそんな国際合意をつくったか。アメリカの政府がアメリカの労働条件を破壊するというならまだわからないでもないが,なぜ日本の労働条件やフランスやイタリアの労働条件を破壊しないといけないのか。それは91年にソ連が崩壊します。その後、アメリカの大企業は海外進出を本格化させます。たとえばいま日本でテレビコマーシャルを見ていると、アリコ、アメリカの保険会社があります。アメリカンホームダイレクト、アフラック、新生銀行、全部アメリカの会社じゃないですか。いつからそんなのが日本にきたか。われわれは5年前だったらアリコという会社の名前は聞いたことない。いまはアリコを知らない子どもはいない。そのようにアメリカの大資本は先進国を中心に世界中に出ていきました。出ていったとき、たとえばアリコや新生銀行は日本に来て日本人労働者を雇います。その日本人労働者が法律によって手厚く守られているとアリコは儲けづらいわけです。人件費が削減できません。反対に日本人労働者がボロかすな状況に置かれているとアリコは儲けやすい。つまり90年代前半にアメリカが先進各国にかけた、「お前たちの国の労働市場を破壊しなさい」という号令は、「その後、アメリカ多国籍企業がお前たちの国へ出ていくから、そのための地ならしだ」ということです。
これに対して日本の財界は、それはとてもよいアイデアだと乗ったわけです。なるほど、そのように日本の労働者の労働条件を破壊し、終身雇用制を破壊し、年功序列賃金を破壊し、いつでも途中で首が切れる、さらに成績主義賃金で年を取ったからと高い金をあげる必要がない、こうすればアリコの皆さんも儲かるかもしれないけど、わが国のトヨタや新日鐵も儲かりますというわけです。日米財界合作で90年代半ばに「新時代の日本的経営」が出てくる。そしてそこから日産で2万4000人首切りだと、NTTで11万人首切りだと、これが公然と押し進められるようになるわけです。
その中で、もちろん男性労働者も大変な目に遭っていきますが、特徴的だったのは女性は不安定雇用層に押し込められていくことです。男性労働者はリストラが激化している中で、自分が生き残るためには自発的長時間労働に自分を追い込んで行かざるを得ないわけです。ということは、家庭の側から見るとますます家から父ちゃんが消えていく。消えていってない父ちゃんはすでにリストラされているんです。これまた大変だということになるわけです。お母さん方は何とか金を稼ぐために外に出て働きたいが、父ちゃんが家庭から完全に消える状況の中ではやはり不安定で、パートや派遣やバイトをやるしかない状況になっていく。
99年に雇用機会均等法が改正されました。改正させていった力はザル法を何とかしようと、努力義務ではなくて実施義務に変えろという女性たちの圧力です。しかし、さすが財界。これに対して巻き返しの策も打つわけです。女性保護規程を完全に撤廃した。つまり女たちは男と対等になりたいと言っている。そうであれば女たちは男から保護される必要もないだろう。だから女性保護撤廃だとなったわけです。このとき一部の労働組合の中にも、それに同調する動きがありました。男に守られているのは嫌だという女性もいました。しかし,この問題を考えるときに大事なのは、日本の労働条件は世界で突出して悪いという事実です。いま年間に3万人が過労死してます。交通事故で死んでる人は1万人です。過労死は3万人ですから、仕事は車の3倍人を殺しているわけです。家を出ていくお父ちゃんに「車に気をつけて」と言ってる場合じゃないんです。「仕事に気をつけてね、車の3倍危ない」と言わないとダメです。その社会状況で男性も女性も五分だ、女性の深夜労働も解禁だ、女性の土日労働も解禁だと。そうすると男性・女性では個人差はあるにしても体力では男のほうが強い。そうすると,まず女性に被害が集中し,女性がフルタイムの職場を追われていく。
たとえばどうしても夜勤が必要な職場に看護婦さんの職場があります。そこでは,女性の異常出産比率はものすごく高いです。体のリズムが壊れている。健康に自分の力だけで赤ん坊が産めない。ですからお腹を切るか、器具を使って赤ん坊を引っ張り出さないと子どもが産まれない。女性の体はこういう具合に男性よりもはるかにリズムの壊れに弱いわけです。男はビール飲んで餃子を食えば次の日は元気になるぐらいに思ってますけど、そうではない女性が男と同じように働けと言われた瞬間に,どうやって働くのかという問題が起こるわけです。その結果,99年以降、総合職に占める女性の比率はむしろ下がります。完全な男女平等だ、男並み平等だと言われた瞬間に、女性たちは体が持たないので撤退せざるを得なくなったのです。
私のゼミの卒業生に、いつ見ても大学の中で腹筋運動をしている学生いたんです。これは大阪代表で冬の国体にも出た強者です。クロスカントリーで何10キロも雪の上を走り回る学生です。だから,体力に自信がある。総合職の職場に就きました。ところが就いた職場が悪かったんです。総合職の中でも突出して労働条件が悪いような職場だったんです。4月入社で、5月にもう電話がかかってきました。「辞めてもいいですか」、嫌だったら辞めたらいいんですが、自分でがんばって入っているので辞めるのが惜しい気分もある。どんな労働条件か。自動車関係の職場ですが、毎日12時にしか家に帰れない。土日でも緊急呼び出しがある。ところが同僚の男性は同じ給料で夜中の2時まで働いていて、男の人は職場に泊まり込んでいる。彼女は女だから12時に帰る。それも負い目になるんです。同じ給料をもらっている労働者で、男のほうが長く働いている。その格差があって負い目になる。結局、彼女は身も心も持たなくて5月、6月で仕事を辞めて一般職に転職しました。
さっきスウェーデンはM字型じゃなくて、ずっと上が上がると言いました。スウェーデンの女性の労働力率は90%です。10人のうち、大人の女性で働いてない人は1人しかいない。しかも結婚しても辞めません。出産しても辞めません。でも子どもの産まれる比率は日本より高いんです。なぜそうなってるか。労働時間が短いんです。だれも2300時間なんて働かない。1500で十分だと。オランダは1300台です。1500だから男女平等でいけるんです。男も女も過労死しません。いまより800時間短かったら男性の皆さんも喜んで家に帰ります。女性もそのレベルで働けばいいですから、ちゃんと男女平等の条件でやれるわけです。もちろんそのとき、女性の肉体のリズムを守るためにどうするかという問題は別に考えないといけない。
過去の戦後の日本社会を振り返って、労働者家庭のあり方を見るとどういう力がぶつかり合っているか。1つ目には、生活と家族を守ろうとする労働者・市民の取り組みがあります。労働条件を何とかしてくれというのもありますし、60年代には「ポストの数ほど保育所を」と、ちゃんとお父さん、お母さんが働けるように保育所を日本中につくってくれという運動もありました。
もう一方、戦後の日本を見て明確なのは、女性は働きたい、自立したい、自分の力で食いたい、この傾向を次第に強く持ってきているということです。たとえば女性が働かないことによって起こっている日本社会の重大問題の1つに、家庭内離婚があります。好きでもない男とずっと暮らさないといけない。なぜなら私に稼ぎがないから、こういう問題がある。実はいまの若い世代はけっこうお父さん、お母さんのそういう家庭状況をリアルに冷静に見つめています。したがって、確かにいままで私は何人かの男と付き合ってきた。結婚したからといって、指輪を交わした瞬間に、もう他の男を好きになることがない保証は絶対にない。男もそうだ。30歳ぐらいでお互いに別の人を好きになる可能性がある。そのときに、きれいにスッと別れてそれぞれ好きな人と暮らしたい。そのためには金が要る。自分が生きていくぐらいの金は自分で稼がないといけないとなるわけです。
もう一方で、若い男性の意識の変化も大きいです。いま自分の給料で妻を食わすことなんかできないとはっきり知ってます。男性の側から結婚相手の条件として「稼げる女」が上がってくる。容姿端麗であれば嬉しい。しかし,男にかしずかなくていい。外に行って働いてくれということです。そこそこ稼いできてくれないと豊かに暮らせない。いま四大卒でも20万ぐらいしか給料ありませんから、手取り17、18万になる。部屋代を払ったら生活していくのはかつかつです。それで奥さんをくわせられるなんてあり得ない。奥さんも働いて、両方の金を合わせれば,ようやくそこそこ食っていけるであろうという程度です。
ところが財界の側は、過労死型長時間労働をこの国の標準としたい。あくまでもそれは下げたくない。エコノミックアニマルがいるからこそ、わが日本は儲かる。不況だと言われてますけど、90年代に日本の上位5000社の大企業の内部留保は上がりっぱなしです。いま内部留保は全労連の調べで171兆円です。内部留保というのは当面支払先のない金です。つまり株でも買うか、土地でも買うか、ドル買ったりして儲けるか、それに使える金が171兆円です。5月に入ってからの新聞記事でも、最近大企業の利益率が鈍くなったけど、でも過去最高水準と書いてあります。要因は2つです。1つは徹底したリストラです。人件費を全然払わない。もう1つは、最近中国でいっぱいものが買ってもらえるようになってきているということです。この2つで金儲けしていってます。できるだけ安い人件費で長時間労働をさせる。
だから,女も権利をというなら男並みに働けと、これが財界側の意図です。過労死型の労働者を基準にして女も働けといえば、自動的に女はメンテナンスに回らざるを得ないんです。職場でそんなに働いたら死んでしまいますから。だからパートプラスメンテナンスになっていく。それが家庭にいる限り、男の長時間労働は安泰だというのが財界の考え方です。だから「女よ、家庭におれ」と言ってる労働者の男は,じつは自分の首を絞めているわけです。
それからいまの日本の政治は社会保障に金をかけたくない。竹中平蔵という大臣がいますが、「社会保障はたかりだ」と書いてます。「たかり」、驚くべきことです。あるいは「ねだり」とか「くすね」とも言うんです。よく次々そういう言葉ばかり思いついたと思うんですが、彼の頭の中では「金のない、努力の足りない貧乏人」、「貧乏=努力が足りない」となってます。他方で「よく努力をしたお金持ち」がいる。「努力の足りない貧乏人がよく努力したお金持ちに税金をいっぱい払わせて、その税金で生活しようとするのが社会保障だ、これはたかりだ、これはねだりだ、これはくすねだ。それはよくない」と言うわけです。竹中平蔵は、「ねだり、たかり、くすねを国家事業としてやっているのが社会保障だから社会保障はやめないといけない」と、「社会保障構造改革」で「自助自立」と言うわけです。あるいは「共助」だと。「国民よ、国・自治体に頼るな、社会保障に国は金をかける必要がない」。「三位一体の改革」も、なんだかんだ言って、結局は地方の社会保障と教育予算を削ることです。これが大前提になるわけです。
その一方で、たとえば大阪へ行くと、関空第2滑走路を1兆円かけて作ってるんです。神戸空港は3回も住民投票で要らないと言ったのに、3100億かけて空港を作っているわけです。2つの空港は直線距離でたった20キロです。飛行機が両方同時に飛んだらぶつかるからやめようという相談が出てくるぐらいの、大型テレビ2台あるけどコンセントは1個だという状況です。1兆3000億円を大阪湾に沈めていってるんです。その一方で日本の保育所にいま政府がかけてるお金は年間1800億円です。関空を作りかけでもいいからいますぐやめろ、その金を社会保障に回せ、これは幾らでも可能です。これが日本の政治の実情です。そうやって働く市民と政財界の力がぶつかり合っていく。
9番目ですが、日本経団連がことし1月18日に「わが国の基本問題について」という文書を発表しました。この文書は憲法9条第2項を変えると明記した財界の文書としてご存じだと思います。その文書は、全体としてわが国はどうあるべきかをかなり総括的に議論している長い文書です。
これを家庭のあり方に即して見ていきますと、第1に労働時間の短縮は課題になってません。これはわが国の基本問題ではないという位置づけです。つまりいまの過労死型長時間労働を堅持するというのが日本の財界の決意だということです。そうすると永遠に女性と男性は同じように働くことはできません。
2つ目に、社会保障は歳出改革の第1の課題だと言ってます。つまりもっと削るということです。ということは子育てと介護は全部母ちゃんがやれということです。メンテナンスです。子育てというのは、旦那が死んだときの未来の労働者育てですが、財界からすればそういう位置づけです。父ちゃんは子どもを育てるゆとりがない。子どもにものを教えるゆとりもない。だが父ちゃんはいずれは定年する。そのときに資本主義が労働者1世代で終わらないためには次の労働者が生まれてないといけないです。それをするのが主婦となっている。主婦は夫のいまある労働力のメンテナンスと、将来の労働力である子どもの育成をするものだ。これが財界の位置づけです。財界から見れば、労働者家族というのはそう管理されているわけです。
3つ目に、男女平等については一言も書かれていません。
4つ目に、新しい労働者・市民いじめとして消費税増税がはっきり書かれている。こんな具合になっています。消費税は増税するが社会保障は削るという、踏んだり蹴ったりという状況です。
最後の(4)です。こういう状況の中で男女平等をどう進めていくかです。
すでにおわかりと思うんですが、男女平等を進めるというのは労働者全体の生活条件を改善していくことに等しいんです。まず男女平等を労働運動の中心課題に掲げる必要がある。特殊な女問題という理解では全然だめだということです。よくあちこちで言われます。「男女共同参画」というタイトルで講演会や学習会を設定すると男が来ない、女性ばかりが集まる。ところがそういう具合に男性中心主義型の日本企業社会というものをどう変えるかを考えずにいると、男労働者自身が実は自分の首を絞めていくことになるんです。
1)の「労働運動の中心課題に」では、はっきり自覚する必要があるのは、これは働く女性あるいは働きたい女性の権利の問題だということです。男の権利は保障するが女の権利は保障しないというのは労働運動の名に値しないです。それは男労働運動と自認すればよいのであって、労働者の女性の権利が踏みにじられていることを労働組合が正面から取り上げるのは当たり前のことです。それがまず1つです。
同時に、男性も女性も安心して働ける社会をつくろうと思うと、絶対に男女共通の労働時間短縮が必要になるわけです。これは男女共通の課題じゃないですか。同じ課題に向かって男も女も力を合わせよう。これから正規で働きたいと思っている女とも力が合わせられる課題です。ヨーロッパはどうして女性の労働力率が高いか。労働時間が短いからです。日本みたいに学生時代に体を鍛えた男でさえ次々過労死せざるを得ないという社会を野放しにしていたら男女平等には決してならない。合わせて、男女ともに自立できる賃金、社会保障の充実、最低賃金の引き上げ、これらがないといまの社会の中で男性・女性は食っていけないです。女性が自分たちの働く権利を実現していくことはできません。これは全部労働組合自身にとっての重大課題です。男労働者にとっても重大課題です。まずそこの位置づけの問題です。
それから当然、不安定雇用層に押し込められている女性たちをいかに組合運動の担い手として獲得していくかという問題もあります。日本は正規雇用中心でずっとたたかってきた歴史の経過がありますので、正規じゃない人は組合に入れられないと、あまりよくものを考えないままに答えを出しがちなところがあるんです。しかし労基法であってさえ、正規雇用でなくても、バイトであっても、パートであっても労働者です。彼らは労働基準法で守られるべき人たちです。そして彼らは団結権も持ってます。実際、あるパチンコ屋でアルバイトの人たちだけでバイト労働組合をつくって団体交渉をして、自分たちの有給休暇を認めさせた。法的にはもちろん有給休暇はバイトの人であろうとあります。バイト人たちの労働組合でそういう成果が上がるわけです。あるいは正規職とパートでは圧倒的にパートのほうが多い職場の労働条件を改善するために、正規とパート、あるいは正規と契約社員が一緒に労働組合をつくってたたかって労働条件を改善した。こういう経験はいま日本社会にいっぱいあるんです。『学習の友』という雑誌を見てると、そういう運動の現場で、とくに20代の若い人が中心になって職場を変えていってる経験がいっぱい出てきます。とりわけ女性たちが押し込められている不安定雇用層の力をちゃんと組合として引き出していく。彼女たちの労働条件を改善していくことが、実は男労働者の労働条件の底上げにもつながっていくという関係です。
2番目ですが、家庭を労働運動が守るということをはっきり掲げることです。要求の根拠に人権を掲げることです。労働運動は職場を問題にするという狭さを乗り越えるということです。たとえばドイツは1500時間の時短闘争に勝利してきたわけですが、そのときのスローガンを「土曜日のパパはぼくのもの」と子どもに語らせているんです。そういうポスターがある。いかつい胸囲は130センチぐらいあるんじゃないかというような屈強な労働者が、黄色いヘルメットをかぶって子どもを肩に乗せている。子どもはお父さんに抱きつきながら、やっぱり頭にヘルメットを乗せている。この子どもに語らせているんです。「夕方のパパはぼくのもの、土曜のパパはぼくのもの」、会社のものじゃないと言わせているわけです。つまりそこにあるのは幸せな家庭をつくる権利が国民にはあるんだと、幸福追求権は13条で憲法にも書かれてますが、幸せな親子関係をつくる権利が国民にはある。幸せな夫婦関係や恋人との関係をつくる権利が国民にはある。それを赤の他人の企業が四の五の言うなということです。私的生活の幸せの中になぜ企業が入ってくるんだ、企業はわれわれの権利を侵害するなというたたかい方です。それは職場の中の労働条件を守ってくれというたたかい方ではなくて、人間としての私たちの権利を侵害するな、人間らしく生きさせろというたたかい方です。こういうたたかい方の発想の転換がいると思います。つまり家庭生活も満足に送れないような労働条件を強制するのは人権侵害だということです。
3番目です。憲法通りの日本をつくるのも重大問題です。いまの日本社会の中で、たとえば憲法は24条があって男女は、両性は本質的に平等だと書いてます。でもいまの日本社会はどう考えても男女平等ではないんです。男女平等じゃないという話が、女性が差別されると女性一般でイメージするから男の側には痛みが伴わないんです。これはたとえば自分の恋人や妻が職場で差別される、地下鉄で痴漢に遭うとイメージします。自分の子どもが差別される、地下鉄で痴漢に遭う。これがいまの社会だと考えたときに、それはおかしくはないか、そんなことは許さんという気分になります。憲法24条はそんなことがあってはいけないとなっているわけですが、いまの日本社会は憲法通りじゃないわけです。
いま憲法改正だと政財界が言ってきてます。政財界は憲法改正をどの範囲でやるかを国民に対していっぱい見せたり、ちょっとだけにしたりして国民の様子を見てます。去年の春に自民党が挙げている憲法改正のポイントですが、ホームページに入ってますけど、24条を変えるというのが入っているんです。どう変えるか。「いまの社会は乱れている。犯罪も多い。いつからこんなふうになったか。これは女が男並みに権利を主張するようになったからだ。女は家庭に帰れ。そして家庭を守れ、そして子どもを守れ、そうすれば日本は犯罪も減る」。つまり社会の責任や政治の責任を全部女の責任にすり替えるという議論です。これが書かれている。憲法を「男らしさ、女らしさが反映した憲法に変えなければならない」と言ってる。男女で社会的権利に格差をつけようということです。そういう憲法づくりをすると言ってます。それも含めて9条から何から憲法を変えるという攻撃がされてます。
そのときに注意する必要があるのは、私たちが「憲法を守ろう」と言うだけでは市民の胸に届きづらいという問題です。「いまの日本社会は憲法通りじゃありません。男女平等も貫かれていません。ホームレスでいっぱいで生存権なんて保障されていません。リストラは野放しで勤労権も保障されていません。この日本を憲法通りの社会に変えるために私たちは憲法の理念が大事だと思っています」と、私たちもいまの社会を民主的に改革するための指針として憲法が大事だと言う必要があるわけです。その憲法が大事だという指針の1つに24条の両性の平等が含まれていることをぜひ考える必要があると思うんです。強調していただきたいと思います。
最後ですけれども、こういう具合に男女共同参画、男女の平等について考えることは、実は日本の労働組合運動の中にも戦後久しくなかったことなんです。それは男性中心型、正規雇用中心型の労働運動であったという日本の歴史の経過があるわけです。私たちは経験主義ではこれから未来を開くことはできません。これからの日本の労働運動はどうあるべきかをよく学び,考える必要があります。とくにすでに労働時間の短縮を勝ち取っている国ではどういうたたかいが行われたのか、すでに男性も女性も人間らしく働くことができるという資本主義社会では、それがいま現に地球の裏側に夢物語ではなくてあるわけです。1300時間で働いている国がある。そういう国はどうやってつくられたんだろうか。その国の労働組合運動はどうやってたたかったのか等をよく学ぶ必要があるわけです。
つまり過去の惰性で労働運動をやっていてはだめだということです。そうすると組合運動の幹部の皆さんは大いに学ばないといけなくなるわけです。先輩から引き継いだ労働運動のスケジュールを、去年も春はこれをやり、去年の秋はこれをやったから、ことしも春はこれをやり、ことしの秋はこれをやろうではだめだということです。自分の頭の中で、本来21世紀の日本の労働組合運動はどうあるべきものかを考えていかないといけないわけです。そうすると絶対に必要なのは学ぶことです。
一頃、「学ばない幹部に指導される組織は不幸である」という言葉が良くいわれましたが,よくよく学んで道を開いていただきたいと思います。ヨーロッパの労働運動ではこういうのがあるんです。運動のリーダーたちを1週間ぐらい毎年必ず缶詰にする。1週間ぐらいびっちり教育する。皆さん方の今日の取り組みは,その点で非常に先進的な学習の仕方です。しかし,2泊3日ではなく,これを1週間ぐらい毎年やる。1週間職場を離れて勉強する。労働法も学んだ。政治の情勢も学んだ。組合運動の歴史や課題も学んだ。こういう人が職場に帰っていくから組合を指導する力量が高まるわけです。そして幹部が数年間で交代します。すると新しい幹部がまた1週間缶詰になる。来年も缶詰になる。そして職場の中で缶詰にされた人間が増えていくわけです。それがヨーロッパの労働運動の強さの1つの秘訣なんです。つまりよく学んでいるということです。
日本でいますぐこれをやるのはなかなか大変なことです。日本中の職場でそれをするのは大変なことなんですが、しかし幹部は知的リーダーシップを取ることができなければ創造的な労働組合運動はできないわけです。そこでぜひ考えていただきたいのは、幹部に学習のための時間とお金を保障することです。幹部になったからといって自動的に歯を食いしばって滅私奉公的に活動するのは、それはだれだって嫌です。大体好き好んで幹部になったのではないこともあるわけですから、選ばれてしまったとか、もっと若い人が出てくるまでしばらくつなぎだみたいな気分のところもあるわけです。そうすると組織として「あなたは組合の責任者になったから、私たちの組合費から(たとえば)年間5万円、あなた用の学習代を取る。ぜひこの金で勉強して私たちを指導してくれ、私たちを導いてくれ」。これを組織として金と時間の保障をしないとだめだと思うんです。組合運動の幹部になったならば、必ずたとえば各地の学習協へ行ってみっちり勉強するとか、それを保障する。学習するからこそ指導力量は上がるんです。
あわせて,ぜひ毎日1時間は自分で独習をする習慣を身につけていただきたいと思います。人の話は3日で忘れます。私の話も3日で忘れられるわけです。男女参画について何か話を聞いた気がするという記憶だけが残っていくわけです。そして皆さんの手元にあるレジュメは1週間後にはたぶん家庭から消えていくわけです。もう思い起こすこともできないという状況になるわけです。たとえば月に1回、2時間の学習を1年間繰り返しました。これに全組合員が参加したとしても、それは1年間でたった24時間にしかならない。365分の1です。1日に直すとなんと4分です。たった4分の学習では人間は絶対賢くならないです。4分では覚えるより忘れていくことのほうが多いですから。では忘れないためにはどうしたらいいか。もっと考えられるようになるためにはどうしたらいいか。忘れるよりたくさん学ぶことです。自分で自腹を切って本を買って、ボールペンで線を引いて読むことです。そしてこの話をあの人にしよう、この話を次のビラに書こう、この話を今度の演説でしゃべってみようと思って、本にグリグリ線を引いて印を付けてその個所を何回も使うわけです。それを繰り返すから本に書かれていることが本当に自分の血肉になっていくんです。ぜひ学んでいただきたいと思います。
学びについては、皆さん方の手帳やノートには何月何日にビラ配りとか、何月何日にどこそこ支部へ行くとか、そういう日程は書かれていると思いますが、当面1ヵ月、2ヵ月はこれを勉強しようというスケジュールは書かれてないと思うんです。そこが問題なんです。学習は計画を立てないと絶対にできません。たとえば3ヵ月単位で自分の学習計画をつくるんです。これから3ヵ月間、私は憲法問題を勉強する。その次の3ヵ月間は経済問題を勉強する。次の3ヵ月間は日本の労働運動の歴史を勉強する。自分でテーマを立てて、計画的に自分を賢くしていかないといけません。さらに賢くなっていくためには3ヵ月がんばろうという計画を立てただけではダメなんです。本を積み上げないとダメなんです。この5冊は絶対読もうと,金を払って積み上げるんです。1冊読めたら次のを買おうという根性の人は,絶対最初の1冊で終わるんです。3ヵ月に絶対これを全部読むと思って先に自腹を切った人間だけが、元を取らなくてはと必死で読むわけです。どういう本から読んでいいかわからない場合は、役に立つようにできてますので、ぜひ私の本から先に読んでいただいたらいいと思うんです。
これで終わります。どうもありがとうございました。 (拍手)
(文責 全法務省労働組合教宣部)
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