1)当面の論文づくりにかかわる範囲でのメモ。冒頭,著者の若い時代の「歴史人口学との出会い」には,歴史を多元的に見ることの必要(26ページ)の指摘があり,さらに「歴史人口学」へと進んだ経過の説明には「過剰人口」だけでない人口の研究が必要と,「マルクス主義の歴史観・経済史観」の視野の狭さに対する批判もある(39ページ)。60年代当時の歴史学界の実情は知らないが,時代に応じた学問上の対決点の移動という問題もあるかもしれない。とはいえ,少なくとも今日のマルクス主義が「歴史人口学」にも多くを学び,検討する姿勢をもつべきなのは当然であろう。
2)本書は日本の中世から今日までを読みやすくカバーするが(時に原始も),「少子化」というテーマのかかわりでは,やはり前近代から近代への以降にともない生ずる「人口転換」が興味深い。多産多死から少産少死への社会の転換であり,先進各国には共通性が確かめられた事実である。日本では明治期が死亡率低下の入り口であり(160ページ),それが本当に低下するのは戦後となる(178ページ)。明治期には生まれた子どもの5~6人に1人が1年以内に死んでおり,戦前期にはこれがだいたい10人に1人となり,さらに今日では200人に1人くらいと減少する。戦前期の10人に1人というのは,今日の途上国中最も死亡率が高い国と同じくらいだそうである(178ページ)。
3)先日の鬼頭氏の著作とも重なるところだが,先進国では「人口転換」が基本的に終わっており,途上国ではそれが「過渡期」にあるがゆえに,「多産多死」が「多産少死」にとどまっている。それが先進国の「少子化」と途上国の「人口爆発」という一見矛盾した現実の統一的な説明を与える論理となっている。これと資本主義との関係を問うなら,問題は「人口転換」を可能にする「近代化」の具体的な内容と資本主義との関係如何ということか。食糧増産とその分配,医療・保健・衛生など広い意味での社会保障の成立も重要な要因となるのだろう。他方で,子どもの死亡率低下だけでなく,子どもの成長にかかる経費の急増という問題ことも「少産」の根拠となるかもしれない。
4)少なくとも先進国での「少子化」傾向は戦争直後には開始されている(177ページ)。その出発点の時期を遡って確認すること。そしてその転換を準備した諸条件を具体的に追求し,それら諸条件の形成と資本主義との関係を問う作業が必要だろうか。他方で,日本の「少子化」についていえば,先進国に共通する「少子化」傾向との内容の異同を確認する必要もあるかもしれない。イタリアは日本より先に「人口減少社会」に突入したようだが(178ページ),その速度と変化を受け入れうる社会的条件の相違といった点にも検討がいる。
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