2006年5月2日(火)……4月30日(日)に京都学習協主催で行われた「青年」講座の経済学編に寄せられた「質問と感想」へのコメントです。
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質問と感想をいただいて
2006/05/02
神戸女学院大学・石川康宏
http://walumono.typepad.jp/
「青年のための科学的社会主義講座」参加のみなさんへ。京都学習協事務局を経由して,みなさんからの質問と感想をいただきました。熱心に書いていただきありがとうございました。
以下,紹介し,若干のコメントをつけさせてもらいます。
●見出しごとで早くてすぐには整理つきませんので。感想はただ始まりの社会の変革者としての話は良かったです。
――社会を変えていくということは,社会の政治的成熟度を高めていくということ,といった話しの部分ですね。案外忘れられがちなことです。マスコミや教育をつうじた市民の意識の支配,文化的・組織的「統合」といった議論は1970年代にはずいぶん旺盛にされたことです。
●全講座はうけれないので一括5000円は不満です。
――なるほど,これは事務局の方で検討していただきましょう。
●自分の頭で挑戦します。
●本を読もうと思います。
●改めて本を読み、学習することの大切を思いしらされました。
――大切な気構えですね。学習の方法の基本はなんといっても自分で学ぶ「独習」です。グループでの学習や,講演・講義を聞くなども「独習」によって補われなければ,大きな成果にはつながりません。今回の「講座」がみなさんの今後の独習の成長につながるものになってくれれば嬉しいです。
●レーニンからスターリンへの移行はお話しされたほど、単純ではない。さまざまな可能性があり、それが押しつぶされていく過程でもあった。E・H・カーやI・ドイチャーが解明しているが、最近でた本では(一年ほど前ですが)渓内謙「上からの革命」(岩波書店)が参考になります。
――ご本人から直接,同じ趣旨のメールがあり,簡単な回答はさせてもらいました。①講義のテーマの本題ではないのでごく簡単な話しにしかなっていないということ,②ソ連・東欧崩壊時に,ご紹介の3人の主著に言及する研究は少なからずあったというのが内容です。なお歴史については,それが今日と未来にとってどういう意義をもつかという目的意識を鮮明にもって学ぶことが必要でしょうね。ぜひ日本の未来を念頭しながら学んでみてください。
●話がすごく分かりやすく、時間が過ぎるのも早くて、おもしろかった。本にかいてあることだけでなく、1945年に終戦といわれるけど、その後も各地で独立戦争が続いていて、その中で国連が植民地を認めないという方向に変わったとか、全労連のような組織が17年も存続するのは今までになかったことだというように、歴史は確実にすすんでいるんだなと思った。政治的知識を正しく周りに拡げていけるようにもっと学習と実践をつんでいきたいと思います。
――学問は事実の分析ですから,まずは事実をキチンとつかむ必要があるわけですね。そして私たちにとってもっとも肝心なことは,日本社会の発展に関する事実ですから,日本の歴史については強くならねばなりません。かつて若い野呂栄太郎が労働学校で講義をしたとき,受講していた労働者から「そんなイギリスだの,ヨーロッパだのの話しをされてもわからない」「この日本はどうなっているんだ」という質問を受けて,ただちに『日本資本主義発達史』につながる開拓的研究にすすんだというのは有名な話です。学習・研究においてものその実践的な精神が大切です。今日の日本社会をどう切り開くかという切実で先鋭な問題意識をもって学んでください。
●先生の話で資本主義社会では、だめだと前より思いました。科学的社会主義ならみんながほしいものをかえて、経済も発展どんどんするのがわかりました。がんばって活動していきたいと思いました。
――学びと実際の改革の取り組みの両方をこなしていくのが大切です。学びが改革の取り組みへのエネルギー源になり,また合理的な取り組みを探究していく知恵になります。他方で改革の取り組みは,学びへの新しい課題をつきつけます。学びについては,いつでも「これは本当だろうか」「どうしてこういえるだろうか」と,その主張の根拠を自分で確かめていくという自主的な姿勢で深めてください。
●現実をいきいきと捉えながらの解説、非常にわかりやすくおもしろくきくことができました。特に帝国主義のところで、19世紀は植民地解放の時代というところが本当にそうだと思った。搾取や非人間的な現実の裏側で必ずそれと対決する人間があるのだと思った。
●経済や歴史の流れがわかってよかった。
●難しかったなあと思います。もう少し勉強しなあかんと感じました。戦争の時の話がとても興味深かった。
――いまの日本の政治状況では,たとえば明治時代以降の日本帝国主義によるたびかさなる侵略の歴史と当時の東アジアの状況,また戦後日本がアメリカによって7年間もの軍事占領を受けたこと。これらの歴史の事実を知っておくことが大切です。これらは学校教育がきちんと教えないところですので,自分で知識をうめておく必要があるところです。
――他方で「人間社会の歴史にどういう発展・変化の法則があるのか」という大きな志で日本と世界の歴史を大きくとらえることも必要ですね。たとえば「家族」は「社会」の重要な構成要素ですが,その家族は,平安時代にはどのようで,江戸時代にはどのようで,今日の家族とどのようにちがっていたのでしょう。また日本の家族とアフリカや南米の家族の相違は。歴史の中には,学ばれるべき多くの事実がひそんでいます。「暗記する歴史勉強」はつまらないかも知れませんが,「自分で歴史を探究する」のは,とても面白い勉強です。いきなり大きな本に挑戦するのは大変かも知れませんが,人類史を概括するような学習の長期計画も,ぜひ考えてみてください。
●剰余価値の理論を自分で説明できるように少しずつ勉強したいと思いました。
●以前に読んで理解できなかったところ、自分の中でうやむやにしていた箇所は多く、そうしたところへの理解が深まって、よかった。石川先生の話は、現代社会の問題をわかりやすくもってきてくださって勉強になりました。理論の発展、時代を通じての変化があること、科学的社会主義の理論は、常に発展形であることが感じられました。資本論はまだよんでないけど、ぼちぼち読み出したいと思いました。
――『資本論』はマルクスの教養と思索の深さが集中的にあらわれた著作です。簡単に読めるものではありませんが,ぜひ長くつきあうのだという構えで,逃げずに挑戦してみてください。お手軽なマニュアル本が多いなかで,「深く考えつくすというのはどういうことか」という1つの基準を得るうえでも意味があると思います。学習協の『資本論』講座は学びの重要なペースメーカーになってくれると思います。
●個人の能力の発展が社会には必要で、そのためには労働者が労働時間の短縮のためにたたかわないといけないということが重要だとわかりました。
――日本の労働時間はサービス残業をふくめて年間2200~2300時間です。フランス・ドイツは1500時間程度,オランダは1400時間を切っているようです。この差が人のくらしの「ゆとり」の差となり,それが社会活動にとりくむ強くの差となり,家庭における夫婦や親子のかかわりの相違となり,それぞれが知的活動にとりくむ時間の差ともなっていきます。「自由時間」の獲得は,資本主義の中にあってこそ重大問題です。では,いったいヨーロッパではどのようなとりくみが今日までの労働時間短縮を導く力になったのでしょう。そんな角度からヨーロッパの闘いの歴史を学んでみてください。面白いです。
●お話しおもしろかったです。普段新聞を読んでいるとよくわからない内容が多く、何のどこが問題なのか理解できなかったのですが、説明していただいて、ああなるほどと感じました。
●非常にわかりやすい例えで説明してもらってよかった。(それでも頭がおいつかないところもあったが…。)学ぶことの大切さを今まで不足していたことをあらためて感じさせられた。
●今まで苦手だときめつけていた経済の基本のところへ、スッと入れる講義でした。価値のところのコンビニの例が、わかりやすかったです。抽象的な話を現実をみることで、もう一度自分の学びとすることが大切だと思った。まだ労働者ではないが、未来の労働者として自らの認識も深めたい。
●冒頭でいわれた経済学の研究の対象は、今私たちが生きている日本の社会であって、本の中にあるのではないということ、それを実践されたような講義でたいへんおもしろかったです。経済学の基礎的なことを、学びながら、その視点で今の社会をみる…まさにいきた理論だと感じました。これまで学んできたことがつながっていくおもしろさがあり、又、確信が深まった気がします。資本論は一分の隙も残さない論立て…それは学問的につめる闘いだったからだ!ということと、資本主義の中で生産力が発展し、経済大国とまでいわれる日本だけど、私たちはその実感はなく、変える力ももたないということ…印象的でした。
――「わかる」ということは,抽象的な理論と具体的現実の一致を自分で「体験」したときにもてる実感です。ですから「わかる」ためには,「理論」と「現実」の両方につうじる必要があるわけです。「理論」だけだと,むずかしい言葉はつかうけどいまの社会に起きていることは何も知らない,いわゆる「頭でっかち」となり,他方で「現実」だけだとものごとの「表面的な理解」にいつでもとどまることとなってしまいます。自分の勉強の仕方にあるこの両者の「偏り」を自覚し,これを是正していくという視角も必要ですね。
●社会の土台になっている経済について、特に資本主義の仕組みについて、細かく学んで行けて、とてもおもしろかったです。過去の到達点を乗り越える中で、多くの発展があり、展望を見いだせることができました。現実を見すえる中で、その中にある多くの矛盾に気付き、乗り越えるために、学ぶことは続けていきたいと思います。
――世界の特質の1つはつねに発展・変化することにあるわけですが,人間の知識や探究の成果も同じです。個人においても,人類全体においても,学問はつねに過去の到達点を乗り越えて前にすすむ,立ち止まることのない過程にあります。うらをかえせばそれは,どのような学問もいつでも発展への課題をかかえているということでもあります。「これで完全」などということは決してありません。その前進の「道を進む」というところに研究や学習の面白さがあるのであって,決して「テキストをおぼえて終わり」などではないのです。その「前進する楽しさ」が味わえるようになると,なかなかですね。
●中国やベトナムで、どのようなことがおこなわれているかを、知りたいと思いました。日本はアメリカと一緒でないと発展できないというイデオロギーがあまりにも大きな力で、国民をおさえつけていると感じました。
――やはりこの問題でも事実に通じることが大切です。「中国は社会主義か資本主義か」といった大上段からの議論をしている人に,案外具体的な事実を知らない人が少なくありません。国家の「指導者」はどうやって決められていて,市民のくらしはどういうもので,人々の労働の実体はどのようで,いったい何を社会発展の課題と自覚しており,過去にはどういう変化があり,今日の社会にはどのような対立がはらまれているのかなど,知るべきことはたくさんあると思います。
――日米関係も同様ですね。占領期につくられた支配・従属の仕組みを「法制化」するものとして日米安保体制がつくられますが,そうであれば占領期に何が行なわれたのかを知っておくことは不可欠です。他方で1960年の安保闘争の歴史が,日米支配層に「明文改憲」あきらめさせた歴史もあり,支配層の思惑はいつでも実現してきたわけではありません。歴史は,つねに権力の思惑に対抗する人たちとの闘いの中につかまえる必要があります。やはり活き活きとした具体的な現実をつかまえることが大切ですね。
●『科学的社会主義を学ぶ』を読んでなかったので、ついていけるか心配でしたが、テキストにそって読みながらすすんでいったのでよかったです。今まで学んできたことや、綱領を思い出しながら聞けたので、学習しないといけないという思いがまたでてきました。まず『21世紀の世界と社会主義』を読んでみます。
――ぜひたくさん読んでみてください。「半分くらいわかれば十分だ」という気分でたくさん読むことが大切です。たくさん読むことによって初めて,どこかで「あれとこれがつながる」ということが起こり,いままでわからなかったところが「わかる」という体験も増えていきます。学びの「量」が少ないと,そうした変化はのぞめませんから。
――同時に,学習には計画が必要です。「次の3ケ月は経済学をやろう」「次の3ケ月は日本史をやろう」という具合に,いきあたりばったりでなく,自分を計画的に育てていく姿勢が必要です。そこでこそ大志をいだいてください。そしてそれを実行する意思の力を育ててください。
●教科書が手に入らない状態で受けてましたので、リスニングのみを整理してから理解する必要がありましたので、人に伝えるときには役立ちそうなスタイルです。しかし教科書は早急にいりますわ。
●今日は来て良かったと思う講義でした。
――ぜひ今後の「独習」へのきっかけとして活かしてください。そうなってくれると嬉しいです。
さて,以下,ご質問に入ります。価値論や剰余価値論など,「経済学の基本を学ぶ」という講義の趣旨に正面からかみあった質問は多くないようです。また抽象的な議論のレベルのものが多いというのも特徴でしょうか。
「あの理論とこの理論のどちらが正しいのだろうか」。そのような問いに答えを出すための最短の道は「具体的現実に照らしてみよ」ということです。今後の学びの参考にしてみてください。
①科学的社会主義の理論による{→社会(国家)による統制と}未来社会とパターナリズムについて少し、補足的な解説がほしい。「社会、国家がこうなる。」という点はわかるのですが、その点、どのように進んでいくかという点で、ベトナムと、EUの方向性のちがい(あるいは違わない事)などをあげながら説明してほしい。社会民主主義(資本主義の中での)とネップの関係。日本は社会としてどの方向で発展を目指すべきか。ボトムアップ?トップダウン?
――個別に少しお話しましたね。ご質問の「パターナリズム」は国家による個人の自由や権利への介入といったぐらいの理解で良いのでしょうか。多くの人間が「社会」をつくって協同する以上,そこにはいつでもルールが必要です。しかし,そのルールを少数の経済的権力者がつくるのか,あるいは社会の多数者がつくるのかでは大きな相違があるでしょう。国家と社会の「分裂」は永遠のものではありません。長い社会のある段階で国家は誕生しました。それまでは国家のない,それでいて無政府的ではない社会が存在しました。同様に未来についても国家を永続するとの前提は必要ありません。むしろ国家が社会の階級への分裂とむすびついて生まれたことを考えるなら,社会内部の分裂の解消とともに国家自体がその役割を失い「眠り込む」ことが展望されます。もちろんその段階でも,社会による自治的統治は必要でしょうし,それがうまく機能しない限り社会や個人に対立する権力は「眠る」ことをゆるされないということになるのでしょう。
――日本における未来社会やそこへの過渡のあり方は,現時点では具体的に論ずる条件が乏しすぎると思います。だからこそ空想的な「青写真」を排する姿勢がとられています。ただし多数者の利益を尊重することが階級対立そのものの解消につながっていくこと,それを実現するうえで生産手段の社会化(社会的所有)が不可欠であること,またそれに接近するうえで,資本主義の枠内での多数者の利益を擁護する諸施策の積み重ねが必要であることは見通すことができるでしょう。今日の日本で,市民の権利を守るどのような規制が資本に対して必要か,またどのような社会保障が必要か,どのようなルールを守ることが市民自身にとって必要か,それらの必要を満たすためにはどのような政治や経済や社会のあり方が必要になるか,そうした一段ずつの改革の積み重ねの方向を明らかにすることが,より大きな変革の筋道を明らかにすることにつながります。ぜひ検討してみてください。
――ベトナムは社会主義社会づくりをすでに合意としており,その道の模索のさなかにある社会で,EUは「社会的資本主義」の充実を課題としている社会です。同じようにネップは社会主義づくりの道の1つの探究成果であり,社会民主主義は資本主義の枠内での改良の指針です。そうした意味で両者は明確に異なります。ただし,アメリカ型の野蛮な資本主義を「連帯」の力で乗り越えようとするEUの「社会的資本主義」づくりが,その達成の度合いを深めたときに,さらに新しい社会発展の段階にすすむことは大いにありそうなことです。それは,発達した資本主義そのものをのりこえる社会づくりとなっていくのでしょう。
――今日の日本社会の到達と課題から見るとき,EUの「社会的資本主義」は野放しの資本主義にルールをあたえた成果として,大いに学ばれるべきものとなっています。また21世紀を語るときに,発達した資本主義にも,発展途上国にも,すでに社会主義を模索する国にも,それぞれに異なる形で未来社会への変化の原動力が秘められているということはすでに良く指摘されていることです。そのことの意味を深める努力をしてください。
――「ボトムアップ? トップダウン?」については,主権在民の社会で「ボトムアップなきトップダウン」はありえないということになります。選挙をつうじて一歩一歩改革の階段をすすむという方針は,社会全体の合意の充実を土台としています。なお両者は切り離されてはありえないだろうと思います。より具体的に問題を立てて考えてみてください。
②資本主義の発展の中に、社会主義の必然性をみるいう点では、資本主義の中における(社会的所有)の発展もみる必要があると思う。マルクスも、資本主義論の中で株式会社と協同組合工場をあげているし、不破さんもそういうことを触れているが、それについてどう考えるか。
――口頭ですでに回答したことですが,1つはご自身で『資本論』の該当箇所に向かい,自分なりの理解をもつ努力をしてください。その課題をさけていては,次のステップにすすむことはできません。2つは「株式会社と協同組合工場」の具体的な事実を勉強してください。「株式会社」における株主というのは,一体誰がなっているのか。「協同組合工場」というのは,どのような発展をとげたのか,あるいはとげていないのか。「だれそれがこういった」「それは正しいのか」という問題は,「具体的な現実」に照らせば誰でも判断ができるものなのです。
③生産手段の国有化はそれ自体が一つの大きな企業のようになるようなものなのか。その上では搾取はないのか。
――「生産手段の国有化=国家規模でのひとつの企業」というのは,サン・シモンというフランスの空想的社会主義者の発想に近いものです。サン・シモンの時代にはまだ資本主義そのものが成立していませんから,彼は未来を「空想」するほかありませんでした。しかし,今日の私たちはちがいます。たとえば今の日本には600万をこえる企業があり,日本経団連に属するだけでも1600ほどの大企業があります。その現実の中には,所有を個人(私人)から社会にかえたところで,それらを1つにせねばならない理由はありません。
――「一つの大きな企業」というのを,比喩的に,どの企業も単一の計画にしたがって運営されるものと理解すれば,それは破綻した統制経済そのものになってしまうように思われます。それではうまくいかないので,計画と市場をミックスし,大局的な計画性を維持ながら,市場経済の利点を活用しようというのが,社会実践の結果にもとづく今日的な探究の到達点です。
――なお「生産手段の社会化(あるいは社会的所有)」は「生産手段の国有化」といつでも同一であるわけではありません。国有化,自治体の所有,より小さなグループの所有など,所有の主体は多様でありえますし,実際,今日の中国でもその多様化はますます進んでいるようです。レジュメで紹介した参考文献をぜひ検討してみてください。
――「搾取はないのか」ですが,生産手段の社会化にともない,生産物もまた社会的な所有となれば(生活手段は個人所有になりますが),ある階級が他の階級の労働とその成果を不払いで手にいれるという意味での搾取はなくなります。生活手段の分配の方法についても,社会の合意にもとづくルールがつくられるでしょう。ただし,社会を発展させるためには,また労働することのできない子どもや高齢者や障がい者等の生活を,互いの力で支えることの必要は,各人の労働の成果をいつでも一定部分は「社会」のものとすることを求めます。それがどれくらいの比率になるかは,これもまた社会全体での合意にしたがうものとなるのでしょう。
④日本の資本主義ができあがったのはいつごろですか。今のアメリカが帝国主義なのだとしたら、日本も帝国主義になる可能性はあるのでしょうか。
――資本主義の発展には,封建制社会の内部における「資本の本源的蓄積」の段階,産業革命による資本主義の確立の段階,さらに独占資本主義や帝国主義への以降の段階,国家による経済への介入が日常化する段階(国家独占資本主義),国家の経済介入を民主的に転換していく段階といった区分が可能です。「資本主義のできあがり」を資本主義の確立と考えるなら,日本でのそれは19世紀の末から20世紀初頭の時期といわれています。
――日本の「帝国主義」については,対外侵略の政策と行動が現に体系的にあらわれたのが日清戦争(1894年)以後の侵略戦争の時代ですから,それが帝国主義の時代となります。同じ時期,国内的には徴兵制が実施され,平和を求める取り組みへの弾圧がつよめられていきました。日本では独占資本主義の成立は1920年前後の「戦間期」とされていますが,日本の帝国主義化は,レーニンがいった独占資本主義の成立に対応するのではなく,資本主義の確立期とほぼ同時であるという特徴をもちました。それはすでに戦前から分析されてきた論点です。
――日本の今後についても「帝国主義化」の可能性は残されています。憲法「改正」をすすめ,日本が対外侵略の政策と行動をとる野蛮な社会に逆戻りしていく可能性はあるわけです。世界史が帝国主義の段階を抜け出す過程にあるなかで,日本がそのような道をすすむことは,文字通り歴史の流れへの逆行です。それをゆるすことのない取り組みが求められています。歴史は「階級闘争の歴史」であるとは良くいわれることですが,資本主義社会の民主的改革には,つねに国民の闘いが必要です。「歴史の必然」はその闘いをつうじて実現されることにも理解がいるかも知れません。
⑤市場経済のはたす役割について、見解の変化について、もう少し詳しく。市場経済にはどちらかというと、悪いイメージをもっているが、現在の到達段階からすると、計画経済でのまかないは困難になりそうな感じですが、市場経済が未来にはたす役割とは?
――口頭でお答えした問題ですね。まずはレジュメに紹介した参考文献を検討してください。91年のソ連崩壊当時から,その経済的特徴を「統制経済」ととらえ,その一方で「統制」型でない計画経済のあり方の探究はすすめられています。今日の「市場経済」活用論はその歴史的な到達点といっていいでしょう。
――市場経済には,もちろん格差の拡大,社会全体の無政府性の土壌になるといった「悪い」側面がありますから,市場経済の活用というのは,「悪い」側面をどう抑制しながら,「良い」面を活用するかという視角からのものとなるわけです。
⑥私は機械設計の仕事をしておりますが、授業ではおもに生産業での資本家と労働者の関係があらわされていましたが、時間と価格の関係がはっきり表記できない開発・研究職などにも、あてはまることなのでしょうか?
――生産部門以外の領域での労働者の問題は,『資本論』の第3部に登場します。講義では一番基礎になる生産現場の労資関係だけを紹介しました。じつはマルクスには多くの労働者の協業によって「生産」がなり立つ以上,当然,そこには直接の生産にかかわらない事務労働者や「監督労働者」やそれこそ「開発・研究職」の労働者がいるとして,その全体を「全体労働者」という概念でつかまえた箇所があります。これは第1部に登場します。
――「開発・研究職」の労働者の場合は,本人が日々,直接に製品をつくるわけではありませんから,月々いくらの剰余価値を個人が生産するということはできません。ただし彼は「全体労働者」の一員として,工場や企業全体が生産する剰余価値の形成にかかわっています。研究・開発が製品づくりに直結し,また生産過程の改善に直結し,それが剰余価値の生産につながるわけです。だからこそ,剰余価値の形成にとってより有用な「開発・研究者」には高い賃金が支払われ,そうでない者には低い評価がなされるといった事態も起こります。また平均的には,できるだけ低い賃金で多くの仕事をさせようとする資本の衝動がむけられもします。「全体労働者」の概念については,紹介した不破氏の『「資本論」全3部を読む』も注目しています。ご自身の体験に照らしながら検討してみてください。
⑦最後の質問で、株の話がでてましたが、例えば労働者が自分の働く会社の株を持っていたら、それは生産手段の社会化になりますか。
――個別に若干お答えした問題です。生産手段の所有者が「個人」でなく「複数の人間」になっていくという意味で,そこには確かに変化があります。ただし,それは労働者と資本家の対立関係を自動的に解消するものではありません。この場合の「生産手段の社会化」は,マルクスが株式会社論で述べている,資本主義の枠内での社会化にとどまるものとなるわけです。
――株式会社の最高の議決機関は「株主総会」で,この株主総会の議決に影響をもつほどの大量の株式を労働者が所有する場合には,それは労資関係の改善をはかる手段として大きな意味をもつようになります。ただし現時点での個々の企業でこれが行なわれたとしても,企業はつねに「まわりの企業と競争」にさらされますから,改善には大きな制約がかかることになっていきます。マルクスの「生産手段の社会化(社会的所有)」は,それが全社会的規模で起こることを指したものであり,その点でも個別企業における労働者の株式保有はマルクスのいう「生産手段の社会化」とは異なるものとなっています。
以上です。今後の学習へのきっかけとしてください。
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