当面の「離米論文」とのかかわりで読んでみる。PHP新書,2006年。
面白かった論点の1つは,戦後世代の生きる上での価値観の問題。
「日本の戦後が生み出したのはけっして『柔らかい個人主義』ではなく,『虚弱な私生活主義』ではなっかたのか」(122ページ)。
「個人主義と私生活主義の違いは,前者が『いかなる全体が価値を押しつけようとも,毅然として自分の思想・信念を貫いて対峙しようとする』のに対し,後者は『そもそも全体に対する関心も意識もなく,ただ自分の私的時空間が確保されることに過敏な心情』」(124ページ)であること。
いわば戦後世代には,〈社会の中の私〉の確立がない。
それは同時に,現実政治にも現れる。
戦後の日本には「民族のアイデンティティ」(集団としての私)を求める闘いがなかった。「見事なまでに,いともあっさりと戦勝国アメリカの価値に宗旨替えして,アメリカの追随者の道を歩みはじめた」(150~1ページ)。
それだけではない。
戦前・戦後の関係については,敗戦を「終戦」とごまかし,戦後の「新生日本における『あるべき天皇制』を日本人が主体的に議論しなかったごまかし」をもつ(149ページ)。
また,多くが「『日本は米国に負けた』との認識をもち,けっして『米国と中国に敗れた』とは認識しなかった」という戦争の総括の問題もある(149ページ)。
さらに,日米安保条約のもと,世界有数のアメリカの軍事拠点でありながら,「自分は平和愛好者だというキレイゴトを生きていた」自己欺瞞もある(151ページ)。
そのたくさんの曖昧さを払拭するために,「日本がいまなすべきことは,米国の期待と要望に沿って妥協することだけではなく,21世紀の東アジアの安全保障について主体性ある構想を提示することである」(160ページ)。
「たとえ今後50年の時間をかけても米軍基地のないアジア(日本も)を目指すのでなければ,自己責任ある主権国家とはいえない」(160ページ)。
米軍基地の撤去をすすめながら,日本は独自の安全保障戦略をもつべきであり,「米国が力の外交,軍事の論理での外交を志向するのに対し,日本こそ『軽武装経済国家』『非核平和主義国家』という理念の基軸をもって総合安全保障の高度化に挑戦すべきである」(163ページ)。
それは 「『戦争放棄』を進駐軍の押しつけと考えるのではなく,より高次の人類の普遍的価値を目指す理念として,21世紀に日本が国際社会に発進する基軸として国民合意を再確認する好機」となる(163~4ページ)。
このような自立化の道をたどることは,「単純な『反米・嫌米』でもなく,しかも安直な現状延長でも」ない。「主体性と自尊をもって米国との関係を正視して再構想できるかが,団塊の世代以降の戦後世代に課せられた『世代の使命』」なのである(142ページ)。
なるほど著者なりの戦後世代と政治の総決算である。
戦後のごまかしや曖昧さについては,すでにこれを乗り越えようとする取り組みがあったことにも注目がいると思うが,現時点での〈脱曖昧な戦後〉の方向性には共鳴できる。
残されのは,その方向性がどのようにして実現可能であるかを,世界情勢の具体的なシミュレーションによって補う作業であろうか。
まずは一冊目。
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