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以下は、日本共産党「しんぶん赤旗」2012年5月13日、
第8面「本と話題」欄に掲載されたものです。
タイトルと見出しは、編集部がつけてくれたものです。
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政治をつくりかえる内容と方法を探求
志位和夫著『新たな躍進の時代をめざして』
この本は、2010年11月から12年3月までの著者の講演や発言を収めたもので、いずれも日本社会が直面する大問題への日本共産党の立場を、わかりやすく示したものになっています。
問題解決への行動指針示す
取り上げられた主なテーマは、政党とは何か、外交の転換、原発事故からの教訓、震災被災者への支援、日本共産党の歴史、消費税に頼らない財政再建と社会保障充実の道、権力をチェックできない巨大メディアの問題、「2大政党」による政権交代制度づくりの破綻などとなっています。
世の中には同じような問題をとりあげた本はいろいろありますが、この本は共産党の党首の講演録にふさわしく、それぞれをあれこれ論評するだけでなく、一つ一つの問題をどのように解決していくかという行動の指針を示すものになっています。それがこの本の何よりの特徴であり、大きな魅力となっています。
内容に学ばされたことは多々ありますが、なかでもいま特に大切だと思わされたのは、政治の現局面を次の三つの角度からとらえるということでした。
一つは、現在、財界主導での「2大政党」づくりの破綻が明確になっているということ。
二つは、その一方でTPP(環太平洋連携協定)反対、原発ゼロ、沖縄の基地撤去、消費税増税反対といった現在の政治の根本問題で、従来の枠組みをこえた「一点」での共同が大きく広がっているということ。
そして、三つ目は、だからこそ、状況を力ずくで後ろ向きに打開しようとする「橋下・維新の会」のような動きも生まれてくるということです。この最後の流れについては、憲法「改正」に向けた保守政党の慌ただしい動きもふくめることができるでしょう。
状況をこのようにとらえるなら、私たちはまず、目先の問題にふりまわされることなく、政治が財界のたくらみを打ち破る方向に進んでいることに、根本のところで自信をもつことができます。
「一点共闘」の拡大に自信が
また、局面の後ろ向きの打開をゆるさず、「一点共闘」をさらに大きく広げていく方向性にも自信がもてます。それは財界が「2大政党」に行わせてきた政治を、国民の利益を優先する方向に転換するということで、そこに確信をもつならば「橋下・維新の会」などをやみくもに恐れる必要もなくなります。
これらのことをしっかりあたまに置いて読めば、この本が、政治の現局面の構造を、さらに前向きにつくりかえる具体的な内容と方法を探求したものであることもよく見えてくると思います。
本紙読者のみなさんには、自分の言葉でこれらのことを語ることができるようになるために、ペンをにぎって、この本に正面から取り組むことを呼びかけたいと思います。
以下は、「しんぶん赤旗」2011年8月14日、第5面に掲載されたものです。
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わかりやすく、意欲育てる
平野喜一郎著『入門講座「資本論」を学ぶ人のために』
『資本論』全3部を視野におさめた、本格的でコンパクトな入門書の出版は久しぶりのことだと思う。
私の若い頃にはその手の文献がいくつもあり、「あれを読んだか」「あれとこれとここの理解が違う」など、ずいぶん背伸びをしながら話し合ったものだった。
多くの人が手に取りやすいこのような書物の出版は大歓迎である。
著者はこの本をわかりやすくするために、重要な個所とわかりにくい個所に解説をしぼり、マルクスの方法にしばしば言及し、理論と現実のつながりを示すことに重きをおいたと述べている。
簡単ではない課題ばかりだが、いずれも成功をおさめている。
全10回の講座は第1部の解説に7回、第2部と第3部に1回ずつをあてるものとなっており、スミスやリカードとマルクスの関係を述べた「『資本論』の源流」が締めくくりに置かれている。
さらに、その前後にマルクス経済学の魅力を論ずる「序」と「弁証法の学習のすすめ」という補論が配されている。
私は『経済学と弁証法』(1978年)以来、著者、平野氏の読者だが、今回は特に「源流」に述べられた総括的な議論に、教えられるところが多かった。
平野氏の研究には『資本論』の内部に分け入るだけでなく、他の思想家との比較によってその特徴を明らかにする視野の広さがある。
それはこの本でも、ヘーゲルとの異同が論じられる方法論、古典派経済学との対比が重視される学問の立場と階級性、思想と科学の結合などの論点に、わかりやすく、しかも内容豊かに示されている。
資本主義社会の仕組みを根本からとらえることは、現代日本の市民にとってますます重要な教養である。
『資本論』に挑む意欲を育てるものとして、大いに読まれ、論じられることを期待したい。
以下は、神戸女学院大学学報委員会『学報』№161、2011年3月15日号に「新刊紹介」として掲載されたものです。
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内田樹著『街場のマンガ論』
「日本語という言語の特殊性が、日本列島におけるマンガの生成と発達に深く関与しているというこの仮説は、日本におけるマンガの突出した生産性と創造性を納得のゆく仕方で説明できる唯一のものだと思います」。
この本でも内田先生の思考の道行は、事柄と向かい合う身体の自然な反応を尊重し、そこに生じた感覚や動作の意味を検討し、それに的確な言葉を与えていく見事でユニークなものになっています。
〈そのような議論は気持ちがよくない〉〈あれは面白かった〉〈そう思ったんだから〉。対象への五感の応答をそのまま表わすこれらの言葉は、読み手にとってもスカッと気持ちのいいものです。
しかし、こうした身体の表の反応は、もちろんそのまま差し置かれるわけではありません。つづいて思考はそれらの根拠に分け入ります。「どうしてそう思ったのかな」という自問です。
それが内田先生の内奥のブラックボックスをへて、何かの「気づき」を生みだすわけです。その「気づき」の新しさは、既知の「知」に対する居着きの有無を重視して評されるものとなるわけです。
「よくそんなにたくさん書けますね」「出版社に機械で身体をしぼられてるような感じだね」。そんな会話を何度かした覚えがありますが、内田先生はそれも身体の赴くままに、ひょっとする「ぬたあん、ぬたあん」(一乗寺の武蔵@『バガボンド』)とさばいて(誰を?)いるのかも知れません。
「井上雄彦論」「マンガと日本語」「少女マンガ論」「オタク論・ボーイズラブ論」「宮崎駿論」「マンガ断想」の6章に、養老孟司さんとの対談「戦後漫画家論」を加えた全7章からなる本です。私には、最初と最後がとりわけおもしろく読めました。
以下は、「しんぶん赤旗」2010年9月5日付、第6面に掲載されたものです。
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成熟した革命論の集成
現代に挑む力 育てるために
不破哲三編集・文献解説
■マルクス『インタナショナル』 ■エンゲルス『多数者革命』
この2冊の本は、科学的社会主義の主に革命論の領域に属しています。「主に」というのは、科学的社会主義の理論が、そもそもいくつかの構成要素に縦割りで分割できるようなものではないからです。
革命論の実践的な探究の中で、経済理論、世界観、未来社会論の深化に向けた新しい着想が生み出され、それらのまとまった理論的探究の成果が革命論にはねかえってくる、科学的社会主義の理論は、そのような全体の一体性を重要な特徴としており、この二冊はその実際の姿を具体的に教えるものにもなっています。
~~~~以下は、日本共産党「しんぶん赤旗」2010年8月15日、第6面に掲載されたものです。
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「わたしのおすすめこの3冊」
①不破哲三『革命論研究』上下(新日本出版、2010年)
②吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(岩波ブックレット、2010年)
③マルクス『資本論』第1部(新日本新書①~④、1982~3年)。
①かまえて本を読むなら、ズシリと重いマルクス等の古典がいい。そして、今のような情勢だから、政治改革の方針や実践に深くかかわるものにしたい。
しかし、彼らには政治改革・革命論をまとめて論じた著作がありません。その困難を乗り越えさせてくれるのがこの一冊です。
マルクスは実践のたびに、また各地の政治や歴史を分析するたびに、革命の理論を発展させました。その内容と経過が、豊かな引用のもとに検討されています。
②北海道から沖縄まで、「慰安婦」問題の解決を国に求める意見書可決の取り組みが進んでいます。市民と地方議員が力をあわせる新たな運動で、自民党をふくみ全会一致という自治体も。
その中で、強制はなかった、「慰安婦」の証言は信用できない、「慰安婦」の待遇はよかった等とする最近の右派の主張を、「慰安婦」問題研究の第一人者が正面から批判したのがこの本です。
取り組みの発展を目ざす、みなさんの学習テキストに格好です。
③ご存じマルクスの本丸です。経済学はもちろん、唯物論や弁証法も、史的唯物論も革命論も社会主義論も、すべてが縦横に展開されます。
この大著を読み通すコツはただ1つ。それは「わかるところだけを読む」「わからなくとも先へ進む」です。
最初の目標はページを最後までめくり終えること。何年もかけてそれを10回も繰り返せば、何となくわかるところが増えてくる。この本はそういうタイプの本なのです。
この夏、どうぞ最初の一歩に挑戦を。
以下は、新日本出版社『経済』2010年9月、第180号、124~5ページに掲載されたものです。
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書評・森岡孝二著『強欲資本主義の時代とその終焉』(桜井書店、2010年)
二〇〇八年以後の世界恐慌と、これをきっかけとした資本主義改革の模索の必要が、あらためて「現代」資本主義の総括的な把握を求めている。
しかし、それは簡単なことではない。そこには、資本主義の「現代」性を構成する要素は何か、「現代」とは一体いつからいつまでのことか、「現代」はどこからどこへ発展しているのか、発展の原動力は何か、さらに事柄は資本主義全体の新しい変化をどう捉えるかという、経済学の方法論にもかかわってくる。
課題の達成には多くの論者の意欲的な挑戦と、冷静な意見の交換が必要だろう。
ここに紹介する森岡孝二氏の『強欲資本主義の時代とその終焉』は、「現代」をとらえる方法論の問題に、「現代」を「現代」たらしめる具体的な特徴の分析を結合し、さらに「現代」を乗り越える「新しい経済社会」の特質を展望するという、タイムリーな問題提起を行なっている。
以下、右の問題意識にもとづいて、章ごとに内容を要約する。
「序章 現代とはどんな時代なのか」では、これに「企業、それもグローバルに活動する巨大株式会社が、ほとんど社会的規制を受けずに利潤と権力をほしいままに追求してきた時代」という「暫定的な答え」を与え、それを「強欲資本主義」と総括する。時期的起点は一九七〇年代末とされ、〇八年恐慌はその終焉の開始と位置づけられる。
本書は大きく二部にわかれている。その中で「第一部 現代資本主義の全体像と時代相」は、とりわけ「現代資本主義」の理論的把握を、強く意識した部分となっている。
「第一章 現代資本主義論争によせて」では、経済理論学会のシンポジウム「現代資本主義分析の理論と方法」の検討の上で、「資本主義の一般理論は、資本主義の全歴史の上に立ち、資本主義が生みだしてきたあらゆる経済関係を内包している現代資本主義の有機的総体を再現するもの」であり、「現代資本主義の構造と運動の総体を資本主義の一般的原理の発展として理論的に写しだす」ものでなければならないことが強調される。
「第二章 現代資本主義の現代性と多面性」では、そうしてとらえられるべき「現代」の資本主義が「グローバル資本主義、情報資本主義、消費資本主義、フリーター資本主義、株主資本主義などの諸相を併せ持(つ)」ものであり「(その)いずれもが一九七〇年代末以降に起点をもっている」ことが確認される。
「第三章 雇用関係の変容と市場個人主義」では、特に「フリーター資本主義」に注目し、「労働時間の二極分化と雇用形態の多様化」が「市場個人主義」の政策・イデオロギーとの関わりで分析される。他方、多くの労働者が「市場個人主義を受容」する「現実的基盤」として、「消費資本主義」の展開があるとの指摘もされる。
「第四章 株式資本主義と派遣切り」では、「フリーター資本主義」が「株主資本主義」とのかかわりでとらえ返される。「株主資本主義は、配当の増加や株価の上昇を意図して、企業に対してコスト削減による利潤の増大を求める」。それが労働者の生存さえ考慮しない格別の「強欲」につながっていくとされる。
「第二部 日本経済と雇用・労働」では、「現代」日本における労働条件の悪化が、さらに突っ込んで、幅広い実証研究をもとに分析されていく。
「第五章 バブルの発生・崩壊と一九九〇年代不況」では、バブルによる不況の準備過程が検討され、「日本的経営の自己破綻」を重視する立場から、九〇年代不況が「システム不況」と呼ばれる。
「第六章 悪化する労働環境と企業の社会的責任」では、労働者のはたらきすぎやワーキングプアに対する企業の責任が問われ、自己利益にあわせた労働法制の手前勝手な改革を要求する財界・大企業の無責任が告発される。
「第七章 労務コンプライアンスとサービス残業」では、コンプライアンス欠如の象徴とされるサービス残業の実態が明らかにされ、それが賃金だけでなく、労働者と家族の時間の喪失として自覚されることの重要性が説かれる。
「第八章 非正規労働者の増大と貧困の拡大」では、非正規労働者の過酷な労働と生活の実情が暴かれ、「社会の豊かさがその人々の低賃金労働に依拠していることをわたしたちが理解すること」の大切さが強調される。
そして「終章 新しい経済社会のあり方を求めて」では、このような内実をもって展開された「強欲資本主義」が、〇八年世界恐慌をきっかけに「終焉」の時を迎え、それが新自由主義にもとづく金融・雇用政策の破綻を主な内容とすることから、金融投機の規制と労働者保護の強化へ進まずにおれないことが展望される。あわせて資本主義改革の重要な焦点として株式会社の改革が指摘され、著者が指導的な役割をはたしてきた株主オンブズマンの取り組みが紹介される。
以上、「フリーター資本主義」あるいは労働・雇用条件の分析に、本書全体を貫く格別の執着が見られる点は、経済学における労働分析の大切さを語ってきた著者年来の主張の有形化といってよい。
私なりに考えさせられたことを一点あげれば、それは生成から死滅にいたる資本主義の生涯を捉えようとしたマルクスの方法である。『資本論』は、絶対的剰余価値生産から相対的剰余価値生産へ、平均利潤法則の成立以前と以後など、資本主義の様々な側面の歴史段階をすでに含んでいる。資本の抽象的な概念からの展開過程にそれらを位置づけたマルクスの方法は、現代資本主義の理論に、どのような構成を求めるものとなるだろう。著者の投じたボールを受けとめ、考えつづけたい。
三七〇㌻に近い内容濃密なこの本は、読みごたえ十分の力作である。
以下は、経済理論学会編『季刊・経済理論』第47巻第1号、2010年4月20発行、82~84ページに掲載されたものです。
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書評
『グローバル資本主義と日本経済』
鶴田満彦著 桜井書店,2009年
石川康宏(神戸女学院大学)
1・望ましい経済システムを求めて
1975年の入学以後,私の大学生活の多くは学生運動に費やされるものとなった。その後,経済学に関心をもつようになり,いくつかの研究書に手を伸ばしはじめた時,大学生協で手に入れた最初の本の一冊が鶴田満彦氏の『現代日本経済論』(青木書店,1973年)であった。
それから30数年をへて,同書は今も本棚の奥に収まっている。編集委員会より『グローバル資本主義と日本経済』の書評を課せられた時,最初に頭に浮かんだのは,この懐かしい思い出であった。
「あとがき」によれば,「本書は,1990年代以降の主としてグローバリゼーションや日本経済に関する論文や講演記録をまとめて一本にしたものである」(p.343)。
著者は「論文のほかに講演や講義の記録が入っていたり,補論として書評まで入っている不体裁な書」と書かれているが(p.347),こうしたつくりは本書にまとめられた思索の成果を,様々な角度からわかりやすく読み込ませる長所をつくるものともなっている。目次は次のようである。
「終章」は中央大学での最終講義の記録だが,「望ましい経済システムを求めて」というタイトルには,学問と社会に対する著者の姿勢がよく表れている。
「本書全体の問題意識」を説明した「序論」には,「家やモノが売れなくてあり余っているのに,他方では家も食もないホームレスの人々が増えているという矛盾に満ちた現実を前にして,多くの市民が,これまでの経済社会システムを考え直すひとときを作っていただきたい」(p.27)という文章があるが,これもまた同じ社会に生きる多くの人々の暮らしを思い,その改善を経済研究の強い動機とする著者の姿勢を示したものである。
2・グローバリゼーションの変容と「公」改革
本書のより具体的な目的は「[A] いわゆるグローバル資本主義の暴走が、[B] 世界金融危機を媒介としていかにして今日の世界経済恐慌をもたらしたか、[C]さらに恐慌自体がいかにグローバル資本主義を変容させつつあるかを理論と実証をつうじて明らかにしようとする」ことである(p.1,[A][B][C]は評者)。
第Ⅰ部でのグローバリゼーションの理論的な検討,第Ⅱ部でのグローバリゼーションと国家の関係の検討,第Ⅲ部での90年代以降の日本経済の具体的な分析と,本書の内容は幅広いが,先の著者の意図にそって「序論」の要点をまとめておけば,概ね次のようになるかと思う。
[A]について――①資本主義が「グローバル資本主義」の段階あるいは局面に進んだのは1970年代のことである。②1990年前後にはソ連・東欧の体制転換と湾岸戦争でのアメリカの勝利が,グローバル資本主義における米国の主導性を決定づけた。
[B]について――①2007年夏に表面化した世界金融危機は,信用の収縮を糸口に経済活動全体を縮小させ,②とりわけリーマン・ショックを契機に世界経済は過剰生産恐慌に入った。③日本の実体経済がアメリカ以上の速度で不調に陥ったのは,直前の「実感なき景気回復」が極端に輸出依存的であったからである。
[C]について――①08年恐慌をきっかけに,グローバル化はアメリカナイゼーションから多極的で透明な規制を伴うものへと変容し始めた。②その構造変化の内容は,地球市民の意思と行動にかかっている。③一市民として強調したいのは,バブル経済の再現を許さず,エネルギーと資源と水と食糧を公正に配分するシステムをつくることの必要である。④総じて新自由主義の「官から民へ」のスローガンに,「民から公へ」を対置したい。ここでの「公」とは「誰をも排除しない、誰もが関与できる」という意味であり、「公」改革はそのような領域を社会に広げるものである。
本書の全体は,以上のような諸論点を,より精緻に掘り下げるものとなっている。3・「グローバル資本主義」にいたる諸段階
教えられる論点は多いが,以下では資本主義の段階規定の問題に議論をしぼってみたい。
「資本主義は、成立当初から今日に至るまでの約200年の間,平坦かつ一様に発展してきたわけではなく,一連の段階的変容をとげながら発展してきた」(p.96)。著者によるその区分は次のようである。
[A]「英国産業革命をつうじて19世紀初頭に確立した資本主義が・・・自由競争的・個人企業的経済システム」であり,「それが19世紀末から20世紀初めにかけて・・・独占的・株式会社的経済システムに移行した」。
[B]「19世紀末から今日に至る独占資本主義においてもいくつかの段階的変容がみられる。第一次大戦までは古典的独占資本主義といっていい」(以上P.96)。
[C]「第一次大戦から1929年大恐慌を挟んで第二次大戦に至る時期は,古典的独占資本主義が現代資本主義に変容していく過渡期だったといっていい」(p.97)。
[D]「第二次大戦後は第一次大戦までの古典的独占資本主義に対して,国家独占資本主義あるいは福祉国家資本主義の時代である」(p.98)。
[E]「1974~75年恐慌とその後のスタグフレーションの過程を契機として,資本主義は,低成長,情報化,金融化,グローバル化,福祉削減・民営化の新自由主義などの諸現象によって特徴づけられる新しい局面を展開してきた。・・・新しい局面を特徴づけるネーミングは・・・独占資本主義を基礎としながら,古典的独占資本主義や国家独占資本主義あるいは福祉国家資本主義と段階的に区別される含意があればよいと思われるのであるが,筆者は・・・『グローバル資本主義』と規定した」(pp.101-102)。4・「古典的独占資本主義」と国家独占資本主義
以上の諸点にかかわり,私なりに考えるのは次のようなことである。
第一に,著者も重視しているところだが,資本主義の発展段階という場合,個々の側面の発展と総体としての発展の区別が必要である。
マルクスの『資本論』も,絶対的剰余価値の生産から相対的剰余価値の生産へ,平均利潤法則が成立する以前と以後など,様々な側面の歴史を含んでいた。しかし,後にレーニンは『帝国主義論』で,それらを自由競争段階の資本主義と一括し,20世紀初頭以降の独占資本主義をそれとは質を違える段階とする。
著者が,[A]で資本主義の全史を大きく二つに分け,[B]以降の変化をそれとレベルの異なるものとしている点は,非常に重要なところである。
第二に,その上での問題提起となるが,国家独占資本主義については,これを独占段階本来の成熟した「経済形態」ととらえるべきではないだろうか。
レーニンの独占段階論は,自由競争から独占へという資本間関係の変化を基本に,金融資本という新しい支配的資本の誕生,金融寡頭制の形成,資本の輸出,資本家団体のあいだでの世界の経済的分割と領土的分割などを柱とした。
しかし,レーニンは戦時ドイツ等の分析から,さらに「資本主義的生産の国家化の原理」にもとづく国家独占資本主義の概念にたどりつく。
それは,少数金融資本による社会全体の支配,すなわち金融寡頭制への理解を深め、それによって独占段階論の新しい到達を築くものとなった(その国家独占資本主義論には,戦時下の「記帳と統制」を社会主義に直結させる誤りも含まれたが)。
実際の歴史を見ても,20世紀初頭から第一次大戦にいたる「古典的独占資本主義」は期間も短く,安定した「段階」を構成したとはいえないように思う。
そう考えると,著者が[C]「古典的独占資本主義が現代資本主義に変容していく過渡期」としているものは,自由競争段階を脱したばかりの未熟な独占資本主義が,確立した独占資本主義すなわち国家独占資本主義へと成熟していく過程ととらえ返される。
また資本主義の全史は,大きくは自由競争の資本主義と独占段階の典型としての国家独占資本主義の二つにわけられるものとなり,国家による経済への介入が大幅に後退する未来を展望することの困難を考慮すれば,それが資本主義の全史に占める比重は,今後ますます高くなると思われる。
5・国家独占資本主義の変化と改革
第三に,あわせてとらえるべきは,国家独占資本主義自身の発展である。
国家の経済への介入には,すでに様々な変化が起こっている。その最大のものは,第二次大戦後の国民主権にもとづく議会制民主主義の確立により,資本家団体との力関係に応じてではあるが,国家の経済政策に国民多数の意思が反映される経路が築かれたことであろう。
戦後「福祉国家」の形成は,こうした変化に基づいている。さらに戦後の国家独占資本主義は,植民地体制の崩壊により世界の領土的分割が不可能となった時代に成長する。それは内外の民主主義の発展に押され,国家独占資本主義自身が脱植民地化の「試練」をくぐり抜ける過程でもあった。
著者がいう「グローバル資本主義」段階の新しい変化も,国家独占資本主義を否定するものではなく,それを新しく発展させるものととらえることができると思う。
本書第4章が注目している金融資本の形態変化(独占的産業資本との癒着による利子収入から金融市場での投機利得への主たる利益源泉の変化)や資本輸出の内実の変化(実体経済への投資から投機の急拡大へ),さらにはIT革命など生産力面の大きな変化も,レーニンが示した独占段階論を現代的に豊富化するものとして整理することが可能ではないだろうか。
別の著作で,著者は「グローバル資本主義のもとにおいても,国家は依然として deus ex machina(とりなしの神)の役割をはたしており,福祉国家体制もスリム化はしているが,現存している」と述べている(鶴田満彦編著『現代経済システム論』,日本経済評論社,2005年,p.59)が,このある種の曖昧さは,それを国家独占資本主義自身の変化とすれば,ただちに解決されるように思う。
第四に,国家独占資本主義の改革の展望という問題である。
レーニンは帝国主義の段階を,独占の形成から世界の領土的分割にいたる「純経済的概念」(独占資本主義)だけでなく,寄生的あるいは腐朽しつつある資本主義,死滅しつつある資本主義としても特徴づけた。
1970年代末以降の金融の肥大化を見れば,寄生性・腐朽性への指摘はあらためて光を放っているといってよい。しかし,独占の成立により資本主義が「死滅」の過程に入ったという認識は,社会主義を求める各国労働運動の力量不足と相まって,結果的には当たらなかった。独占段階でこそ資本主義は飛躍的な発展をとげたというのが,その後の歴史の実際である。
ただし,その発展は,資本の利益のために労働者や国民の生活が一方的に踏みにじられたものではない。
『資本論』は,労働者たちの時短闘争による絶対的剰余価値生産への制約が,相対的剰余価値生産の追求という資本主義の新しい局面を開いたことに注目したが,それはその後の資本主義についても同様である。
国家独占資本主義も,大局的には資本の横暴を抑制するために闘う労働者・国民の生活と労働条件の改善を内包しながら発展している。そうした変化は,とりわけ社会民主主義政党が政治をリードしたヨーロッパ諸国の戦後に顕著である。
「5つの資本主義」「7つの資本主義」など,著者は度々,現代資本主義の多様性にふれているが(p.207,265,276),それを生みだす重要な要素のひとつは,各国の資本家団体(財界)と労働者・国民の力関係の相違であろう。
そして,人々の知的・政治的成熟の進展を土台に,資本の活動を豊かで安定した国民生活の実現に向けて制御する国家独占資本主義の民主的改革の積み重ねは,次第に資本主義そのものの限界をあぶりだし,人々をより進んだ経済システムの探求に向かわせるものとなるだろう。6・「今日の夢は明日の現実になる」
最後に,再び「あとがき」の一節を紹介しておきたい。
「まさかグローバル資本主義が米国サブプライム・ローンの焦げ付き問題を契機に今日現出しているような世界金融危機・世界経済恐慌を惹き起こすとは推測していなかった。その意味では,せっかく若い時期からマルクスに学んできたはずなのに,資本主義と市場経済の合理性と効率性を過大評価してきた不明を恥じ入るほかない」(p.345)。
こうした自己点検の表明は,誰にも容易にできることではない。
他方で,著者はこうも述べている。
「今回の恐慌による米国型金融モデルと新自由主義の破綻によって,グローバル資本主義は,多極型・規制許容型・格差是正型のよい方向のグローバリゼーションへ向かうのではないかと思われる」。そして,いくかの長期的な経済・社会改革の見通しを述べたうえで、段落の最後を次のようにしめくくる。「たしかに,このようなことは,今日では夢であろうが,私はキューバの革命家・詩人であるホセ・マルティスとともに『今日の夢は明日の現実になる』ことを信じている」(同上)。
このような精神のたくましさもまた,しっかり学びとられるべきものだと思う。
以下は、日本共産党『前衛』2009年6月(第843号、09年6月1日発行)、179~180ページに掲載されたものです。
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マルクスの理論の全体像-革命家ゆえの革新と幅の広がり
不破哲三著『古典への招待(下巻)』
マルクスとエンゲルスの代表的な著作を年代順に検討し、マルクス理論の全体像をマルクスの歴史の中で読んでいくという、この著者ならではの試みの完結巻である。
この本が取り上げていない『資本論』についても、すでに『エンゲルスと「資本論」』『マルクスと「資本論」』『「資本論」全3部を読む』などの積み重ねがあり、これらをあわせて読めば、マルクスの理論の文字通りの全体像が、止むことのない自己革新を特徴とする知的生涯の中に浮き彫りとなる。
マルクスを科学の目で読み解く上で、これはきわめて意義の大きな仕事といえる。
この巻に収められたのは、いずれもエンゲルスの著作についての講義である。私なりに印象的な論点をまとめておけば次のようになる。
〔第一三講〕『反デューリング論』(一八七六~七年)では、第一二講『空想から科学へ』が検討した総論部分を除き、デューリングとの論戦の諸章が対象となる。
観念から現実を導くデューリングの「アプリオーリ主義」あるいは「イデオロギー的方法」には、自然科学の具体的な到達にそくした生きた唯物論の姿が対置され、「強力」が歴史や経済の最大の原動力だとする見地には、軍事や政治と経済との具体的な関係の分析の上に立って、経済こそが歴史の土台であると批判を加える。
デューリングの経済学に対しては、『資本論』第一部の価値論や剰余価値論などが活用され、またマルクスが原稿を書いた経済学史の部分には、他の文献にない独自の論点が含まれる。
さらに資本主義の生産様式は良いが分配様式は悪いとする見解に、エンゲルスは自身の社会主義論を十分先に展開したうえで鋭い批判を行っていく。
本書内容はきわめて豊かである。
ただし、恐慌や資本主義の根本矛盾についてはマルクスの理解に及ばぬところがあり、社会主義への過渡期における貨幣経済の役割では、マルクスと見解の異なるところもある。
この講が下巻のおよそ四割を占めている。
〔第一四講〕マルクスは1883年に亡くなるが、『家族・私有財産・国家の起源』(84年)は、モーガンの原始社会論に関するマルクスのノートにもとづく、エンゲルスによる「遺言」執行の著作である。
『反デューリング論』では原始社会の女性は無権利状態だったとされたが、ここでは、原始社会における女性の高い地位が私有財産の発生によって失われていくという「世界史的な敗北」の論理が示される。
また国家の起源の問題でも、原始の共同の機関が支配の機関に転化したというそれまでの見解は変更され、諸階級への社会の分裂により国家が社会の中から初めて生み出されるという新たな認識が示される。
家族史や国家起源史の描写には、今日的な補足が必要なところもあるが、原始社会および人類史の構成に対する理解を大きく深めた点で、この著作は科学的社会主義の発展に重要な意義をもつ。
〔第一五講〕『フォイエルバッハ論』(88年)は、マルクスとエンゲルスの多くの著作にあって、科学的社会主義の世界観を系統的に解説した唯一のものとなっている。
題名が与えるイメージに反し、論じられる事柄の中心はヘーゲルからマルクスへの世界観の革新である。
フォイエルバッハには踏み込むことのできなかった人間社会の唯物論的な研究は、ヘーゲル哲学の解体を決定的なものとする。
その際の史的唯物論の定式化は、もっぱらマルクス個人によっていた。
エンゲルスはここで、マルクスの史的唯物論を、歴史をつくる大きな人間集団の動機の形成という独自の視角から、説得力豊かに解説し、また上部構造論についても、経済的基礎からの見かけ上の独立性という「イデオロギー」論の見地から、他の文献にはない詳細な展開を試みている。
〔第一六講〕最後に取り上げられる『エルフルト綱領批判』(91年)は、ゴータ綱領の16年ぶりの改定に際して示された「ドイツ社会民主党綱領草案」への批判である。
エンゲルスは、党執行部が隠し通そうとしたマルクスの『ゴータ綱領批判』を公表し、その後の全党討議をつうじて新綱領からラサール主義の影響を除いていく。
しかし、12年間の社会主義者取締法が植えつけた「恐怖症」的日和見主義は深刻で、エンゲルスの批判に反し、民主共和制の樹立に向けた専制政治の転換を綱領に明記することは避けられた。
その後、第一次大戦の勃発に際してこの日和見主義は、「祖国擁護」の名で帝国主義戦争を推進するところにまで肥大化する。
以上をもって、全3巻に及ぶ講座の全体は終了となる。
止むことなきマルクスの探究は、どの段階にあっても成熟の度合いを違えた姿を見せるマルクス自身の歴史を生み出し、その探究の成果は世界観、経済理論、未来社会論、革命運動論などの独自の発展と相互の深い一体性を形づくった。
こうした特質を根底で統一させるのは、若き日々から一貫するマルクスの革命家としての人生である。事柄のこの側面への理解なしに、マルクスの理論を正確に読み、現代に発展的に生かす力を身につけることはできない。
結びにふくまれた著者の簡潔な指摘の中から、われわれが学ぶべき最も重要な論点のひとつはここにある。
以下は、「しんぶん赤旗」2008年11月9日付の読書欄に掲載されたものです。
見出しはすべて編集部がつけてくれたものです。
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不破哲三著『社会進歩と女性-「女性の世界史的復権」の時代が始まっている』
男女平等の過去・現在・未来
21世紀 女性運動の役割鮮明に
この本は、2008年9月に行なわれた、女性講演会での講演をもとにしたものです。 主題は「今日の世界と日本における女性の地位」で、第1章「女性解放の道―古典から学ぶ」、第2章「世界で女性の地位はどう変わってきたか」、第3章「日本社会では異常な女性差別が続く」、第4章「世界と日本を動かす主役として」という構成になっています。
世界変化の追究
著者は、最初に、女性問題を「ルールなき資本主義」の最大の焦点の一つだと述べていますが、これはきわめて重要な位置づけです。男女平等を社会改革の副次的な課題だとする視野の狭さが、私たちの身のまわりにも少なからず残っていますので。
第1章では『家族・私有財産・国家の起源』でのエンゲルスの卓見が紹介され、特に人類共通の財産となりつつある内容が、次のようにまとめられます。1つは男女平等には法律的平等だけでなく社会的平等が必要なこと、2つはそこで決定的な意義をもつのが「女性の公的産業への復帰」であること、3つはそれが女性の仕事と家庭の両立を保障する社会制度を必要とすること、4つは不平等の経済的基盤を除いてこそ平等が発展するということです。
第2章で著者はこの講演の準備過程での最大の収穫が、女性差別撤廃条約(1979年国連総会で採択)とその後の世界変化の追究にあったと述べています。戦後の世界では「女性の公的産業への復帰」が大きく進みましたが、女性差別撤廃条約はこれを支える社会制度づくりを、世界共通の緊急課題と認める意義を持ちました。これを受けて著者は、この条約を転換点として、かつてエンゲルスが未来社会に希望を託した「女性の世界史的復権」が、資本主義の枠内で開始されたと結論します。ここは本書のもっとも重要なポイントとなる点です。また「同一価値労働同一報酬」(1951年ILO)の原則が、職場での男女平等を推進する重要なルールの一つだとされている点も、しっかり確認しておきたいところです。
社会体制転換へ
第3章では、日本における男女平等の実態が、各種の国際機関によって“落第国家”の認定を受けていること、こうした遅れの最大の原因が利潤第一主義を最優先してきた財界と政府与党の姿勢にあること、そして戦前の「家」制度を美化する靖国派が、これを右から応援する反動的な応援団となっていること等が述べられます。さらに資本主義の枠内で開始された「復権」が、その枠内で十分に達成されないところを残せば、それは社会主義でより全面的に実現すれば良いと、民主的な要求の実現と社会体制の転換との関係を柔軟にとらえているところも重要です。
最後の第4章では、日本における女性運動の歴史と到達点を、新日本婦人の会に焦点をあてながらふりかえり、世界全体が大きく変わる21世紀に女性運動が大きな役割を果たすことへの強い期待が述べられます。
著者は、女性差別撤廃をすすめる“戦略戦術”の第一に、社会的な啓発の必要をあげていますが、まずは本紙読者のみなさんに、男女を問わずこの本の精読をお勧めしたいと思います。
以下は、日本共産党『前衛』2008年12月、第837号、172~173ページに掲載されたものです。
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科学的社会主義の多様な発展――古典家同士の見解の相違も――
不破哲三著『古典への招待(中巻)』
新日本出版社の「古典選書」を軸に、マルクスとエンゲルスの理論的な探求の生涯を明らかにしようとする不破氏の著作の中巻である。ここには「マルクス『賃労働と資本』『賃金、価格および利潤』」「エンゲルス『「資本論」綱要・「資本論」書評』」「マルクス『フランスにおける内乱』」「マルクス『ゴータ綱領批判』」「エンゲルス『自然の弁証法』」「エンゲルスと『空想から科学へ』」の全六講が収められている。
この巻が主な検討の対象とするのは、『賃労働と資本』(四九年)を除き、マルクス等が史的唯物論と剰余価値論の双方を確立し、公開して以後の諸研究である。そこには『資本論』の執筆をつうじた経済学はじめ科学的社会主義の多彩な理論的革新、パリ・コミューンという歴史的経験の同時代的分析、ドイツの労働者運動における理論的混乱の除去という実践的な要請に従っての階級闘争論、過渡期論と未来社会論の新たな解明、さらには科学的社会主義の初めての概括の試みなどが含まれる。それは草稿『ドイツ・イデオロギー』(四五~六年)で史的唯物論の形成をもって生まれたばかりの科学的社会主義とは、比べようのない多くの実りを体現している。その豊かさを可能としたのは、彼らの革命家としての人生観と、尋常でない現実世界への好奇心、知的探求の精神であった。
しかし過渡期論・未来社会論については、レーニンの誤った解釈が大きく影響し、正確には読まれない時期が、その後、長く続くことになる。また科学的社会主義を簡潔に概括するエンゲルスの試みには、マルクスとの小さくない見解の相違も含まれた。この巻は、そうした科学的社会主義の単純ではない理論史の一面をも、あるがままにとらえさせるものとなっている。以下、各講を私なりに要約すれば次のようになる。
〔第七講〕『賃労働と資本』(四九年)と『賃金、価格および利潤』(六五年)は、マルクス自身による経済学の入門書として並べ置かれることが多い。しかし、エンゲルスの補筆・修正にもかかわらず、剰余価値論形成以前の『賃労働と資本』は「あまりにも不完全」であり、これはあくまで「歴史的な文書として読む」べきである。対照的に、階級闘争の立場から「経済学の全領域」を歩きまわる『賃金、価格および利潤』は『資本論』全三部の草稿が完成する直前の講演で、そこには『資本論』にも展開されない重要な論点が含まれている。
〔第八講〕『資本論』第一巻(六七年)に対する黙殺を打破するために書かれた「『資本論』書評」九篇(六七~八年)は、その歴史的感覚、ラサール批判、厳密な科学性、青写真主義への警告、工場立法や議会資料の格別な意義など、『資本論』の深みにそれぞれ独自の角度から光を当てるものとなっている。またイギリスへの本格的な紹介の準備作業であった「『資本論』綱要」(六七年)は、第二篇に力点をおきながら第一~四篇の骨格を骨太く示すものとなっている。
〔第九講〕『フランスにおける内乱』(七一年)は、マルクスが「できあいの国家機構」の「粉砕」を目指したとするレーニンの理解に反して、議会の多数を得ての革命がマルクスの一貫した考え方であることを示す重要な文献となっている。ここには労働者階級による国家権力の掌握という『共産党宣言』の定式を越え、抑圧の機構を取り除き、必要な行政機構を民主的に改革するという国家機構の改造論が示されている。
〔第十講〕『ゴータ綱領批判』(七五年)は、ドイツの二つの労働者政党の合同に際して用意された「ゴータ綱領」が含む、ラサール主義の六つの教条を全面的に批判している。未来社会の確立にともなう国家の死滅や、プロレタリアート執権を社会全体の革命的転化(未来への過渡期)の一環ととらえる等の新たな思想が展開される。しかし、これもレーニンによって二段階の未来社会論・国家死滅論と誤読されるところとなった。
〔第十一講〕『自然の弁証法』(七三~八二年)は、多年に渡る草稿の集大成だが、それは唯物弁証法的な「自然把握」の内容として、数学と自然諸科学の到達点を「概括」するという壮大な試みにもとづいている。その著作についての「七八年のプラン」は、弁証法の総論的な説明と三つの「主要法則」を区別するという特徴をもつ。だが、弁証法研究の内容については、必ずしもマルクスとの間に十分な交流があったわけではない。
〔第十二講〕『反デューリング論』(七六~七年)の抜粋をもとにまとめられた『空想から科学へ』(八一年)は、科学的社会主義の初の体系的な「入門書」である。社会主義を科学とするには、マルクスによる史的唯物論と剰余価値論の発見が必要だった、という有名な一句がここにある。ただし資本主義の発展と没落の弁証法を、剰余価値生産の追及を含まぬ「社会的生産と資本主義的取得の矛盾」から論じた点には、マルクスの資本主義理解とのずれもある。そこには恐慌の現実性を論じた『資本論』第三部の草稿を、エンゲルスがいまだ読めずにいたという事情が恐らく深く関わっている。
こうして十分な成熟の域に達した後にも、マルクス等の知的格闘と前進への努力には、まるで止まるところがない。それを個々の側面からだけでなく、多面的に、同時並列的に発展する知性のありのままの姿で、トータルにとらえさせるところにこの本の面白さがある。
以下は、日本機関紙出版センター『宣伝研究』第517号、2008年6月号、22ページに掲載されたものです。
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全大阪生活と健康を守る会連合会編『この国に生まれてよかったか』(日本機関紙出版センター、2008年)を読み終える。
副題は「生活保護利用者438人 命の叫び」である。
多くのページが、次の7つの項目によるアンケートへの回答からなっている。
①保護基準の削減、老齢加算の廃止、母子加算の削減、大阪府・大阪市の夏期・歳末一時金が廃止され、何を節約しているか。
②生活保護を利用するようになった理由。
③生活保護を利用していることでの悩みや日常的につらいこと。
④改善されようとしている保護基準の引下げや医療費の有料化についてどう思うか。
⑤大阪市が水道料減免と市営交通割引制度から生活保護世帯を適用除外したことへの意見。
⑥ケースワーカーや民生委員についての意見。
⑦福祉事務所へ行って感じること。
①④⑤の質問にあらわれているように、実際の生活保護基準は急速に引き下げられており、それによって「守られる」生活の最低基準は、ますます低いものとなっている。
満足に3食をとることもできず、医療費や公共交通機関の利用さえギリギリにまで切り詰められている。
生活保護法は、憲法25条がいう「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障するためのものであるにもかかわらず。
また被保護者の増加を余儀なくさせる「構造改革」を、政治が進めておきながら。
日本の政府は、被保護者が人口の1.2%に達したことを問題視する。
だが、02年の同様の数値は、スウェーデン4.85%、フランス5.49%、ドイツ8.8%、アメリカ1.78%となっている。
しかも、ドイツなど720万人の扶助受給者のうち高齢者は、わずか20万人。
高齢者比率が圧倒的に高い日本とは、まったく違った構成となっている。
いわゆる働ける年代であっても、何らかの事情があれば保護の対象となるのは当然とされ、高齢者についてはそもそもの生活保障がしっかりしているからである。
国や自治体が社会保障削減の口実にあげるのはいつでも「財政赤字」となっている。
だが、それは国民の浪費によってではなく、不要不急の大型公共事業など、政府の浪費によって生まれたもの。
反省すべきは、多くのまじめに生きる生活困窮者ではなく、政治の姿勢の側である。
この国の政治の貧しさと残酷さが、ここでも実証されている。
生活保護申請の実際上の手助けや、被保護者の実生活によりそい、保護水準の拡充を求める取り組みなど、生活と健康を守る会が果たす大きな役割もよく見える。
以下は、日本共産党『前衛』2008年6月、第831号、189~190ページに掲載されたものです。
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科学的社会主義の誕生と発展――止むことなき前進の解明
不破哲三『古典への招待(上巻)』
神戸女学院大学・石川康宏
http://walumono.typepad.jp/
この本は、著者が『月刊学習』に連載している「古典への招待」の最初の1年分をまとめたものである。内容は、マルクスとエンゲルスの代表的な著作や研究を歴史の順に検討し、彼らの理論活動の生涯を、その歴史的成長の中に位置づけようとするものである。
上巻に収められた全六講は、「エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』」「マルクス、エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』」「マルクス、エンゲルス『共産党宣言』 エンゲルス『共産主義の諸原理』」「『新ライン新聞』と“革命三部作”」「マルクス『経済学批判』への『序言』『序説』」「多彩な国際政論活動」となっている。
対象となるおよその時期は、エンゲルスが「イギリスにおける労働者階級」の実態調査を開始した1842年から、2人が5つの新聞を中心に多彩な政論活動を展開する62年までである。
この時期の2人の理論活動は、大別して、①1818年生まれのマルクスと1820年生まれのエンゲルスが『ドイツ・イデオロギー』(1845~46年)の執筆を通じ、驚くほどの若さで科学的社会主義の基本的な確立をなし遂げていく時期と、②その後、一時たりとも休むことなく、既存の学問および目前の世界の分析をつづけ、自らの理論的な高みを次々に更新していく科学的社会主義の豊富化の時期となっている。
一読して何より印象的なのは、マルクスとエンゲルスの止むことのない自己革新への衝動の強さである。若くして時代を突き抜ける巨大な成果を生み出しながら、そこに安住するかの姿勢はどこにも見えない。今ある自己を越える格闘が、彼らにとっては日々の自然とされていたのだろう。
そうして発揮される恐ろしいほどのバイタリティが、革命家、共産主義者としての人生観に、理論活動の最初から深く方向づけられていた事実も教訓的である。
だが、いかに長足とはいえ、彼らの進歩もやはり一歩ずつの積み重ねから成る。具体的な革命運動の経験と刺激しあい、未熟から成熟へと進む時間の経過がそこにはある。したがって、時期の異なる彼らの成果を同列に置き、どれも“同じように正しい”とするのはまるで科学的な態度ではない。
このように成熟度を違える諸研究の内的連関の解明に挑んでいるのが本書である。その成果の一端を乱暴に縮めて紹介すれば次のようになる。
『イギリスにおける労働者階級の状態』(第一講)は、産業革命後のイギリス社会を、労働者階級の苦難と成長を軸にとらえる大作だが、資本主義社会の諸悪の根源を競争に見出すなどの理論的な未成熟をもっている。
『ドイツ・イデオロギー』(第二講)は、史的唯物論の形成をもって科学的社会主義が確立される、その歴史的舞台となった草稿である。社会の中での生産諸関係の位置づけ、土台の矛盾と上部構造での闘争、未来の生産諸関係の存在条件など、多くの究明成果が一挙に溢れだす。だが経済理論は依然未熟なままであり、全体はドイツ哲学批判をスタートとせずにおれなかった。
『共産党宣言』と『共産主義の諸原理』(第三講)は、科学的社会主義を理論的基礎とすることで、従来の共産主義運動を一新した共産党綱領の最初である。多数者革命、労働者階級による権力の掌握、生産手段の社会化、革命に先行する進歩的改革の支持など、重要な政治実践上の指針が誕生するが、同時に未来社会における生活手段の私的所有に注意が及ばないなどの限界もあった。
「新ライン新聞」と“革命三部作”(第四講)は、史的唯物論を48年革命やその闘いの総括に生かし、「政治的闘争を、経済的発達から生じた現存の社会階級および階級分派間の利害の対立に還元する」という現代史の唯物論的な解明を、実に柔軟で内容豊かに展開する。そこにはできあいの型紙の適応はない。
『経済学批判』への「序言」「序説」(第五講)は、『資本論』に直結する時期の研究だが、具体的な内容の展開以前に一般的諸規定を述べようとした「序説」の構想は失敗し、他方『経済学批判』執筆後の「序言」は史的唯物論の内容豊かな定式を示す。ただしその定式は、学問世界への登場の仕方という戦術的な配慮から、階級や階級関係の展開を含まぬものとなっていた。
各種新聞をつうじた国際的政論活動(第六講)は、史的唯物論や経済学を鍛え、来るべき革命運動の政治戦術を準備するものとなる。ロシアの膨張を支えたイギリス外交の影、中国侵略の糾弾、スペイン革命史、インド研究、南北戦争論、景気循環の研究など当時のあらゆる大問題に、限られた史料から大胆な結論と、その後の見通しが与えられる。
本書の全体を大きく見る時、『ドイツ・イデオロギー』の諸草稿の“不破流”の読み方や、それぞれの時期を代表する諸著作相互の関連の分析に加え、いまだ『古典選書』に含まれない諸研究を検討する第四・六講が挟み込まれた点にも注目がいる。
マルクス、エンゲルスの生涯が実例をもって示したように、社会変革の指針たる科学的社会主義には、何より“現代”の解明への挑戦が求められる。個々の概念や理論の体系を、何か閉じられたものととらえるのではなく、それを今日の日本と世界の解明と変革に活用し、さらに成長させていくこと、それこそが科学的社会主義の魂を学ぶことだという著者の強調点がそこに見えているからである。
以下は、「しんぶん赤旗」2008年3月9日付、第8面に掲載されたものです。
見出しは編集部がつけてくれました。
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ポール・ポースト『戦争の経済学』(バジリコ株式会社、2007年)
徹頭徹尾アメリの利益だけ検討
たくさんの人間の命と肉体が砕け散る現実をあえて視野の外に置き、戦争を著者なりの「経済学」によって分析して見せた一冊である。
私はこのような問題の立て方自体に、ある種の感覚の麻痺を感じずにおれない。
著者によると、第1部「戦争の経済効果」は「戦争が経済にとって利益になるのはどういう場合か」を、第2部「軍隊の経済学」は「アメリカが継続的に軍事設備を維持しているために、戦争が起きても昔ほどの大量動員は起きないし、政府支出もさほど劇的には増えない点」を、第3部「安全保障の経済学」は「なぜ戦争がいまでは経済を活性化できないかのもう一つの理由」すなわち「現代の戦争は独特で限定的な性格を持つ」ことを、それぞれ検討するものとなっている。
第1部には「戦争の経済的影響を評価するための4つのポイント」がまとめられている。
「戦争前のその国の経済状態」「戦争の場所」「物理・労働リソースをどれだけ動員するか」「戦争の期間と費用、そしてその資金調達手法」がそれである。
最大の特徴は、そこにアメリカの軍事力によって破壊される側の「経済」がまるで登場しないことである。視角はあくまでアメリカの利益に限定され、戦死者の「経済」的価値の計算さえもが米軍兵士に限られている。
他方で、中央アジアや中東の資源と市場、また石油取引のドル建てを維持することによるアメリカの「ドル特権」堅持の狙いなど、現在のアメリカにとっての「戦争の経済効果」については重要な視角の欠如がある。
意図した隠蔽でなければ、それは著者の「経済学」自体の欠陥といえる。
本書はすでにアメリカの陸軍士官学校でも利用されているという。紹介される統計資料や知見には、いくつかの興味深い論点を見出すことが可能である。
だが、全体としての性格を評価しようとする時、そこに世界を見下さんとする軍事大国アメリカの奢りが反映していることを見落とすことはできない。
以下は、「兵庫民報」2008年2月17日(2181号)に掲載されたものです。
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『これが人間らしい働き方のルール--日本共産党の立法提案』を読む①
人を人として扱うことがなぜできないのか
書名のとおり『これが人間らしい働き方のルール』を示すこの本は、現状の解釈ではなく、打開の道筋を示す労作です。
副題は「日本共産党の立法提案」となっており、最低賃金、解雇規制、「企業再編」による労働条件切り下げ、均等待遇、男女平等、公務員の労働基本権回復など、07年に発表された最新の雇用政策もふくめ、これまで同党が積極的に行ってきた提案やその要綱がおさめられています(第Ⅲ・Ⅳ部)。
労働法制改悪阻止闘争本部長である市田忠義さんのインタビュー(第Ⅰ部)や、当時委員長だった不破哲三さんの報告「労働基準法を考える(1)(2)」(第Ⅱ部)が、全体を読みやすいものにしています。
大学の授業で学生たちとNHKスペシャル「ワーキングプアⅠ・Ⅱ(総集編)」と「ワーキングプアⅢ」を見ました。経済的には恵まれた階層に属する学生たちですが、食い入るように見つめています。
あまりの生活苦と政治や社会の無策に驚きが隠せません。その貧困の根底にあるのは、何より雇用の破壊であり、多くが就職していく学生たちも、この過酷な雇用制度から自由ではありえません。
『蟹工船』(小林多喜二)が何種類かのマンガになっていますが、これを「オレたちのことが書いてある」という若者もいるそうです。
『蟹工船』で多喜二が告発したのは、海面に「うさぎが飛ぶ」荒波と厳寒の北オホーツクで、帝国軍隊と結託した巨大な水産資本の犠牲となって、いとも簡単に命をも奪われてしまう文字通りの奴隷労働です。
それを「オレたちのこと」と受け止めずにおれないほどに、今の日本には非人間的な労働が拡がっている。
読み終えて、真っ先に考えさせられたのは「人を人として扱う」当たり前の政策が多数の合意にならない日本の国会の異常さです。
そして労働力人口の8割が労働者でありながら、そのような国会議員を選んでしまう国民の判断力の問題です。改革の鍵は何よりここにあるのでしょう。必要なのは政治を見る国民の視線を鍛えていくことです。
以下は、「しんぶん赤旗」2003年4月28日付けに掲載された書評。
「不破哲三著『マルクスと「資本論」①~③--再生産論と恐慌』/恐慌論の空白に挑戦/現代資本主義理解への貴重な貢献」,小見出しは編集部がつけてくれたもの。
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恐慌論の「空白」に挑戦/現代資本主義理解への貴重な貢献
この本は「科学的社会主義の経済学のなかで,再生産論と恐慌論のかかわりを明らかにする」ことを主題としています。「『資本論』のなかで」ではなく「科学的社会主義の経済学のなかで」とされているところがミソです。『資本論』での恐慌論の展開には「一種の『空白』」があり,少なくとも恐慌論については『資本論』をそのままマルクスの到達点とするわけにはいかない。それがこの本の出発点となっています。
巨大な研究課題
では,その「空白」とは何であり,それは何によって埋められるのか。「空白」とは何より,恐慌の「根拠」である「生産と消費の矛盾」が「再生産過程の正常な進行のための均衡諸条件を破壊」していく,その具体的な運動過程の解明にあります。恐慌の可能性を現実性に転化させるその過程の分析を,マルクスは『資本論』の再生産論(第2部第3篇)に書き込むつもりでいました。しかし,その予定は果たされることなく終わり,マルクス亡き後に『資本論』の編集を引き継いだエンゲルスによっても補われることはありませんでした。そこで,その書かれるべくして書かれなかったものを,マルクスの莫大なノートと草稿の中に分け入って探し,それをマルクスの研究にしたがって再現すること。それがこの本の課題となっています。この著者にしてすら「私なりの覚悟が必要だった」といわずにおれない,何とも巨大な研究課題です。
研究の結論が示す「空白」の核心は,再生産論の最後の章として書かれるはずだった「再生産過程の攪乱」に凝縮されます。著者はその再現を「推測の域を出るものでは」ないといいますが,しかし,その著者の手のひらには1000ページに近い研究で得られた「推測に役立つ多くの情報」が乗せられています。それによれば,この章には,①恐慌の可能性の問題,②恐慌の根拠である「生産と消費との矛盾」の問題,③「流通過程の短縮」をキーワードとする恐慌の運動論的な解明という,マルクス恐慌論の3つの基本的要素のすべてが含まれていました。
運動論の考察
その中でも最も深刻な「空白」となっているのは運動論の解明です。マルクスにとってその解明の「起点」となったのは「流通過程の短縮」(あるいは「再生産過程の独立化」)の発見でしたが,その発見が行なわれた「第2部第1草稿」を,エンゲルスは第2部編集の際に「断片的」であるとして視野の外にはずしてしまったのです。それが『資本論』におけるこの「空白」の大きな要因となりました。
「流通過程の短縮」を軸とする運動論の考察には,次の2つの問題が含まれるはずでした。第一は,再生産過程が均衡をはずれて恐慌にいたる,その文字通りの運動過程の考察です。①「他の産業資本家や卸売商人」による現実の消費を超えた大量の買いつけ(流通過程の短縮)が再生産を拡大させ,②それが再生産の「最盛の繁栄」を生み出し,③ついには恐慌の勃発へと導いていく。その全過程で恐慌の根拠である「生産と消費の矛盾」はどのような働きをするのか,それが大きな解明の課題となります。
第二は「流通過程の短縮」そのものの突っ込んだ理論的究明です。①それが「生産のための生産」を本領とする資本主義的生産の必然の産物であること,②信用制度がその短縮の規模を大きく左右するものとなること,③「世界市場」が一方で短縮の作用を見えづらくし,他方で短縮の運動に世界的規模での活動の場を与えること,これらが重要な論点として含まれていきます。もちろん,こうした解明はそのすべてが『資本論』第2部に収められるわけではありません。しかし,著者はこの理論の枠組み自体はすでにここで与えられるはずだったと結論します。
以上が,この本の最も骨太いあらすじとなります。誤解のないように強調しておきますが,この精緻な学説史的研究は現代資本主義の分析と無縁な,現代への理解から切り離された古い学説の詮索ではありません。マルクスの恐慌論が本来もっていた「広い視野と角度」を大きく引き出したこの研究は,日本経済の現状分析にとっても,現代における資本主義の運動法則の解明にとっても新しい重要な理論的指針を与えるものです。それはまちがいなく21世紀の資本主義を研究するための貴重な理論的貢献となっています。
“最後の一打”
さらに,この本の魅力と威力は以上にとどまるものではありません。例えば,第2部第3篇の最後に恐慌の研究が予定されていたとなると,『資本論』第1部を「生産のための生産」,第2部を「消費のための生産」と理解し,その上で第3部を両者による矛盾の展開ととらえた従来の「資本論の方法」理解は根本的な再検討を避けることができなくなります。また利潤率の傾向的低下の法則を資本主義の限界を示すものと理解することはできないという率直で大胆な問題提起や,「独自の資本主義的生産様式」「再生産資本家」といった草稿にはあるが『資本論』には採用されていない(あるいは充分説明されていない)重要な概念への注目,さらには巻末にそえられた「不破流の年譜」が再現するマルクスの研究史像のユニークさや草稿の執筆時期についての独自の考証など,この本が投げかける新しい問題はかなりの数にのぼります。
巨大な古典家たちの業績を「歴史のなかで」読むことは,著者によるこの間の連続した研究の重要な方法論的特徴となっていますが,そのマルクス恐慌論版というべきこの本は,いつでもマルクスを同じ地平に出来上がったものとして読もうとする教条主義への最後の一打としての意義ももっています。マルクスその人をも「科学の目」でとらえる。そのことが,時に誤り,苦しみ,試行錯誤に陥りながら,それでも科学することをあきらめないマルクスの変革者としての人間的魅力と迫力を逆にリアルに浮き彫りにしています。
今回の研究は『マルクスと「資本論」』の全体ではなく「最初の部分」だと著者は書いています。また,この5月からは「代々木『資本論』ゼミナール」の内容が全7冊のブックレットで出されるということです。政党幹部としての激務の中でのこの知的生産力の高さには,本当に驚かされます。
不破哲三『「資本論」全3部を読む』第1~3冊
--大胆な提起を含む深い研究の書--
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
この本については「読みやすい」「わかりやすい」という声を,良く耳にします。そのようにして,この本に多くの読者が得られることは,とても嬉しいことです。しかし,あわせて,読者のみなさんには,この本が従来の『資本論』研究にはない,大胆かつ斬新な提起と解明をふくむ深い研究の書であることも,ぜひ知っておいてほしいと思います。
この本の第一の特徴は,『資本論』を完成したものとはとらえず,むしろ補足と訂正の必要な著作だとして,その補正を実際に行っていくところにあります。現行『資本論』には書かれるべくして書かれなかった事がらもあれば,エンゲルスによる編集の失敗もあり,またマルクスがより進んだ研究によって置き換えたいと願った箇所もあれば,重要な概念なのにそれを説明する言葉の不足を補えなかったところもある。だから,今ある『資本論』をもって,そこにマルクス本来の研究の高みが十分反映しているということはできない。この間の不破氏によるこうした一連の研究の上に,いよいよマルクスの草稿を活用した新しい『資本論』像の提示が試みられる。それが,この本の何よりの特色です。
すでに示された『エンゲルスと「資本論」』の内容からは,第3部における信用論と地代論の少なくない補足が予想され,また『マルクスと「資本論」』は,第2部での再生産論の補正の必要を示しましたが,その成果はすでにこの本の第4・5冊に盛り込まれています。第1部には,直接にはそのような大きな補正はありません。しかし,たとえば商品論の解説で,商品流通における恐慌の可能性を「商品世界論のもっとも重要な」「結論」と位置づけるあたりには,すでに再生産論・恐慌論の補足による新しい『資本論』像から逆算した第1部の「読み」が現れているのかも知れません。早く,その全体像を目の前におきたいものだと思います。
この本の第二の特徴は,『資本論』の全構成をつらぬく「発生論的方法」への強いこだわりにあり,そのこだわりによって『資本論』の理論内容への理解を具体的に深めているところにあります。一方で『資本論』を篇や章ごとに輪切りにしてしまう断片的な読み方を避け,他方で抽象から具体へと進む理詰めの展開方法を抽象的にだけではなく,あくまで『資本論』の内容に即して語る。これを全3部を通じて余さず行う本は,他に見当たりません。
『資本論』はバラバラに切り離して読まれた篇や章への理解を順にならべるだけではわかりません。それでは篇や章の重なりのなかでの,理論の育ちが読めないからです。たとえば,第4篇「相対的剰余価値の生産」で行われる協業,マニュファクチュア,機械制大工業の生産力分析が,第7篇では新たに「独自の資本主義的生産様式」の発展という角度から豊富化され,また同じ第4篇での「結合された全体労働者」の発生と発展(それによる「類的能力」の発展)の分析が,第7篇のいわゆる「否定の否定」の論理のなかでは,生産手段の社会的所有の主体という新しい役割を獲得していく。これらの重要な理論内容の意義を,不破氏はそれぞれの概念が篇や章の個々の枠組みを越えて,『資本論』体系全体のなかにどのように貫かれ,どのように豊かに成長するかという角度から明らかにします。先の2ケ所は方法へのこだわりが,具体的な内容への理解を新たに深めることの良い実例になっていると思います。
第三の特徴は,『資本論』を「普通の意味での『経済理論』」に痩せ細らせることなく,弁証法,史的唯物論,社会主義論など,その多面性・全一性のままにとらえきろうとする点です。資本主義を歴史的にとらえる視角の有無は,マルクスと古典派との「経済学の中身」を違わせる重要な要因となりました。たとえばマルクスは価値法則を,社会的労働を各部門に分配する「自然法則」の商品経済社会における歴史的現れととらえます。それは,剰余価値論や恐慌論とのかかわりといった資本主義経済理論の内部だけに,狭く閉じ込められたものではないのです。また,この本は資本主義の内部に社会主義の条件がどう準備されるかという問題に,ひとつの焦点を定めていますが,それは「肯定の中に否定がつらぬく」という『資本論』の弁証法を,やはり具体的な資本主義解明の論理に即して明らかにするものとなっています。
他にも,『資本論』の個々の読み方に学ばされるところは多々あります。宿命論的な貧困化法則の否定や,労賃と労働力価値との関係の指摘も刺激的です。読者のみなさんには,こうした数々の画期的な意義にも思いを及ぼしながら,「わかやりすさ」を楽しんでほしいと思います。お互い最後まで,しっかり学びましょう。
川上則道『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』
--新しい思索への課題を投げかける--
神戸女学院大学・石川康宏
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この本は『資本論』の基本理論から,現代の重要な課題の解明に挑戦したものです。読みやすい文章ですが,大変に意欲的な内容となっています。
第1章は「構造改革」を合理化する中谷巌氏の『痛快! 経済学』から,ミクロ経済学の基礎である需要・供給曲線を批判したものです。マルクスの市場経済論や,社会進歩と市場の関係もコンパクトに示されます。
第2章では「規制緩和」に「経済の民主的規制」を正面から対置することの戦略的な意義が説かれ,それによる改革の具体的な意義と効果が労働時間の短縮を例に明らかにされます。第1・2章はつながりが深く,特に平易に書かれた部分です。
第3章では,国民所得を労働価値説の立場からどうとらえるかが,刑部泰伸氏との討論という形で展開されます。国民所得は価値であり,価値は生産物から労働量を引き離さずにとらえるべきである。その見解にいたる経過が示され,両氏の意見の相違もまとめられます。
第4章も,為替レートに関する著者の論文をあらためて解説するというユニークな文章です。円を過去との対比で高い安いというだけでなく,その瞬間,瞬間に高低の評価をさせる基準として「貿易購買力平価」があるという見地が,各種統計をつかって示されています。
サービス労働を論じた第5章は,労働者教育の現場で出された質問をきっかけとしています。マルクスの価値概念の説明から,価値を生まないサービス労働が物的な生産であるかのように現象するところまで,ていねいに手順を踏んだ解説がされます。マルクスの再生産表式に,サービス部門を加えた新たな表式も示されています。
全体をつうじて著者のこだわりは価値概念のより深く正確な理解にあり,それが最後にあらためて整理されています。新しい思索の課題を投げかける1冊といえるでしょう。
不破哲三『「資本論」全3部を読む』第4~7冊
--浮かび上がった驚きの『資本論』像--
神戸女学院大学・石川康宏
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全3部に渡る合理的な読み方の探求
第1~3冊についての書評(本誌4月号)では,この本の特徴を次の3つにまとめておきました。1つはマルクス本来の到達点を盛りこんだ新しい『資本論』像の提起,2つは全体を1つのまとまりとして読むことへの強い姿勢,3つは経済学にとどまらない科学的社会主義理論への多面的な注目です。
第4~7冊を読み終えて,新しい『資本論』像の提起が,予想をはるかに上回る大きなスケールで展開されたことに驚かされています。『資本論』全3部は,もちろんエンゲルスの努力なしにはありません。エンゲルスはマルクスの文字どおりの共同研究者であり,マルクス亡き後には,その遺志を次いで『資本論』第2・3部を編集・出版した人物です。しかし,その最良のマルクス理解者であるエンゲルスでさえ,限られた時間に完全な編集を行なうことはできませんでした。その結果,出版された『資本論』には,マルクスの草稿により補われねばならない空白もあれば,編集の不手際による余計な重複もあり,さらにマルクス自身が誤りをおかした議論や,その誤りをエンゲルスが増幅してしまった箇所も残されることになりました。
著者はこの本で,マルクス自身の成果によって過不足を正し,正された『資本論』が示す新しい理論の高みを確認しながら,あわせてマルクスが解決に至らなかった諸問題についても,率直な指摘をしています。それはマルクスと『資本論』を歴史の中で読み,その当否の1つ1つを「科学の目」で確かめる,『資本論』のいわば合理的な読み方を徹底的に探求したものです。こうした作業を『資本論』全編に渡って行なう仕事は,この7冊がはじめてでしょう。以下,いくつかの論点を紹介しておきます。
恐慌論の補足で「雷鳴」を轟かせる第2部
第2部では,なんといっても恐慌論の補足が中心です。『マルクスと「資本論」』で論じられた研究成果が,あらためて第2部の展開にそくして論じられます。
ここで著者は,エンゲルスには,全3部にしめる第2部の位置づけが正確にはとらえられなかったと指摘します。それは,第2部を紹介するエンゲルス自身の言葉と,マルクスの第2部第1草稿をエンゲルスが第2部の編集にまったく活用しなかった事実に象徴されています。第2部の全体的なプランをふくんだ第1草稿によれば,恐慌論の中心的な解明は第2部で行われることになっています。しかし,現行の第2部に,そのようなまとまった解明はありません。
そこで,著者はマルクスの本意にもとづく第2部の再現を試みます。まず第1篇を,第1草稿の「流通過程の短縮」論で補強します。これは,特に恐慌の直前に生じる投資の過熱(バブル)を説明する,恐慌の「運動論」の基礎部分です。現行の第2部には「短縮」という言葉はあっても,その理論的な意味を解明した文章はありません。
さらに,最もまとまった補足が行われるのは第3篇です。第1草稿のプランには,現行第2部にはどこにもない「再生産過程の攪乱」が含まれていたからです。第2部第3篇は,拡大再生産が円滑に進行するための条件を探り当てたところで終わっています。しかし,マルクスの構想は,その円滑な進行の条件がいかにして崩れ,再生産がどのようにして破局に至らずにおれなくなるのかという「攪乱」の問題,すなわち恐慌の発生についての本格的な解明がつづくものになっていました。
著者はこれを,恐慌の可能性,恐慌の根拠・原因,恐慌の運動という3つの柱にまとめ,マルクスの草稿類から,それぞれに具体的な理論の内容を与えています。可能性を現実性に転化させる「動因」となる「生産と消費の矛盾」の解明では,その動態的な理解の点で,エンゲルスに的確さの欠けるところがあるという指摘もなされています。また,この矛盾が累進的に不均衡を拡大していく恐慌の具体的な発現過程(運動論)については,「流通過程の短縮」論がフルに活用されています。
このように恐慌論を内に組み込んだ第2部は,もはやエンゲルスがゾルゲへの手紙で語った「大きな当てはずれ」などではありません。マルクスは資本主義が未来社会に移行していく必然性を,恐慌のうちに読み取り,その解明を「経済学批判」の核心としていました。その肝心要の問題が,この第2部を本格的な舞台として行われる以上,それは第3部を待たずして巨大な「雷鳴」を轟かせずにおれないものだったのです。著者による新しい第2部像の提示は,こうして『資本論』全3部の構成の理解にも大きな変更を迫るものとなっています。
なお,第2部第3篇の拡大再生産論については,この箇所の読み方の問題がありました。ここでエンゲルスは,マルクスが問題を正しく解明した文章以外に,本来入れる必要のないマルクスの模索と失敗の文章を盛り込んでしまったのです。著者はこの混乱を見事に交通整理し,読む者がここでその跡に迷い込むことのない読み方を示しています。また「貨幣資本の遊離」にかんするマルクスの誤りを増幅させてしまったエンゲルスは,そこで信用論と再生産論とのかかわりについてのマルクスの問題意識をとらえることができずにいます。これもまた,エンゲルスが十分にマルクスの思いを理解できないままに,第2部の編集を行なったことの1つの証左となっています。
現象の世界を内面から説明しつくす第3部
第3部では,そもそもこの部の課題は何かが問題です。それは第1部・生産過程と第2部・流通過程の統一あるいは矛盾の展開などではありません。それは,すでに第2部で達成された課題であるからです。
第3部を「資本主義的生産の総過程」と名付けたのはエンゲルスで,もともとマルクスが与えた表題は「総過程の諸姿容」でした。著者は,そのマルクスのタイトルの重大な意味に注目します。「姿容」とは目に見えるままの姿かたちということです。「総過程の諸姿容」とは,すでに解明された生産と流通の内的論理が,資本家たちの「日常の意識」に現われた,その「表面」的な観念のことです。
内的本質は,そのままの姿で現象の世界に現われはしません。もしそうであれば,現象を分析する科学の必要はなくなってしまいます。そこで,現象から本質を探るにとどまらず,逆に,本質から現象を説明しつくす――つまり第1・2部が解明した資本主義の内面世界が,どうして内面の姿とは違う,ある「表面」の姿をとって現われ出ずにおれないのか――その問題の解明が第3部の課題とされるわけです。著者はこれをマルクスの「発生論的方法」が典型的に現われたところだと強調しています。
さらに,ここで重要なのは,本質を正確には反映しない「表面」世界の資本家的観念が,それにもかかわらず物質的な力となり,現実経済を動かしているという事実の分析です。価値の支配する市場経済から,生産価格の支配する市場経済への転化は,その「観念」を推進力として行なわれました。
可変資本と不変資本の区別をもたない資本家たちは,剰余価値を前貸総資本が生み出す「利潤」ととらえ,剰余価値率ではなく「利潤率」を高めることを資本家としての直接的な課題とします。それは「利潤」の源泉を正確にはとらえない,非科学的な歪んだ観念です。しかし,その観念が資本家全体の行動を律し,平均利潤を形成させる運動をつくり,結果として,平均利潤を含む生産価格を市場に成立させていくのです。
利潤論につづく商業利潤や利子や地代の議論も,生産価格を前提として成り立つ世界の問題であり,全3部の最終篇となる第7篇は,現象世界をはいまわる俗流経済学の「三位一体」論が資本家的観念の写しにすぎないことを暴露しています。現象の必然性の解明をつうじた内的本質の確証こそが,第3部全体の課題となっているわけです。
他方で,第3部の編集にも問題がないわけではありません。特に,草稿のなかで最も完成度の低かった信用論には,特別に深いメスが入ります。エンゲルスは,マルクスによる本文と準備材料を区別せず,これを混在させることで,今の読みにくい信用論をつくってしまいました。著者は,これをマルクス本来の考察にそって整理します。また,議会報告書などからの莫大な抜粋については,あくまで材料の無秩序な集成であり,ここから理論的に意味あるものをつくろうとすること自体が無理であったと結論します。ここは読み手には格別にお手上げ感の強いところですから,この道案内は大変にありがたいものです。なお,恐慌にかかわる文章にふれて,著者はここの書き換えには編集の枠をこえた「邪道」があると,厳しい言葉でエンゲルスを批判しています。
つづく地代論は,資本主義的地代の解明と土地所有論の人類史的展開という2つの魂をもつマルクスの研究から,前者だけが取り込まれて出来たものです。エンゲルスは,マルクスが地代論を書き換えたならロシアが主な舞台になると予測しましたが,著者はこれを2つの魂の十分な区別にもとづく見解ではないと論じています。
さらに,第3部がはらむ弱点と研究上の課題について,著者は,まず利潤率の傾向的低下が,資本主義の歴史的に一時的な性格を表わすという見解に異議をとなえます。また差額地代については,差額地代の第Ⅱ形態は第Ⅰ形態が追加的投資のもとでどのような運動をするかという問題であり,第Ⅱ形態自体を独立させることに無理があると指摘します。これらはいずれも,マルクスの到達点そのものへの著者の批判的な検討となっています。
改革者の深い「教養」の土台として
1995年に連載が開始された『エンゲルスと「資本論」』で,著者は「今後の『資本論』研究」への「期待」として,エンゲルスによる『資本論』編集の追体験,マルクスの経済学ノートの研究,1870年代の新しいプラン問題の解明をあげました。『マルクスと「資本論」』をへて,今回の『「資本論」全3部を読む』に結実した成果は,何より著者自身がこの「期待」にこたえる努力を率先して行なってきたことを示しています。それが,この本の講義の中でも,「ここの理解は定説と違う」「不破流なのだ」と繰り返し語ることの深い裏付けになっています。
もちろん著者は現行『資本論』の問題点ばかりに目をむけるわけではありません。経済学はもとより,唯物論,弁証法,認識論,史的唯物論,未来社会論など,たくさんの宝の山に深い注目を寄せ,そこに新たな光をあて,新しい発見を見て取っています。著者が,やさしい語りに込めた多くの新たな解明を吟味することは,並大抵の仕事ではありません。
本書が,よりマシな社会づくりを考え,これを語ろうとする人たちの深い「教養」の地盤を形成するものとして,ますます多くの読者に歓迎されることを心より期待したいと思います。
新刊紹介「三砂ちづる著『オニババ化する女たち』--女性の身体性を取り戻す」
神戸女学院大学・石川康宏
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ジェンダーの概念については,フェミニストやジェンダー研究者の中にも多くの解釈がある。とはいえ,男女の肉体的な自然的側面の相違をセックスといい,歴史的に形成される男女の社会的地位の相違や配置をジェンダーという,このような説明が最大公約数としては許されているようである。
こうして男女の関わりを考えたとき,その関係の主体である個人は女であれ男であれ,いずれも自然と社会の総合からなる。だから,たとえば人は「健やかに生きる」ことを考えるとき,多くが心身の健康や肉体の機能――広くは自然環境とのかかわりもふくめて――と,自分をとりまく人間関係――家族・学校・職場・政治など――という2つの問題を視野にいれる。そして「家族関係のまずさで健康を害する」「心身を鍛えてストレスの多い人間関係を乗り越える」という具合に,両者の関わりにも日常的に知恵を及ぼしている。
このように考えるなら,生きた男女の関係をとらえる学問が,女や男の肉体やその歴史的な変化,また肉体についてもその大小や構造だけではなく,構造が果たしうる機能,さらには可能な機能を現実に発揮させる肉体制御の能力等を,研究の対象として自覚するのは当然のこととなろう。
私は「女性の身体性」を論ずる三砂ちづる氏の『オニババ化する女たち』を,このセックスとジェンダーの関連を問わせる材料,視角をふくむものとして興味深く読んだ。本書の構成はこうなっている。第1章・身体の知恵はどこへいってしまったのか,第2章・月経を「やり過ごして」よいのか,第3章・出産によって取り戻す身体性,第4章・女性はなぜオニババになるのか,第5章・世代をつなぐ楽しみを生きる。
著者の専門は疫学であり,辞書を引くとこれは「疾病・事故・健康状態について,地域・職域などの多数集団を対象とし,その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問」と説明されている。ただし,わずか数世代前の女性たちに月経血の排泄を意識的にコントロールする力があり,あるいは現代世界における性や性行為の地域的・文化的な相違は大きく,また当人の身体能力の発揮を抑止する医療や生活の問題点など,話題の多くは特別な知識を持たずとも,楽しく読むことのできるものである。
月経・性経験・出産がもつ肉体への影響を軽視すれば女は「総オニババ化」するとか,子宮口にも心がある,子宮を空き屋にしてはいけない等,表現のいくつかには無用な摩擦のタネもあるように思う。また「セクシャルな関係を核にした,知恵の伝承機構」といった家族のとらえ方には,その一面性を突く文字通りジェンダー視角からの批判が可能であろう。しかし,本書の読み手が主として心がけるべきは,社会と身体との相互関係を歴史の中で,あらためて総合的にとらえようとする問題意識の立ち上げではないか。私はそう思いながら,この本を読んだ。
フェミニズムから多くの恩恵をこうむってきたと繰り返す著者は,女がみな子どもを産むべきだと短絡しているわけでない。「望む人はパートナーが持て,性生活があって,結果として子どもができたら子どもを産めて,ということは,人間として生きていく上でとても大切なこと」(p.155)だといい,それを望まない,あるいは行わない場合には「身体」をめぐるリスクがありうることを正しく理解して欲しいというだけである。リスクの有無や内容,程度については,より実証的で具体的な究明を,著者だけでなく多くの研究者に期待したい。
(光文社新書,2004年,253頁,本体価格720円+税)
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