2005年6月13日(月)……京都のみなさんへ。
以下は,京都学習協の現代経済学ゼミナール第1回(5月15日)で配布した文章です。
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〔2005年第4回京都現代経済学ゼミナール〕
ジェンダーを読む(第1回)
――日本型企業社会と財界の女性・家族管理――
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔講師のつぶやき〕
さて第4回の今年の現代経済学ゼミナールは「ジェンダー」論をテーマとします。「できあがったもの」よりも,むしろ「できあがらせたいもの」を毎年この講座の課題にかかげてきました。今年は,例年以上の自転車操業ぶりが予測されますが,よろしくおつきあいください。
なお,これまでに私が書いてきたジェンダー関連の論文類には,次のものがあります(執筆年代順)。ほとんどが,私のホームページに全文掲載されていますので,ご覧ください。今日の講義でも,あちこちからの抜粋をつかっていきます。
1)論文「主婦とはどういう存在なのか」「仕事にまつわるジェンダー・ギャップ」,コラム「労務管理のジェンダー分析」(森永康子・神戸女学院大学ジェンダー研究会編『はじめてのジェンダー・スタディーズ』北大路書房,85-99ページ,127-141ページ,144-146ページ,03年2月10日)-→論文2本は若干書き換えて著書5)に収録
2)論文「マルクス主義とフェミニズム--フェミニズムの問題提起を受けとめて」,関西唯物論研究会『唯物論と現代』第31号,34-50ページ,2003年5月30日-→若干書き換えて著書5)に収録
3)学習論文「財界による家事と女性の管理戦略」,新日本婦人の会『月刊・女性&運動』2004年3月号(通巻259号),12-16ページ,2004年3月1日-→一部を著書5)に収録
4)論説「ジェンダーを考える--家庭の役割をふくめて搾取解明したマルクス」,日本共産党「しんぶん赤旗」2004年7月13日付
5)著書『現代を探究する経済学』,新日本出版社,2004年7月15日刊,全245ページ(第2部・ジェンダー論を考える第1章・企業社会のジェンダー・ギャップ 第2章・主婦とはどういう存在なのか 第3章・マルクス主義とフェミニズム 第4章・女性の「家庭責任」と財界の思惑)
6)学習論文「『男女平等』は労働運動の戦略課題--財界は家庭をどう管理しているか」,日本国家公務員労働組合連合会『国公労調査時報』2004年9月号(第501号),14-22ページ,2004年9月15日
7)石川康宏ゼミナール編『ハルモニからの宿題--日本軍「慰安婦」問題を考える』,冬弓舎,2005年3月15日刊,全252ページ
8)新刊紹介「三砂ちづる著『オニババ化する女たち--女性の身体性を取り戻す」,神戸女学院大学女性学インスティチュート『女性学評論』2005年3月(第19号),211-212ページ,2005年3月31日
9)学習論文「女性の地位向上にまるで反する財界の戦略--家庭・労働・生活・憲法--」,新日本婦人の会『月刊・女性&運動』2005年4月号(通巻272号),16-19ページ,2005年4月1日
今日の講義の流れについては,あらかた以下のように考えています。大雑把なメドとしてご理解ください。なお,次回からは,みなさんからの質問にこたえる時間をもうけたいと思います。
1)「講師のつぶやき」――今年の講座全体の案内(1時30分~2時20分)
◇「講師のつぶやき」
◇「よびかけ文――主婦と専業主婦はどういう関係?」
◇「全7回の見取り図」。
2)「日本型企業社会と財界の女性・家族管理」(2時30分~4時20分)
◇このテーマに関する上記論文を活用して
3)質問と意見の交換,質問・感想文を書く時間(4時30分~5時00分)
〔今日の講義の材料〕
1)〔よびかけ文〕「資本主義と専業主婦はどういう関係?――「科学の目」で家事労働をながめてみれば――」
〈今年はジェンダー問題です〉
今年もこの講座の「よびかけ文」を書く時期になりました。2002年度に始めた現代経済学の講座は「『構造改革』とは何なのか」という問題意識にこだわり,日本経済の仕組みに焦点をあてつづけてきました。その一定の成果は,『現代を探究する経済学』(新日本出版社,2004年)や,共著『軍事大国化と「構造改革」』(学習の友社,2004年)に書くことができました。
さて,第4回の今回は,初めて「ジェンダー問題」をとりあげます。新しい課題への挑戦です。例によって,うまくいく保障はどこにもありません。きっと毎回がいつものように,綱渡り的な自転車操業となるのでしょう。とはいえ,そういう講義は楽しいのです。準備のたびに,みなさんに語るたびに,自分の中でなにか新しい発見があるからです。熟したものにはなりませんが,問題意識が鋭くあらわれたものにはなるのでしょう。
〈専業主婦の搾取はあるのか〉
講義のテーマには,「ちょっと手をつけて,途中で放り出してある」。そういう自覚のあるものを,思い切って全部ならべてみました。たとえば第1~3講は,じつは理論的には「搾取論」に深くかかわります。ただし,仕事をしていない専業主婦の搾取論です。たいていの経済学のテキストは,搾取をモノづくり労働者からの「剰余労働の取得」によって説明します。しかし,搾取はそれだけではありません。モノをつくらない商業や金融部門の労働者の搾取が,『資本論』の第3部には出てきます。つまり「搾取はどれも同じもの」ではないのです。だからマルクスは,搾取を「他人の労働の成果の搾り取り」といった,かなり広い意味でつかっています。
では,専業主婦はどうでしょう。主婦は労働の成果を誰かに「搾り取られて」はいないでしょうか。「お手伝いさん」やベビーシッターが労働で,クリーニングや調理が労働なら,家事も立派な労働ではないか。これについては疑問の余地がありません。どれだけ上手かの違いはあっても,使用価値の面から見れば,それは質的にはまったく同じ労働です。でも,それだけではないのです。価値の面から見ても,家事労働はなかなかに面白い。
〈生産関係のなかの専業主婦〉
1)家事労働は,男性(夫)労働者の日々の労働力を生産し,未来の労働者である子どもを育てる(労働力の再生産)労働としての意味をもっています。「家事は家族への無償の愛だ」といっても,「家事は女に対する男の支配だ」といっても,どっちをとっても家事によって回復された夫の体力が,明日には資本に吸い取られていくということは同じです。この意味で,家事労働は,その意味をどう自覚したとしても,日々の労資関係を成り立たせるのに,決して欠かすことのできないものとなっています。
2)「しかし,家事労働は資本に雇われた労働ではないではないか」。そのとおりです。夫の職場と妻のあいだに,法的な雇用関係はありません。しかし,肝心なのは形式ではなく実態です。マルクスは資本家が労働者に支払う賃金には「家族の生活費」がふくまれていると分析しました。その理由は簡単です。資本主義が世代をこえてつづいているのは,労働力の生産と再生産が行われているからであり,それを保障する家事労働もまた日々賃金によって再生されているからです。明快ですね。
〈毎日の生活や歴史の事実を入り口に〉
さて,話をはじめにもどしてみましょう。このように,1)労資関係の再生産に深く組みこまれ,2)資本による支払い――ただし,とても安いですが――を受けている専業主婦の労働は,資本家たちに「搾り取られている」労働ではないといえるでしょうか。これが,第1~3講が投げかける問題の核心です。もちろん,このように資本による主婦の搾取をいうのは,「だから,男による女の支配はどうでもいい」というためなどではありません。そこは第4講以降の重要課題となっていきます。
どうです。なかなか面白そうですね(自画自賛)。では,詳しい話は講座でどうぞ。講義のなかでは,このような理論問題ばかりでなく,毎日の生活や歴史の事実をとりあげ,そこから問題を考えるようにしていきます。いっしょに楽しく学びましょう。男性の方,大歓迎です(念のため)。
2)〔講座のスケジュール〕2004年度現代経済学講座の「講師のつぶやき(第7回)」より
「……「構造改革」批判を深める,「帝国主義」にまつわる問題を深めるといった問題もあるのですが,来年は,思い切って,初めて「ジェンダー」問題で講座をやってみようかと思っています。「ジェンダー」というのは,歴史的に形成され変化していく,男女の社会的な関係のことです。
生産関係に歴史的な変化があり,家族に歴史的な変化があるように,男女の社会的な関係にもいろいろな変化があります。たとえば,生産のなかで男女の配置・分業は歴史的にどのように変化してきたのか,家族のなかでの男女の役割分担は歴史的にどのように変化してきたのか,社会的・法的な権利の男女格差はあったのかなかったのか,あればどのようなものだったのか,それらの歴史的変化に対応したどのようなイデオロギーがあったのか等々。
「フェミニズム」とよばれる学問と運動の流れがあり,大学のなかでももはや「女性学」や「ジェンダー論」の講義があるのは珍しいことではありません。それは「男女の平等」を求める運動や,個々人の願いと結びついて,すでに広く「市民権」を獲得している用語です。最近,東京都が教育現場で「ジェンダー・フリー」といった言葉をつかうなという「指導」を行ったことが問題になっていますが,裏をかえすと,この用語はそれほどまでにひろがり,定着してもいるということです。
女性の「解放」や「男女平等」については,職場のなかの差別との闘いや,社会保障制度の拡充の取り組みなど,私たちの身近な労働運動は先進的な成果を残しています。しかし,それらを「現代社会」についての,いわば総括的な理論としてまとめることは行われていないように思います。「ジェンダー」問題については,科学的社会主義の方法論にもとづく「これが到達点」といえるような,はっきりとした研究はないように思うのです。そうであるだけに,そこに理論・学習活動の手を及ぼすことは,実践的にも大変に重要な課題になっていると思います。
このような状況ですから,講座の内容は,例によって「試論」的なものとならずにおれません。いままで以上の「試論中の試論」ということになるかも知れませんが,思い切って風呂敷をひろげてみれば,いまのところ,次のような構成が可能ではないかと思っています。
第1回日本型企業社会と財界の女性・家族管理
第2回 資本主義の形成と専業主婦
第3回 『資本論』と「家族賃金思想」
第4回 「ジェンダー」研究が見つめるもの
第5回 日本史のなかの女と男
第6回 日本軍「慰安婦」問題と現代
第7回 史的唯物論と「ジェンダー」
〈第1回・日本型企業社会と財界の女性・家族管理〉
現代日本の企業社会が,男女双方全労働力(企業内で支出される労働力と家庭で支出される労働力)の全体をどのように管理し,搾取しようとしているかを問題にします。つまり,労資関係を「男労働者」と「女労働者」の区別をつけてとらえると,また職場の「男労働者」と主婦の「家事労働」の関係を問うと,いったい何が見えてくるのかを問題にします。問題提起的な導入編です。
〈第2回・資本主義の形成と専業主婦〉
従来,科学的社会主義の方法論に立つ資本主義研究は,専業主婦の分析にまで視野をひろげることが少なかったと思います。生産の集中と巨大化が,それまでの「家」に性格の変化をもたらし,職場としての「公的」性格を失った純粋に「私的」な領域としての「家庭」をはじめて生みます。この資本主義の形成によってはじめて,「私的な家庭」の管理者としての専業主婦は誕生します。専業主婦の誕生・拡大・減少の歴史を考えます。
〈第3回・『資本論』と「家族賃金思想」〉
男性労働者に「家族の食える賃金」を求めることと,「賃金の男女平等」を求めることは,はたして両立するものでしょうか。一部のフェミニストからは,『資本論』は男性労働者に「家族賃金」を求めた男性中心主義の経済学だという批判があります。しかし,マルクスはそんなことをいってはいません。では,マルクスが賃金に「家族の生活費」をふくめたのはなぜだったのか。『資本論』がすでに明らかにしているジェンダー視角を探ってみます。
〈第4回・「ジェンダー」研究が見つめるもの〉
「ジェンダー」研究は,問題を「労働」の領域にとどめません。私も共著者の1人となったある本は,「男らしさ/女らしさ」「母性神話」「セクシュアリティ」「性暴力」など,生きた女性の「困難」にかかわるあらゆる問題を幅広くとらえようとしています。そこで論じられていることがらを,科学的社会主義の人間論・社会論はどのように学び,また批判することができるのでしょうか。「開かれた学問」という性質をフルにいかして考えます。
〈第5回・日本史のなかの女と男〉
「世界史的敗北」は,女性をただちに社会的生産から切り離すものではありませんでした。一部の支配層を除けば,高い強制的課税(搾取)に苦しむ一般庶民は,男も女も子どもも年寄りも,力をあわせて働かざるを得ませんでした。「女工哀史」の繊維産業は,なぜ「女工」だったのか。中世の商業・金融業者にはなぜ女性の姿が多いのか。日本史研究のさまざまな成果に学んでみます。
〈第6回・日本軍「慰安婦」問題と現代〉
日本軍「慰安婦」問題には,性暴力,公娼制,民族差別,非人間的な軍隊のあり方など,多くの問題がからみあっています。被害女性は,日本政府に誠実な謝罪と個人補償を求めています。これをいまだに解決できない日本の政治には,「ちかん」「DV」「セクハラ」「性差別」「風俗」に鈍感な日本社会全体の意識が反映されてはいないでしょうか。「男女平等」にかかわる社会的意識の成熟という角度から,現代の日本を考えてみます。
〈第7回・史的唯物論と「ジェンダー」〉
おしまいです。とりわけ大風呂敷を大きくひろげて,「史的唯物論」と書いておきます。「史的唯物論」は人間社会の構造と発展の全体をとらえる学問です。「ジェンダー」研究の断片的な成果は,この全体的な学問にどのような問題提起をするものでしょうか。いまはどのような見通しももてずにいますが,それまでに自分なりの認識の前進があることに期待し,ここにこのテーマをあげておきます。バクチです。
3)「ジェンダー」という用語をめぐる問題について――学習論文「女性の地位向上にまるで反する財界の戦略--家庭・労働・生活・憲法--」より
「たとえば「ジェンダー」という概念ですが,この言葉をつかう人の多くは,社会構築主義という独特の認識論をもっています。そのことの重要さに,今頃になって気付かされているありさまです。こまかい話はひかえますが,この用語をどういう意味でつかうのかについては,唯物論の見地からの具体的な解明をかさねる必要があると思います。それには日本と世界における家族や男女関係の歴史を良く知らねばなりません。また『資本論』はじめマルクス等の研究に,これを考えるどれだけのヒントがあるのかも,キチンと整理する必要があるでしょう」。
※「社会構築主義」は,客観的現実の認識は無理とする不可知論や相対主義,多くの人の認識さえ変えれば実際の社会関係は変わるとする主観主義を含む。そのような誤りを払拭した唯物論的な「ジェンダー」概念を示すことが必要。
4)ジェンダー問題への接近のきっかけ――学習論文「『男女平等』は労働運動の戦略課題--財界は家庭をどう管理しているか」より
「私は最初から男性と女性の社会関係を視野に入れて研究をしてきたわけではありません。きっかけは幾つかあるのですが、95年の震災の年に女子大に就職しました。そうすると女性がこれから社会に出ていくということを念頭して経済学をしゃべらないといけないという課題につき当たったわけです。
幾つかの経験のなかで、1つ、深刻だと思わされたのは--私のゼミを卒業していく学生たちはほぼ 100%就職していくんですが--その就職活動のなかで、また、就職してからも差別を体験するわけです。セクハラで職場を追われたという卒業生もいます。こうなると、企業社会における男女の問題を語らないわけにいかなくなるわけです。そこから、男性と女性の社会関係の問題を考えざるを得なくなりました。
2つ目に、経済学の世界で学者の内部からも、女性学者からのある種、告発的な問題提起がありました。それは従来、労働者階級や労働者についての分析という場合に、多くのそれは男性労働者に実際上限定されてはいなかったかという問題提起です。労働者階級の本体は男性であって、女性労働者は特殊な周辺的な部分であるという位置づけ方が学者の間でも長くされてきたのではなかったか。こういう反省が90年代初頭に行われたのです」。
「うちの大学には,マルクスの『資本論』などをベースにして研究している人は、私の他には1人もいないんですが、同僚の女性たち(=フェミニストたち)とは、「自衛隊のイラク派兵反対」「自己責任論はおかしい」など、日常の政治課題ではかなり意見が一致します。ところが、女性の解放という大きなテーマになると、彼女らのマルクスやエンゲルスに対する評価は非常に辛いんです。誤解の側面もあるんですが、もう一方では、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』が、100年の時代を経て社会環境がこれだけ変わったなかでおうむ返しされているという、われわれの側の知的怠慢という問題もあるのではないかと思わされました」。
5)論文「企業社会のジェンダーギャップ」(『現代を探究する経済学』より)〔別紙〕
6)日本型企業社会と財界の女性・家族管理(1)――学習論文「財界による家事と女性の管理戦略」より
〈「主婦」の誕生から大衆化まで〉
……主婦が一般家庭にひろがるのは,戦後のことです。おもな推進力は,1955年からの高度成長でした。農業の機械化が農村に過剰な労働力をうみ,都市の労働力不足がこれを吸収します。中卒・高卒の子どもたちが,大挙して都市の工場・企業につとめていく「集団就職」の始まりです。何世代もが同居する農村の「大家族」はへり,都市に「核家族」が増えていきます。若い女性も,都市へと移動しました。
しかし,それにもかかわらず,はたらく女性を専業主婦が上まわります。専業主婦比率がもっとも高くなるのは75年で,そこに向かって比率は一直線に上昇します。主婦の大衆化の進行です。高度成長は,労働者の生活にも一定の改善をもたらしました。大企業の男性サラリーマンに「妻を養う」経済力がうまれてきます。一方,企業は女性を「若年定年」に追い込みました。結婚・出産だけでなく,25才や30才での制度としての定年制がありました。こうなると,すでに農家に帰ることのできない女性たちは,経済力のある男性と結婚して,専業主婦になる他ありません。
こうして増えた専業主婦は,戦前のような大きなお屋敷にくらす「奥様」ではありません。しかし,小さな団地であっても「妻の待つ家庭」「夫を家で待つくらし」は,人々の上昇志向を満たします。専業主婦比率が高かったアメリカのホームドラマの影響もあり,「妻をはたらかせない」ことが夫の力のあかしとされ,「女の人生は夫の給料(勤め先)しだい」と語られていきます。年に一度も化粧をしない農村のはたらく母に育てられた若い主婦は,それらしい化粧,ファッション,身のこなしを,主婦向け雑誌で学んでいきました。
〈「男は仕事,女は家庭」の財界戦略〉
ところで,ここに,考えておくべき問題があります。差別的な低賃金ではたらかせている女性を,大企業・財界はどうして「若年定年」に追い込むのか。なぜ,最後の最後まで低賃金ではたらかせきらないのか,という問題です。たとえば60年の賃金格差は,男性100に対して,女性はわずか42.8です。この女性を企業から排除することの不思議を解決するカギは,家庭の役割にありました。たとえば高度成長まっただなかの65年,子どもたちを従順・有能・安上がりな労働力に育てようとした中教審の答申「期待される人間像」は,あわせて「愛の場としての家庭」を強調します。また,同じ時期,財界側から財界研究を行った三鬼陽之助は『女房タブー集』で「亭主は戦場たる職場で全力で闘い,女房は,その戦士たる亭主に使え,かつ家を守る」と力説します。こうした本は,女性たちによっても書かれました。そこには,戦前型の古い家庭観もあったでしょうが,それ以上に重要なのは,その経済的な意味合いです。
財界は,まず搾取の主軸に男性をすえました。男性は,長時間・過密・深夜・休日労働に耐えうる体力をもち,さらに生休や産休がいらない「安上がり」な労働力とみなされたのです。そして財界は,これを24時間型の企業戦士,エコノミック・アニマルに育てあげようとしました。しかし,そうなれば,男性たちには「家のこと」「子どものこと」を考えるゆとりはなくなってしまいます。その結果,男性労働者が不健康になってしまえば,財界・企業も困ります。また将来の労働力である子どもが育たなくなるのも困ったことです。そこで,押し進められたのが,専業主婦の大衆化です。男性労働力の毎日の再生と,健康な子どもの育成,この2つを核心とする「家事」をもっぱら女性におしつけ,それによって労働者階級全体への最大限の搾取を追求する。こういう脈絡で,財界は自分たちの望みにふさわしく,労働者家庭の性別役割分業をつくっていったのです。戦後初の女性労働力戦略である「経済発展における人的能力開発の課題と女性」(63年,経済審議会)が,女性の低賃金活用をいいながら,あくまで家事・育児こそが女の仕事であるとクギをさすのは,そのためです。
〈高度成長の終わりと「過労死の男女平等」〉
新しい転換は,高度成長の終わりとともにやってきます。74・75年には当時「戦後最大」といわれた不況が起こり,男性賃金の右肩上がりがストップします。女性収入の必要が高まり,専業主婦比率は75年をさかいに,ついに低下を始めます。ここから「男は仕事,女は家庭」という典型的な「近代家族」は変化をはじめ,「男は仕事と残業,女は家庭とパート」と,男女ともに生活の大変さが増していくことになります。80年代年には専業主婦より,はたらく女性が多くなっていきます。
同時に,この時期は「戦後第二の反動攻勢」の時期でもあります。全国に革新自治体を生み出した国民の闘いに対する,政財界からの巻き返しが行われます。春闘つぶしが本格化し,労働戦線の右寄り再編が進みます。「低成長時代」に応じたリストラが開始され,労働時間の延長が行われます。政治の舞台では,社会党が革新の旗を投げ捨てました。さらに増加する女性労働者には,「母性保護」縮小の攻撃がかけられ,「育児・介護は女の仕事」という「日本型福祉社会」論が叫ばれていきます。その結果,80年代には,「過労死」,子どもの家庭内暴力,高齢者の自殺など,新しい「社会病理」が注目をあびるようになっていきます。90年代には,アメリカのグローバリゼーション戦略を震源地とする,労働法制の改悪も進みます。こうして「女性の自立」「生活の豊かさ」につながるはずだった女性労働のひろがりは,なかなか本来の力を発揮することができていません。
財界は,今日,女性の役割をどう位置づけているのか。それをわかりやすく示したのが,「雇用機会均等法」と引き換えの「女性保護」規程の撤廃です。そこには,日本の標準的な労働をあくまで世界最悪の「過労死」レベルにおきたいという,財界の強い決意があらわれました。これを標準とすれば,男女の平等は「過労死の男女平等」にしかなりません。結果的に,これは,かえって女性を職場の基幹職から遠ざける力となりました。そして,それがイヤなら,「短時間」不安定雇用で,安く無権利にはたらけ。これが財界の方針の基本線だと思います。男女平等の要求に形式的に譲歩しながら,その中でどのようにして実質的格差を継続し,労働者家庭全体に対する支配を維持していくか,そこに財界の関心は集中しています。「男女共同参画」のかけ声にもかかわらず,政治は,労働時間短縮や「女性保護」の復活,社会保障の充実など,本当に「ゆたかな平等」に必要な政策には,まるで反しています。決定権の平等としての「共同参画」を,実りのある社会づくりにつなげるためには,政財界と労働者・勤労者家庭との対立をしっかり見すえ,政治や経済を国民本位に転換していく闘いの知恵と力が不可欠です。
7)日本型企業社会と財界の女性・家族管理(2)特に75年以後――学習論文「財界による家事と女性の管理戦略」より
「(3)戦後の経済発展と女性-労働と家事に焦点をあてて
……〈憲法による明治民法の否定と「主婦の大衆化」〉
……それが戦後になって、憲法ができて男女は平等だといわれるようになります。この瞬間、女性たちは一斉に社会へ、職場へ進出します。ところが、それを上回る比率で専業主婦が増えていきます。いわゆる専業主婦の大衆化です。特別なお金持ちではない、「サラリーマン奥様」の登場です。専業主婦比率がもっとも高くなったのは、1975年です。
どうしてそんな現象が起こったのかというと、農村から都市への人口移動があったからです。政財界は、高度経済成長のためにその労働力の移動を意識的に行いました。これだけだと女性の労働力比率は高まるはずですが、ここに問題が起こるのです。若年定年制という女性特有の定年制度です。今日では信じられないことですが、女性だけの25歳定年制、30歳定年制というのが就業規則に明記されて存在していたんです。男は55歳や60歳くらいまでなのですが、女は違うのです。中学を出て15歳で都市へきて、早ければ25歳で定年です。その後どうやって食うんだとなれば、「田舎に帰る」以外は、結婚して、夫の給料で暮らすしかないわけです。
夫の給料にも、一定の変化がありました。経済成長のなかで、とくに大企業の正規職員は給料が右肩上がりです。妻を家に置おくことのできる経済的ゆとりが生まれてくるわけです。ある社会学者によれば、さらに主婦のいる家庭に対するあこがれもあったそうです。家に妻がいるのは戦前のお金もちの象徴です。そこで「そういう家庭をついにオレも持つことができる」「ワタシもついに『奥様』になれる」というようなあこがれです。これが大企業労働者の中に生まれてきます。「妻を家に置いておくのは男の甲斐性だ」ということも言われだします。こういういくつかの条件が重なって、「男は仕事、女は家庭」型のいわゆる近代家族が、戦後の日本にはどんどん増えてくるわけです。
1945年から52年まで日本を占領し、その後も支配的な影響をあたえたアメリカ文化の影響もありました。まだ専業主婦比率の高かったアメリカのホームドラマが、「洋風の家でケーキを焼いて子どもと夫の帰りをまつ妻」へのあこがれをひろげます。新しく大量に発生した主婦たちは、「主婦らしい身だしなみ」を、大量に創刊された主婦雑誌から学んでいきます。
〈低賃金にもかかわらず女性を「家庭にかえす」〉
さて、ここで重大なのは、1960年で男性賃金を 100とすると女性は42.8という低賃金にもかかわらず、財界はなぜ女性を最後まで使い切らないで、若年定年制に追い込んだのかという問題です。そこには、「亭主は戦場たる職場で全力でたたかい、女房はその戦士たる亭主に仕えかつ家を守る」という考え方がありました。この手の世論操作が、60年代には大量に行われます。1965年の「中教審答申」でも、子どもたちに「期待される人間像」という一方で、わざわざ「愛の場としての家庭」を強調しています。一体このとき財界は、どのような労働力政策を考えていたのか。恐らく、かなり意図的に女性は職場から排除されています。
その目的は、男性企業戦士の確保なんです。日本の財界は、搾取しがいのある労働力は何といっても男だと、まずここにターゲットをしぼります。平均的に見れば男のほうが丈夫です。夜遅くまで働かせることができるし、生理休暇も産前産後休暇も必要がない。男は安上がりな長時間労働の提供者として選ばれたのです。
ところが、男たちを職場のなかでフルに働かせた場合にどういう問題が起こってくるか。朝早く起きて職場に行って、フラフラになるまで働いて、夜遅く家に帰って、バッタリと倒れて眠るとなるわけです。しかし、会社はそういう従順で、よくがんばる労働力には、明日も元気で来てもらわねばならない。そうでなければ、思い切った搾取ができない。そこで、この労働力としての男たちのメンテナンスをする人間が必要になるわけです。これが「サラリーマン主婦」の役割です。
「メシ,風呂,寝る」にこたえてやり、あわせて将来の労働力である子どもたちの世話もする。年寄りの介護も一手にひきうける。そういう主婦を家庭に送り込むことによって、男労働者たちを職場に24時間釘付けにするという作戦をとったわけです。当時「内助の功」という言葉がありましたが、それは、直接には夫のためですが、社会的には経営者のためでもあったわけです。
〈75年を転機に「はたらく女性」が多数派に〉
ところが1975年をピークにして専業主婦比率は低下をはじめ、80年代半ばには働く女性が成人女性の多数派になります。この変化は一体どうして起こったのか。
1つは、高度経済成長が終わったということです。19年連続の高度成長のなかで、労働者階級の生活にもかなりの改善がありました。その改善がいつまでもつづくことを前提にした消費計画がつくられました。長期のローンを組んで家を買うなどです。ところが高度成長が終わり、夫の給料の右肩上がりにブレーキがかかり、70年代半ばからはリストラが強化される。さらに社会保障の切り捨てが始まり、学費の高騰がすすんでいく。そこで家庭生活がもたくなって、女性たちはどんどん職場に出ていきます。これが専業主婦比率低下の直接のきっかけです。あわせて、その直前に、ウーマンリブがあり、「専業主婦でいいのか」と、女性たちの生きかたが問われもしました。そうやって女性は一方で生活のために、他方で自分の経済的・精神的な自立のために、職場に出ていくことになりました。
そうすると1980年代から困ったことが起こってきました。いわゆる「家庭のきずなの崩壊」です。出てきたのは、1つは家庭から姿を消した男たちの過労死です。高度成長が終わり、リストラが始まると同時に、男の労働時間が伸びていく。それから子どもたちの荒れの問題、熟年離婚、高齢者の自殺が出てくる。小さな子どもがたった1人で食事をとる「孤食」という現象も出てきます。これは、長すぎる労働時間や子育て・高齢者福祉のまずしさなど、男女双方がはたらくために必要な社会的条件がととのっていないことが大きな原因でした。しかし、政財界は「女が家にもどるべきだ」と,責任を女性たちになすりつけました。
〈「男女平等」への闘いの前進と政財界の対抗戦略〉
それでも女性の職場進出はすすみます。さらに、男女平等へのたたかいも進みます。今日の男女共同参画社会というスローガンもそのなかから出てくるわけです。ただし、日本の政府は正面から男女平等の条件整備をしているようには見えません。男女雇用機会均等法と同時に、労働基準法などの女性保護規程を撤廃し、「過労死の男女平等」を推進したのは典型です。
今日の政財界の男女労働力政策は、1つには異常な企業戦士基準の労働時間を大前提にするというものです。だから時短はしない。男並みにやれる女だけがフルタイマーで働けという方向です。「強い女は企業戦士なれ」ということです。その結果、政府資料でも総合職の女性比率は3%しかなくなっています。むしろ総合職に占める女性比率は下がっています。
卒業生にも民間の総合職に入っていく人がいます。しかし、体がもたず、早ければ数ヵ月、長くても数年で辞める人が多いです。一番印象的だったのは、クロスカントリーの選手で秋田の国体にも参加したという"つわもの"が、自動車関係の総合職に就きながら、5月には早くも退職を考え出したという例です。「辞めてもいいと思いますか」と家に電話がかかってきました。「夜2時ごろまでチームで仕事をして、私は女だから12時に帰されるけど、体はもうボロボロです。男の人たちは2時までやっており、その人たちに申しわけなく、また体力的にももたない」と。
たくさんの男たちが「過労死」するような条件で、女も同じようにやれといってもできるわけがないです。この世界一の長時間労働を野放しにしているかぎり、職場における男女平等はあり得ません。
2つ目ですが、「この企業戦士基準に耐えられないものは一般職へ行け」となるわけです。一般職へ行くと、総合職に比べて給料は抑え込まれます。そうなると男女の賃金格差はなくなりません。女性の経済的自立は困難です。3つ目に、さらにそれ以外の女は不安定雇用(パート、派遣、臨時、バイト)にまわれというわけです。そして、4つ目に失業して、職につくことのできない女たちには--これは男も同じですが--「自助努力で生活しろ」となるわけです。本当に踏んだりけったりです。そして、5番目に、こうまで女性労働力を好き勝手につかいながら、最後に、財界は家庭責任はあくまで女性に取らせようとしています。
政財界は「個人単位化」ということばだけで、なにか男女の平等が実現されるような幻想をふりまいていますが、このような労働条件を放置し、子育てや介護といった社会保障をまとめにつくらないなら、男と女を同じように「個人単位化」しても、誰も食ってはいけません。憲法25条にある、すべての国民の生存権を国家が保障する。そういう社会的な連帯の土台がキチンとあってこそ、人間は各人の個性や能力を、互いに競い合いながらでも健全に育てていくことができるのです」。
8)補足「財界」とは何か――学習論文「『財界』とは何か(第1回・国内における支配の中心勢力,第2回・日本をどこにみちびくのか,第3回・国民が主人公の政治に向けて),日本民主青年同盟『民主青年新聞』2005年2月28日,3月7日,3月14日付
〔だれが中心にいるのか〕
では財界の具体的な姿を見ていきましょう。財界総本山と呼ばれ日本財界の中心に立つ日本経団連(日本経済団体連合会),特に調査・研究活動に特色がある経済同友会,日本各地のいわゆる地方財界をたばねている日商(日本商工会議所),この3つがマスコミでも財界3団体と呼ばれている,日本を代表する財界組織です。
その中でも中核的な地位をしめる日本経団連をとりあげてみます。「会員数は1623社・団体等にのぼり、外資系企業91社を含むわが国の代表的な企業1306社、製造業やサービス業等の主要な業種別全国団体129団体、地方別経済団体47団体などから構成されています(2004年5月27日現在)」)。これがホームページの最初の自己紹介です。
文中の「業種別全国団体」というのは,日本自動車工業会や日本鉄鋼連盟といった同業者たちでつくる業界組織のことです。「地方別経済団体」というのは東京や大阪など都道府県別の企業経営者組織ということです。ただし,この1623の企業や団体には,たとえばトヨタ自動車と吉本興行のように,もっている力や社会的影響力に相当格差のある企業が含まれています。ここに加盟するすべての企業・団体をどれも同列に扱うというわけにはいきません。
では,その中心中の中心部分はどういう企業が担っているのか。役員リストから,会長1名・副会長15名の名前と出身企業を確認してみましょう。まず会長は奥田碩氏でトヨタ自動車会長です。トヨタは日本で最大の利益をあげつづける企業であり,世界でも有数の自動車会社です。以下,敬称略で副会長は,千速晃(新日本製鉄会長)・西室泰三(東芝会長)・吉野浩行(本田技研工業取締役相談役)・御手洗冨士夫(キャノン社長)・柴田昌治(日本ガイシ会長)・三木繁光(東京三菱銀行会長)・宮原賢次(住友商事会長)・庄山悦彦(日立製作所社長)・西岡喬(三菱重工業会長)・出井伸之(ソニー会長兼グループCEO)・武田國男(武田薬品工業会長)・和田紀夫(日本電信電話社長)・米倉弘昌(住友化学社長)・草刈隆郎(日本郵船会長)・勝俣恒久(東京電力社長)となっています。毎年,春の総会でこの役員には変動がありますが,最近は自動車と電気機械(エレクトロニクス)などの製造業多国籍企業が多くを占めています。また日本最大の軍需企業である三菱重工業も副会長に入っています。
〔自由に金もうけのできる社会をつくるために〕
次に,こうしたスーパー大企業が役員を握る日本経団連は何を目的とした組織なのか,それをホームページに探ってみましょう。「日本経団連の使命は、『民主導の活力ある経済社会』の実現に向け、個人や企業が充分に活力を発揮できる自由・公正・透明な市場経済体制を確立し、わが国経済ならびに世界経済の発展を促進することにあります」。小泉首相がいつも語っているような文章です。最近の政府が「民主導」というと,すぐに社会保障の改悪や大企業・金持ち減税,リストラやり放題,国民生活の安全や安定を無視した規制緩和などが思いつきます。こうして,大企業たちに自由に金儲けのできる経済社会をつくることが日本経団連の目的だというのです。
つづいてホームページはこう書いています。「このため、日本経団連は、経済・産業分野から社会労働分野まで、経済界が直面する内外の広範な重要課題について、経済界の意見をとりまとめ、着実かつ迅速な実現を働きかけています」。ここにいう「経済界の意見」とは,すでに見たような一握りの大企業の意見であり,その柱は「民主導の活力ある経済社会」をめざすということでした。ただし,この文章には大きなごまかしが一つあります。そうした「意見」の「着実かつ迅速な実現」を,日本経団連はいったい誰に「働きかけて」いるのか。その肝心の問題がきちんと書かれていないのです。さすがに自分で書けば,あまりに露骨ということでしょうか。しかし,実際の活動を見れば,それが財界の要望を汲む政治家や政党,政府等であることは明白です。
9)日本型企業社会と財界の女性・家族管理(3)特にグローバリゼーションとのかかわりで――学習論文「女性の地位向上にまるで反する財界の戦略--家庭・労働・生活・憲法--」
「●まず女性だけに「家庭責任」を集中させるというのが,戦後一貫した財界の戦略になっています。それが,エコノミック・アニマルと呼ばれる男性企業戦士を生み出す重要な条件となったことは,前回述べたとおりです。男は仕事に専念し,女は男(夫)と次世代の労働者である子どもの育成に専念させられます。パートなど短時間の労働をする場合にも,「労働力の生産と再生産」は女の家事労働にまかされたわけです。
しかし,70年代に入ると「高度成長」から「低成長」への経済の大きな転換が起こります。男性賃金の頭打ちの開始です。これに「女性の自立」という考え方の変化が重なり,80年代には女性の職場進出が進みます。しかし財界は企業社会のフルタイマーによる標準労働を,あくまで男性企業戦士の過酷な長時間過密労働にあわせていました。その結果,女性の中の専業主婦比率は低まりますが,多くは経済的に自立できない「企業内の補助的労働」と,帰りの遅い夫には期待のできない「家事労働」との板挟みとなるわけです。86年には雇用機会均等法が施行されます。しかし,フルタイマーの労働時間は短縮されず,家事の軽減につながる子育て・介護の公的保障も充実しません。そのため「企業内の補助的労働+家事労働」という多くの女性の人生に,大きな変化は生まれませんでした。
●さらに99年からの均等法改正は,女子保護規定の撤廃と抱き合わせで行われました。当時の総務庁長官・武藤嘉文氏は「(撤廃への)要望は,日経連とか経済同友会,日本自動車工業会など産業団体が中心だった」とのべています。平等をいうなら男並みにはたらけという「過労死の平等」の追求です。この時,女性の一部にも「男の保護をうけるのはいやだ」といって財界の主張に合流する議論が生まれました。そこは,きちんと総括しておく必要があります。男女の区別や関係を無視し,男性同士の労資関係だけで社会をとらえることは誤りですが,他方で,労資関係――もう少しいえば階級的な支配関係を見ずに男女関係だけで社会をとらえることも誤りです。
こうして戦後の歴史をザッとふりかえっただけでも,企業や家庭における男女平等が,性差別の意識や制度との闘いと同時に,男女双方の労働時間短縮と社会保障の充実を不可欠としていることは明白です。女子保護規定撤廃への賛成論は,特に労働時間短縮の重要性をとらえそこなうものでした。
〈2,アメリカによる労働条件破壊の戦略も〉
――平等を追求しているつもりでも,社会のとらえ方が浅いと,逆の結果を招くことがあるということですね。
●社会科学は実践の指針です。その学問による裏づけが浅ければ,善意が思わぬ結果を招くこともあるわけです。
さて,そのうえで,90年代半ばからの労働条件の破壊については,アメリカからの力が大きな役割を果たしました。この問題については,前回ふれることができませんでした。フルタイマーの大規模なリストラや「成果主義」賃金の導入,その一方でのパート・派遣・臨時・バイトなど不安定雇用層の急増はこの時期からのことです。これは誰にも止めることのできない「自然現象」などではありません。アメリカ財界の号令に,日本財界がとびついた結果の「人災」なのです。今日の財界による対女性労働力戦略も,基本的にはこの延長線上にあるものです。
総額人件費の削減と労働力流動化という,労働者とその家族にとっての二大害悪を直接によびかけたのは,日経連(当時)の「新時代の『日本的経営』」でした。この文書が出されたのは95年です。なぜ95年だったのか。ヒントは直前のサミット(先進国首脳会議)にありました。93年東京,94年ナポリ,95年ハリファックス。この3度のサミットで,先の二大害悪の国際合意がつくられていたのです。中心にたったのはアメリカでした。
●91年のソ連崩壊以後,アメリカは軍事的には「国連を活用するが,国連の合意に縛られない」,経済的にはアメリカの大企業・大銀行をいっそう世界各地に押し出していくという「経済・軍事グローバリゼーション戦略」をとりました。その一環として,先進各国の労働条件の破壊がもくろまれたのです。
たとえばテレビを見ているとアリコのコマーシャルがものすごく目につきます。あれはアメリカ有数の生命保険会社ですが,日本に進出すれば,当然日本の労働者を雇います。そのときに,日本人労働者の権利が弱く,彼らをどうにでも安使いすることができるようになっていれば,それだけアリコはもうけを大きくすることができるわけです。新生銀行も,アメリカン・ホームダイレクトも,アフラックも同じです。そして,このアメリカ側の提案に「そうなれば私たちももうかります」とばかりに,日本の財界がとびつきました。そうしてつくられたのが「新時代の『日本的経営』」であり,それ以後の政財界あげての労働法制改悪の路線です。この10年間の急速な労働条件の破壊については,このようにアメリカの経済戦略に対する日本政財界の従属と協調という角度からもとらえる必要があるのです。
●この点について,もうひとつ大切なのは,サミットの合意にもかかわらず,ヨーロッパでは労働条件の破壊がアメリカの思うようには進まなかった事実です。ヨーロッパも日本と同じく大企業中心の社会です。しかし,日本ほどに大企業やり放題がひどい社会ではありません。
労働条件の破壊はヨーロッパの財界にとっても嬉しいことであるわけですが,それを許さない社会の力がヨーロッパにはありました。労働運動や市民運動の力であり,それらと一緒にスクラムを組む政治家や政党の力などです。ヨーロッパなみの「ルールある資本主義」をつくろうというスローガンの実現には,財界に対する労働者(市民)家族の力関係での前進が必要です。そして,その力関係の変化は,アメリカの要請に対しても是々非々で対応するという当たり前の政治を日本につくる一歩にもなるでしょう。
〈3,女性の負担を重くしていく財界戦略〉
――日本経団連の最新の文書では,どのように書かれていますか?
●今日のテーマにそっていうなら,第一に,労働時間の短縮については,何の提案もありません。世界最長の労働時間がフルタイマーから家庭をかえりみるゆとりを奪っているわけですが,この現状の改善については何の提案もないということです。それだけではなく,労働条件全般についてほとんど何の言及もありません。つまり,これは何らかの検討が必要な「基本問題」などではないということです。今のままの路線でいいということでしょう。
第二に,社会保障の問題ですが,これはますます抑制の方向です。財政の改革にかかわって「歳出改革における最重要課題は社会保障制度改革である」と述べ,文書は「『自助・自立・自己責任』を社会保障の原則」とするとさえいっています。これでは子育てや介護など女性が背負わされている家事労働の負担は,ますます重くなるばかりです。「少子化対策」という言葉は出てきますが,結果的に待機児童を増やしている現在の政治に対する批判はどこにもありません。
第三に,男女平等の推進についても,文字通りただのひとこともありません。これもまた財界にとっての「基本問題」ではないということです。もっとも,フルタイマーから女性を締め出す長時間労働を放置し,子育てや介護をもっぱら女性に押しつけるこの文書の基本姿勢からすれば,男女平等への道はどこからも出て来ようがないのですが。
第四に,さらなる労働者(市民)家族いじめの策として,「消費税拡充による歳入の確保」がいわれています。無駄な公共事業や軍事費の削減にはひとこともふれず,また大企業の税金については「引き上げの余地はない」と断定し,そのうえで「2007年度頃までに10%程度にまで引き上げ,そのあとも段階的に引き上げ」ていくとしているのです。これではもう踏んだりけったりです。
全体として,これが女性の社会的地位の改善にも,老若男女をあわせた一般市民の経済生活の向上にも,まるで反していることは明白です。こうした方針の実施にストップをかける,労働者・市民の力が急いで形成されねばなりません。
10)現状をどう改革していくのか――学習論文「『男女平等』は労働運動の戦略課題--財界は家庭をどう管理しているか」より
「(4)よりマシな社会をめざして-問題提起
〈たたかいの大きな方向〉
課題のひとつは、職場と家庭の両方を視野に入れて労資関係をとらえることです。職場だけでとらえてはいけないということです。男であれ女であれ、職場で搾取される労働力は家庭で再生されるんです。財界の労働者家族支配の政策とたたかう必要がある。そこから労働者と主婦の連携もうまれるし、はたらく女性と主婦との闘いの連携もうまれてきます。「家族」の全員が財界の家族政策とたたかう必要がある。具体的な課題としては、一つ重要なのは男女共通の労働時間の短縮です。短縮しないと男女同じようには絶対に働けない。2つ目に、男女ともに自立できる賃金を、社会保障の拡充をといった柱があります。
他方で、運動の側からすれば「男女差別は女問題」といった非科学的な思い込みをやめ、実は女性の社会的地位が男性労働者の労働と生活に深刻な影響をあたえていることをしっかり学ぶことが必要です。一昔前だと、家庭を犠牲にすることを当然視するような、「滅私奉公」方の運動家もいました。そういう資本に都合のよい思想も乗り越えていく必要があります。
ドイツの労働時間がいまの年1500時間にまでたどり着く過程でつくられた有名なスローガンは、「夕方のパパはボクのもの」です。大きな炭鉱労働者が頭にヘルメットをかぶってポスターに写っている。肩の上にちょこんと子どもが乗っかって、お父さんにしがみついてる。2人とも笑っています。これが労働運動のポスターなのです。「ゆたかな家庭づくり」「ゆたかな夫婦関係の条件づくり」「子育ての条件づくり」、それが正面から掲げられているのです。そういう豊かな家庭生活は人間の権利であり、その権利をせばめる経営者たちとは、労働者家族がみんなでたたかうという姿勢です。その労働運動の視野や質によく学ぶことが必要です。
〈必要な研究の発展を組織する〉
男性と女性の社会的関係について勉強してみると、スウェーデンなど北欧の「福祉国家」は日本とは比べものにならない。すばらしく充実している。労働時間は短く、保育所は5時ぐらいに閉まりますが、お父さんやお母さんのどちらかは、5時に保育所に迎えに行けます。労働者のほとんどがセカンドハウスを持っています。年次有給休暇は5週間で、これはほぼ 100%の消化率です。
日本の女性には、若いときに就職して、結婚や出産で職場をはなれ、子どもが自立するとパートで復活し、年をとって仕事をやめる。こういういわゆるM字型雇用の人が多いです。ところがスウェーデンは逆U字型です。結婚・出産で女性は職場をはなれません。子育てや介護のための「社会政策」が充実しているからです。そして、男女とも労働時間が短いからです。
実は、スウェーデン女性の本格的な職場進出は1960年代で、日本とあまり変わらない。高度成長で労働力不足が起こって女性は職場に進出します。その瞬間、スウェーデンの人たちは子育てをどうするか、介護をどうするかと考えて、公的な力、社会の連帯の力で子どもを育てる、高齢者の介護もするとなっていった。それをつくり上げた国民の高い能力に学ぶ必要があると思います。
たとえば北欧では労働運動はどうなっているのか、女性たちの団体はどういうふうにたたかっているのか。そういう課題を労働運動自身がかかげて、これへの協力を学者たちに求めていく。そういう積極的に研究運動を組織する力量が労働運動には問われています。
〈「独習」を組織活動の第一の課題に〉
いかにして、豊かな社会をつくる、教養豊かな国民をつくり上げていくのか、これにも正面からの挑戦が必要です。市民的教養のレベルを引き上げていく運動です。これに労働運動が本格的に取り組むためには、何より労働運動のメンバー自身が勉強せねばなりません。知的輝きが必要です。
その点で懸念されるのは、各種の運動団体における「独習の風化」とでもいったような傾向です。学習会には一定の参加があっても、毎日自分で本を読んで学ぶ習慣がすたれているように見えるのです。しかし、忙しさを理由に労働者が賢さを失えば、それは世の中を変える力を失うということです。それは、結局自分の首を絞めることになるわけです。小さな子どもが毎日6時間も勉強しているのに、「世界の平和」を語る大人が、たった1時間も勉強していない。それでは日本が変わるわけがないのです。いかにして日本中のすべての運動家、組合員が毎日1時間の独習をする状況をつくり上げていくかということです。なによりも知性を鍛え、知的な輝きを武器にして世の中を変えていく。そういう運動のスタイルに習熟する必要があると思います。「男女共同参画」はその重要なテーマのひとつです。みなさん方の運動の発展に期待しています」。
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