2005年4月30日(土)……みなさんへ。
以下は,大阪AALAのミニコミ紙のために,4月16日に書いた文章です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
学生「9条の会」の取り組みに学んで
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〈しぼられてきた改憲の焦点〉
政財界による改憲の動きは,いずれも第9条第2項と第96条を焦点としているようです。第96条は「改正条項」です。その背後には,男女平等から生存権の問題まで,国民の権利を全面的に縮小していく改憲案があるわけですが,一足飛びにそこに行くのではなく,まず入り口は小さくしておこうという策謀です。
第9条第1項には,さすがに手がつけられません。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(第1項)。ここは否定しようがないわけです。
しかし,政財界はこれの「解釈」をゆがめていきます。「第1項は侵略戦争を放棄しただけで,国際貢献を放棄したわけではない」。そして第2項を書き換えて,自衛隊を「軍」として認め,「集団的自衛権」の行使を認めていく。そうすれば「集団的自衛」や「国際貢献」のための武力行使は,第1項に抵触しないで行えるようになるというわけです。
〈学生「9条の会」が立ち上がる〉
さて,今日ご紹介したいのは,私の大学で学生たちが取り組んでいる「9条の会」の活動です。時間の経過にそって紹介します。
2005年1月11日・18日の授業で,私は政財界の改憲動向と「9条の会」の活動を紹介しました。これを聞いた彼女たちは「9条は大事じゃないか」「もっと学ぶ場が必要」と友達同士で話し合います。1月25日に行われた2年生ゼミの打ち上げの際に,「私たちでも9条の会はつくれますか」と彼女たちはたずね,私は,すぐに「できるよ」と答えたそうです(じつはこの居酒屋での話を私はまるで記憶していません)。
2月2日,2年生たった2人を出発点に,彼女たちは真っ先に「神戸女学院大学9条の会」のホームページをつくります(「神戸女学院大学9条の会」)。そして,このページのURL(住所)をメールで,あっというまにたくさんの友人たちに知らせます。これで「9条の会」は,立派な学内デビューを果たしたわけです。「協力してください」という連絡メールは,もちろん私のところにもやってきました。
そう日を置かずに,ホームページがどんどん育っていきます。全国のたくさんの「9条の会」と相互にリンクをはり,掲示板では立命館大学のメンバーと「どういう本を読んだからいいか」といった話し合いもしていきます。会のメンバーは全員フルネームをホームページに公開しており,その数は,ゆっくりですが確実にふえていきます。
〈内外にネットワークをひろげる取り組みへ〉
2月の末には,ホームページが,兵庫県の「ピース・フェスタ」(3月20日の神戸での集会)実行委員会の目にとまります。この実行委員会への参加の案内がメールで届き,学生たちは戸惑いながらも参加します。そして,あっという間に,3月20日の本番です。「フェスタ」に行ってみると,彼女たちは「神戸女学院大学9条の会」という小さな看板をつけたテントのなかで,すでに1つのブースをまかされていました。たくさんの人たちに声をかけてもらい,また,その日,自分たちであつめた署名も175人分に達したそうです。この取り組みについては,『民主青年新聞』(4月25日付)が1・2面をつかって紹介しています。
4月に入ると,さらに,学内での輪をひろげる活動をすすめます。手描きのポスター(キャラクターは「9ちゃん」)をあちこちの先生の研究室に貼らせてもらいます。手描きのビラも配っています。昼休みなどに,平和や憲法に関するビデオを見る会も,繰り返しています。メンバーの数は4月22日現在で計14名(活動メンバー5名,賛同者9名)となっています。掲示板には学外の催しものの案内もたくさん入り,彼女たちはそこで知らされた学習会にも参加しています。
また最近は「うちの職場(組合)の憲法集会でぜひ発言をしてほしい」といった要請も入ってきています。
〈たった2人のホームページづくりから〉
短期間でのこうした取り組みの発展を目の当たりにして,教訓的だと思うことの1つは,ホームページを根城として運動を立ち上げるという,そのやり方の問題です。
組織を立ち上げるとき,私たちは往々にして,事前にメンバーを確保し,発足集会の場を用意し,それを案内するためのビラをつくり,集会での講師を用意してと,たいへんな事前準備をイメージします。しかし,彼女たちの取り組みは,まるでそうではありません。たった2人からの出発なのです。それも,出発点はホームページだけです。それでも,インターネットをうまくつかえば,組織の立ち上げをまわりに知らせることはできるし,まわりの注目を集めることもできるようになっています。インターネットの利用が,日常生活の一部となっている世代のやり方です。
私の大学には,まだ教職員の「9条の会」がありません。じつは私は,学生たちとまるで同じこのやり方で,「会」を立ち上げてみようかと思っています。私たちの世代にも,それは通用するのかという「実験」です。面白そうです。
それにしても,ほんの数人からのスタートで良く,しかも発足集会なども不要である。そう思っただけで,組織の立ち上げのハードルは実に低くなり,気分はぐっと軽くなります。もちろん,立ち上げのあとには,手や足や口をつかって動き回ることも必要ですが,それでも「できるだけインターネットをうまく活用する」ということは,どこでも意識されて良いことでしょう。
〈閉鎖性がどこにもない〉
もう1つ思うところは,取り組みの「透明性」の問題です。誰がやっているのか,何を目的にしているのか,何を話し合っているのか,どういう組織と連絡をとっているのか,学生たちは,これら全部をホームページに公開しています。ですから「あなたはメンバーじゃないから,教えてあげない」といった「閉鎖的」な空気は,まったくどこにもありません。組織の内と外の垣根がとても低くなっているのです。
また「会」の中にも,「活動メンバー」と「賛同者」という二重の仕組みがつくられており,「賛同者」の人には,あれこれしないと「いけない」というしばりがひとつもありません。ですから「会」にかかわることが,とても気楽にできるのです。「賛同者」の主たる役割は,ホームページで自分の名前を公表する。あとは気がむいたときに,学習会に参加したり,取り組みに協力すればいいわけです。
若い世代が組織の閉鎖性をきらうということは,長く語られてきたことですが,ここには,それを乗り越える取り組みのひとつの実例がある気がします。もちろん「どんな組織でも,どんな取り組みでもこれができる」ということではありませんが,しかし,「どんな組織もできるだけ考慮すべき」問題ではあると思います。
〈市民の力を大いに語る〉
最後に「会」の発足や発展をよびかける講師の側の問題です。彼女たちが立ち上がるきっかけとなった私の授業は,改憲策動の危険な内容を紹介するとともに,これをはねかえす取り組みの力を歴史にそって語っていました。古くは全面講和か単独講和かといった戦後日本の国際社会への復帰をめぐる問題,明文改憲のたくらみを打ち砕いた60年安保の激烈な取り組み,そして,この瞬間の「9条の会」の取り組みなどです。
状況の危険性を伝えることは大切ですが,危機感や悲壮感を原動力とした取り組みでは,本当の力は出てきません。それでは取り組みの展望が見えず,展望の実現にむけた意欲が引き出されはしないからです。状況は危険だが,これをはねかえすだけの力が日本の市民にあり,すでにその力が大きく育ち始めている。その事実を,生き生きとリアルに語るからこそ「それなら私もできる」「そこに私も加わりたい」という前向きな行動が生まれてきます。そこの大切さをあらためて確認させられました。
学習会の講師などでは,1)改憲案の内容をリアルに語る,2)憲法の条文をしっかり学ぶ,それにくわえて,3)各地での取り組みを具体的に大いに紹介していくことが,必要だろうと思うのです。
「憲法どおりの日本をつくる」という国民過半数の合意を楽しく展望しながら,私もこの大きな取り組みに加わりつづけたいと思っています。
2005年4月4日(月)……京都のみなさんへ。
以下は,京都学習協での2005年度現代経済学講座の「呼びかけ文」です。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
資本主義と専業主婦はどういう関係?
――「科学の目」で家事労働をながめてみれば――
〈今年はジェンダー問題です〉
今年もこの講座の「よびかけ文」を書く時期になりました。2002年度に始めた現代経済学の講座は「『構造改革』とは何なのか」という問題意識にこだわり,日本経済の仕組みに焦点をあてつづけてきました。その一定の成果は,『現代を探究する経済学』(新日本出版社,2004年)や,共著『軍事大国化と「構造改革」』(学習の友社,2004年)に書くことができました。
さて,第4回の今回は,初めて「ジェンダー問題」をとりあげます。新しい課題への挑戦です。例によって,うまくいく保障はどこにもありません。きっと毎回がいつものように,綱渡り的な自転車操業となるのでしょう。とはいえ,そういう講義は楽しいのです。準備のたびに,みなさんに語るたびに,自分の中でなにか新しい発見があるからです。熟したものにはなりませんが,問題意識が鋭くあらわれたものにはなるのでしょう。
〈専業主婦の搾取はあるのか〉
講義のテーマには,「ちょっと手をつけて,途中で放り出してある」。そういう自覚のあるものを,思い切って全部ならべてみました。たとえば第1~3講は,じつは理論的には「搾取論」に深くかかわります。ただし,仕事をしていない専業主婦の搾取論です。たいていの経済学のテキストは,搾取をモノづくり労働者からの「剰余労働の取得」によって説明します。しかし,搾取はそれだけではありません。モノをつくらない商業や金融部門の労働者の搾取が,『資本論』の第3部には出てきます。つまり「搾取はどれも同じもの」ではないのです。だからマルクスは,搾取を「他人の労働の成果の搾り取り」といった,かなり広い意味でつかっています。
では,専業主婦はどうでしょう。主婦は労働の成果を誰かに「搾り取られて」はいないでしょうか。「お手伝いさん」やベビーシッターが労働で,クリーニングや調理が労働なら,家事も立派な労働ではないか。これについては疑問の余地がありません。どれだけ上手かの違いはあっても,使用価値の面から見れば,それは質的にはまったく同じ労働です。でも,それだけではないのです。価値の面から見ても,家事労働はなかなかに面白い。
〈生産関係のなかの専業主婦〉
1)家事労働は,男性(夫)労働者の日々の労働力を生産し,未来の労働者である子どもを育てる(労働力の再生産)労働としての意味をもっています。「家事は家族への無償の愛だ」といっても,「家事は女に対する男の支配だ」といっても,どっちをとっても家事によって回復された夫の体力が,明日には資本に吸い取られていくということは同じです。この意味で,家事労働は,その意味をどう自覚したとしても,日々の労資関係を成り立たせるのに,決して欠かすことのできないものとなっています。
2)「しかし,家事労働は資本に雇われた労働ではないではないか」。そのとおりです。夫の職場と妻のあいだに,法的な雇用関係はありません。しかし,肝心なのは形式ではなく実態です。マルクスは資本家が労働者に支払う賃金には「家族の生活費」がふくまれていると分析しました。その理由は簡単です。資本主義が世代をこえてつづいているのは,労働力の生産と再生産が行われているからであり,それを保障する家事労働もまた日々賃金によって再生されているからです。明快ですね。
〈毎日の生活や歴史の事実を入り口に〉
さて,話をはじめにもどしてみましょう。このように,1)労資関係の再生産に深く組みこまれ,2)資本による支払い――ただし,とても安いですが――を受けている専業主婦の労働は,資本家たちに「搾り取られている」労働ではないといえるでしょうか。これが,第1~3講が投げかける問題の核心です。もちろん,このように資本による主婦の搾取をいうのは,「だから,男による女の支配はどうでもいい」というためなどではありません。そこは第4講以降の重要課題となっていきます。
どうです。なかなか面白そうですね(自画自賛)。では,詳しい話は講座でどうぞ。講義のなかでは,このような理論問題ばかりでなく,毎日の生活や歴史の事実をとりあげ,そこから問題を考えるようにしていきます。いっしょに楽しく学びましょう。男性の方,大歓迎です(念のため)。
最近のコメント