2003年12月29日(月)……京都学習協のみなさんへ。
以下は,第2回現代経済学講座第8回講義(12月21日)に配布したレジュメです。
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京都第2回現代経済学講座
講師のつぶやき/質問と答え(第8回)
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔講師のつぶやき〕
京都学習協のような労働者教育運動をすすめる組織は全国各地にあるわけですが,それらの運動に共通して,1)社会科学の最新の転換に対応していく新しい努力,2)「独習の気風」を打ち立て,推進していくのに相応しい工夫,が求められているように思います。
社会科学の最新の転換については,たとえば最近の「帝国主義」の概念をめぐる新しい問題提起があります。レーニンの時代には,反戦・平和を願う世界の運動の力がまだまだ弱く,その結果「帝国主義」がその国と世界の全体を支配した。それに対して,大きな反戦・平和の力が育った今日では,「帝国主義」的支配の野望を,各国市民の力で押さえ込む可能性が広がっている。だから,今日では経済的土台が独占資本主義だからといって,自動的にその国を「帝国主義」と呼ぶことはしない。そういう提起です。
これに対して,そのような意見では,かつてレーニンが批判した「カウツキー主義」と同じになってしまい,資本主義・帝国主義を美化する議論になってしまう。そういう疑問も出されています。しかし,この疑問は,問題提起のそもそもを正確に受け取ることができていません。
先の問題提起には,今日の独占資本主義には「帝国主義」的な野望がなくなったとか,その衝動のない独占資本主義にかわってしまったという評価はどこにもありません。独占資本主義は対外的な経済・政治・軍事進出の野望をもちます。そこの評価はかわっていません。しかし,今日の時代には,その野望を封ずる各国市民の「社会的な力」が育っている。
そして,現に,その双方の力の激突の結果として,帝国主義的な政策をとることのできない独占資本主義国が生まれる可能性が広がっており,そうだから,ますます市民の力を強めて,「帝国主義」を封じていこう。それが今回の問題提起のあらましです。
レーニンに批判されたカウツキーも,帝国主義的性質をもたない独占資本主義について語りましたが,その理論の組み立ては,今回の問題提起とはまったく違っています。カウツキーには,「帝国主義」を封ずる市民の力は登場しません。カウツキーは独占資本主義それ自体が,自ら帝国主義的な政策をとらなくなる可能性があると主張したのです。これは完全な独占資本主義の美化論です。このカウツキーの議論と,今回の問題提起の理論的組立の違いは明瞭です。
ところで,考えておく必要があるのは,このような理解の混乱をともなうほどに,社会科学が急速で大胆な発展を遂げているという事実です。70年代のなかばに「マルクス・レーニン主義」という言葉の使用がやめられ,それ以後,マルクス・エンゲルス・レーニンといった「古典家」たちの理論的業績についても,いっそう大胆な評価が加えられるようになりました。この数年の新しい急速な理論展開は,この30年間の蓄積のひとつの集大成になっています。
そのように,理論活動とその成果が音をたてて前進する時代であるからこそ,労働者教育運動にも新しい理論展開に「遅れない」努力が,いままで以上に必要です。講師団での共同研究など,この時代に相応しい必要だろうと思います。
さらに,新しい理論展開に「遅れない」努力は,この社会の民主的改革をもとめるあらゆる個人にとっても必要です。その努力の基本は独習であり,労働運動や市民運動のなかに,「毎日1時間の独習」を当然の気風として打ち立てることは本当に切実な課題です。
この課題に応じて,労働者教育運動にも,労働学校や講座,ゼミナールの充実,各種学習会への講師派遣に加えて,さらに「独習」を励ます工夫がもとめられていると思います。
特に取り組みが遅れていると思うところの1つは,文献の紹介です。特に若い世代からは「何を読んだらいいのかわからない」「アメリカいいなりについて勉強するにはどんな本がいいか」といった質問が良く出てきます。それを知るための場がないのです。
京都学習協のホームページは,「学習日誌」を柱に,なかなかの充実をふかめています。たとえば,そこに「哲学の基本を学びたい人にはこの本がオススメ」「日本経済についてはこの本」といった,基本的な文献の紹介があり,さらにそっけない「文献一覧表」ではなく,「この本を読んでの私の感想は」といった読書についての肉声のページがある。そのように,工夫がいると思うのです。
私も自分のホームページでは,毎日の日記のなかでいろいろな本を紹介しています。しかし,それはどこにもまとまっていません。これを整理して,ページをのぞいてくれる人にまとめて眺めてもらう工夫がいるかと思っています。
〔質問と答え〕
質問①経済指標として、GNPからGDPに変わっているが、グローバル化との関係で簡単に背景を解説していただきたい。
●GNPが「国民総生産」,GDPが「国内総生産」です。GNPは「一国において一定期間に生産された財・サービスの総額」で,GDPは「国内で生産された財・サービスの総額」です。ほとんど変わりがないようですが,実は,両者には次のような等式であらわされる関係があります。「GDP=GNP-海外からの要素所得+海外への要素所得」。要素所得というのは,利子・配当・給与などのことです。
●かつては1国経済の規模はGNPで計られていました。しかし,GNPがいう「一国において」には,海外での生産や融資がもたらす要素所得が含まれています。そこで,企業の多国籍化(海外進出)が進み,その比率が大きくなってきた今日では,1国経済の本当の規模は,GNPでは計れなくなります。そこで,今では,日本経済の規模や毎年の成長率をはかる基準として,上の等式で示されるようなGDPがつかわれているわけです。この指標の変化は,資本の巨大化と,国際活動の広がりを反映したものです。
質問②経営コンサルタントの中には、「日本の現状が常態であると考えなければならない時に来ている」と説く者が出てきている。現状が大企業とアメリカのみに利するもので、労働者と中小零細企業の切り捨てであるという点以外の視点で切り返すポイントはあるのでしょうか。
●やはりポイントは「大企業・アメリカいいなり」か,「国民生活優先」かという2つの道をわけるほかにはないと思います。「現状が状態である」というのは,ようするに「現状は変えようがないものだから,現状(深刻な経済不況)に対応した,これに耐えられる生活をつくるしかない」とするものです。となると,これは「大企業・アメリカいいなり」という現在の経済政策路線を,そのまままっすぐに進もう,無駄な抵抗はやめようということでしかないように思います。
●必要なのは,そのように「あきらめ」をもって現状に対応しようとすることではなく,ポイントの転換によって,現実の経済政策を切り換えていくことだと思います。
質問③ ヨーロッパ経済を学ぶ必要性を痛感していますが良いテキストはありますでしょうか。
●いま注目のテーマのひとつですね。特に「ルールなき資本主義・日本」に比べると,いろいろなルールがすでにつくられている国ですから,確かにそこには,学ぶべきものがたくさんあると思います。
●「ヨーロッパ」といっても広いですし,その歴史もさまざまですから,いろんな本があると思いますが,とりあえず,入り口としては福島清彦『ヨーロッパ型資本主義』(講談社現代新書,2002年)がいいと思います。日本の改革の方向性については,少し意見の違うところがありますが,それでも,フランス,ドイツ,イギリスなどの現在の経済政策の実態はわかりやすく紹介されており,アメリカ型資本主義への批判的姿勢や,それに追随する小泉改革への批判も明快です。
質問④ 市議さんの選挙なんかだと「○○地域の○市のくらし。私たちが、住んでいる私たちが、考えていこう」という話をすると「そうやなあ」と考えはります。ところで、この度「私たちの住んでいる国を今よりもっと住みよい国にしようということですから…」ともうしましたら「えっ?」と言われました。私、変でしょうか。
●いえいえ,もちろんまるで「変」ではありません。国政選挙は「国づくり」の選挙です。その「国づくり」を,何か遠くの課題に聞こえさせてしまうような,国民生活からあまりにもかけはなれた政治の現実が,「えっ?」というような反応を生んでしまうのでしょうね。今後とも,正論をかかげて,よりマシな国づくりをすすめていきましょう。
〔今日のタイム・スケジュール〕
1)「つぶやき」「質問と答え」(1時30分~2時)
2)テキスト第1節「この40年間で日本経済のゆきづまりはどこまできたか」(~2時20分)
3)テキスト第2・3節(2時30分~3時20分)
4)テキスト第4・5節(3時30分~4時20分)
5)「補足」・アメリカによる経済介入からの自立の力をひろげるために
6)来年度のゼミナールの予告
2003年12月19日(金)……京都学習協のみなさんへ。
以下は,来年度の現代経済学ゼミナールの「よびかけ文」です。
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京都第3回現代経済学ゼミナール2004
世界の中に日本を探る
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔新しい日本のあり方を考える〕
2004年も現代経済学ゼミナールの担当をさせてもらいます。よろしくお願いします。このゼミナールも3回目ですが,今回は「世界の中に日本を探る」をテーマに,「アメリカいいなり,大企業いいなり」の日本の姿を大きくとらえ,あわせて,それを抜け出していく日本のあり方を,世界的に広い視野をもって考えてみたいと思います。また,私にとっては初めての試みですか,企業社会と家族の関係についても,独立の講義を行いたいと思います。
〔第1講・現代日本の経済社会をどうとらえるか〕
以下,ゼミナールの講義内容を簡単に紹介していきます。第1講義は,第2講義から第8講義までのあらましを,現代日本の「経済社会情勢」論として語るものです。各講義の概要と問題意識を示し,講座全体の流れと問題意識を紹介します。講義は全体として,問題提起的なものにします。「わかっていること」の解説にとどまらず,「いま考えていること」「これから考えていかねばならないと思っていること」を示していくものにしたいと思います。
いくつかの参考文献を事前に紹介しますが,講義は当日配布のレジュメや資料にそって行うことにします。
〔第2講・グローバリゼーションと市場開放〕
「構造改革」の主な内容は,外に対する「市場開放」と内に対する「規制改革」です。その全体が「自由競争の推進」と特徴づけられます。しかし,それは,一体,誰のどういう利益を追求するものでしょう。日本の大企業の多国籍化だという意見があります。
私は,より大きな震源地はアメリカだろうと思います。日本経済へのアメリカの支配と介入の強化です。そして,日本の財界主流は,その戦略に屈し,従属的にこれに追随しているというのが実態ではないかと思うのです。介入と支配の本格化は,「ソ連崩壊後」のアメリカの世界戦略の再編によっています。その新しい「グローバリゼーション戦略」の内容と,その日本との関わりを見ていきます。
〔第3講・「マネー敗戦」と金融ビッグバン〕
戦後日本経済は,アメリカへの輸出依存を柱に成長します。73年の変動相場制への移行により,日本はドル相場の変動をもっとも強く受ける国となります。85年の「プラザ合意」により,大企業の対米進出が強まり,これによってアメリカ市場への依存は一段と固定化されます。また,行き過ぎた円高をさけようとする日本のドル買いは,アメリカの財政赤字をうめる資金となって活用されます。
円高を交渉手段とするアメリカは,1ドル79円の超円高を武器に,95年には日米金融サービス協定を結びます。それをもとに翌年から金融ビッグバンが始まり,アメリカの銀行・証券・保険企業が,ドッと日本に入ってきます。これは深くアメリカ市場に依存する財界主流(日本製造業)が,円安展開と引き換えに金融市場を売り渡したということではないか。「竹中プログラム」ともあわせて,そう見えます。
〔第4講・「日米構造協議」と土建国家〕
高度成長が終わった70年代後半,「日独機関車」論をとなえるアメリカは,日本の輸出抑制を狙いに,内需主導への転換を求めます。ボンサミット(78年)で福田首相は内需主導での7%成長を公約し,ここから日本は「必要なき公共事業」の推進,財政赤字への道を本格的に走り出します。
さらにレーガン・中曽根「運命共同体」が,これを飛躍させます。都市再開発・リゾート開発・民間活力の活用です。それによるバブルが頂点を迎えた時,「日米構造協議」は10年で430兆円の公共投資を決めます。バブル崩壊後,対米公約は630兆円に膨らみます。アメリカの経済介入が国内の土建勢力の利害をくすぐり,成功してきた側面です。これにより,日本は世界最悪の財政赤字国に転落していきます。
〔第5講・奥田ビジョンの21世紀戦略〕
2003年元日の「奥田ビジョン」は財界の長期戦略だとされています。奥田碩氏は日本経団連の会長です。しかし,その後の著作『人間を幸福にする経済』(PHP新書)とともに,このビジョンには,日米関係のビジョンがなく,金融市場のビジョンがなく,「土建国家」改革のビジョンがありません。かんじんなことはすべて抜けてしまっているのです。
奥田氏の出身母体はトヨタです。総売上の40%は北米地域に依存しています。アメリカの景気に依存し,アメリカへの輸出によって支えられる。そのような資本をトップにいただく財界に,アメリカからの介入を拒否する戦略は立てようがありません。「2大政党制」もその経済的無策の受け皿なのでしょう。
〔第6講・新しい道を模索するEUとアジア〕
アメリカのイラク攻撃に,NATO軍の同盟国であるドイツとフランスが反対しました。その政治的自立性の底には,アメリカ市場依存の低さがあります。EUは各国同士で貿易を行なう「共同市場」を育て,通貨の単一化により,為替をめぐる対立を排除することに成功しました。アメリカに首根っこを抑えられた日本経済の今後にとって,この経験は重要な参考事例となります。
そして,アジア各国はすでに「共同市場」形成の模索を開始しています。アジア地域との貿易額は,すでにアメリカ一国をこえる量となっています。平和と政治的友好を深め,あわせて国際分業もすすめなからアジアの共同市場形成に,積極的に加わる。その課題を真剣に考えなければなりません。
〔第7講・日本型資本主義の特異な家族・女性支配〕
男女ともに労働条件が悪く,女性の社会進出にとっての障害が大きい。その深刻さは先進国では並外れています。そのような社会をつくってきた財界のもくろみは何か。彼らの労働力政策の柱は,1)男性労働力の徹底した「エコノミック・アニマル化」(家庭をかえりみない企業戦士化),2)「優秀」な男性労働力のメンテナンスおよび次代の「エコノミック・アニマル」づくりの女性への強要です。だからこそ,女性は差別的低賃金にもかかわらず,結婚・出産退職の強要や,「過労死の男女平等」により,「家庭」に追いやられていくわけです。
「男は仕事,女は家庭」「男は残業,女はパート」。この性別役割分業は,こうした資本の論理に直結します。他方,日本型企業社会論は,その視野を家庭女性の「労働」の役割にまで及ぼす必要があります。
〔第8講・現代に挑む経済理論〕
マルクスの経済学,レーニンの経済学,それぞれは資本主義経済の特徴を深くとらえる理論を示しています。市場経済論,搾取論,恐慌論,信用論,資本主義発展の歴史的傾向の解明など,今日的有効性はさまざまに確認されています。しかし,現実はその深い解明の上に,新たな多くの発展を求めています。
そこで,最後に,第1講から第7講までの各講義がもとめる経済理論の発展を,少々のあらっぽさは覚悟の上で,いくつか大胆に提起してみたいと思います。
〔ハラをくくって学びに時間を〕
日本社会の現状は,労働運動や市民運動の「知性の高まり」を深刻に求めています。「むかしは勉強した」という「過去の遺産」で,21世紀は闘えません。ハラをくくって「学習に時間をさく」ことが必要です。各人は自分の時間を整理し,また運動団体は,彼らに学習の時間を保障してください。それが遠回りに見えても,運動の力の確実な前進に結実します。
とりわけ現場の幹部のみなさん,意欲あふれる若いみなさんの申し込みを,心から期待しています「時間がない」といういいわけには,すすんで自分でケリをつけましょう。
2003年12月10日(水)……和歌山学習協のみなさんへ。
以下は,12月6日(土)の『資本論』講座で配布したレジュメです。
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和歌山『資本論』講座
講師のつぶやき/質問と答え
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔講師のつぶやき〕
選挙結果は残念でしたね。しかし,残念がってばかりでなく,事態の分析を正確にすすめなくてはと思います。
一方で思うことは,「2大政党制」の現実が国民の願いと大きくへだたっていることをしっかりつかまえることの大切さです。ガックリしてカラダが動かないという向きには,ここを良く考えてもらう必要があります。
ポイントの1つは,今回の「2大政党制」への動きが,直接には自民党の長期低落傾向の上に選択された道であったということです。財界にとっては,自民党政治に対する国民の支持の不安,小泉人気が失われた後への強い不安があり,そこをうめるために先手をとって推進されたのが,この道だということです。
ポイントの2つは,「2大政党」がいずれも,消費税増税・憲法「改正」の立場に立ち,これが国民世論に真っ向から反するものだということです。つまり「2大政党」は,その財界への公約を本格的に実施しようとすれば,ただちに国民世論との深刻な衝突を起こさずにおれません。
これらの点から,「2大政党制」は強い国民の支持にささえられたものでなく,中期的には崩壊をまぬがれないものであることはまちがいありません。
しかし,他方で思うことは,それでは,なぜ今回の選挙で,そのような「2大政党制」の入口をつくってしまったのか,その運動の力の不足を率直にとらえることの大切さです。「われわれは正しい」「しかし支持はひろがらない」これでは,情勢を打開することはできません。気落ちしてはいない人たちであっても,ここを真剣に総括せねば,政治の次の局面を切り開いていくことができないわけです。
問われるべきことの中心は,「世論」を形成するわれわれの力の問題でしょう。
それは,ビラの内容や配布の問題であり,テレビ・ラジオのCMの問題であり,政見放送や日常の演説の問題でもあります。しかし,もっとも広く,深く,世論の土台をつくるという意味では,労働運動,市民運動などに参加する,すべての個人の「語りの力」「説得力」こそ核心ではないかという気がします。
運動家の1人1人の「質」の問題です。
「語りの力」とは,ようするに教養の力であり,学習の深さの威力です。それこそが,自分を行動に導くエネルギー源であり,同時に,多くの仲間と語り合い,豊かな説得力を展開する力になっていきます。
あらためて「独習の気風」を全県に,全国にみなぎらせる必要があると思うのです。ここを避けて,質の強化はありえません。
最近,あまり語られないことですが,学習の基本はなんといっても独習です。1人1人が毎日30分,1時間の独習を習慣化する。ここに,私たちの運動を力を飛躍させるための,地道ではあるが,ひとつの大切な鍵があると思います。
独習の土台があってこそ,集団学習はさらに大きな力を発揮します。各種講演会への参加も力になります。
なにより,『資本論』講座に参加されているみなさん自身が,「講義を聞くだけではダメだ」「なんとか予習がしたい」「なんとか復習がしたい」という思いにとらえられる事実が,この独習の大切さを物語っています。
大いに考え,毎日の生活に,活動に,ただちに具体化していきたいところです。
前回は「投票直前」ということもあり,参加者もいつもより少なく,感想文用紙の提出も少なかったようです。
そのようななかでも,キッチリ提出された3枚については,ここに紹介しておきます。
◆本日、なんとか聴くだけでもと思って参加した。今、仕事の関係で事前にすこしでも目を通す機会をつくれないことと、疲れとで理解がついていかぬ部分が多くなってきている。しかし、石川先生の説明により、とくに興味をもったのは、機械の導入・発展と労働者とのたたかい、労働強化と労働条件が悪化していく過程をとらえられていたことである。後から、時間をとってぜひ読んでみたい。次回は出席できないので、黒板等に記述される内容は読み取れないが、これの一端でも把握できるといいな。
一度の講義ですべてがわかるということはありえません。そこは達観することです。「理解がついていかぬ部分」があっても,「理解できる」と思える部分をみつめて,それを楽しむ,そういう楽観的な姿勢が大切です。
◆゙労働日゙の章でも感じましたが、゙資本論゙は、経済論であり歴史書のようですね。今日の゙機械化゙によりもたらされた安い労働力(女性・子供)の入手容易化、失業の増大、労働強化の場面は、まさにきっかけは違えども現代社会を見ているかのようでした。まさに゙歴史は繰り返ずなのか…。以前ある教授から、近経は現在の実際の経済経済現象をいかに説明するかに力を注ぐ学問であり、物事の根本を追究するというより、まず事象ありきだと説明をうけたように思いますが、冒頭でお聞きした竹中氏の゙財政赤字゙゙円高゙に一切ふれず、アメリカの批判も全くない論は現実にさえ目をつぶる、あまりにも自己都合なものに感じられました。今日の講義全体を通じて、社会がある一方向の流れにのみ込まれていくという意味での゙機械化゙の恐ろしさを感じました。やはり、人間の゙適切な゙コントロールの余地を残しておくことの重要性がいつの時代にも提起されるべきですね。
そうですね。機械に人間が従属するのか,人間が機械を活用するのか,ここの主人公の逆転が問題です。資本は,最大限の剰余価値生産を求めて,労働者を機械に従属させてしまいます。機械には罪はありません。肝心なのは資本による機械の活用方法です。労働者たちは,その点を,ラダイト運動に出発しながら,次第に学んでいきました。
◆今日も睡魔との闘いであった。先生の話がつまらないということではなく、疲れと精神面・集中力の弱さからくるものです。後半はわかりやすく、まずまず聞くことができました。マルクスの批判が、今日の日本資本主義を批判しているように思える部分が多々あり、おもしろかったです。
睡魔が来ても,それと「闘う」姿勢があれば道は開けます。あきらめないことです。そして,1つでもいいから,自分なりの成果を確認して帰ることです。一歩でも,二歩でも,前進があれば,続ける意欲がわきますから。
〔今日の講義の流れ〕
1)「講師のつぶやき/質問にこたえて」(~2時)
◇選挙結果にかかわって。
◇不破哲三『「資本論」全3部を読む/第3冊』の紹介。「貧困化」をめぐって。
◇『第4冊』の紹介。独創的,自由闊達な構成。
2)「第13章・機械と大工業」(~2時30分)
◇第1~4節は機械と大工業の基本/第5~7節は労働者の雇用の問題/第8節は機械とそれ以前の生産の関係/第9~10節は工場法について
◇第8節「大工業によるマニュファクチュア,手工業,および家内工業の変革」
◇第9節「工場立法(保健および教育条項)。イギリスにおけるそれの一般化」……保健と教育/個人の全面的な発達/家族形態の変化/未来を語るマルクスの方法/工場立法の一般化
◇第10節「大工業と農業」
3)「第5篇・絶対的および相対的剰余価値の生産」(2時40分~3時30分)
◇資本主義的搾取を全体としてみた場合の諸論点。質的(14章),量的(15~16章)。
「第14章・絶対的および相対的剰余価値生産」
◇資本にとっての生産的労働/「絶対的」と「相対的」の関連/ミルへの批判
「第15章・労働力の価格と剰余価値との大きさの変動」
◇賃金水準は力関係で決まる/労働強化の場合/共産主義での労働時間
4)「第16章・剰余価値率を表わす種々の定式」(3時40分~4時45分)
◇第7章「剰余価値率」につながる古典派経済学批判
「補足」
◇恐慌論について
◇現代の搾取と家族形態・女性労働をめぐって
2003年12月1日(月)……和歌山学習協のみなさんへ。
以下は,2004年5月開催の「『資本論』第2・3部」講座の「よびかけ文」です。
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全体地図の立体的な理解に向けて
2004年度は『資本論』第2部・第3部に挑戦しよう
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
神戸女学院大学・石川康宏
1)鬼があきれても『資本論』講座の計画を
私がこの文章を書いている今日は2003年11月28日です。その段階で早くも2005年にわたる次の『資本論』講座を計画しているのですから,なんとも気の早い話です。しかし,「この年末一時金で受講生の確保を」「いまの第1部講座の受講生にも早く知らせたい」との強い思いが事務局サイドにはあるようです。大きな仕事には周到な準備が必要だということなのでしょう。その熱意に押されて,私もこうして文章を書いています。来年のことをいうと「鬼が笑う」などといいますが,もはや「鬼があきれても『資本論』」というレベルです。
2)『資本論』全3部の全体地図を立体的に
『資本論』の理論編は全3部からなっています。この他に『剰余価値学説史』といった名前で親しまれた,マルクス以前の経済学説に対する批判をおさめた第4部がありますが,これは目の前の資本主義の体系的な解明にそって組み立てられたものではありません。理論的なひとつのまとまりをもったものとしては全3部ということになります。この全3部を学ぶなら,マルクスの経済学研究の成果の全体地図を立体的にアタマに描くことができるようになるわけです。
3)第2部ではすべての資本が流通でつながる
第1部では資本の生産過程が描かれました。その核心は剰余価値の生産と蓄積の解明にあります。ところが,第1部の分析は,原材料や労働力の順調な購入と生産物の順調な販売を,一方的に前提しての分析でした。第2部ではその理論的な借りが返されます。流通過程の分析です。しかし,解明のメスはこの借りの返済をはるかにこえて進みます。流通過程をつうじて複雑に絡み合う多くの資本の,その絡み合いの内容が明らかにされるのです。ここで,1つの資本をイメージしての今までの研究の視野は,社会にある資本のすべてをイメージしての研究へと大きな拡がりを見せることになります。
4)第3部では資本家の観念や剰余価値の分配が
つづく第3部の前半では,剰余価値という科学的概念を知らない資本家たちが,意識の上では利潤を目ざして活動すること,より大きな利潤を求めるその活動が,部門をこえた社会的な平均利潤を形成すること,こうしたことが明らかにされます。日常的な資本家の意識的行動(現象)が,すでに明らかな経済法則(本質)から説明されていくわけです。後半では,産業資本(商品を生産する資本)にとどまらず,商業資本,利子生み資本,大地主といった新たな登場人物が次々と解明され,そのもうけが産業資本の剰余価値を共通の源としていることが明らかにされます。ここにいたってはじめて,マルクス『資本論』の豊富な内容は,ついに私たちのアタマに全容を示すことになります。
5)第2・3部は未完成
さて,こう解説したうえで付け加えておかねばならないことは,第2・3部が未完成の著作であったということです。『資本論』といえばマルクスですが,マルクスが自分で出したのは第1部だけで,第2・3部は,マルクスの残した草稿(下書き的原稿)を,エンゲルスが編集して出版しています。そこで,第2・3部には,第1部とはちがった,特に文章の「つぎはぎ」のむずかしさがあります。エンゲルスは,マルクスの文章をできるだけ変更せずにつかおうとし,そのため,できあがった『資本論』の文章が,あちこちで切れてしまっているのです。また,最近では,マルクスの草稿の重要部分を,エンゲルスが『資本論』に採用していないという問題も明らかになってきました。不破哲三さんの『マルクスと「資本論」』は,マルクスの草稿にはあるが『資本論』にはない,その恐慌論の理論的「空白」を埋めようとしたものでした。
6)宝の山に楽しく「つっこみ」を
しかし,こうした不十分やあらっぽさがあったとしても,それはやはり宝の山です。無数の宝の巨大な山です。少々,道にぬかるみがあっても,地図に誤りがあっても,その山に踏み込まない手はありません。しかも,この山には「こう登る(読む)べし」という絶対のルールはありません。いろいろな可能性を試しながらの登りが楽しめるのです。関西風にいえば,この登山では,自由な「つっこみ」が威力を発揮するということです。「ここは,こういう意味ちゃうか」「なんでやねん,こうやろう」。文章が「つぎはぎ」であり,未完であることが,この類推の楽しみを与えてくれているわけです。というわけで,来年5月から,みなさんとともに『資本論』第2・3部への「集団つっこみ」を開始したいと思います。新日本出版社版(上製版でも新書版でも)の『資本論』を用意して,ふるってご参加ください。和歌山のみなさんの挑戦する意欲に,心から期待しています。
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