2004年12月26日(日)……以下は,12月4日の和歌山習協『資本論』第2・3部講座第8講に配布したレジュメです。
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和歌山『資本論』講座・第2・3部を読む
『資本論』ニュース(第8回)
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔講師のつぶやき〕
先日(11月17日),大学の中で,3年ゼミの学生たちによる報告会「ナヌムの家を訪れて」を行いました。参加者は約40名,内部の教職員・学生だけではなく,学外からも参加者のある集まりとなりました。
2時間ほどのあいだに,まず「従軍慰安婦」問題とは何かについてのビデオを見て,ゼミ旅行の様子を写真で報告し,さらに「慰安婦」問題とは何か,私たちに何ができるのかについて,それぞれ学生たちが報告していきます。
ある教員からは「もっとつっこんだ学習を」という声があり,また,ある教員からは「来年,私のゼミでも『慰安婦』問題をやるので参加してほしい」との声もありました。フロアーの学生からも質問があり,また,学外からこられた方は,3年ゼミ生たちに「お寿司」の差し入れをしてくれました。
いま3年生たちは,来年2月の出版に向け,「ナヌムの家を訪れて」の原稿のまとめを行っています。「私たちに何ができるのか」を具体化する作業です。あわせて学生たちは「中学・高校の歴史教育が十分でない以上,それを補足することのできる授業をこの大学につくるべきだ」とも議論しています。
いまは来年度の3年生ゼミの「募集」の時期なのですが,「従軍慰安婦問題をやる」「ゼミは長ければ4~5時間になる」「春夏休みには大きな宿題を出す」「総じてスパルタである」,そういう強い宣言にもかかわらず,学生たちは「いれてほしい」と集まってきます。
「今どきの若いもの」は,なかなかにやるのです。
先日,11月12日でしたか。韓国の国会が「慰安婦」歴史館の建設と,問題解決に向けた国会としての努力を圧倒的多数で議決しました。来年は1965年の日韓基本条約から数えて40年目で「日韓友好の年」とされています。しかし,その実態は,憲法問題もふくめて,ますます「アジアで日本はどう生きるのか」が問われる年となるのでしょう。
『経済』の新年号に,アジアとの友好が日本経済の発展にとっても不可欠であるという角度からの,「平和憲法をいかそう」論を書きました。ぜひ読んでみてください。
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以下,質問にこたえていきます。質問は表現を変えている場合があります。ご了解ください。
〔質問と感想〕
①以前の講義で学んだ"商業資本の介在により恐慌が生じる"メカニズムがより具体的に分かりました。百姓≠農民という事実がとても興味深かったです。
産業資本の労働者と商業労働者の詐取の形は異なるということ、両者の差異はなんとなく分かりました。産業資本が商業資本に剰余価値を具体的に分配する過程で、商業資本に"10"ではなく"9"(実際の生産価格より低く)で販売する根拠は(インセンティブは)どこにあるのでしょうか。元々は(資本主義社会の中に限っていえば)、産業資本自らの一部門(輸送など)を切り離すような形で発展した分野であるから、経済的な必然性によりそこに落ち着くのでしょうか。それとも、商業資本が参入しても平均利潤は一定という結論から導かれる事実でしょうか?
●産業資本は自分が生産した剰余価値の一部を商業資本に「譲り渡す」ことで,商業資本に利潤を生み出します。なぜ,10の価格で消費者に販売できるものを,9の価格で商業資本に販売するかというのがご質問です。
●最大の理由は,商業資本にまかせてしまえば,産業資本自身に「販売の努力」をする必要がなくなるからです。商業資本がまとめて買ってくれるので,資本の回転が早くなる,販売のための店をつくる必要がいらなくなる,販売のために人を雇う必要がなくなる,販売のための広告を打つ必要がなくなる,それらのことによって,産業資本自身の活動が軽減され,出費が削減されます。これは産業資本にとって大きなメリットとなります。そこで,それらの経費削減とあわせてみれば,たとえ9の価格で商業資本に売ることになっても,その方が得だということになるわけです。
●産業資本は,商業資本にまかせず,自分で販売した方が「もうけが大きい」となれば自分で販売しますし,商業資本にまかせた方が「もうけが大きい」となれば,商業資本にまかせます。そこは「もうけを最大にする」という資本の本性に合致した判断が行われるわけです。商業資本への「利潤の分配」は,その「結果」として起こることであり,産業資本のボランティア精神などではありません。
②商業資本による労働者の搾取の内容と、産業資本によるそれとのちがいがよくわかった。商業資本が産業資本の一部から自主化して、利潤の分割、分裂が行なわれている仕組みがよくわかった。難しかったですが、おもしろかったです。
●「むずかしいけど,おもしろい」。その実感は大切ですね。「おもしろい」という実感があるということは,「むずかいしけど,何かをつかみかけている」ということでもあります。そして,「もっと,つかめそうだ」という予感があるから,自分の状況が「おもしろい」と思えるのでしょう。ご自分の理解のこれからの深まりに期待をもってください。
●こうして「おもしろい」と思えるうちに,簡潔な解説書をサッと読んでみるのはいい方法です。『資本論』で豊かな全体をながめ,解説書で骨だけをつかみにつく。この両方を往復するというのは,こういうときにこそ,なかなか効率のいい学習法になってくれるものです。
③商業部門で新たな価値はつくられず、生産部門でつくられていることと、商業部門の労働者も搾取されていることはわかりました。しかし、一行一行読んでいると、難しく感じます。労働学校などで、凝縮して学んでいる内容の周辺部分としていろいろ書かれているところの解釈が非常に難しいです。もっとゆっくり読まないとわからんのでしょう。「百姓=一般庶民」というのは新しい発見でした。
●『資本論』第2・3部の内容をジックリと教える解説書というのは,ほとんどありませんからね。やはり,「初めて読んだ」と思えることがたくさんでてきて,当然,それを理解するのはいつでも大変になるわけです。長い学習人生のなかの一つのステップとして位置づけていってください。一度でわかるものではないと,そう達観してみてください。
●「ともかく日本は稲作国家だったのだ」ではなく,林業や漁業や商業の発達もあったし,農業についても稲作だけではなく,いろいろなものがつくられていた。また,その他に金融業者もいたし,「悪党」とよばれるヤクザのような組織もあったし,忍者や修験者のような集団もあった。それらの様子を事実にそくして学ぶ必要があるということですね。網野善彦さんは,著作がとても多い方ですし,最近になって出ている本もたくさんあります。大きな本屋にいって,じっくりながめてみてください。それにしても,まじめに懸命に研究する多くの人たちが,長く「百姓=農民」と思い込んでいたわけですから,学問の発展というのはおもしろいものですね。もっとも私たちは,少なくとも「『資本論』=完成品」といった思い込みからは,ただちに解放されなければならないわけですが。
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〔今日の講義の流れ〕
1)「講師のつぶやき/質問にこたえて」(~1時45分)
◇意見,質問へのコメント。
2)第3部第5篇「利子と企業者利得とへの利潤の分裂。利子生み資本」(1時45分~2時20分)
・第5編の構成――第6冊146~147
◇第21章「利子生み資本」
利子生み資本とは/資本の「没概念的形態」/利子額に客観的法則はない
◇第22章「利潤の分割,利子率,利子率の『自然』率」
3)第4篇つづき(2時30分~3時20分)
◇第23章「利子と企業者利得」
貨幣資本家と産業資本家/企業者利得と利子/企業者利得と利子という観念の一般化/
搾取関係が見えなくなる/監督・指揮労働の二重性/「金融資本」とのかかわりで
◇第24章「利子生み資本の形態における資本関係の外面化」
貨幣はいつでも利子を生むという幻想/「資本物神」の完成
・信用論の草稿について――第6冊180~196
4)第4編を広くとらえて(3時30分~4時20分)
◇第25章「信用と架空資本」・第26章「貨幣資本の蓄積。それが利子率におよぼす影響」――第6冊196~214
◇第27章「資本主義的生産における信用の役割」
これまでのまとめ/株式会社論の展開/今後への問題提起
◇第28章「通流手段と資本。トゥックとフラートンとの見解」
通貨をめぐる理論的混迷の整理
・「信用論編集での苦闘」(不破哲三『エンゲルスと「資本論」』下,新日本出版社,1997年,65~80ページ)
5)補足と質疑(4時30分~5時00分)
2004年12月8日(水)……以下は,11月21日の京都学習協・現代経済学講座第7講に配布したレジュメです。
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〔京都学習協・第3回現代経済学講座〕
講師のつぶやき(第7回)
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
2004年11月15日作成
〔講師のつぶやき〕
いよいよ,今年の現代経済学講座も,今日をふくめてあと2回。大詰めを迎えたという気がします。ともかく,無事終わりそうなので「ホッとしている」といったところです。ところが,今年度の講座が終わるということは,同時に,来年の講座の予定をたてねばならないということでもあるわけです。そこが,なかなかつらいところです。事務局からは「来年の予定を早く」と,せっつかれている状態です。
この手の年間の講座は,私自身の1年間の研究内容をかなり大きく左右します。毎回の準備に相当の時間がかかるからです。それだけに,あまり軽々しく計画をたてることはできません。来年1年,自分なりに何に力点をおいた研究をするかを考えなければなりません。
それで,「構造改革」批判を深める,「帝国主義」にまつわる問題を深めるといった問題もあるのですが,来年は,思い切って,初めて「ジェンダー」問題で講座をやってみようかと思っています。「ジェンダー」というのは,歴史的に形成され変化していく,男女の社会的な関係のことです。
生産関係に歴史的な変化があり,家族に歴史的な変化があるように,男女の社会的な関係にもいろいろな変化があります。たとえば,生産のなかで男女の配置・分業は歴史的にどのように変化してきたのか,家族のなかでの男女の役割分担は歴史的にどのように変化してきたのか,社会的・法的な権利の男女格差はあったのかなかったのか,あればどのようなものだったのか,それらの歴史的変化に対応したどのようなイデオロギーがあったのか等々。
「フェミニズム」とよばれる学問と運動の流れがあり,大学のなかでももはや「女性学」や「ジェンダー論」の講義があるのは珍しいことではありません。それは「男女の平等」を求める運動や,個々人の願いと結びついて,すでに広く「市民権」を獲得している用語です。最近,東京都が教育現場で「ジェンダー・フリー」といった言葉をつかうなという「指導」を行ったことが問題になっていますが,裏をかえすと,この用語はそれほどまでにひろがり,定着してもいるということです。
女性の「解放」や「男女平等」については,職場のなかの差別との闘いや,社会保障制度の拡充の取り組みなど,私たちの身近な労働運動は先進的な成果を残しています。しかし,それらを「現代社会」についての,いわば総括的な理論としてまとめることは行われていないように思います。「ジェンダー」問題については,科学的社会主義の方法論にもとづく「これが到達点」といえるような,はっきりとした研究はないように思うのです。そうであるだけに,そこに理論・学習活動の手を及ぼすことは,実践的にも大変に重要な課題になっていると思います。
このような状況ですから,講座の内容は,例によって「試論」的なものとならずにおれません。いままで以上の「試論中の試論」ということになるかも知れませんが,思い切って風呂敷をひろげてみれば,いまのところ,次のような構成が可能ではないかと思っています。
第1回 日本型企業社会と財界の女性・家族管理
第2回 資本主義の形成と専業主婦
第3回 『資本論』と「家族賃金思想」
第4回 「ジェンダー」研究が見つめるもの
第5回 日本史のなかの女と男
第6回 日本軍「慰安婦」問題と現代
第7回 史的唯物論と「ジェンダー」
〈第1回・日本型企業社会と財界の女性・家族管理〉
現代日本の企業社会が,男女双方全労働力(企業内で支出される労働力と家庭で支出される労働力)の全体をどのように管理し,搾取しようとしているかを問題にします。つまり,労資関係を「男労働者」と「女労働者」の区別をつけてとらえると,また職場の「男労働者」と主婦の「家事労働」の関係を問うと,いったい何が見えてくるのかを問題にします。問題提起的な導入編です。
〈第2回・資本主義の形成と専業主婦〉
従来,科学的社会主義の方法論に立つ資本主義研究は,専業主婦の分析にまで視野をひろげることが少なかったと思います。生産の集中と巨大化が,それまでの「家」に性格の変化をもたらし,職場としての「公的」性格を失った純粋に「私的」な領域としての「家庭」をはじめて生みます。この資本主義の形成によってはじめて,「私的な家庭」の管理者としての専業主婦は誕生します。専業主婦の誕生・拡大・減少の歴史を考えます。
〈第3回・『資本論』と「家族賃金思想」〉
男性労働者に「家族の食える賃金」を求めることと,「賃金の男女平等」を求めることは,はたして両立するものでしょうか。一部のフェミニストからは,『資本論』は男性労働者に「家族賃金」を求めた男性中心主義の経済学だという批判があります。しかし,マルクスはそんなことをいってはいません。では,マルクスが賃金に「家族の生活費」をふくめたのはなぜだったのか。『資本論』がすでに明らかにしているジェンダー視角を探ってみます。
〈第4回・「ジェンダー」研究が見つめるもの〉
「ジェンダー」研究は,問題を「労働」の領域にとどめません。私も共著者の1人となったある本は,「男らしさ/女らしさ」「母性神話」「セクシュアリティ」「性暴力」など,生きた女性の「困難」にかかわるあらゆる問題を幅広くとらえようとしています。そこで論じられていることがらを,科学的社会主義の人間論・社会論はどのように学び,また批判することができるのでしょうか。「開かれた学問」という性質をフルにいかして考えます。
〈第5回・日本史のなかの女と男〉
「世界史的敗北」は,女性をただちに社会的生産から切り離すものではありませんでした。一部の支配層を除けば,高い強制的課税(搾取)に苦しむ一般庶民は,男も女も子どもも年寄りも,力をあわせて働かざるを得ませんでした。「女工哀史」の繊維産業は,なぜ「女工」だったのか。中世の商業・金融業者にはなぜ女性の姿が多いのか。日本史研究のさまざまな成果に学んでみます。
〈第6回・日本軍「慰安婦」問題と現代〉
日本軍「慰安婦」問題には,性暴力,公娼制,民族差別,非人間的な軍隊のあり方など,多くの問題がからみあっています。被害女性は,日本政府に誠実な謝罪と個人補償を求めています。これをいまだに解決できない日本の政治には,「ちかん」「DV」「セクハラ」「性差別」「風俗」に鈍感な日本社会全体の意識が反映されてはいないでしょうか。「男女平等」にかかわる社会的意識の成熟という角度から,現代の日本を考えてみます。
〈第7回・史的唯物論と「ジェンダー」〉
おしまいです。とりわけ大風呂敷を大きくひろげて,「史的唯物論」と書いておきます。「史的唯物論」は人間社会の構造と発展の全体をとらえる学問です。「ジェンダー」研究の断片的な成果は,この全体的な学問にどのような問題提起をするものでしょうか。いまはどのような見通しももてずにいますが,それまでに自分なりの認識の前進があることに期待し,ここにこのテーマをあげておきます。バクチです。
関心がおありでしたら,ぜひお付き合いください。では,以下,質問にこたえてです。
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〔質問に答えて〕
①ASEANのリーダーは個人的にはマハティールなのでしょうが、ベトナム戦争後から現在まで、きわめて理性的な(戦争のない、貧困をなくす、対等な関係を目指す)活動をしてきた要因と、発展をもう少し詳しくお願いします。
●あまり,まとまったお話はできません。思いつきままにあげていきます。1つには,第二次大戦終結時に,独立国がタイだけであったという植民地支配の問題があると思います。それだけに「自立」への強い願いがあるということです。2つには,政治的独立をしたところで,経済の発展がなければ,本当の「自立」はできないという戦後の体験があると思います。97年のアジア通貨危機も,この思いを強くさせる大きな要因になっているように思います。3つには,SEATO(東南アジア条約機構,54年発足,77年解散)などアメリカとの軍事同盟があり,これがベトナム戦争などでアジア人同士の殺し合いを生みました。これに対する反省があり,また戦争は経済を破壊するという教訓があると思います。そういう歴史的体験を踏まえながら,次第に今日の路線をつくってきたということです。
●ただし,ベトナム戦争終了までSEATOが存在しつづけ,また90年代にもマハティールが提唱したEAECではなく,アメリカ主導のAPECが力をもったように,ASEAN各国は必ずしも,最初から明確な自主独立・連帯の路線をもってきたわけではありません。ミャンマーがいまだに軍事政権であるように,それぞれの国には,いまだに多くの課題があります。内政外交ともに,さまざまな模索の到達点として今日の姿があると,現状をリアルにとらえることが必要だろうと思います。
②同様にEUのリーダーシップはフランスだったのでしょうが、これほどのことを成し遂げつつある、それ以外の国々の団結の要因についてもお願いします。
●中心的にはフランスとともにドイツのリーダーシップが重要だったと思います。戦後のドイツが日本と対照的に,侵略や虐殺についての反省と謝罪を繰り返し,それを個人補償もふくめて実際の行動に移すことで,今日の信頼を回復してきたことについてはすでに紹介したとおりです。
●他の国々については,申し訳ありませんが,多くを知りません。ただし,これも思いつき的にいえば,1)2度の大戦による破壊の現実からら平和への強い渇望が共有されているであろうこと,2)58年発足のEEC(原加盟国6ケ国)が共同による経済成長を実現していくこと,3)特に,急成長をとげたドイツとの密接な経済関係がヨーロッパ各国にとって必要であったこと,4)EUの外部におかれることが経済成長に不利になること,5)アメリカの覇権主義に対抗するうえで共同の中に加わることが好都合であったこと等のことが指摘できるように思います。
③世界各国のそれぞれのビジョンと行動があるが、それに対しての労働者階級の闘い。特にEU構想等に対する態度を教示願いたい。また日本の労働組合の奥田ビジョンに対する態度もあわせてお願いしたい。
●世界の労働者の闘いについては,とても手に負えません。全労連の「世界の労働者のたたかい」http://www.zenroren.gr.jp/world/top.htmlを見てください。世界各地のたたかいが,地域別・国別に整理されています。EUの活動についても整理があります。また,たとえば『月刊・全労連』2004年12月号が,特集として「国際労働組合交流会議」を取り上げています。7月26日に全労連が主催して行った会議の特集です。これも大いに参考になると思います。
●奥田ビジョンへの態度は,全労連はもちろん反対です。連合は労働条件の問題については,一定の批判を述べていますが,市場開放,規制緩和の推進などについては「グローバリゼーションは世界の流れ」だとして,かなり受け入れていく側面をもっています。「奥田ビジョン」の多様さに対応して,これへの「態度」も多様ですので,これもご自分で確かめてみてください。全労連がhttp://www.zenroren.gr.jp/jp/index.html,連合がhttp://www.jtuc-rengo.or.jp/new/index.htmlです。
④日本の中で、加害責任としての賠償の日程はどのように見通せますか。
●これは賠償をすべきだという力と,する必要がないという力のぶつかり合いの中で決まることです。「見通し」は第三者的な立場から眺めて見えるものではありません。自ら切り開いていくという見地に立って考えることが大切です。「解釈の立場ではなく,変革の立場で」ということです。
⑤ベトナムが「私たちはどこの国にもせめたことはない!」と訴えておられたことを、振り返りますと、日本の「パールハーバー」が恥ずかしい歴史です。アメリカは「加害責任」を日本の基地で果たさせていると考えているのでしょうか。(私には過大かな?と思われます)これも解いてアメリカとの新しい条約への道を。ということになりますか。
●アメリカの姿勢は,アメリカ自身の世界戦略の実現の手段として日本を活用するということです。日本の米軍基地はアメリカの世界支配という野望のためにおかれているのであって,アメリカに対する日本の「賠償」問題とは関係がありません。むしろ「アメリカいいなり」の日本の軍事的・経済的な強さを維持するために,アジアへの賠償を日本にさせなかったということは前回の講座でお話したとおりです。日米関係の将来については,対米従属の軍事同盟である日米安保条約ではなく,友好関係の発展を願う日米条約が必要だろうと思います。
⑥郵政民営化について、共産党は「大銀行の利益のため」といっていますが、全銀協は確か反対をしていたと思うのですが。民間金融機関(銀行)になった場合、今あるメガバンクをも脅かす存在になる。という報道を見たのですが。
●そういう場合には,直接,全銀協のHPを確認するのが一番です。私のHPにもリンクされています。ぜひ,確認してください。http://www.zenginkyo.or.jp/index.html。
●見ていただくとわかりますが,全国銀行協会が「郵政民営化」そのものに反対しているということはありません。最近,政府とのあいだに若干の意見の相違が生まれているのは「郵政民営化」の具体的なやり方をめぐってのことです。たとえば「『郵政民営化の基本方針』の閣議決定について」(2004年9月10日)は,郵便貯金を他の事業から完全に切り離し,郵便貯金をいくつかに小さく分割してほしいと,政府に注文をつけるものとなっています。それでこそ銀行業界はもうかることになるからです。
●なお,この問題を見る場合には,日本の金融市場に深く食い込んできているアメリカの金融関連資本の動きを見逃すわけにはいきません。郵貯の分割民営化を望んでいるのは,日本の業界だけではないということです。それは小泉・竹中ラインによる「民営化」が誰のためのものかを考える重要な材料ともなるものです。
〔京都学習協・第3回現代経済学講座〕
第7講・日本型資本主義の特異な家族・女性支配
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
(1)第3回講座のねらいと構成
1)戦後日本経済の発展と到達をアメリカへの従属と依存を重視してとらえた第2回講座の到達点をふまえて,これに,重要な歴史的分岐点における「財界の判断」を付け加えていきたい。あるいはその「判断」にアメリカの意向がどのように反映したのかをとらえていきたい。それは今日の日本の政治経済の「財界・大企業いいなり,アメリカいいなり」の姿をより深く,根本からつかまえようとする作業でもある。
2)全体の構成は次のようになる。
第1講 現代日本の経済社会をどうとらえるか
第2講 グローバリゼーションと市場開放
第3講 『マネー敗戦』と金融ビッグバン
第4講 『日米構造協議』と土建国家
第5講 奥田ビジョンの21世紀戦略
第6講 新しい道を模索するEUとアジア
第7講 日本型資本主義の特異な家族・女性支配
第8講 展望・現代に挑む経済理論
(2)第7講・日本型資本主義の特異な家族・女性支配
1)財界とはどういうものか――資料・各団体のHPより
2)記事「急いで女性差別解消を/大きな意味持つ国連の新しい勧告/具体化迫られる日本政府/党女性委員会副責任者 広井暢子さんに聞く」(2004年7月14日(水)「しんぶん赤旗」)
3)論説「ジェンダーを考える――家庭の役割をふくめて搾取解明したマルクス」,日本共産党「しんぶん赤旗」2004年7月13日付
4)論文「財界による家事と女性の管理戦略」新日本婦人の会『月刊・女性&運動』2004年3月号(通巻259号)
5)論文「『男女平等』は労働運動の戦略課題――財界は家庭をどう管理しているか」,日本国家公務員労働組合連合会『国公労調査時報』2004年9月号
6)「講師のつぶやき」今回(第7講)分
(3)女性と家庭責任に関する財界の文書から
1)「Keidanren Clip No.78-024 経団連くりっぷ No.78 (1998年5月14日)/掲示板/男女雇用機会均等法が変わります! 」より
1999年4月1日から、改正男女雇用機会均等法(以下、均等法)が施行されるとともに、労働基準法(以下、労基法)の女性に対する時間外・休日労働、深夜業の規制が解消されることになります。経団連では、さる4月14日、労働省女性局女性政策課の北井久美子課長を招いてセミナーを開催し、均等法、労基法の改正に伴なって企業が取るべき措置等について説明を受けました。会員企業の人事担当者を中心に190名を超える出席があり、法改正への関心の高さが窺えました。
改正のポイントは、働く女性が性により差別されることなく、その能力を十分に発揮できる雇用環境を整備すること、働く女性が安心して子どもを産むことができる環境をつくること、男女がともに職業生活と家庭生活を両立できる条件を整備すること、などです。このため、募集・採用、配置・昇進および教育訓練の各分野において、女性を排除すること、女性に対して異なる条件や合格基準を設けるなどの不利な扱いはもとより、女性の職域の固定化や男女の仕事の分離につながるような女性のみや女性優遇といった措置も原則禁止されています。また、ポジティブ・アクションやセクシュアルハラスメントの防止といった新しい課題も盛り込まれているのが特徴です。
一方、この改正に併せ、女性の職域拡大を図り、男女の均等取扱いを一層促進する観点から、労基法の女性に対する時間外・休日労働、深夜業の規制が解消されます。さらには、母性保護の充実の一環として、母性健康管理の義務化や多胎妊娠の産前休業期間の延長が盛り込まれるとともに、育児・介護などの家庭責任を負う職員に対する時間外・休日労働および深夜業の制限や深夜業の際の安全確保等など留意すべき事項も追加されています。
2)「Keidanren Clip No.61-038 経団連くりっぷ No.61 (1997年 8月28日) 女性の社会進出に関する部会(部会長 坂本春生氏)/7月31日 均等法等の改正をめぐる動きについて 田芳枝労働省婦人局長と懇談 」より
女性の社会進出に関する部会では、太田芳枝労働省婦人局長を招き、今回の男女雇用機会均等法等の具体的改正内容について説明を聞くとともに、種々懇談した。太田局長の説明概要は以下の通りである。
男女雇用機会均等法改正の背景
1986年の均等法施行後、建前としては「女性を活用する」という認識も浸透し、それなりの効果もあった。しかし、バブル崩壊後、女子学生の就職が厳しくなり、各都道府県の婦人少年室には、募集・採用に関して均等法上問題があるケースが数多く持ち込まれた。
一方、この10年間に欧米先進諸国では、性差別禁止の法律ができた国が多く、日本もこのままではいけない、という機運が盛り上がっていた。そこで、1995年秋より婦人少年問題審議会において均等法の改正についての検討を進めたが、なかなか進展しなかった。しかし、1996年6月に連合女性局が、雇用機会均等法を実効ある法律にしていくには、労働基準法の女子保護規定にこだわっていてはいけない、と決断したことが審議会の流れを大きく変えた。
婦人少年問題審議会では1984年建議の原則である「企業の募集、採用から定年・退職・解雇に至る雇用管理における男女差別的取扱いを撤廃し、労働基準法の女子保護規定は、母性保護規定を除き解消すること」が法のあるべき姿であることを確認し、1996年12月に建議を取りまとめた。今回の建議は、公益側、使用者側、労働者側三者の意見が併記されるという形でなく、最終的に一致の建議となったことが画期的である。この建議に基づき、法案が作成され、6月11日に裁決、18日に交付された。
改正のポイント
事項 改正法 現行法
1.男女雇用機会均等法
差別の禁止 募集・採用 禁止 努力義務
配置・昇進 禁止 努力義務
教育訓練 禁止 一部禁止
福利厚生 一部禁止 一部禁止
定年・退職・解雇 禁止 禁止
女性のみ・女性優遇 原則として禁止 適法
調停 一方申請を可とする 双方の同意が条件
制裁 企業名の公表 (規定なし)
ポジティブ・アクション 国による援助 (規定なし)
セクシュアル・ハラスメント 事業主の配慮義務 (規定なし)
母性健康管理 義務化 努力義務
2.労働基準法
女子の時間外・休日労働・深夜業 規制を解消 就業を規制
多胎妊娠における産前休業期間 14週間 10週間
3.育児・介護休業法
深夜業
育児又は家族介護を行なう 労働者の深夜業の制限 (規定なし)
〔労働省婦人局資料〕
国会審議の主要点
国会での審議の中で、女性が一番問題にしたのは、現在のように男性に対して3・6協定しかないような状況の下で男女共通としても良いのだろうかという点である。時間外労働について大臣告示の年間360時間という目安はあるものの、これだけではあまりに弱い、ということが指摘され、参議院では付帯決議が付けられた。
付帯決議の主な点は以下の通り。中央労働基準審議会において、時間外・休日労働等の在り方について、1999年改正均等法の施行が速やかに実施されるよう、労使の意見を尊重しつつ検討を行なうこと。現在、年間150時間の枠で守られており、かつ家庭責任を負う女性労働者に対しては、激変緩和措置を設けることを中央労働基準審議会で検討する。
事業主が新たに女性労働者に深夜業をさせようとする場合は、労使間で十分な協議を行ない、就業環境の整備に努めるよう指導を強化する。
労働大臣が国会において説明している通り、性差別禁止法が究極の目的であるが、現在日本の雇用管理においては女性差別が圧倒的に多いので、今回の均等法は女子差別禁止法になっている。特に、配置、昇進が禁止規定化したことで、各人の能力評価をきちんと行ない、性によらない雇用管理をすることが必要になってくる。
つまり、企業の雇用管理を抜本的に変えていただかなければいけない。例えば、母性保護は重要であるということを総論では理解していても、各論になるといろいろ問題は残っている。総論と各論の差を何とか埋めないと、特殊出生率(1人の女性が一生の間に生む平均子供数)1.42人は回復していかない。そうなると長期的に一番困るのは企業ではないかと思う。今後、行政指導、指針などの内容を具体的に詰めていくが、最も重要なのは、女性を戦力として評価し、正当に処遇することである。
(4)2004年7月14日(水)「しんぶん赤旗」「急いで女性差別解消を/大きな意味持つ国連の新しい勧告/具体化迫られる日本政府/党女性委員会副責任者 広井暢子さんに聞く」
国連の女性差別撤廃委員会は今年、新しい勧告を採択しました。その内容は? 日本の女性にとってどういう意味をもつのか? 日本共産党女性委員会副責任者の広井暢子(のぶこ)さんに聞きました。
「暫定的特別 措置」活用し
――今回の勧告は、どうして出されたのですか。その特徴は何ですか。
国連で女性差別撤廃条約が採択(一九七九年)されて二十五年ですが、日本はじめ各国の事実上の平等のための措置はなかなかすすんでいません。そのために条約第四条第一項「暫定的特別措置」を十分に活用してほしいと今回の勧告(一般的勧告二五号)がだされました。
特に、条約の概念、締約国の義務などを、女性差別撤廃委員会がどう考えているのか、勧告はその理念・見解から詳しく述べています。国際法の一般的基準は男性と女性の双方を守るものです。しかしこの条約は、「女性に対する差別に焦点をあてている」条約である、と。そして実質上の平等を達成するためには、形式的なやり方では不十分だと指摘しています。女性に同じ待遇を保障するだけではなく、すでに違いがある問題を解決するためには男女で違った待遇も必要だとしているんですね。
例えば、日本の働き方をみても男性を基準に社会のシステムがつくられていますよね。長時間労働や遠隔地転勤ができなければ一人前の正社員ではないというようなね。歴史的につくられてきたこの男性本位の枠組みを基礎にするのではなく、機構やシステムを変えることが必要だともいっているんです。
そして「結果の平等」を実現する過程で暫定的特別措置を適用することは、女性に対する「実質的な平等を実現する手段の一つ」だと強調しています。
母性保護は恒久的な性格の措置
――暫定的特別措置とは、どんなものですか。
条約四条の暫定的な特別措置の規定には、目的が違う二つの項目があります。一つは、男性との事実上の平等を実現するためにとる措置は、平等が実現したらその暫定措置はいらなくなるとしています。例えば、企業が女性の採用・雇用・昇進、役職への登用、審議会への登用で数的目標などもつことなどですね。
もう一つは、母性を保護するためにとる特別措置です。これは「科学上および技術上の知識が修正を正当とするときまで、恒久的な性格を持つ」としています。母性保護は恒久的性格の措置だというのです。
「暫定的特別措置」を表現するのに各国で「アファーマティブ・アクション」(積極的改善措置)「ポジティブ・アクション」(同)などいろいろな用語が使われてきました。委員会は「『暫定的特別措置』という用語のみを使用する」としました。あいまいさを残さないということですね。「暫定的」「特別」「措置」とはと、その用語の意味や解釈まで明確にして、理解をうながしています。
条約は拘束力持つ人権規定
――日本の私たちにはどんな意味がありますか。
国連の女性差別撤廃委員会は、昨年夏、日本の女性の地位を引き上げ、差別を解消するために、暫定的特別措置をとりなさい、活用しなさいという勧告を日本政府に出しています。審議会など公的活動分野や政策決定過程に女性の参加が低い問題とともに、男女の賃金格差や女性労働者にパート雇用が多く賃金が低いことなどを指摘し、暫定的特別措置をとって格差の是正をはかるようにといっているんですね。
日本は、国連開発計画報告の女性の社会進出度を示す数値でも、四十四位と遅れていますからね。
日本政府は、今回の勧告とあわせて、どんな行動計画をつくり、どんな措置をとったのか、とらなかったとすればなぜかなど、詳細な報告が求められることになります。
政府のいう男女共同参画社会は、男女の平等ではなく、あくまで「参画する機会」の確保です。それにとどまらず"事実上の平等"をどう保障するのか。政府はこれまで、勧告は「法的拘束力を有するものではない」という態度でしたが、これは条約批准国としては義務放棄です。
近年の女性差別撤廃委員会の審議では、条約は「拘束力のある人権規定」であり、女性差別撤廃のとりくみの中心的役割をもつと強調されています。いろんな潮流があるけれど、あくまで条約を基本にということですね。日本でも、男女雇用機会均等法の改正はじめ、条約の内容を具体的に実施させるとりくみに生かし前進させたいですね。
(5)論説「ジェンダーを考える――家庭の役割をふくめて搾取解明したマルクス」,日本共産党「しんぶん赤旗」2004年7月13日付
私が,ジェンダー(=歴史的に形成される男女の社会的関係)の問題を考えるようになったのは,女子大である今の職場に就職してからです。
学生が就職活動で差別され,卒業生が就職先で差別を受ける。
セクハラの被害で転職を余儀なくされた卒業生もおり,その度ごとの憤りの積み重ねが,現代社会を論ずるときに,性による差別やより幅広い社会的な性別分業を語らないわけにはいかないと,そう思わせる力になってきました。
●女性の置かれた現段階を知れば
労働運動は労働者の状態から出発するとは良くいわれることですが,女性たちのおかれた社会状態は男性以上に複雑です。
企業の中の性差別,必ずしも十分とはいえない労働組合等の理解,望まない専業主婦がもたらす経済的・精神的な不安,日常生活におけるセクハラ,DV(夫・恋人からの暴力),性犯罪といった暴力被害の可能性など。
かつてエンゲルスは『空想から科学へ』でフーリエにふれながら,「ある社会における婦人の解放の度合いが全般的な解放の自然の尺度である」と述べましたが,あらためて,女性解放の現段階は具体的にどのような問題を解決の課題としているのか,そこを良く考える必要があると思います。
●『起源』の理論の現代的な発展が
科学的社会主義の学説は,ジェンダーの概念と相容れないものではなく,むしろその領域での先駆的な解明の実績をもつものです。
男女の社会的な関係の変化が,経済を土台とした社会全体の大きな変動とつながっていることを,初めて明らかにしたのはエンゲルスの『家族,私有財産および国家の起源』でした。
それはマルクスの「古代社会ノート」を活用して書かれたものです。
また,マルクスの賃金論については,男性労働者が家族全員を養うための「家族賃金」をいつでも手にするべきだという「家族賃金思想」にとりつかれているとする批判がありますが,それは『資本論』を歴史のなかで正確に読んだものとはいえません。
ただし,それらの研究から,すでに100年を超える時間が流れています。
これらの理論にも現代的な発展が求められるのは当然です。
『起源』については,特に生産力の発展とエンゲルス等が主張した社会改革の取り組みによる,その後の資本主義の変化をどう取り入れるのかが問題です。
たとえばエンゲルスは女性解放の条件として,女性の公的産業への復帰や私的家政の社会的産業への転化をあげ,これは未来社会で達成されると考えました。
しかし,すでに北欧の女性労働力率は80%をこえ,日本より年間700時間ほども短い労働時間や,充実した社会保障が,労働と家事の平等に必要な物的条件を広げています。
こうした変化がある以上,資本主義の枠内で男女平等の何が実現可能であり,何が未来社会を必要とするのか,そこをリアルにとらえかえす作業が大切となっていると思います。
●理論的豊かさに新しい光あてる
他方で,『資本論』には,資本主義におけるジェンダーを考えるたくさんのヒントがあると思います。
それをしっかりつかみとることが大切です。
たとえばマルクスによる資本主義的搾取の解明には,労働者家庭が労働力の生産(体力の回復)と再生産(生殖と子育て)の場として役割をはたしているという分析がふくまれます。
「男は仕事,女は家庭」型のいわゆる「近代家族」が日本で広く労働者家庭に普及するのは高度成長期のことですが,そこには「家庭をかえりみる」ゆとりをゆるさない男性労働者への徹底した搾取と,その労働力の確実な再生のために,結婚・出産退職や若年定年制で女性を強制的に「家にかえす」財界の意図的な戦略がありました。
家庭の役割を視野にふくめたマルクスによる搾取の解明は,企業社会での深刻な女性差別と大量の専業主婦の形成,過労死を生む世界的にも異常な長時間労働の並存を,こうして統一的に理解させます。
それは,今日における家事労働や専業主婦の社会的地位を科学的にとらえる基本見地を与えるものともなっています。
ジェンダー視角からのマルクスの読み直しは,この領域におけるマルクスの理論的豊かさに,新しい光を当てるものになるでしょう。
(6)論文「財界による家事と女性の管理戦略」新日本婦人の会『月刊・女性&運動』2004年3月号(通巻259号)
●財界はなぜ「家庭責任」を女性におしつけるのか
ここでは,財界の女性活用戦略に焦点をあて,現代の企業社会における男女関係と労資関係のからみあいを考えてみたいと思います。財界の女性戦略というと,企業のなかでの「ポイ捨て活用」(無権利での低賃金労働)や不当な「性差別」の批判的な検討が多いと思います。もちろん,それは大変に重要な分析の視角ですが,ここではあわせて,財界がもっぱら「家庭責任」を女性に押しつけることの意味を考えてみたいと思います。それは,専業主婦を財界がどう位置づけているかという問題でもありますし,またパートなど,「男性なみフルタイム」以外の「短時間」ではたらく女性労働者の「家事労働」を財界がどう位置づけているかの問題にもなってきます。
●「世界史的敗北」――それでもはたらきつづけた女性たち
最初に,少し女性の歴史をふりかえっておきます。「原始,女性は太陽」でした。そこに,階級社会の成立にともなう「女性の世界史的敗北」がやってきます。女性の権利や自由は奪われ,男性中心型の社会や家族がつくられます。ただし,ヨーロッパとちがい,日本での「敗北」は古代奴隷制の成立にピタリと一致はせず,鎌倉時代や室町時代の「武士社会」の形成・成立にまでズレこんでいきます。
しかし,これで女性がみんな「奥様」になってしまったわけではありません。支配階級から,はたらく階級に目をうつせば,女性は歴史のなかで大いにはたらき,経済の発展を支えてきました。農業は家族の共同で行われましたし,漁業でも,男性がとった魚を売って,お金にかえていたのは女性のようです。そして,貨幣経済にいち早く入り込んだ女性の中から,早い時期に金融業者がうまれてきます。夫婦のあいだで妻が夫に金を貸すこともありました。政治権力が,徴税の単位を家族(世帯)とし,その代表者を男性で記録したので,公的文書に残った歴史からは,はたらく女性は見づらいようです。しかし,実際には多くがはたらいていました。明治の繊維産業がたくさんの「女工」さんを雇うのも,養蚕が長く女性の仕事とされていたからです。
●「主婦」の誕生から大衆化まで
いわゆる「主婦」の誕生は,明治に入ってからのことです。農林漁業や商業でも,あるいは武士の場合にも,それまでの家は「生活と仕事の場」をかねていました。しかし,大規模な生産の集中を特徴とする資本主義は,資本家や労働者や公務員などの世界に「職住分離」を生み出します。「家庭」は英語のホーム(home)の訳ですが,これには仕事の場ではない,家族の私的生活の場という意味が含まれます。まず,男性に高い収入のある支配層に「家庭」が生まれ,そこに使用人も使いながらもっぱら家事を担当する主婦が生まれます。「主婦」というのも,ハウスワイフ(housewife)の訳語で,この時期に初めてつくられた日本語だそうです。こうして「主婦」は資本主義とともに誕生します。ただし,明治には,徳川からの「三界に家なし」を徹底する民法がつくられますから,この時期の女性は,おそらく日本の歴史上もっとも無権利な状態におかれていました。
主婦が一般家庭にひろがるのは,戦後のことです。おもな推進力は,1955年からの高度成長でした。農業の機械化が農村に過剰な労働力をうみ,都市の労働力不足がこれを吸収します。中卒・高卒の子どもたちが,大挙して都市の工場・企業につとめていく「集団就職」の始まりです。何世代もが同居する農村の「大家族」はへり,都市に「核家族」が増えていきます。若い女性も,都市へと移動しました。
しかし,それにもかかわらず,はたらく女性を専業主婦が上まわります。専業主婦比率がもっとも高くなるのは75年で,そこに向かって比率は一直線に上昇します。主婦の大衆化の進行です。高度成長は,労働者の生活にも一定の改善をもたらしました。大企業の男性サラリーマンに「妻を養う」経済力がうまれてきます。一方,企業は女性を「若年定年」に追い込みました。結婚・出産だけでなく,25才や30才での制度としての定年制がありました。こうなると,すでに農家に帰ることのできない女性たちは,経済力のある男性と結婚して,専業主婦になる他ありません。
こうして増えた専業主婦は,戦前のような大きなお屋敷にくらす「奥様」ではありません。しかし,小さな団地であっても「妻の待つ家庭」「夫を家で待つくらし」は,人々の上昇志向を満たします。専業主婦比率が高かったアメリカのホームドラマの影響もあり,「妻をはたらかせない」ことが夫の力のあかしとされ,「女の人生は夫の給料(勤め先)しだい」と語られていきます。年に一度も化粧をしない農村のはたらく母に育てられた若い主婦は,それらしい化粧,ファッション,身のこなしを,主婦向け雑誌で学んでいきました。
●「男は仕事,女は家庭」の財界戦略
ところで,ここに,考えておくべき問題があります。差別的な低賃金ではたらかせている女性を,大企業・財界はどうして「若年定年」に追い込むのか。なぜ,最後の最後まで低賃金ではたらかせきらないのか,という問題です。たとえば60年の賃金格差は,男性100に対して,女性はわずか42.8です。この女性を企業から排除することの不思議を解決するカギは,家庭の役割にありました。たとえば高度成長まっただなかの65年,子どもたちを従順・有能・安上がりな労働力に育てようとした中教審の答申「期待される人間像」は,あわせて「愛の場としての家庭」を強調します。また,同じ時期,財界側から財界研究を行った三鬼陽之助は『女房タブー集』で「亭主は戦場たる職場で全力で闘い,女房は,その戦士たる亭主に使え,かつ家を守る」と力説します。こうした本は,女性たちによっても書かれました。そこには,戦前型の古い家庭観もあったでしょうが,それ以上に重要なのは,その経済的な意味合いです。
財界は,まず搾取の主軸に男性をすえました。男性は,長時間・過密・深夜・休日労働に耐えうる体力をもち,さらに生休や産休がいらない「安上がり」な労働力とみなされたのです。そして財界は,これを24時間型の企業戦士,エコノミック・アニマルに育てあげようとしました。しかし,そうなれば,男性たちには「家のこと」「子どものこと」を考えるゆとりはなくなってしまいます。その結果,男性労働者が不健康になってしまえば,財界・企業も困ります。また将来の労働力である子どもが育たなくなるのも困ったことです。そこで,押し進められたのが,専業主婦の大衆化です。男性労働力の毎日の再生と,健康な子どもの育成,この2つを核心とする「家事」をもっぱら女性におしつけ,それによって労働者階級全体への最大限の搾取を追求する。こういう脈絡で,財界は自分たちの望みにふさわしく,労働者家庭の性別役割分業をつくっていったのです。戦後初の女性労働力戦略である「経済発展における人的能力開発の課題と女性」(63年,経済審議会)が,女性の低賃金活用をいいながら,あくまで家事・育児こそが女の仕事であるとクギをさすのは,そのためです。
●高度成長の終わりと「過労死の男女平等」
新しい転換は,高度成長の終わりとともにやってきます。74・75年には当時「戦後最大」といわれた不況が起こり,男性賃金の右肩上がりがストップします。女性収入の必要が高まり,専業主婦比率は75年をさかいに,ついに低下を始めます。ここから「男は仕事,女は家庭」という典型的な「近代家族」は変化をはじめ,「男は仕事と残業,女は家庭とパート」と,男女ともに生活の大変さが増していくことになります。80年代年には専業主婦より,はたらく女性が多くなっていきます。
同時に,この時期は「戦後第二の反動攻勢」の時期でもあります。全国に革新自治体を生み出した国民の闘いに対する,政財界からの巻き返しが行われます。春闘つぶしが本格化し,労働戦線の右寄り再編が進みます。「低成長時代」に応じたリストラが開始され,労働時間の延長が行われます。政治の舞台では,社会党が革新の旗を投げ捨てました。さらに増加する女性労働者には,「母性保護」縮小の攻撃がかけられ,「育児・介護は女の仕事」という「日本型福祉社会」論が叫ばれていきます。その結果,80年代には,「過労死」,子どもの家庭内暴力,高齢者の自殺など,新しい「社会病理」が注目をあびるようになっていきます。90年代には,アメリカのグローバリゼーション戦略を震源地とする,労働法制の改悪も進みます。こうして「女性の自立」「生活の豊かさ」につながるはずだった女性労働のひろがりは,なかなか本来の力を発揮することができていません。
財界は,今日,女性の役割をどう位置づけているのか。それをわかりやすく示したのが,「雇用機会均等法」と引き換えの「女性保護」規程の撤廃です。そこには,日本の標準的な労働をあくまで世界最悪の「過労死」レベルにおきたいという,財界の強い決意があらわれました。これを標準とすれば,男女の平等は「過労死の男女平等」にしかなりません。結果的に,これは,かえって女性を職場の基幹職から遠ざける力となりました。そして,それがイヤなら,「短時間」不安定雇用で,安く無権利にはたらけ。これが財界の方針の基本線だと思います。男女平等の要求に形式的に譲歩しながら,その中でどのようにして実質的格差を継続し,労働者家庭全体に対する支配を維持していくか,そこに財界の関心は集中しています。「男女共同参画」のかけ声にもかかわらず,政治は,労働時間短縮や「女性保護」の復活,社会保障の充実など,本当に「ゆたかな平等」に必要な政策には,まるで反しています。決定権の平等としての「共同参画」を,実りのある社会づくりにつなげるためには,政財界と労働者・勤労者家庭との対立をしっかり見すえ,政治や経済を国民本位に転換していく闘いの知恵と力が不可欠です。
●「内助の功」にも科学のメスを
少しだけ理論的な問題にもふれておきます。80年代以降「労働時間の二極化」が進みました。「短時間」の女性労働者の増加にもかかわらず,日本の平均労働時間は短くなりません。それは,男性中心の長時間労働が,さらに「超長時間」化しているからです。こうして,女性を相対的「短時間」の枠に閉じ込め,「家庭責任」を女性に押しつけることが,男性労働の「超長時間」化の支えになっており,他方で,男性労働の「超長時間」化が女性の経済的自立を妨げ,家庭の困難を深める要因にもなっている。このように両者は互いに支えあう関係にあります。したがって,女性差別は「女問題」であり,労働運動全体の課題ではない。こういう考え方がいまだにあるとするなら,それはこうした社会の仕組みをとらえそこなう,誤った社会理解にもとづくものです。
労資関係をとらえるときに,直接的な搾取の場を問題にするのは当然ですが,搾取の分析はその枠内で終わってしまうものではありません。搾取される労働力がどのようにして再生され,未来の搾取を保障する子どもがどのように育てられているか,階級闘争の焦点はそこまでの広がりをもっているのであり,私たちの分析と闘いもそれを視野に入れないわけにはいきません。ですから,たとえば「日本的経営」が女性を「周辺」労働力としか位置づけなかったという場合,実は,生産の場で「周辺」にしか位置づけないことが,逆に男性労働力への強い搾取の条件づくりとなっていた。そこまで分析をひろげる必要があると思うのです。労働者家庭での「内助の功」は,その夫への「功」にとどまらず,夫を搾取する資本のための「功」でもあった。こういう視角をもつことが「家庭」や「家事労働」をどうとらえるかという基本的な視点の獲得につながり,また資本(財界)が自らにふさわしい性別役割分業を,どう形成するかの分析にもつながります。そうした理論発展の努力は,女性の権利の向上を願う多くの人々の対話と交流を広げるものにもなるでしょう。
●学習と研究の深まりへの期待
最後に,みなさん方の運動への期待を述べておきます。1つは,みなさん方の学ぶ活動の位置づけは十分ですかということです。学びは闘いのエネルギー源であり,また,学びがつくる豊かな知性は,まわりの人には大きな魅力とうつります。反対に,これがおろそかであれば,どんな運動も大きな力に成長しません。ここで,特に考えていただきたいのは,個々人の毎日の独習の問題です。何かの学習会に参加するということではなく,毎日「自分で学ぶ」という習慣の問題です。どうも,日本の各種の運動は共通して,ここの取り組みが弱くなっているように思うのです。「忙しさ」を理由に学びをおろそかにすれば,私たちの運動は,永遠にいまの到達点を抜け出すことができません。この点では,「時間がないから」という言い訳をゆるさず,「こうやって時間をつくっている」「この本がおもしろかった」と,前向きに「学びの風」を起こしていく姿勢が必要です。
関連して,学びを深めることは,若い世代とのむすびつきを強める力にもつながります。若い世代にとって,活力と個性に満ちた個人はあこがれだからです。自分の判断にもとづき,自分の信念をつらぬき,自分の情熱をそそぎ,自分の言葉で語る。それこそが若い世代にとってのあこがれです。ぜひとも,他のだれにも負けずに良く学ぶ個人と集団をつくってほしいと思います。
もう1つは,組織的な研究の問題です。『家族,私有財産および国家の起源』を書いたエンゲルスがなくなって,100年以上がたっています。その後の研究と運動の発展のなかで,21世紀に女性の地位向上を求める運動にはどのような新しい可能性が開かれているのか,また,それを実現していくためにはどのような取り組みが求められているのか。これを探求する旺盛な活動の先頭に,みなさん方が力をあわせて立ってほしいということです。運動の大きな成功には,学問の成果にうらづけられた,社会の変化と発展にたいする見通しが必要ですが,その学問の発展を刺激する取り組みにおいても,みなさん方には積極的な構えを期待したいと思うのです。ぜひ,研究者を組織して下さい。
おしまいの方は,いささか挑発的にすぎたかも知れませんが,この短い文章がみなさん方の運動の発展に少しでも役立つことを願っています。
(7)論文「『男女平等』は労働運動の戦略課題――財界は家庭をどう管理しているか」,日本国家公務員労働組合連合会『国公労調査時報』2004年9月号
(1)はじめに
●「ジェンダー」問題への接近の個人史
私は最初から男性と女性の社会関係を視野に入れて研究をしてきたわけではありません。きっかけは幾つかあるのですが、95年の震災の年に女子大に就職しました。そうすると女性がこれから社会に出ていくということを念頭して経済学をしゃべらないといけないという課題につき当たったわけです。
幾つかの経験のなかで、1つ、深刻だと思わされたのは--私のゼミを卒業していく学生たちはほぼ 100%就職していくんですが--その就職活動のなかで、また、就職してからも差別を体験するわけです。セクハラで職場を追われたという卒業生もいます。こうなると、企業社会における男女の問題を語らないわけにいかなくなるわけです。そこから、男性と女性の社会関係の問題を考えざるを得なくなりました。
2つ目に、経済学の世界で学者の内部からも、女性学者からのある種、告発的な問題提起がありました。それは従来、労働者階級や労働者についての分析という場合に、多くのそれは男性労働者に実際上限定されてはいなかったかという問題提起です。労働者階級の本体は男性であって、女性労働者は特殊な周辺的な部分であるという位置づけ方が学者の間でも長くされてきたのではなかったか。こういう反省が90年代初頭に行われたのです。
●可能な限りでの中間報告
うちの大学には,マルクスの『資本論』などをベースにして研究している人は、私の他には1人もいないんですが、同僚の女性たち(=フェミニストたち)とは、「自衛隊のイラク派兵反対」「自己責任論はおかしい」など、日常の政治課題ではかなり意見が一致します。ところが、女性の解放という大きなテーマになると、彼女らのマルクスやエンゲルスに対する評価は非常に辛いんです。誤解の側面もあるんですが、もう一方では、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』が、100年の時代を経て社会環境がこれだけ変わったなかでおうむ返しされているという、われわれの側の知的怠慢という問題もあるのではないかと思わされました。
そこで幾つか啓蒙的なものも含めて、このテーマで論文を書いてきました。きょうの話は、私なりに研究を始めて日が浅いですので、中間報告的なものとして聞いていただければと思います。
(2)現代日本の「女性」がおかれた社会的状態-男性にない多様性
●生き方の急速な「多様化」という現象のなかで
よく労働運動がどう発展するかという方向を考えるときには、いまある労働者がどういう位置、状態に置かれているかを見る必要があるといいます。女性たちの運動についても、女性たちのおかれた状態から見る必要があると思います。男性の場合には、学校を出たときに「働くか、働かないか」と考える人はほとんどいません。働かねばならないとずっと刷り込まれて育っています。その意味では人生の選択肢が非常に狭いんです。しかし女性たちは相当に違います。まず学校を出たあと働くか働かないか、家庭のゆとりの問題はありますが、これが選択肢のひとつになりえます。一たんは働いたが、その後何年働くかもひとつの選択肢です。結婚したら、出産したら辞めるなど、ある程度の年齢になったら辞めるという道があります。男性には一般に「寿退社」はありません。そういう具合に男性にはない選択肢が、女性にはさまざまあるわけです。
●「労働者」であることの大変さ 「女性」であることの大変さ
働く女性については、労働者であることの大変さがあります。男女共通して日本の労働条件は先進国で最悪です。サービス残業をふくめて労働時間がいま年間で2200~2300時間です。ドイツの年間労働時間が1500時間ですから 700時間以上の差があります。ということは1年間に 250日弱働くとすれば毎日3時間ずつの差があるということです。相当に日本はいびつな国です。国際比較をすると日本のおかしさがつくづくわかります。
この最悪の労働時間のうえに、女性には、差別という独特の苦労がかぶさります。私のゼミ生が、世界有数の自動車メーカーTで就職セミナーをうけました。人事の人が「この問題についてあなたたちはどう思いますか、この列の方、答えてくたさい」と言った。その列にいた私のゼミ生は、当てられると思って一生懸命考えます。しかし、彼女はとばされました。もう少し後ろにいた女性も。つまり、男性にしか回答するチャンスは与えられなかったわけです。午後の分散会で女子学生たちの「反乱」があり、人事の人は冷や汗をかいて謝ったそうです。これに日本を代表する大企業の実態です。
Sハウスに就職したゼミ生は、卒業論文では「ODAはどういうふうに役に立つのか」を問題にしていました。ところが、就職して一番先に教えられたことは、職場で個人別に出すお茶の種類です。「Aさんは日本茶,Bさんはコーヒー,Cさんはブラック,Dさんはミルクをいれて」といった具合に。これは、同期入社の男性にはお知えられず、女性だけへの「教育」です。研修差別,昇進差別,その結果としての賃金格差など、退職までに女性たちは、相当多くの余計な苦労を味わいます。
かりに、思想差別ではよくたたかうが、性差別ではたたかえないという組合があれば、それは問題を人権問題だとしてとらえる観点が弱いということです。
●「家事と労働」の両立の大変さ
女性の中には、パート・短時間雇用者がたくさんいます。そのなかで労働時間の二極化という現象が起こってきています。フルタイマーの平均労働時間はぐいぐい伸びて、限りなく3000時間に近づいています。その主流は男性です。もう一方で女性はパートタイムにどんどん入っており、女性全体の平均労働時間は下がっています。この変化の結果、全体の平均労働時間は変わらない。しかし、実態としては、労働時間の男と女の二極化という現象が起こり、男は限りなく3000時間=過労死ラインに近づいています。過労死する人がいま年間3万人ほどもいますが、調査によると、直前の1年間の労働時間が3000時間を超えると,人間はいのちの危機をむかえるようです。
そのような条件であれば、少なくない男たちは、自分の健康のこと、ストレスを処理するだけで精一杯となっていきます。だから家庭のことは「お前に任せてある」というタイプの男性になっていくわけです。子育てをふくめ家事の一切が、女性の肩にのってくる。しかし、それでも女性もはたらかなければ生活ができない。また、働きたいという女性の願いも高まっている。こうなると全体として男性よりは労働時間の短い女性が、かなりの長時間労働をしながらも、労働と家事の「二重苦」に陥ることになるわけです。
●性犯罪の深刻さ
これもなかなか男性には、必ずしも理解が十分ではないことが多い問題です。被害者になるという経験がきわめて少ないことが大きな条件になっていると思います。私のゼミ生が、大阪の大きな病院に就職しました。ところが、複数の上司からの性的な誘いが、繰り返し行われ、被害者である彼女は職場を1年でやめました。「だれがあなたをモノにするかが職場の話題になっている」とも言われたそうです。セクハラは人間1人の経済的な自立の条件を奪い取り、その心に非常に深い傷を与えます。男性には多いに想像力の発揮が、「心を寄せる」努力が求められるところです。「それくらいガマンしろよ」などと無責任なことをいってはいけません。
今年の2月に学生たちと韓国に行く機会があり、高齢の元「従軍慰安婦」たちが住んでいる「ナヌムの家」に行きました。つくづく日本人であることが嫌になりました。日本軍は、第二次世界大戦中に、日本をふくむ各地に 400ヵ所を超える慰安所をつくったそうです。それを国家が,軍がやったという証拠の文書も残っています。被害に遭った彼女たちのその後の人生は悲惨です。韓国は日本以上に純潔思想がきつく、ひどい場合には「おまえのような女がうちの家系から出たのは恥だ」といったことも言われ、ようやく帰っても家族から見放されてしまうのです。日本軍に最大の責任があるわけですが、いまだに日本政府は公式の謝罪をしていません。そして、そのような政府をつくっているのが日本の主権者であるわれわれなんです。
●女性にとって「よりましな社会」の多面的な内容
こうして考えると、女性に暮らしやすい社会のために、やらねばならないことはかなり多面的です。もちろん働きやすい労働条件、介護や子育てなど社会保障の充実も必要です。しかし、その他に、家庭のあり方に代表される性別分業の問題、おそらくそこでは男性の「教育」が重要な問題になると思いますが、そのような労資関係や政治のあり方に解消できない問題もあると思います。性暴力に関する対応も重要です。
他方で、生き方を選ぶ能力の形成も、女性の重要な課題だと思います。男女平等は、家庭責任の分担の問題だけではなく、この社会や経済を維持し、発展させる仕事においても実現されねばなりません。そうなると、当然、女性たちの中にも社会を維持する担い手としての能力を育てる意欲が大いに求められるわけです。
男女関係にまつわる市民的・社会的道義を、運動団体の中や市民社会の中にちゃんと浸透させることも大切です。そこでは、男性の意識改革も大切な課題になりますが、同時に、いたずらに男性を敵にまわすのでなく、いまの社会のなかで女性が虐げられるということが男性の労働と生活の条件をきついものにしているということを正確に理解する、学び合うことが必要だろうと思います。
(3)戦後の経済発展と女性-労働と家事に焦点をあてて
戦後日本の資本主義社会のなかで男性と女性がどういう関係に置かれてきたかという問題です。男性と女性の社会的な関係にも歴史的な変化があるわけですが、その歴史的に変化していく社会的な男女関係のことをジェンダーといいます。ここは、そのジェンダーという角度から戦後の日本の資本主義を見たらどうなるかという話です。
●長い日本の歴史のなかで
ときどき「女は昔から主婦だった」という人がいますが、歴史の事実はまるで違います。女性がもっぱら家事のみにたずさわるというのは、相当に社会的生産力があがってはじめて可能になることです。特に庶民のくらしを見るならば、全員が働いて食うや食わずやという状況のときに、女性だけが家におかれるといったことはあり得ません。
『女工哀史』という本や映画にありますが、繊維産業は資本主義の最初の花形産業です。この産業では、どうしてあんなにたくさん女性が雇われたのか。「女工さん」です。それは蚕を育てる仕事が日本では中世の昔からずっと女性の仕事だったからです。
では、もっぱら家事にたずさわる女性=「専業主婦」はいつごろから発生したのか。それは資本主義の歴史的形成とほぼ一緒です。それ以前は、農業であれ漁業であれ商業であれ、自分の住んでいる家は同時に職場でもありました。職住一致というやつです。そのもとで,たくさんの家族が同じ仕事に従事していた。
ところが資本主義になると、職住の分離がおきます。生産や仕事の巨大化・集中により、職場が家の外になる。「通勤」が生まれ、家の中から仕事が消えていくわけです。その結果、従来の、仕事の場であり私的な場であったという家の二重の性格がひとつだけにまとまります。純粋に「私的な家庭」になるわけです。これを英語でホームといいます。これの翻訳語が「家庭」です。「家庭」ということばがつくられ、普及されるのは明治に入ってからのことです。
そのなかで、たくさんのお金を稼いでいる男の妻が、家庭を取り仕切るという仕事に専念しはじめます。これが「専業主婦」のはしりです。ただし、最初の専業主婦=「奥様」は、お金持ちの「奥様」ですから、家庭に「召使」がたくさんいます。マルクスの『資本論』にもイギリスの労働者階級一覧表で一番多いのは召使階級だという数字が出てきますが、日本の戦前の「奥様」の家もに「召使の部屋」というのがありました。
●憲法による明治民法の否定と「主婦の大衆化」
しかし、こうやって誕生してきた「主婦」は、明治民法によってしばられていました。たとえ金持ちであったとしても、女性には政治的な権利がなく、それどこか財産相続の権利もない。だから、生まれてから死ぬまでずっと男に依存し、男に従属しないと生きていけない。これが法律によって社会のすみずみにまで強制された。庶民の女はまだまだ農村で漁村で大いに働いていましたが、それでも社会的な権利がうばわれたことにはかわりがない。おそらく、この明治というのは、日本女性の社会的地位が、歴史のなかでもっとも低くなった瞬間です。
それが戦後になって、憲法ができて男女は平等だといわれるようになります。この瞬間、女性たちは一斉に社会へ、職場へ進出します。ところが、それを上回る比率で専業主婦が増えていきます。いわゆる専業主婦の大衆化です。特別なお金持ちではない、「サラリーマン奥様」の登場です。専業主婦比率がもっとも高くなったのは、1975年です。
どうしてそんな現象が起こったのかというと、農村から都市への人口移動があったからです。政財界は、高度経済成長のためにその労働力の移動を意識的に行いました。これだけだと女性の労働力比率は高まるはずですが、ここに問題が起こるのです。若年定年制という女性特有の定年制度です。今日では信じられないことですが、女性だけの25歳定年制、30歳定年制というのが就業規則に明記されて存在していたんです。男は55歳や60歳くらいまでなのですが、女は違うのです。中学を出て15歳で都市へきて、早ければ25歳で定年です。その後どうやって食うんだとなれば、「田舎に帰る」以外は、結婚して、夫の給料で暮らすしかないわけです。
夫の給料にも、一定の変化がありました。経済成長のなかで、とくに大企業の正規職員は給料が右肩上がりです。妻を家に置おくことのできる経済的ゆとりが生まれてくるわけです。ある社会学者によれば、さらに主婦のいる家庭に対するあこがれもあったそうです。家に妻がいるのは戦前のお金もちの象徴です。そこで「そういう家庭をついにオレも持つことができる」「ワタシもついに『奥様』になれる」というようなあこがれです。これが大企業労働者の中に生まれてきます。「妻を家に置いておくのは男の甲斐性だ」ということも言われだします。こういういくつかの条件が重なって、「男は仕事、女は家庭」型のいわゆる近代家族が、戦後の日本にはどんどん増えてくるわけです。
1945年から52年まで日本を占領し、その後も支配的な影響をあたえたアメリカ文化の影響もありました。まだ専業主婦比率の高かったアメリカのホームドラマが、「洋風の家でケーキを焼いて子どもと夫の帰りをまつ妻」へのあこがれをひろげます。新しく大量に発生した主婦たちは、「主婦らしい身だしなみ」を、大量に創刊された主婦雑誌から学んでいきます。
●低賃金にもかかわらず女性を「家庭にかえす」
さて、ここで重大なのは、1960年で男性賃金を 100とすると女性は42.8という低賃金にもかかわらず、財界はなぜ女性を最後まで使い切らないで、若年定年制に追い込んだのかという問題です。そこには、「亭主は戦場たる職場で全力でたたかい、女房はその戦士たる亭主に仕えかつ家を守る」という考え方がありました。この手の世論操作が、60年代には大量に行われます。1965年の「中教審答申」でも、子どもたちに「期待される人間像」という一方で、わざわざ「愛の場としての家庭」を強調しています。一体このとき財界は、どのような労働力政策を考えていたのか。恐らく、かなり意図的に女性は職場から排除されています。
その目的は、男性企業戦士の確保なんです。日本の財界は、搾取しがいのある労働力は何といっても男だと、まずここにターゲットをしぼります。平均的に見れば男のほうが丈夫です。夜遅くまで働かせることができるし、生理休暇も産前産後休暇も必要がない。男は安上がりな長時間労働の提供者として選ばれたのです。
ところが、男たちを職場のなかでフルに働かせた場合にどういう問題が起こってくるか。朝早く起きて職場に行って、フラフラになるまで働いて、夜遅く家に帰って、バッタリと倒れて眠るとなるわけです。しかし、会社はそういう従順で、よくがんばる労働力には、明日も元気で来てもらわねばならない。そうでなければ、思い切った搾取ができない。そこで、この労働力としての男たちのメンテナンスをする人間が必要になるわけです。これが「サラリーマン主婦」の役割です。
「メシ,風呂,寝る」にこたえてやり、あわせて将来の労働力である子どもたちの世話もする。年寄りの介護も一手にひきうける。そういう主婦を家庭に送り込むことによって、男労働者たちを職場に24時間釘付けにするという作戦をとったわけです。当時「内助の功」という言葉がありましたが、それは、直接には夫のためですが、社会的には経営者のためでもあったわけです。
●75年を転機に「はたらく女性」が多数派に
ところが1975年をピークにして専業主婦比率は低下をはじめ、80年代半ばには働く女性が成人女性の多数派になります。この変化は一体どうして起こったのか。
1つは、高度経済成長が終わったということです。19年連続の高度成長のなかで、労働者階級の生活にもかなりの改善がありました。その改善がいつまでもつづくことを前提にした消費計画がつくられました。長期のローンを組んで家を買うなどです。ところが高度成長が終わり、夫の給料の右肩上がりにブレーキがかかり、70年代半ばからはリストラが強化される。さらに社会保障の切り捨てが始まり、学費の高騰がすすんでいく。そこで家庭生活がもたくなって、女性たちはどんどん職場に出ていきます。これが専業主婦比率低下の直接のきっかけです。あわせて、その直前に、ウーマンリブがあり、「専業主婦でいいのか」と、女性たちの生きかたが問われもしました。そうやって女性は一方で生活のために、他方で自分の経済的・精神的な自立のために、職場に出ていくことになりました。
そうすると1980年代から困ったことが起こってきました。いわゆる「家庭のきずなの崩壊」です。出てきたのは、1つは家庭から姿を消した男たちの過労死です。高度成長が終わり、リストラが始まると同時に、男の労働時間が伸びていく。それから子どもたちの荒れの問題、熟年離婚、高齢者の自殺が出てくる。小さな子どもがたった1人で食事をとる「孤食」という現象も出てきます。これは、長すぎる労働時間や子育て・高齢者福祉のまずしさなど、男女双方がはたらくために必要な社会的条件がととのっていないことが大きな原因でした。しかし、政財界は「女が家にもどるべきだ」と,責任を女性たちになすりつけました。
●「男女平等」への闘いの前進と政財界の対抗戦略
それでも女性の職場進出はすすみます。さらに、男女平等へのたたかいも進みます。今日の男女共同参画社会というスローガンもそのなかから出てくるわけです。ただし、日本の政府は正面から男女平等の条件整備をしているようには見えません。男女雇用機会均等法と同時に、労働基準法などの女性保護規程を撤廃し、「過労死の男女平等」を推進したのは典型です。
今日の政財界の男女労働力政策は、1つには異常な企業戦士基準の労働時間を大前提にするというものです。だから時短はしない。男並みにやれる女だけがフルタイマーで働けという方向です。「強い女は企業戦士なれ」ということです。その結果、政府資料でも総合職の女性比率は3%しかなくなっています。むしろ総合職に占める女性比率は下がっています。
卒業生にも民間の総合職に入っていく人がいます。しかし、体がもたず、早ければ数ヵ月、長くても数年で辞める人が多いです。一番印象的だったのは、クロスカントリーの選手で秋田の国体にも参加したという"つわもの"が、自動車関係の総合職に就きながら、5月には早くも退職を考え出したという例です。「辞めてもいいと思いますか」と家に電話がかかってきました。「夜2時ごろまでチームで仕事をして、私は女だから12時に帰されるけど、体はもうボロボロです。男の人たちは2時までやっており、その人たちに申しわけなく、また体力的にももたない」と。
たくさんの男たちが「過労死」するような条件で、女も同じようにやれといってもできるわけがないです。この世界一の長時間労働を野放しにしているかぎり、職場における男女平等はあり得ません。
2つ目ですが、「この企業戦士基準に耐えられないものは一般職へ行け」となるわけです。一般職へ行くと、総合職に比べて給料は抑え込まれます。そうなると男女の賃金格差はなくなりません。女性の経済的自立は困難です。3つ目に、さらにそれ以外の女は不安定雇用(パート、派遣、臨時、バイト)にまわれというわけです。そして、4つ目に失業して、職につくことのできない女たちには--これは男も同じですが--「自助努力で生活しろ」となるわけです。本当に踏んだりけったりです。そして、5番目に、こうまで女性労働力を好き勝手につかいながら、最後に、財界は家庭責任はあくまで女性に取らせようとしています。
政財界は「個人単位化」ということばだけで、なにか男女の平等が実現されるような幻想をふりまいていますが、このような労働条件を放置し、子育てや介護といった社会保障をまとめにつくらないなら、男と女を同じように「個人単位化」しても、誰も食ってはいけません。憲法25条にある、すべての国民の生存権を国家が保障する。そういう社会的な連帯の土台がキチンとあってこそ、人間は各人の個性や能力を、互いに競い合いながらでも健全に育てていくことができるのです。
(4)よりマシな社会をめざして-問題提起
●たたかいの大きな方向
課題のひとつは、職場と家庭の両方を視野に入れて労資関係をとらえることです。職場だけでとらえてはいけないということです。男であれ女であれ、職場で搾取される労働力は家庭で再生されるんです。財界の労働者家族支配の政策とたたかう必要がある。そこから労働者と主婦の連携もうまれるし、はたらく女性と主婦との闘いの連携もうまれてきます。「家族」の全員が財界の家族政策とたたかう必要がある。具体的な課題としては、一つ重要なのは男女共通の労働時間の短縮です。短縮しないと男女同じようには絶対に働けない。2つ目に、男女ともに自立できる賃金を、社会保障の拡充をといった柱があります。
他方で、運動の側からすれば「男女差別は女問題」といった非科学的な思い込みをやめ、実は女性の社会的地位が男性労働者の労働と生活に深刻な影響をあたえていることをしっかり学ぶことが必要です。一昔前だと、家庭を犠牲にすることを当然視するような、「滅私奉公」方の運動家もいました。そういう資本に都合のよい思想も乗り越えていく必要があります。
ドイツの労働時間がいまの年1500時間にまでたどり着く過程でつくられた有名なスローガンは、「夕方のパパはボクのもの」です。大きな炭鉱労働者が頭にヘルメットをかぶってポスターに写っている。肩の上にちょこんと子どもが乗っかって、お父さんにしがみついてる。2人とも笑っています。これが労働運動のポスターなのです。「ゆたかな家庭づくり」「ゆたかな夫婦関係の条件づくり」「子育ての条件づくり」、それが正面から掲げられているのです。そういう豊かな家庭生活は人間の権利であり、その権利をせばめる経営者たちとは、労働者家族がみんなでたたかうという姿勢です。その労働運動の視野や質によく学ぶことが必要です。
●必要な研究の発展を組織する
男性と女性の社会的関係について勉強してみると、スウェーデンなど北欧の「福祉国家」は日本とは比べものにならない。すばらしく充実している。労働時間は短く、保育所は5時ぐらいに閉まりますが、お父さんやお母さんのどちらかは、5時に保育所に迎えに行けます。労働者のほとんどがセカンドハウスを持っています。年次有給休暇は5週間で、これはほぼ 100%の消化率です。
日本の女性には、若いときに就職して、結婚や出産で職場をはなれ、子どもが自立するとパートで復活し、年をとって仕事をやめる。こういういわゆるM字型雇用の人が多いです。ところがスウェーデンは逆U字型です。結婚・出産で女性は職場をはなれません。子育てや介護のための「社会政策」が充実しているからです。そして、男女とも労働時間が短いからです。
実は、スウェーデン女性の本格的な職場進出は1960年代で、日本とあまり変わらない。高度成長で労働力不足が起こって女性は職場に進出します。その瞬間、スウェーデンの人たちは子育てをどうするか、介護をどうするかと考えて、公的な力、社会の連帯の力で子どもを育てる、高齢者の介護もするとなっていった。それをつくり上げた国民の高い能力に学ぶ必要があると思います。
たとえば北欧では労働運動はどうなっているのか、女性たちの団体はどういうふうにたたかっているのか。そういう課題を労働運動自身がかかげて、これへの協力を学者たちに求めていく。そういう積極的に研究運動を組織する力量が労働運動には問われています。
「独習」を組織活動の第一の課題に
いかにして、豊かな社会をつくる、教養豊かな国民をつくり上げていくのか、これにも正面からの挑戦が必要です。市民的教養のレベルを引き上げていく運動です。これに労働運動が本格的に取り組むためには、何より労働運動のメンバー自身が勉強せねばなりません。知的輝きが必要です。
その点で懸念されるのは、各種の運動団体における「独習の風化」とでもいったような傾向です。学習会には一定の参加があっても、毎日自分で本を読んで学ぶ習慣がすたれているように見えるのです。しかし、忙しさを理由に労働者が賢さを失えば、それは世の中を変える力を失うということです。それは、結局自分の首を絞めることになるわけです。小さな子どもが毎日6時間も勉強しているのに、「世界の平和」を語る大人が、たった1時間も勉強していない。それでは日本が変わるわけがないのです。いかにして日本中のすべての運動家、組合員が毎日1時間の独習をする状況をつくり上げていくかということです。なによりも知性を鍛え、知的な輝きを武器にして世の中を変えていく。そういう運動のスタイルに習熟する必要があると思います。「男女共同参画」はその重要なテーマのひとつです。みなさん方の運動の発展に期待しています。
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