2003年5月24日(土)
以下は,和歌山学習協で行う『資本論』講座に向けて書いた「講師のつぶやき№1」です。
〔和歌山『資本論』講座〕
講師のつぶやき・1
2003年5月20日
神戸女学院大学・石川康宏
http://www5.ocn.ne.jp/~walumono/
〔講師のつぶやき〕
和歌山学習協の『資本論』講座がいよいよ始まります。私は和歌山で『資本論』をしゃべらせてもらうのは初めてですから,ここで簡単に自己紹介をしておきます。私が『資本論』の専門家でないことは,「よびかけ」の文章に書いておきました。
私は大学院(京大)では,もっぱら鉄鋼産業の日米関係について研究していました。ほとんど「世を忍ぶ仮の姿」という状態です。シンドイ時期でした。しかし,その間に,こっそりと東京の社会科学研究所にかよったり,また『青年運動』といった雑誌にペンネームで少しものを書いたりしていました。
神戸女学院大学に就職したのは95年です。震災の年でした。これでようやく「メシが食える」ようになりました。そこにいたる「不器用な苦闘の人生」については,私のホームページの「プロフィール」のページを見てください。
就職と同時に鉄鋼産業の仕事はすべてやめました。「そんなことをするために研究者になったのではない」という気分でした。ちょっともったいない気もしますが,しかし,おそらくああいった細かい実証研究は私にはそもそも向いていませんでした。なにせ経済学の指導教官にさえ「キミは哲学をやったほうがいい」といわれたくらいです。
その後は,まずは「『全般的危機』論なきあとの現代資本主義論をどうするのか」という思いで,レーニン『帝国主義論』の読み直しに挑戦してみました。論文も6~7本は書いたと思います。そして,その後「現状分析も同時にしなければダメだ」と考えるようになり,現代日本の「構造改革」をどうとらえるかについて研究するようになりました。論文は4本くらいでしょうか。竹中平蔵の本を十何冊も読んで怒りにまかせて批判したのは,その中の1本です。
また就職先が女子大だったこともきっかけになって「女性問題」にも首を突っ込むようになりました。実は一番新しい論文のタイトルは「マルクス主義とフェミニズム」です。これは関西唯物論研究協会の『唯物論と現代』第31号に掲載予定です。かなりはっきりと言いたい事をいわせてもらいましたので,いろいろな反論がありうると思います。しかし,そうした議論は楽しいものです。
あわせて就職が決まった95年春に関西勤労協(大阪の学習協です)に押しかけ,「労働者の学習運動に参加させろ」と談判しました。そこから関西各地の労働者教育運動ともつきあいが始まりました。
『資本論』の講座はこの和歌山の講座で8回目です。『資本論』第1部を読んだのが3回(京都,山城,神戸),第2・3部を読んだのが1回(京都),『エンゲルスと「資本論」』でやったのが1回(京都),『マルクスと「資本論」』でやったのが1回(神戸)。この他に『資本論』全巻を現在読み進めている途中をいうのが1つありますから(宇治),それで今回の和歌山は8回目ということになります。宇治の講座は,もう6年以上続けています。いまは第3部の第5篇「信用論」に入ったところです。あと2~3年で終わるのでしょう。
《『資本論』をどう読んでいくか》
さて,私の『資本論』講座はかなりスパルタです。アメとムチではなく,両手にムチで読んでいきます。ムチ打たれるのはみなさんです。時間の制約がありますから,かなり,はしょっていくことになりますが,私はできるだけたくさんマルクスの文章を読み上げて,それを解説していきます。
みなさんはどんどん線を引いて,どんどん書き込みをしていって下さい。「早すぎる」とか「量が多すぎる」といった苦情は一切受け付けません。たった1年の講義で第1部を読もうとすれば,量が多いのは当然です。時間が足りなければ,予習・復習で補ってください。みなさんには,まず「自分で学ぶ意志」を期待します。
そのうえで,受講されるみなさんには『資本論』とのふれあいの深さにかなり格差があると思います。「はじめて読む」「ちょっとだけ読んだ」「1度は読んだ」「何度か読んだ」など。しかし,おそらく多くの方が「はじめて読む」あるいは「ちょっとだけ読んだ」に分類されると聞いています。となると受講生全体としての基本の獲得目標は「ともかく最後まで読みとおす」ということになるでしょう。
「読みとおす」ことが獲得目標ということは,「わかる」かどうかは二の次だということです。もちろん「わかる」ところが多いにこしたことはない。しかし,そもそも1回や2回読んだくらいでスラスラわかるような本ではないのです。『資本論』は生涯学習の相手だと割り切ってください。
それでも,ともかく1回読み通してしまえば,「わかるところ」にはどこかで出くわすことができるでしょう。「『資本論』というのはこんなことが書いてあるのか」。そういう感想をもつこともできるようになるでしょう。
「わからないところ」にガッカリせずに,「わかるところ」を見つけて喜ぶ。「わからないところ」があれば「それがわからないということがわかった」という具合に,徹底的に楽観的に,前向きに解釈して「私と『資本論』の関係」を楽しむ姿勢が大切です。1回読んで「わからないところ」は2回目には「わかるところ」にかわるかも知れないのだし,3回目になればそれは「もっと良くわかるところ」にかわってくれるかも知れないのです。
しかし,まあ1回目のみなさんについては「大きな志をもちながらも,小さなわかるところをたくさんかき集める」という姿勢が大切です。
講義をするこちら側の構えとしては,1)できるだけ話の流れ(論理の展開)が見えやすいように努力する,2)勘どころとなるような大事な用語(概念)についてはそれを取り出して解説する,3)「面白い文章」については全体の流れにあまり関係がない場合にも話題にしてみる,といった柱をたててやってみたいと思っています。
毎回の講座で,このような「講師のつぶやき」という文章を配布します。内容はその時々の思いつきです。理論ネタあり,政治ネタありで,ともかくその時に私が「つぶやき」たいことを勝手に一方的につぶやいていきます。私にとってのストレス解消の場でもあたます。
そして,その文章に中に「質問に答えて」のコーナーをつくります。今回は第1回目ですから,そのようなコーナーはありませんが,とりあえずみなさんはなんでも質問してみて下さい。
ただし,もちろん「なんでも答えられる」というわけではありません。わからないものについては「わかりません」と答える場合もあります。また「どんな質問でもとりあげる」ということでもありません。講座の主題は『資本論』第1部を読むことですから,そこにかかわるものに絞らせてもらいます。
なお,質問はできるだけ「~~は何ですか?」ではなく,「~~については私は~~と思ったのですが,それでいいですか?」という形で行なってください。まずは自分のアタマで考えて,そのみなさんなりの解釈をこちらにぶつけるようにしてください。「わからない」の次に「自分で考える」というステップを入れて下さい。「わからない」の次がいきなり「だから他人に聞け」では自分のアタマの訓練になりません。
〔質問に答えて〕
1)○○ページでマルクスは「・・・・・」と言っています。ここは「・・・・」といった意味に理解していいのでしょうか?
●いいえ,ちがいます。マルクスはその前の段落で「・・・・」と言っており,また次の段落で「・・・・」と言ってます。つまりここでは「・・・・」が問題にされているわけです。文章のひとつひとつにとらわれすぎずに,大きな流れをつかまえてください。
以上のような,具合です。もちろん「はい,そうです」と答えることもあるわけです。
〔今日の講義の流れ〕
これは,どちらかというとみなさんのためではなく,講師である私の心おぼえです。まあ,だいたいいつも思ったように時間どおりにはいかないのですが,それでも少しくらいは時間配分を決めておこう,しゃべる順序を決めておこうということです。
1)今年度の『資本論』講座の狙い。(~2時00分)
・獲得目標は「読みとおす」こと。必要なのは「あきらめない」精神。継続は力。
・「わからない」でガッカリしない。「わかるところ」を見つけて喜ぶ。生涯学習。
・本には線を引き,印をつけ,文章を書き込んで汚す。「自分だけの本」をつくる。
・全8回のスケジュールはかなり大雑把。
・超ハイスピード予習の方法。各段落の最初の1文だけを読む。「アタリをつける」法。
・『社会科学総合辞典』(新日本出版社),不破哲三『「資本論」全3部を読む』(新日本出版社)。マルクスのことはマルクスに聞く。
2)さわり--あらためてなぜいま『資本論』か。(~2時20分)
・資本主義の根本を全面的に分析。「現代」をとらえる理論の土台(たとえば『帝国主義
論』との関係)。「現代」をとらえる最新の理論(たとえば恐慌論)。
・他にない理論の幅広さ。科学的社会主義理論の宝庫。哲学も,歴史理論(史的唯物論)
も,未来社会論も。
3)「序文」に学ぶ。(~3時)
・「序言(初版への)」・・・研究の対象と目的。『資本論』全4部。その研究の歴史。「経済的社会構成体」。
・「あと書き〔第2版への〕」・・・第1部は充実していく。ブルジョア経済学の歴史と階級的利害。『資本論』の方法(唯物論・弁証法)。
・〔フランス語版への序言とあと書き〕・・・必要な中間項。
・「第三版へ」・・・マルクス死後。引用の仕方。
・「編集者の序言〔英語版への〕」・・・古典派経済学の限界(資本主義経済を永遠と)。独占資本主義への移行期の中で。
・「第4版へ」・・・マルクスの引用に対する非難とエリナー・マルクスの反論。
4)「第1章・商品」に学ぶ。(~4時20分)
・第1篇は「商品と貨幣」。第1部の7篇の組立。まずは市場経済論。抽象から具体へ。
・第1節「商品の二つの要因」・・・使用価値,交換価値,価値。社会的に必要な労働時間。商品の歴史的性格。
・第2節「商品に表わされる労働の二重性格」・・・具体的有用的労働,抽象的人間的労働。需要と供給,社会的な労働の配置を価値法則が調節している。単純労働と複雑労働。人間の労働。生産力と使用価値。
・第3節「価値形態または交換過程」・・・貨幣は商品世界から。アリストテレスの天才と限界。
・第4節「商品の物神的性格とその秘密」・・・生産物が人を支配する。ロビンソン,中世,原始,未来。歴史が見れない古典派の限界。
・第1節は古典派の継承・発展。第2~4節はマルクスの独自の開拓。
2003年5月15日(木)
以下は,京都学習協で行う第2回現代経済学講座に向けて書いた「講師のつぶやき№1」です。
〔第2回現代経済学講座〕
講師のつぶやき・No.1
2003年5月13日
神戸女学院大学・石川康宏
http://www5.ocn.ne.jp/~walumono/
〔講師のつぶやき〕
京都学習協の第2回現代経済学講座がいよいよ始まります。第1回の昨年は私自身の書いたものをテキストに使ってみましたが,結果的には「思っていたより難しいなあ」というのが自分の論文に対する感想でした。
今年はどうなりますことやら。もちろん,昨年より「よいもの」にしようという思いはあるのですが。
さて,私はいま大阪に住んでいます。尼崎との境目のあたりです。今日は大学の授業がありませんでしたので,朝のうちから天王寺の総合社会福祉研究所に出て,さらに昼からは森之宮の関西勤労協(学習協の大阪版です)へと出かけてきました。
総合社会福祉研究所では『賃金と社会保障』という研究誌から,いくつかの論文をコピーしてきました。そこでは「現代の資本主義」「福祉国家」「新自由主義」などをめぐる数人の論者による議論(論争)が行われています。
私も以前に「『構造改革』は新自由主義の改革なのか」という論文を,『総合社会福祉研究』に書いたことがあります。
現代日本の状況をどうとらえるかをめぐっては,いろいろな議論があるわけです。
午後からは研究会でした。研究者・講師と労働運動・市民運動の担い手たちによる共同の研究会です。今日は大阪労連の事務局長と総合社会福祉研究所の事務局長が,それぞれ労働運動と社会保障闘争との関係について述べるというなかなかの豪華版でした。
「賃金闘争と社会保障闘争の関係をどうとらえるか」「どうして日本の労働運動は社会保障闘争で大きな成果をあげられないのか」「かつての前進の時期にはどうだったのか」……議論ははてしなく続きます。今後の運動へのヒントとしては,地域レベルでの労働運動と社会保障運動との連携が重視されました。
3時間の研究会終了後も,数人で雑談を続けていきます。それぞれが「自分の分野」をもっているので,なかなかに面白い活動と理論の交流になっていきます。
研究会では私も「マルクスの賃金論」をめぐって発言しました。労働力の価値が賃金によって担われていたのはマルクスの時代の話であって,社会保障をかち取った今日の労働者は,自らの労働力の価値を賃金と社会保障との両方に担わせている,その点を,労働者教育運動ははっきりさせるべきである,といった発言でした。
これは「マルクス主義とフェミニズム」というタイトルの論文に書いたことです。関西唯物論研究会の『唯物論と現代』第31号に掲載の予定です。
この「つぶやき」では,毎回,こんな具合に,その時々に私が思いついたことを,勝手に書き込んでいきます。
理論ネタもあれば,政治ネタもあり,労働者教育運動ネタなど,いろんなものが登場すると思います。すべては,その時の「思いつき」次第です。
次回以降は,この「つぶやき」のあとに「質問に答えて」というコーナーが続きます。毎回,講義のあとで受講生のみなさんから出される質問に対して文書で答えていくものです。
「何を聞かれても答えられる」などということはありませんから,もちろん,私なりに答えられる範囲で答えるということになっていきます。質問はできるだけ毎回の講義内容に即したものにしてください。その姿勢をはっきりさせることが,みなさんの学習を深めることにもつながります。
〔質問に答えて〕
1)日本の高度経済成長が終わってしまった理由はなんでしょう?
●それについてはテキストの○×ページを見てみましょう。そこには○つの理由が書かれています。たとえば……
といった具合です。とりあえず,どういう形でもいいので出してみて下さい。必要に応じて,こちらで質問をアレンジしたり,また選択したりということもあるかも知れませんが。
〔今日の講義予定〕
これは今日の講義のだいたいのスケジュールです。どちらかというとみなさんのためというよりも,講師である私のための心おぼえということです。
1)今年度の現代経済学講座の狙い。(~1時30分)
・小泉内閣下の現代日本経済を戦後の経済発展のなかに大きく位置づける。
・その際のポイントのひとつは「土建国家」といわれる異常な経済構造の形成。
・もうひとつはアメリカへの経済的従属・依存の実態をとらえる。
・全8回のスケジュール。
2)テキスト「戦後日本経済の50年」にそって。(~3時30分)
・テキストの内容をできるだけページを追って解説していきます。
・戦後経済の発展と変化を大きな流れのなかにつかまえる。
・現代の日本経済に大きな影響をあたえた代表的な出来事をつかまえる。
3)アメリカ帝国主義への従属をめぐって。(~4時00分)
・テキストへの理解をふかめるためにいくつかの点を補足します。
・対日占領政策の転換と日米安保体制まで。
・アメリカの許す範囲での財界の復活。
・戦後一貫した経済的従属。
4)大企業優遇政策と公共事業をめぐって。(~4時30分)
・高度経済成長と日本列島改造論。
・「公共投資基本計画」。
・歴代内閣の公共事業推進姿勢。
5)質疑。(~5時00分)
2003年5月1日(火)……以下は「しんぶん赤旗」4月28日付に掲載された「書評」です。
不破哲三著『マルクスと「資本論」①~③--再生産論と恐慌』(新日本出版社,03年)が対象です。小見出しは編集部がつけてくれたものです。
恐慌論の「空白」に挑戦/現代資本主義理解への貴重な貢献
この本は「科学的社会主義の経済学のなかで,再生産論と恐慌論のかかわりを明らかにする」ことを主題としています。「『資本論』のなかで」ではなく「科学的社会主義の経済学のなかで」とされているところがミソです。『資本論』での恐慌論の展開には「一種の『空白』」があり,少なくとも恐慌論については『資本論』をそのままマルクスの到達点とするわけにはいかない。それがこの本の出発点となっています。
巨大な研究課題
では,その「空白」とは何であり,それは何によって埋められるのか。「空白」とは何より,恐慌の「根拠」である「生産と消費の矛盾」が「再生産過程の正常な進行のための均衡諸条件を破壊」していく,その具体的な運動過程の解明にあります。恐慌の可能性を現実性に転化させるその過程の分析を,マルクスは『資本論』の再生産論(第2部第3篇)に書き込むつもりでいました。しかし,その予定は果たされることなく終わり,マルクス亡き後に『資本論』の編集を引き継いだエンゲルスによっても補われることはありませんでした。そこで,その書かれるべくして書かれなかったものを,マルクスの莫大なノートと草稿の中に分け入って探し,それをマルクスの研究にしたがって再現すること。それがこの本の課題となっています。この著者にしてすら「私なりの覚悟が必要だった」といわずにおれない,何とも巨大な研究課題です。
研究の結論が示す「空白」の核心は,再生産論の最後の章として書かれるはずだった「再生産過程の攪乱」に凝縮されます。著者はその再現を「推測の域を出るものでは」ないといいますが,しかし,その著者の手のひらには1000ページに近い研究で得られた「推測に役立つ多くの情報」が乗せられています。それによれば,この章には,①恐慌の可能性の問題,②恐慌の根拠である「生産と消費との矛盾」の問題,③「流通過程の短縮」をキーワードとする恐慌の運動論的な解明という,マルクス恐慌論の3つの基本的要素のすべてが含まれていました。
運動論の考察
その中でも最も深刻な「空白」となっているのは運動論の解明です。マルクスにとってその解明の「起点」となったのは「流通過程の短縮」(あるいは「再生産過程の独立化」)の発見でしたが,その発見が行なわれた「第2部第1草稿」を,エンゲルスは第2部編集の際に「断片的」であるとして視野の外にはずしてしまったのです。それが『資本論』におけるこの「空白」の大きな要因となりました。
「流通過程の短縮」を軸とする運動論の考察には,次の2つの問題が含まれるはずでした。第一は,再生産過程が均衡をはずれて恐慌にいたる,その文字通りの運動過程の考察です。①「他の産業資本家や卸売商人」による現実の消費を超えた大量の買いつけ(流通過程の短縮)が再生産を拡大させ,②それが再生産の「最盛の繁栄」を生み出し,③ついには恐慌の勃発へと導いていく。その全過程で恐慌の根拠である「生産と消費の矛盾」はどのような働きをするのか,それが大きな解明の課題となります。
第二は「流通過程の短縮」そのものの突っ込んだ理論的究明です。①それが「生産のための生産」を本領とする資本主義的生産の必然の産物であること,②信用制度がその短縮の規模を大きく左右するものとなること,③「世界市場」が一方で短縮の作用を見えづらくし,他方で短縮の運動に世界的規模での活動の場を与えること,これらが重要な論点として含まれていきます。もちろん,こうした解明はそのすべてが『資本論』第2部に収められるわけではありません。しかし,著者はこの理論の枠組み自体はすでにここで与えられるはずだったと結論します。
以上が,この本の最も骨太いあらすじとなります。誤解のないように強調しておきますが,この精緻な学説史的研究は現代資本主義の分析と無縁な,現代への理解から切り離された古い学説の詮索ではありません。マルクスの恐慌論が本来もっていた「広い視野と角度」を大きく引き出したこの研究は,日本経済の現状分析にとっても,現代における資本主義の運動法則の解明にとっても新しい重要な理論的指針を与えるものです。それはまちがいなく21世紀の資本主義を研究するための貴重な理論的貢献となっています。
“最後の一打”
さらに,この本の魅力と威力は以上にとどまるものではありません。例えば,第2部第3篇の最後に恐慌の研究が予定されていたとなると,『資本論』第1部を「生産のための生産」,第2部を「消費のための生産」と理解し,その上で第3部を両者による矛盾の展開ととらえた従来の「資本論の方法」理解は根本的な再検討を避けることができなくなります。また利潤率の傾向的低下の法則を資本主義の限界を示すものと理解することはできないという率直で大胆な問題提起や,「独自の資本主義的生産様式」「再生産資本家」といった草稿にはあるが『資本論』には採用されていない(あるいは充分説明されていない)重要な概念への注目,さらには巻末にそえられた「不破流の年譜」が再現するマルクスの研究史像のユニークさや草稿の執筆時期についての独自の考証など,この本が投げかける新しい問題はかなりの数にのぼります。
巨大な古典家たちの業績を「歴史のなかで」読むことは,著者によるこの間の連続した研究の重要な方法論的特徴となっていますが,そのマルクス恐慌論版というべきこの本は,いつでもマルクスを同じ地平に出来上がったものとして読もうとする教条主義への最後の一打としての意義ももっています。マルクスその人をも「科学の目」でとらえる。そのことが,時に誤り,苦しみ,試行錯誤に陥りながら,それでも科学することをあきらめないマルクスの変革者としての人間的魅力と迫力を逆にリアルに浮き彫りにしています。
今回の研究は『マルクスと「資本論」』の全体ではなく「最初の部分」だと著者は書いています。また,この5月からは「代々木『資本論』ゼミナール」の内容が全7冊のブックレットで出されるということです。政党幹部としての激務の中でのこの知的生産力の高さには,本当に驚かされます。
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