2004年8月25日(水)……兵庫学習協のみなさんへ。
以下は,8月22日に行われた兵庫学習協「『「資本論」全3部を読む』講座」の第4回講義に配布したものです。
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〔2004年・兵庫学習協・『「資本論」全3部を読む』講座〕
第4回 資本主義と社会主義・共産主義
2004年8月14日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1)質問に答えて
質問の文章を簡略しているところがあります。ご了解ください。
1)「世界市場=時間がかかる」ならば,現在のオンライン・ビジネスでは状況が変わるのでしょうか。
●個々の資本にとってはかわります。現場の情報が瞬時に入るという意味では。ただし,オンラインといっても,あらゆる製品の販売が「注文生産」になっているわけではありませんから,どんなに情報が早く入っても,それ以前の段階で「見込生産」をし,現地に在庫をもつということは変わりません。また,個々の資本が瞬時に情報を手に入れたとしても,競合する資本のそれぞれが同じように情報を手に入れる力をもっているのであれば,それは競争の緩和にはつながりません。むしろ,わずかな時間のロスを避けるための競争が激化することにもなります。
2)公務員労働者は搾取されているのでしょうか。また商業労働者の搾取について,剰余価値を生産しないのに搾取されるということがあるのでしょう。
●商業労働者の問題については,ページ数の紹介もしてありますから,ぜひ,ご自分でテキストを確かめてみてください。商業資本は,産業資本の生産した商品をその生産価格より安く買い入れ,生産価格どおりに販売することで商業利潤を手に入れます。その利潤のもととなる剰余価値は産業資本が生産したもので,商業資本は剰余価値を生産しません。そこでの商業労働の役割は,商業資本に剰余価値を「実現」してやることです。その「実現」する価値と,商業労働者の賃金との格差が商業資本の利潤の源となります。それが商業労働者の搾取です。
●公務員労働者は,直接に資本に雇用された労働者ではありません。国家や自治体は基本的には利潤追求を目的にしてはいません。商業資本や銀行資本などのように産業資本が生み出した剰余価値を自分の手元に配分させるということもしません。活動の資金源も私的資本ではなく,公的な税金です。したがって,公務員労働者は,民間労働者と同じ意味で搾取されているということはできません。
●ただし,公務員の労働条件については,民間労働者に順じたものとされています。法律を守るという建前,また公務員労働者の闘いの成果として,個別には一般の民間労働者よりマシな労働条件をかちとっている側面が多いですが,それでも全体としての労働条件は民間労働者に準じたものとされています。したがって,その労働は直接に価値(剰余価値)を生むものではないにもかかわらず,労働の社会的役割と賃金との格差という形で,公務員労働者にも民間労働者に準じた,擬制的な搾取があります。
●ここで大切なのは,前回の講義でも見たように「搾取」は日常語であり,厳密な学問的な用語ではないということです。そこでは中小企業からの価値収奪が「搾取」と述べられていましたが,労働者の配置される部署に応じても,「搾取」の厳密な内容は異なるわけです。産業資本のもとで生産する労働者にのみ「搾取」があると考えるなら,それは「搾取」をあまりにも狭く,一面的に理解することになります。
3)民主的な活動をしている男性にも,家庭の中では「主人」という人が多いです。「平等・自由」という大切なセンスがズレてしまっていると思います。一部のフェミニストには「マルクス主義者は,労働者階級が解放されればおのずと女性も解放されるとして,主体的に女性解放の運動をしない」という批判をしますが,これは何を根拠にいっているのでしょう。
●現代日本における男性の「主人」意識,女性の「奥さん」意識については,やはり歴史的な根拠があります。「三界に家なし」といわれた,おそらく日本史上もっとも女性の社会的地位が低められたのは明治に入ってからの時代です。「家」制度をさだめた明治民法は戦後の新憲法時代まで続きます。終戦までに成人した男女は,「家」制度や圧倒的な男性優位社会のなかで人格を形成する他ありませんでした。具体的にいえば,1945年で仮に20才とすれば,2004年の今日,その年代の方は79才ということになります。
●戦後育ちの「民主教育」世代であっても,家庭生活は,この戦前型の両親のもとで送ることになります。それが大人の男と女の「手本」となります。また社会の中では年長者が大きな権限をもつことが多いという影響力もあります。そこで育つ子ども世代が,だいたい今の50台くらいでしょうか。そして,この「民主教育」世代を両親にもった世代が,ようやく次の30才前後からということになります。ですから,この3世代では,男女関係や結婚についての価値観が相当大きく違うということになります。現代の日本人は戦前の「男尊女卑」型の社会関係の尻尾を,依然としてかなり深くもっているわけです。もちろん,こうしたことへの自覚を強くもち,自分をかえることに成功している年配の人もいれば,若いけれども「主人」「奥さん」意識にとりつかれている人もいますが。
●また戦後の「主人」「奥さん」意識のひろがりには,第2回の講座で取り上げた「男は仕事,女は家庭」という「近代家族」の大衆化も大きな影響を与えています。そうした家族の増加が「オレが食わしてやっている」という意識を,社会のすみずみにまでひろげていく土台にもなりました。さらに,「家族」のことは「私的なこと」として,外部からの干渉が届きにくいことが,言葉や行動による暴力さえも「夫婦のことに首をつっこむな」として見過ごされることの条件となっています。セクハラ,ちかん,DVなどの性暴力をはじめ,職場での性差別や家庭・地域でのアンバランスな性別役割分業に対して敏感でない男性が少なくないのは,このような自分のおかれた環境に対して無自覚であることが多いからでしょう。なお,こうした「男性権力」や「意識」の裏返しとして,これに従属した「女性意識」があるのも一面の事実です。「男女平等」の実現には,男性意識の改革を大きな推進力とする制度的改革とともに,女性全体の自立意識と能力の形成も必要になると思います。
●ご指摘の一部フェミニストの議論ですが,基本的にはエンゲルスの『家族,私有財産および国家の起源』を問題にしています。女性の解放には,1)女性の経済活動への全面的な復帰と,2)家事の社会化が必要であり,それは共産主義において実現するとエンゲルスは語りました。そこには,当時の女性のおかれた歴史的実態があり,また「革命は遠くない」という歴史観の反映もあったと思います。批判するフェミニストたちの中には『起源』への読み方が必ずしもていねいでなく,中には最初から悪意をこめているかのような読み方もありますが,他方で,20世紀の歴史の変化をとりいれた,『起源』の現代版を生み出すことのできなかった科学的社会主義の側の不十分さも小さくない影響を与えていると思います。
●民主的な活動の現場にも「主人」や「奥さん」の意識が少なからずあるのは現実です。セクハラなどへの無理解もあります。これは今日の社会全体のあり方の反映であり,意識や行動への浸透です。また,そこには,改革すべき社会の問題を「生産」や「労働」や「政治」といったいわゆる「公的領域」でしかとらえることができないという,科学的社会主義への理解の一面性という問題もあると思います。資本主義の枠内における男女関係の変革は,企業内部だけではなく,家庭においても,地域においても,あらゆる関係において重要な社会変革の課題といえます。
2)「資本主義と社会主義・共産主義」
〔第1部該当分から〕
1)商品経済社会の歴史的位置づけの中で
・社会の特徴,1)共同的生産手段で労働,2)多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会的労働力として支出する,3)自由な人々の連合体。
・生産物の分配について,1)生産手段と共同で,2)生活手段は個人的に。
・共産主義にも多様な「歴史的発展段階」がある。 1-154~157ページ
2)人間の発展という角度から(57~58年草稿)
・第1段階,人格的依存が中心。奴隷制から封建制。第2段階,人格的独立性と物的な搾取者への従属,社会の主人公となる力をもった人間は,ここで初めて歴史に登場。資本主義。第3段階,人間が全面的に自由になる共産主義。物的にだけでなく,人間の成長・発展についても資本主義の成果にもとづいて。
・1980年に自称「社会主義」国での抑圧,大量虐殺,前近代的な個人の神格化などを分析して。
・「戦時共産主義」の時点でのレーニンによるブルジョア民主主義の全面否定の誤り。 2-55~61
3)労働時間の短縮と未来社会(マルクスの見解の発展)
・『ドイツ・イデオロギー』(45~46年)では人間の全面的発達を「悪しき分業からの脱却」ととらえた。その誤りに気づいたのちには,全面的発達の保障を労働時間の抜本的な短縮に求めた。
・57~58年草稿。「社会の発展の,社会の享受の,そして社会の活動の全面性は,時間の節約にかかっている」「労働時間の節約は,自由な時間の増大,つまり個人の完全な発展のための時間の増大に等しく,またこの発展それ自身がこれまた最大の生産力として,労働の生産力に反作用を及ぼす」。
・61~63年草稿。時短により「万人」が「『自由に利用できる時間』を,真の富を,もつ」「この時間は……自由な活動と発展とに余地を与える。時間は,諸能力などの発展のための余地である」「自由に利用できる時間をもつ人でもある人の労働時間は労働するだけの人間の労働時間よりもはるかにより高度な質をもつ」。 2-165~173ページ
4)社会的分業にかかわって
・資本家たちは工場内部の専制的秩序を「労働の生産力を高める労働組織」だとしながら,「社会的生産過程のあらゆる意識的な社会的管理および規制」に対しては,こえをきわめて非難する。 2-218~220
5)資本主義における機械の使用の限界
・資本主義での機械採用の基準は,それが人力より安いかどうか(賃金の節約との対比)。共産主義では,機械自身の生産に必要な労働が,機械によって置き換えられる労働より少なければ,採用される。基準は労働の節約。 2-243~245
6)工場法の評価のなかで
・工場法がもとめる労働と教育の結合は,全面的に発達した人間をつくる。今日そのまま繰り返す必要はないが,人間の能力の全面的発達をめざす,その条件を資本主義の内部に探る姿勢がある。
・機械制大工業のもとでの労働の転換と,それに応じた技術・職業学校の形成。「労働者階級による政治権力の不可避的な獲得が,理論的および実践的な技術学的教育のためにも,労働者学校においてその占めるべき席を獲得するであろうことは,疑う余地がない」。
・家族形態の問題。大工業は「家族と男女両性関係とのより高度な形態のための新しい経済的基礎を作りだす」。
・いずれも外からの青写真の押しつけでない,矛盾した現実の中に未来の「要素」を見出す姿勢。 3-59~71ページ
7)共産主義における労働時間
・「資本主義的生産形態が廃止されれば,労働日を必要労働に限定することが可能となる」。労働者の生活は改善され,必要労働は「範囲を拡大する」。他方で,社会の発展に必要な「社会的な予備元本および蓄積元本」も必要労働。
※第3部では,予備元本・蓄積元本とも「剰余労働」に含まれている。上の見地はここだけ。
・資本主義的浪費への批判。労働能力のある全員が労働することで個人労働時間を短縮する。 3-92~96ページ
8)資本の蓄積過程のなかで
・社会主義革命そのものを正面から論じているのは『資本論』全体で,第24章第7節のみ。 3-118
・私的所有から資本主義的所有への「取得法則の転換」は,共産主義に向けた「否定の否定」の最初の「否定」。 3-124~126ページ
・資本主義が「生産のための生産」の法則によって,共産主義を準備する過渡的性格をもつことを指摘しながら,「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする,より高度な社会形態」。 3-134ページ
・「労働元本」説への批判のなかで「現存の生産手段および労働力によって直接的かつ計画的に実現されうるいっそう合理的な結合」。 3-140~141
9)第24章第7節「資本主義的蓄積の歴史的傾向」
・「小経営」から資本主義への変革(個人的所有の否定)。
・資本主義のもとでの共産主義の物的準備(労働過程の協業/科学の意識的応用/土地の計画的利用/労働手段の共同的労働手段への転化/それによる生産手段の節約/世界市場のへの全国民の編入/資本主義の国際的性格の発展),主体的準備(労働者への抑圧・搾取と,労働者の結合・訓練)。
・共産主義への変革(個人的所有の再建)。主人公は結合した生産者。生産手段は社会的所有,生活手段と個人的所有。 3-248~267ページ
※「社会主義革命」(124など)と「社会主義的変革」(262など)の並存。
10)社会変革の目標の明示
・『資本論』第1部以前には変革の目標は「私的所有の廃止」が普通。ただし『共産主義の諸原理』に「全生産物の分配」は明示されており,私的所有の廃止は最初から生産手段に限られていた。
・『資本論』以後,より厳密な規定が登場。「労働手段を社会の共有財産に」「生産手段を集団に返還」などから「生産手段の社会化」へ 3-268~274ページ
〔第2部該当分から〕
1)流通費にかかわって
・簿記=資本家の会計活動。生産の社会的結合にともない簿記はますます必要となる。「資本主義的生産では手工業経営および農民経営の分散的生産でよりもいっそう必要になり,共同的生産では資本主義的生産でよりもいっそう必要になる」。 4-170~171ページ
2)長期の巨大事業と資本の回転にかかわって
・長期の事業では市場から,しばらくは一方的に固定資本・労働・原材料が引き上げられる。共産主義では,それにもかかわらず総生産が円滑にすすむための「計算」があらかじめ行われる。「社会的悟性」を祭りの前にはたらかせる。 5-27~29ページ 5-47~48ページ
・共産主義では貨幣流通にかわって「指図証券……かも知れない」。 5-49ページ
3)固定資本の補てん
・経済の計画化は過不足のないところまで徹底されるのでなく,相対的過剰生産とゆとりある在庫を想定。「この種の過剰生産は,社会がそれ自身の再生産の対照的諸手段を管理することと同じである」。 5-110~111ページ
〔第3部該当分から〕
1)原料危機への対応として
・「原料の生産にたいする共同の,全面的な,かつ予見的な管理」。原料危機の根本解決を共産主義への発展の方向にもとめる。そのまま現代にあてはめるべきものではないが,資本主義制度のもとで表面化するさまざまな経済的矛盾を敏感にとらえ,その解決と結びつけて,共産主義についての考察がめぐらされているのは教訓的。 5-276~279ページ
2)株式会社の評価について
・株式会社は「資本が生産者たちの所有に」「直接的な社会的所有に,再転化する」「ための必然的な通過点」。「これこそ資本主義的生産様式そのものの内部での資本主義的生産様式の止揚であり,それゆえ自己自身を止揚する矛盾であり,この矛盾は,"明らかに"新たな生産形態への単なる過渡点として現われる」。株式会社は「ペテンと詐欺の全体制を再生産する。これは,私的所有の統制を欠く私的生産である」。「しかし,株式形態への転化自体は,まだ依然として,資本主義的諸制限に閉じ込められている」。 6-218~221
3)協同組合工場の評価について
・1)協同組合工場は新たな生産様式の形成の実例,2)信用制度は協同組合工場が国民的規模で拡大する手段を提供している,3)株式会社では資本主義の対立が「消極的に止揚」され,協同組合工場では「積極的に止揚される」。
・2)の見通しは歴史のなかで実現されず。 6-221~222
4)信用制度の歴史的役割
・1)銀行制度は形式的な組織・集中の面から資本主義が生んだ人為的でもっとも発達した産物,2)銀行制度とともに社会的規模での生産手段の記帳と配分の形態(だけ)が生まれる,3)平均利潤は信用・銀行制度の完全な発展によってはじめて媒介される,4)信用・銀行制度は社会のあらゆる資本を産業・商業資本家の自由な使用にゆだねるが,それによって資本の私的性格を止揚し,資本そのものの止揚にも足を踏み出す。 6-268~269ページ
5)差額地代にかかわって
・差額地代の超過利潤=「虚偽の社会的価値」に,共産主義社会は支払いをしない。7-51ページ
6)土地所有の消滅について
・「より高度の経済的社会構成体の立場からは,個々の個人による地球の私的所有は……まったくばかげたものとして現われる」。土地は「改良して次の世代に遺さなければならない」。 7-87~88ページ
※今日的にそのままではあてはめられない。
7)人類史の中での「剰余労働」
・必要労働と剰余労働をより広い視野でとらえる。社会が直接的な欲求を満たすための労働を「必要労働」とし,その範囲をこえる労働を「剰余労働」とすれば,この「剰余労働」はあらゆる社会に必要。
・共産主義の「剰余労働」には,事故への保険と生産の拡張への用意,高齢者・子どもなどのへの社会保障的部分がある。
・「自由の国」は「必要労働」と「剰余労働」の全体としての「物質的生産」労働がなくなるところで始まる。物的生産は「必然の国」に属する。「自由の国」は物的生産にしばられない自由な活動の領域。
・共産主義でも物的生産のための「格闘」は必要。「必然の国」での自由は,自然との物質代謝を合理的に規制し,自分たちの共同管理におくこと。「最小の力の支出で,みずからの人間性にもっともふさわしい,もっとも適合した諸条件のもとでこの物質代謝を行うこと」。
・「自由の国」の核心は,個々人の好き勝手ではなく,個人としも,社会や人類の全体としても,自分のもっている能力の発展それ自体を目的として自由に活動すること。
・「労働日の短縮が根本条件」。 7-150~163ページ
※エンゲルス『反デューリング論』では,「必然の国」と「自由の国」は歴史的に前後関係にある社会。マルクスでは一つの社会に同時にある関係。
8)共産主義での「剰余労働」
・1)不変資本のための保険元本,2)再生産過程の拡大のための蓄積,3)労働能力のない人々のための社会保障的元本。
・労働者たちの豊かな暮らしのために必要労働は拡大される。 7-174~175ページ
9)共産主義での「価値規定」
・「資本主義的生産様式の止揚後も,しかし社会的生産が維持されていれば,価値規定は,労働時間の規制,およびさまざまな生産群のあいだへの社会的労働の配分,最後にこれについての簿記が,以前よりもいっそう不可欠なものになるという意味で,依然として重きをなす」。
・「価値規定」には市場経済の調整作用が含まれている。マルクスは共産主義に市場経済が存続するとは考えなかったが,価値規定の存続では含みを残した。今日では市場経済を通じた社会主義は法則的方向であり,その意味でも創造的探求を必要とする課題。 7-175~177
10)共産主義での「必要労働・剰余労働」
・「必要労働」が共産主義でどう変わるか。1)労働者の消費の拡大を可能にする,2)欲求の拡大(個性の完全な発展が必要とする消費範囲へ)。
・「剰余労働」の変化。1)生産の拡大は「社会的欲求によって規定される程度」にとどまり,「生産のための生産」を成熟した共産主義のスローガンとはしない,2)社会保障的元本を「剰余労働」に限定せず,「必要労働と剰余労働」のうちに幅もって入れている。
・共産主義社会では,社会構成員全員の生活維持が「必要労働」の新しい基準になると考えたのかも知れない。 5-182~187ページ
3)おわりに
・不破哲三『「資本論」全3部を読む』そのものを読み通す。わかるところをさがしながら,小説を読むように気楽に読む。時間を惜しんで,かまえないで読む。一度に全部わかろうとするのでなく,繰り返し読むことを優先する。
・テーマにそって読む。著者の意図にそって読まされるのでなく,こちらの意図にそって辞書のように「引いていく」。このレジュメや自分なりのテーマをもって。
・『資本論』と対比して読む。『全3部を読む』が引用しているところに印をつけ,そこに不破氏の言葉を書き込んでいく。自分だけの『資本論』づくり。
・どのような取り組みの局面にあっても,つねに学習を土台にすえた運動づくりを。独習の習慣を,あらゆる組織の全構成員の「日常生活」に。ベテランも「時代後れ」にならないように。
2004年8月14日(土)……兵庫学習協のみなさんへ。
以下は,8月16日に行われる兵庫学習協「『「資本論」全3部を読む』講座」の第3回講義に配布するものです。
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〔2004年・兵庫学習協・『「資本論」全3部を読む』講座〕
第3回 資本主義の基本矛盾と恐慌
2004年8月14日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1)質問に答えて
「労働力の価値」のとらえ方をめぐって,いくつかのご質問・ご意見がありました。
1)「労働力の価格を,価値以下に……」の話は,もう少し整理して考えたい。漠然とその認識を自分ももっていたから。私たちの運動は,よく「本来の権利が守られていない」という切り口で語る。これ自体よく考えていかねばならないと思った。理想と現実についての考え方の整理だ。
2)私が働きはじめた頃いわれた賃金の「マーケットバスケット方式」は労働力の価値をもっと高いものにしたいととらえれば,有効性があるととらえれば良いでしょうか。
3)「あるべき労働力の価値」論は誤りとの事でしたが,搾取率の計算に必要ではないでしょうか? また賃上げ要求の根拠づけは,生活実感からくる要求額の積み上げだけでなく,「あるべき労働力の価値」を追求することに意味があるのではないでしょうか。もちろん,労働力の価格が「力関係」で決まるのが原則とは思いますが。
●「労働力の価値」論についてはお話したものの,その新しい解釈にもとづく「賃金闘争」論にまでは話がとどかなかったので,その点についてのご質問が出てきています。
●まず搾取率の計算に「あるべき」が必要ではないかというご指摘ですが。必要ありません。搾取率は可変資本と剰余価値との比率ですが,そこで問題になるのは実際に資本が支払っている可変資本(賃金)と,実際に資本が取得している剰余価値の比率です。そこに「実際」とは異なる「あるべき労働力の価値」が入り込む余地はありません。
●かつて総評などがとなえた「マーケットバスケット方式」は,「あるべき労働力の価値」を計算するひとつの方法とされたものです。ここでは2つの問題の区別が必要です。1つは,その計算によって「あるべき労働力の価値」が計算できるとすることには科学的根拠がないこと。もう1つは,しかし,それによって要求すべき賃上げ目標のひとつの目安ができること,です。つまり「われわれはこれだけの賃金を受け取るべきだ」というのは,労働力の価値に関する何か客観的な根拠に支えられた主張ではなく,あくまで労働者の要求だということです。そこの整理が必要です。その要求がどの程度まで実現するかは「力関係」だけが決めることであり,その「力関係」によって決められた賃金で,労働者は労働力の価値を(再)生産していくしかありません。
●「あるべき労働力の価値」論の最大の弱点は,誰によってもそれを客観的な根拠をもって算出することはできないというところにあります。そして,その理論的な弱点が「そのような賃上げ要求には根拠があるのか」という問題に容易につながります。賃上げ闘争は要求闘争ですが,要求闘争の推進力は私たち自身の欲求です。「人間らしい生活がしたい」「人間らしい生活というのはこういうレベルだ」。これは私たちの欲求が決めることであり,それから離れた何か客観的な基準がどこかに存在するわけではありません。
●以上のことは,原理的な問題として『現代を探求する経済学』にも書きました。また『労働総研クォータリー』51号(2003年夏号)にも,このような新しい理論展開の試みが掲載されています。
もうひとつ,現代的な経済問題についてのご質問です。
4)奥田経団連会長の『人間を幸福にする経済』を読みましたが,銀行――日本の金融制度をどうするのかについて全くふれていません。氏が委員をしている「経済財政諮問会議」では,何より銀行の不良債権処理が最優先課題としているのにどういうことでしょうか。財界は金融問題をどう考えているのでしょう。私たちはどう考えればいいのでしょう。
●今日の財界主流――自動車・電機を中心とする対米依存度の高い製造業――は,すでに日本の金融市場をアメリカ資本に開放し,その結果として金融市場がアメリカ資本によって席巻されたとしても,それを「やむなし」とする姿勢を確立していると思います。
●金融市場への外資導入を決めたのは96年11月からの「金融ビッグバン」ですが,「金融ビッグバン」は95年2月の「日米金融サービス協定」にもとづいています。そして,この協定の締結を日本側にのませるための強力な圧力として活用されたのが95年をピークとする超円高でした。当時の円相場は,年平均で90年の「1ドル=144.79円」から95年の「94.06円」に急騰し,協定後には98年の「130.91円」へと反落しています。円高はアメリカ依存度の高い製造業者にとっては「致命傷」となります。それを回避するための「取り引き材料」として,すでにその段階で日本金融市場の明け渡しが結論されているのだと思います。
●そのように考えると,02年9月柳沢氏から竹中氏への金融大臣変更,10月竹中プログラムの提示,03年5月「りそな」実質国有化という一連の流れや,日本の銀行業界と小泉内閣との様々な軋轢もよく理解できるものとなります。「不良債権をアメリカに売れ」というアメリカ側の戦略でもっとも成功したと自負されているのが「新生銀行」ですが,「第2,第3の新生銀行を提供せよ」というアメリカ側の要求が,02年の柳沢大臣更迭につながっています。以上の問題も『現代を探求する経済学』に述べてあります。
●国民の立場からすれば,金融市場をめぐるアメリカ資本との競争強化が,日本の銀行の「生き残り」のための貸し渋り,貸しはがし,不正行為などにつながっていることが重要です。また「新生銀行」は中小企業にもっとも冷たい銀行として金融庁からの「指導」の対象ともなっています。さらに金融業界におけるアメリカ型労務管理の浸透は,いっそうのリストラを促す可能性をもっています。「ペイオフの解禁」問題も,国民を脅迫しながら,より少数の大金融機関に国民の預金を集中させようとするものです。郵政民営化も,そのように民間金融関連資本の市場を拡大することを目的としています。「投資信託」の普及など,預金ではなくバクチを銀行が国民にすすめることもひろがっています。
あとは,ご自身の『資本論』学習の「報告」です。時間を惜しんで学習するということのひとつのお手本になっていると思います。こういう交流も労働者教育運動にとっては,大切なことだろうと思います。
※10年ほど前に『資本論』を読了しました(もっとも,ともかく読み通したというだけで,今では「そんなこと,どこに書いてあった」という調子ですが)。当時のメモを見てみますと,第1部読了に6ケ月,第2部・第3部に1年かかっています。読み方は半分くらいは電車の中でした。当時,神戸から大阪に通勤しており,地下鉄20分,JR(三ノ宮-大阪)20分,JR環状線7分かかっていましたので,この時間を利用して,新書版を読みました。集中できずに1日1~2ページしか読めなかった力,文章の途中で電車を降りるので,次に読むときには何度かバックせざるを得ない時もありましたが,それがかえって,2~3回読んでいるということにもなりました(はっきりは理解できないが,ともかく次に進むということも多かったですが)。机の前で読むことだけが学習ではないと思います。
●貴重な体験だと思いますし,貴重な習慣を身につけられていると思います。じつは私も読書の半分以上は電車の中で行っています。「読まねばならないがなかなか読む気になれない」本がある時には,それを読むために電車に乗り込むという方法を,すいぶん前に教えてもらったこともあります。時間を惜しむという精神は,「バス停」「トイレ」「交通機関の中」「会議の休憩や待ち時間」……すべての時間を「学習の時間」にかえさせます。
●労働者階級の全体的な政治的・知的成熟には労働時間の短縮が必要ですが,「短縮されるまで勉強はできない」といっていたのでは世の中は変えられません。時間をつくること,自分の生活を点検し,管理すること,有効につかわれていない時間を削り落としていくことは,それ自体が重要な闘いだと思います。
2)「資本主義の基本矛盾と恐慌」
〔不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』(新日本出版社,2001年)より〕
1)資本主義の体制的な矛盾――マルクスの定式
・マルクスは「生産のための生産」を「資本主義の歴史的任務」と強調する。それと生産関係の狭い枠組みとの衝突が資本主義の生涯をつらぬく「恒常的な矛盾」。恐慌はこの矛盾と衝突をもっとも鮮明に示すもの。 117~120ページ
2)体制的な矛盾――エンゲルスの定式
・「社会的生産と資本主義的取得との矛盾」「生産の社会的性格と取得の資本主義的性格との矛盾」。マルクスの「恒常的な矛盾」に通じるが,「生産のための生産」に突き動かされて体制の基盤を掘りくずす道を突進する資本主義の矛盾した姿を,よりダイナミックにとらえているのはマルクスの定式ではないか。両者の関係はまだ研究中。 120~122ページ
3)資本主義の体制的な矛盾――マルクスとエンゲルスの違いは?(質問に答えて)
・エンゲルスの定式は「資本主義的蓄積の歴史的傾向」からまとめられたようで,マルクスもこういう整理は否定していない。ただし,ひっかかりが3つある。1)「生産の社会的性格」では「生産のための生産」という突進的衝動が表現しきれない。2)「プロレタリアートとブルジョアジーとの矛盾」を根本矛盾の現象形態と位置づけているが,これは経済矛盾の現象などではない資本主義の成り立ちの根本,3)もうひとつの現象形態として「個々の工場における社会的組織と総生産における社会的無政府状態との矛盾」をあげ,ここから恐慌を説明しているが,それでは「恐慌の可能性」の次元だけでの説明になる。恐慌をとらえる上ではマルクスの定式の優位性は明らか。今後のマルクス研究でもう少しつきつめたい。 172~174ページ
〔第1部該当分から〕
1)商品流通がはらむ恐慌の可能性
・商品世界論のもっと重要な点。生産物交換が貨幣を介した商品交換になった時点で,「購買と販売の一致」(ジェームズ・ミル,リカードウ)は成り立たなくなる。恐慌の可能性の出現。購買と販売の不一致を強制的に統一するのが恐慌 1-215~218ページ
・恐慌の可能性にはいろいろな形態がある。 1-220ページ
・恐慌の可能性は「起こりうる」というだけ。それが恐慌をうみだすことの説明はふくまれない。現に資本主義以前の商品経済には恐慌がない。 1-221~223ページ
・恐慌の可能性と原因をとりちがえてはいけない。J・S・ミルは購買と販売の分離から恐慌を説明。レーニンも「生産の無秩序から説明する」と勇み足をおかしたことかある。 1-223~225ページ
2)第1部と恐慌
・自分の生産物が売れるのかという「命懸けの飛躍」は第1部の研究課題にならない。それは「流通過程」の問題として第2部で扱われる。 2-16ページ
3)機械制大工業と産業循環について
・機械制大工業と恐慌の関係の中心点を明らかに。ただし「理論的」にでなく「純事実的諸関係」として。機械制は突発的で飛躍的な生産の拡大能力をもつ。市場の収縮とともに麻痺があらわれる。機械経営は労働者の生活に不安定性をおしつける。3-38~39ページ
・産業循環のなかで雇用者の増加が見られるのは,恐慌から抜け出して過熱(バブル)にいたる時期だけ。その時期にも技術革新による増加の中断がある。恐慌は失業と窮乏を極端にする。 3-40~41ページ
※恐慌と産業循環の不破流年表 3-44~46ページ
4)フランス語版の恐慌論
・エンゲルスは第3版の編集にフランス語版を活用したが,マルクスによる恐慌論の書き換えについてはとりいれてない部分が多くある 3-161~165ページ
〔第2部該当分から〕
1)第2部は恐慌論の展開の本番
・第1部の市場経済論には資本は登場しない。それは第2部で初めて。第3部冒頭でマルクスは生産と流通の統一は第2部で考察されたと明言している。 4-19~22ページ
・「62~63年草稿」が語る恐慌論。第1部では理論展開は問題にならない。第2部では初めて本格的に展開されるが不完全。第3部では「補足」が行われる。 4-24~31ページ
・エンゲルスの編集上の弱点。第2部の位置づけを理解していなかった。エンゲルスがつかわなかった第1草稿(65年)には,1)第2部の構成プランがあり(「攪乱」をふくむ),2)再生産過程の矛盾が恐慌にいたる運動論が述べられていた。 4-39~52ページ
2)第2部第1草稿の内容から
・恐慌の運動論の解明は「生産資本の循環」の解明と深くかかわる。生産資本循環は,1)販売と購買が連続する過程として結びつき,2)それが反復する再生産を媒介する。この2つをそなえた循環は他にない,だから運動論の絶好の舞台装置。 4-97~99ページ
・「流通過程の短縮」――商人の登場により,商品が最終消費者にとどかない段階にあっても,ある時期までは再生産過程が見かけ上の「需要」を基礎に,円滑に進行することができる。それは「現実の需要」からの販売の「独立」。恐慌の準備。 4-99~102ページ
・運動論(不破流)――購買と販売の不一致が,どうして恐慌に爆発するところまで深刻化するかの過程と必然性の領域の問題。販売と購買の不一致が,価値から離れた価格の運動で調整されずに大きくなる。その累進型の運動を起こすのが「流通過程の短縮」。 4-102~105ページ
・運動論の解明。1)恐慌の可能性が現実性に発展するプロセスの追跡,2)理論的に探求すべき視点・角度の設定,3)どこで扱うかという『資本論』の構成の問題(第2部で)。 4-105~114ページ
・第5草稿(77年)からつくられた第2部第1篇第2章の「短縮」論には,第1草稿との細部までの一致がある。 4-121~131ページ
3)固定資本の更新の恐慌
・58年の手紙では固定資本の更新が恐慌の10年周期にむすびつけられた。第9章(第2草稿68~70年)では,恐慌期の一大投資が次の回転循環の物質的基礎をつくるとはしているが,循環の周期の基礎を固定資本の平均寿命(10年)に求めることはしていない。75年のフランス語版では周期を「不変」とみる必要はない,しだいに「短縮」されるとしている。ここでは固定資本の寿命と結ぶ構想は事実上,放棄されている。「短縮」の見通しは正しくなかったが,固定資本の寿命と結ばないという理論的発展は重視すべき。 4-207~211ページ
4)労働期間の長い事業と恐慌
・マルクスが体験した47年恐慌,57年恐慌ではいずれも鉄道への投資が恐慌の引き金のひとつとなった。マルクスはそれを資本の回転の角度から研究しようとした。 5-25~27ページ
5)恐慌論についての「覚え書」
・マルクスが第3篇で論じようとしていたこと。1)生産と消費の矛盾,2)産業循環,恐慌の運動論の問題,3)生産と消費の矛盾の再度の定式化。 5-29~34ページ
6)労働者階級の消費という角度から
・繁栄期には労働者階級も奢侈品の消費に参加する。その繁栄期に恐慌は準備される。「過少消費説」では説明できない。恐慌の原因は消費の狭さそれ自体ではなく,生産の無制限的拡大と制限された消費の矛盾。この矛盾を爆発させる推進力は「生産のための生産」の衝動。 5-93~96ページ
7)第2部第3篇の「中断」を埋める
・「再生産過程の攪乱」では3つ柱が大きな主題。1つめは恐慌の可能性。1)恐慌の可能性にはいろいろな形態がある,2)可能性は「起こりうる」という限り,3)可能性と現実性の区別は可能性と根拠・原因の区別に対応する。 5-154~160ページ
・2つめは恐慌の根拠・原因。根拠とは可能性を現実性に発展させる原動力・動因。1)部門間の不均衡や価値革命を原因のひとつにあげる場合があるが,それにもかかわらず主要な根拠・原因を「生産と消費との矛盾」としている。2)生産と消費の両面を並列させるだけでなく,資本主義的生産が両極を動かす主体となる弁証法的矛盾としてとらえる。3)この矛盾を消費の制限を乗り越える資本主義の本性に力点をおいて動態的にとらえる。マルクスは生産力を発展させる衝動に力点,エンゲルスは大衆の貧困と消費制限に力点。 5-160~170ページ
・3つめは運動論。「生産と消費の矛盾」はいつでもある。これがどのような仕組みで恐慌となって爆発するところまで矛盾と不均衡を累進的に拡大させるのかが,運動論の課題。1)もともと狭い限界をもつ社会的消費のもとで,なぜ再生産過程の拡大が可能になるのかなど。2)「流通過程の短縮」による生産の自立化が「生産のための生産」を可能にする,信用制度と世界市場がさらにこれを拡大させる。 5-170~178ページ
〔第3部該当分から〕
1)利潤率の傾向的低下の法則の章で
・法則自体は事実に合致しない。ここは法則とのかかわりを気にせず,恐慌についての独立の文章として読む。いずれも恐慌の根拠が主題。1)搾取の条件と搾取の実現の条件は別であり,社会の消費力の生産者からの独立が最終的な恐慌にいたる。2)恐慌は矛盾の一時的な暴力的解決,攪乱された均衡を回復する暴力的爆発。3)資本主義は生産力発展とこれに照応する社会的生産関係との恒常的矛盾。4)制限された消費とこれを乗り越えようとする生産にはつねに不一致が生じる。5)商品の過剰を否定しながら資本の過剰を認める(リカードウの後継者)のは不合理,生産部門の不均衡は「結合された理知」の不在による。 6-85~94ページ
2)商人資本の役割に視点をおいた運動論
・「流通過程の短縮」が商人資本の運動からとらえられる。1)商業資本は生産資本のためにW-Gを短縮する,2)信用制度のもとで終局的販売の前に自分の購入を繰り返すことができる。それによる「架空の需要」が恐慌を準備する。 6-120-122ページ
・恐慌は個人消費の縮小(小売商人の破綻)からではなく,卸売業と銀行業の部面から爆発する。不変資本の流通に関する考察の試みも。 6-123~126ページ
3)信用論における恐慌論
・エンゲルスは第25章を恐慌の勃発における信用論の役割を主題として加工したが,「中間項」を欠かさないマルクスが信用論の冒頭でいきなりこのような問題をたてることはない。 6-211~213ページ
4)「究極の根拠」に関する命題のエンゲルスの書き換え
・マルクスは生産と消費を同じ比重で問題にしたが,エンゲルスは結局大衆の貧困だけを指示する文章になっている。「過少消費」説的解釈に道を開く。 6-238~241ページ
5)エンゲルスの書き換えの「邪道」
・マルクスにはない命題の書き込みがあるが,それは編集の枠をこえたエンゲルスの邪道。 6-243~246ページ
以上
2004年8月14日(土)……兵庫学習協のみなさんへ。
以下は,8月9日に行われた兵庫学習協「『「資本論」全3部を読む』講座」の第2回講義に配布したものです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
〔2004年・兵庫学習協・『「資本論」全3部を読む』講座〕
第2回 労働力の搾取と再生産
2004年8月4日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1)質問に答えて
1)未来社会での社会的労働の適正な配分と,それが「計画では全部ができない」という話がつながりました。ここで,市場がどこまでつかえるのか,公的な関与はどこまであるべきかという議論をしっかりさせないと,新自由主義と闘えないと思います。
●労働の分配の問題は大切な問題で,具体的な未来像は,現実に資本主義の民主的な規制がすすみ,「市場の否定面」を抑制していく社会的な実践の積み重ねの上に,次第に全体像が明らかになってくるのだろうと思います。
●ただし,「新自由主義」に私たちが対置すべきは「未来社会」ではありません。自由競争野放しの「新自由主義」に対しては,まっとうなルールのある資本主義を対置しています。社会改革の段階の相違ということですね。
2)科学的社会主義の視点から新しい修正・補正により,『資本論』の価値を高める不破論文のご尽力には敬意を表しつつ,過去の解釈の平均的レベルがあったとしたら,このレベルを大幅に変更し変革(改善)した場合,国際的議論,国内各界での議論による,不破論文自体の検証のプロセスが必要ではないでしょうか? 何らかの客観的妥当性の検証があれば,鬼に金棒だと思いますが。
●学問の成果には,つねに歴史的・個人的制約がつきまといます。今回の不破氏の研究についても,当然,それがつきまといます。不破氏の研究に対しても「歴史の中で読む」という批判的な精神が必要であるわけです。当然,研究者を中心に,今回の問題提起に対する批判的な検討が行われるべきです。
●なお,この講座では「何が提起されているか」に焦点があてられています。
2)「労働力の搾取と再生産」
〔第1部該当分から〕
1)労働力商品の価値は何で決まるか
・労働する個人の正常な状態での維持(歴史的要素を含む,世代交代の保障,複雑労働の養成費も) 2-51ページ
・賃金すなわち「労働力の日々の維持費」 2-77ページ
〔※ 商品の価値と労働力の価値,労働力の生産と再生産〕
2)労働日(絶対的剰余価値の生産)をめぐって
・剰余価値の生産,科学的社会主義の核心 2-79ページ
・労働日の長さは力関係・闘争によって決まる 2-93ページ
・資本の要求の貫徹が法則なのではない,対決の決着は闘争で決まる(絶対的貧困化論の誤り) 2-95ページ
・社会による強制なしに,資本は労働者の健康を顧慮しない 2-130ページ
・イギリスでは労働時間の規制は「内乱」によって勝ち取られた 2-139ページ
・資本と闘う「強力な社会的防止手段」(標準労働日) 2-149ページ
・時短はすべての解放・改善の先決条件(健康と体力,知的発達,政治活動など) 2-161ページ
〔※ 社会による強制が資本主義の枠内での民主的改革を実現する〕
3)女性・児童保護の要求
・工場法は女性の夜間労働,両性関係の礼儀を傷つけたり,女性のからだに有害な影響をおよぼす作業を禁止すべし 2-161ページ
・女性と児童の国家による時短は男性の時短にもつながる 2-164
〔※ 工場法に対する一部フェミニストの評価,資本家の責任か労働者の責任か〕
4)労働力の価値を引き下げる相対的剰余価値生産
・必要労働時間=労働力の価格に相当する労働時間,生活費を生みだす労働時間 2-178ページ
・『資本論』では労働力の価格(賃金)を,価値以下に値切ることは想定していない 2-178ページ
・一定の範囲の中で賃金は力関係と闘争で決まる,労働条件の問題で不動の鉄則はない 3-90ページ
〔※ 「労賃=価値以下」説,それにもとづく賃金闘争論の誤り〕
5)機械の使用と女性・児童労働
・機械の使用が女性と児童を工場に追い込む(社会的生産への参加は良い,問題はその具体的条件・環境) 3-27ページ
・機械は古い社会関係と家族関係の解体をひきおこす 3-29ページ
・機械制より遅れた分野での女性・児童労働力のむきだしの濫用 3-56ページ
・児童を過酷な工場に送り込む「親権の乱用」や男女関係の頽廃(そのもとで父親の絶対権力下にあった古い家族制度の経済的基礎の解体,家族と両性関係のより高度な形態のための新しい経済的基礎の形成) 3-64ページ
6)労賃(労働の価格)という形態
・労働力の価値(価格)が労働の価格として「現象」する(搾取が見えなくなる) 3-101ページ
・見えなくなることの特殊性は,奴隷制・農奴性(夫役労働)との対比で明瞭 3-103ページ
7)労働者家族の個人消費は労働力の再生産
・労働者家族の個人的消費は資本の生産と再生産の一契機(資本は資本関係を生産する) 3-122ページ
〔※ 戦後日本における「近代家族」の形成と変容,資本と労働者家族との対立,専業主婦論,最悪の長時間労働と最悪の性差別の結合〕
8)貧困化の法則性をめぐって
・『資本論』は「一路貧困化」論を否定している(労働時間も労賃も実際の内容は力関係と闘争で決まる),宿命論でなく階級闘争論 3-180ページ
〔※ 労働力再生産費の多様化,賃金,社会保障給付,税,保険料〕
〔第2部該当分から〕
1)労働力が商品として現れるという社会状態,階級関係の現存(歴史でなく現在の循環として) 4-62ページ
2)労賃で労働者が生活できるということは商品経済の高度な発展を前提する 4-67ページ
3)画期的な搾取様式
・資本主義的商品生産は画期的な搾取様式(労働過程を組織・技術両面から変革し経済構造全体を史上かつてない規模で変革する) 4-75ページ
4)「搾取」という用語の問題(日常語)
・「企業の生産活動が……下請け企業に対して,差別的な搾取をおこなっていないか……」 4-93ページ
〔第3部該当分から〕
1)不変資本の使用における節約(前貸総資本のコスト削減)
・合理的で節約的な使用と,労働者の生命および健康の浪費 5-263ページ
2)商業労働者の搾取
・商業労働は剰余価値をつくらないが,「不払労働」と「支払労働」という搾取関係は存在する 6-118ページ
〔※ 商業利潤〕
3)利子と企業者利得の形態では搾取関係は消え失せる
・利子生み資本が対立するのは機能資本 6-161ページ
・企業者利得は利子と対立し,資本所有とは関わりのないものとして,監督賃金として現れる 6-162ページ
〔※ 剰余価値の分配〕
4)監督・指揮労働
・階級社会では監督・指揮労働は,搾取のための監督労働という性質をもつ 6-167ページ
5)三位一体的定式は現象論の世界
・「資本-利潤,土地-地代,労働-労賃」は社会的生産の一切の秘密を隠蔽する 7-142ページ
・商品の物神性(神秘化)の発展の到達としての三位一体的定式(競争と結びついた偶然もひとつの要因) 7-145ページ
6)階級論
・レーニンの規定に単純に太鼓判は捺せない 7-202ページ
〔日本の現状・歴史にかかわって〕
・8時間労働制が「上からの改革」で与えられた権利意識の弱さ 2-141ページ
・「産業予備軍」でまかなえなかった高度成長期の労働力不足(農村から都市への労働力流動化政策) 3-169ページ
・労働者の作業環境が破壊される 5-266ページ
・日本の労資関係への資本家的観念の浸透(利子は経営コスト,会社代表も従業員) 6-163ページ
3)「ジェンダーを考える――家庭の役割をふくめて搾取解明したマルクス」(「しんぶん赤旗」2004年7月13日付)
私が,ジェンダー(=歴史的に形成される男女の社会的関係)の問題を考えるようになったのは,女子大である今の職場に就職してからです。
学生が就職活動で差別され,卒業生が就職先で差別を受ける。
セクハラの被害で転職を余儀なくされた卒業生もおり,その度ごとの憤りの積み重ねが,現代社会を論ずるときに,性による差別やより幅広い社会的な性別分業を語らないわけにはいかないと,そう思わせる力になってきました。
●女性の置かれた現段階を知れば
労働運動は労働者の状態から出発するとは良くいわれることですが,女性たちのおかれた社会状態は男性以上に複雑です。
企業の中の性差別,必ずしも十分とはいえない労働組合等の理解,望まない専業主婦がもたらす経済的・精神的な不安,日常生活におけるセクハラ,DV(夫・恋人からの暴力),性犯罪といった暴力被害の可能性など。
かつてエンゲルスは『空想から科学へ』でフーリエにふれながら,「ある社会における婦人の解放の度合いが全般的な解放の自然の尺度である」と述べましたが,あらためて,女性解放の現段階は具体的にどのような問題を解決の課題としているのか,そこを良く考える必要があると思います。
●『起源』の理論の現代的な発展が
科学的社会主義の学説は,ジェンダーの概念と相容れないものではなく,むしろその領域での先駆的な解明の実績をもつものです。
男女の社会的な関係の変化が,経済を土台とした社会全体の大きな変動とつながっていることを,初めて明らかにしたのはエンゲルスの『家族,私有財産および国家の起源』でした。
それはマルクスの「古代社会ノート」を活用して書かれたものです。
また,マルクスの賃金論については,男性労働者が家族全員を養うための「家族賃金」をいつでも手にするべきだという「家族賃金思想」にとりつかれているとする批判がありますが,それは『資本論』を歴史のなかで正確に読んだものとはいえません。
ただし,それらの研究から,すでに100年を超える時間が流れています。
これらの理論にも現代的な発展が求められるのは当然です。
『起源』については,特に生産力の発展とエンゲルス等が主張した社会改革の取り組みによる,その後の資本主義の変化をどう取り入れるのかが問題です。
たとえばエンゲルスは女性解放の条件として,女性の公的産業への復帰や私的家政の社会的産業への転化をあげ,これは未来社会で達成されると考えました。
しかし,すでに北欧の女性労働力率は80%をこえ,日本より年間700時間ほども短い労働時間や,充実した社会保障が,労働と家事の平等に必要な物的条件を広げています。
こうした変化がある以上,資本主義の枠内で男女平等の何が実現可能であり,何が未来社会を必要とするのか,そこをリアルにとらえかえす作業が大切となっていると思います。
●理論的豊かさに新しい光あてる
他方で,『資本論』には,資本主義におけるジェンダーを考えるたくさんのヒントがあると思います。
それをしっかりつかみとることが大切です。
たとえばマルクスによる資本主義的搾取の解明には,労働者家庭が労働力の生産(体力の回復)と再生産(生殖と子育て)の場として役割をはたしているという分析がふくまれます。
「男は仕事,女は家庭」型のいわゆる「近代家族」が日本で広く労働者家庭に普及するのは高度成長期のことですが,そこには「家庭をかえりみる」ゆとりをゆるさない男性労働者への徹底した搾取と,その労働力の確実な再生のために,結婚・出産退職や若年定年制で女性を強制的に「家にかえす」財界の意図的な戦略がありました。
家庭の役割を視野にふくめたマルクスによる搾取の解明は,企業社会での深刻な女性差別と大量の専業主婦の形成,過労死を生む世界的にも異常な長時間労働の並存を,こうして統一的に理解させます。
それは,今日における家事労働や専業主婦の社会的地位を科学的にとらえる基本見地を与えるものともなっています。
ジェンダー視角からのマルクスの読み直しは,この領域におけるマルクスの理論的豊かさに,新しい光を当てるものになるでしょう。
2004年8月9日(月)……兵庫学習協のみなさんへ。
以下は,8月2日に行われた兵庫学習協「『「資本論」全3部を読む』講座」の第1回講義に配布したものです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆
〔2004年・兵庫学習協・『「資本論」全3部を読む』講座〕
第1回 『資本論』入門/市場経済と資本主義
2004年7月30日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
1)〔この講座のねらい〕――全7冊独習のための参考に
講座受講の呼びかけ文――「『資本論』研究の新たな成果にテーマで学ぶ――市場経済,搾取,恐慌,社会主義」(2004年6月21日作成)から
『資本論』で「科学の目」をやしなう
なぜいま『資本論』なのか。答えは簡単で,『資本論』こそ,日本と世界をとらえる「科学の目」を養うのに格好の書物だからです。『資本論』は資本主義の根本に挑戦しており,そこには現代の資本主義をとらえるための科学的で重要なヒントがたくさんあります。
あわせて大切なのは,『資本論』が「経済学だけの本」ではないことです。唯物論の見地はもちろん,弁証法や,人類史の発展,未来社会の展望と,そこには科学的社会主義の学説の構成要素が自由自在にからみあっています。レーニンはこの学説を「全一的な世界観」といいましたが,その「全一性」がまるごと入り込んでいるのが『資本論』の特徴です。
『「資本論」全3部を読む』の新しさ
今回の講座でとりあげたいのは不破哲三著『「資本論」全3部を読む』です。そこには『資本論』研究のユニークな新しい高みがこめられています。先の点に関連していえば,この本は経済学者による研究・解説にありがちな,『資本論』を経済学の面だけから論ずるという制約がありません。また『資本論』を章ごと・篇ごとに輪切りにするのでなく,あくまで全体を1つの著作として読むという姿勢が貫かれるのも重要です。
さらに,もうひとつ大切な点は,今回の研究が,現行『資本論』を完成品としてではなく,マルクスの研究によって補足されるべきものと見ている点です。
『エンゲルスと……』から『レーニンと……』まで
『全3部を読む』に結実する不破氏の『資本論』研究の直接の出発点は,『エンゲルスと「資本論」』でした。エンゲルス没後100年の1995年に始まったこの研究は,『資本論』第2・3部の編集に取り組んだエンゲルスの苦闘を詳しく調べあげ,そこには偉大な功績とともに,検討を要する問題が残されていること,また必ずしもエンゲルスの編集に取り入れられなかった,第1部以降のマルクスの新しい研究の内容が明らかにされました。つづいて書かれた『レーニンと「資本論」』では,レーニンの業績全体の再評価が中心課題となりましたが,特に『資本論』とのかかわりでは,レーニンが『資本論』を最初からロシア社会の解明と変革の指針として受けとめる姿勢と力をもったことが強調されました。
『マルクスと……』による大きな前進
『マルクスと「資本論」』には,研究の新しい飛躍があります。経済学研究の開始から,亡くなるまでのマルクスの研究のすべてをながめ,そこから,マルクスにはあったが『資本論』には残されなかったものは何だったのか,その食い違いが整理されます。特に重要だったのは,現行『資本論』の編集には採用されなかった第2部第1草稿に,恐慌の解明の核心が隠されていたことへの注目です。エンゲルスはその意義を十分にとらえることができず,その結果,『資本論』全体の構成についても大きな難問が残されました。
こうした一連の研究の上にたっての『「資本論」全3部を読む』は,もはや現行『資本論』の研究・解説にとどまることはできません。そこには,いまある『資本論』への補足があり,補足された『資本論』が示す姿についての新たな解説がふくまれざるをえないのです。
4つのテーマで読んでみる
さて,こうした意義をもった不破氏の『「資本論」全3部を読む』ですが,この講座ではページの順に読むのでなく,次のようなテーマにそって読んでみたいと思います。これら4つのテーマごとに,この本が明らかにしていることの全体をつかまえることに力点をおいてみたいと思うのです。いわば,この本の現実解明にむけた理論的な「威力」を,4つのテーマにそって探ってみよういうことです。
ぜひ,みなさんには『「資本論」全3部を読む』全7冊を手元において,いっしょに読んでいただければと思います。講座では毎回レジュメを配ります。これを全7冊を読むうえでのひとつの参考にしてもらえればと思います。100名をこえる方々のご参加を,兵庫のみなさんの学ぶ意欲と取り組みの力に期待したいと思います。
『資本論』研究の新たな成果にテーマで学ぶ――市場経済,搾取,恐慌,社会主義
8月 2日(月)――「『資本論』入門」,「市場経済と資本主義」
8月 9日(月)――「労働力の搾取と再生産」(家族の問題にもふれて)
8月16日(月)――「資本主義の基本矛盾と恐慌」
8月23日(月)――「資本主義と社会主義」
2)〔このテキストの特徴①〕――大きな3つの特徴
書評「不破哲三『「資本論」全3部を読む』第1~3冊――大胆な提起を含む深い研究の書」(『前衛』2004年4月号)より
この本については「読みやすい」「わかりやすい」という声を,良く耳にします。そのようにして,この本に多くの読者が得られることは,とても嬉しいことです。しかし,あわせて,読者のみなさんには,この本が従来の『資本論』研究にはない,大胆かつ斬新な提起と解明をふくむ深い研究の書であることも,ぜひ知っておいてほしいと思います。
この本の第一の特徴は,『資本論』を完成したものとはとらえず,むしろ補足と訂正の必要な著作だとして,その補正を実際に行っていくところにあります。現行『資本論』には書かれるべくして書かれなかった事がらもあれば,エンゲルスによる編集の失敗もあり,またマルクスがより進んだ研究によって置き換えたいと願った箇所もあれば,重要な概念なのにそれを説明する言葉の不足を補えなかったところもある。だから,今ある『資本論』をもって,そこにマルクス本来の研究の高みが十分反映しているということはできない。この間の不破氏によるこうした一連の研究の上に,いよいよマルクスの草稿を活用した新しい『資本論』像の提示が試みられる。それが,この本の何よりの特色です。
すでに示された『エンゲルスと「資本論」』の内容からは,第3部における信用論と地代論の少なくない補足が予想され,また『マルクスと「資本論」』は,第2部での再生産論の補正の必要を示しましたが,その成果はすでにこの本の第4・5冊に盛り込まれています。第1部には,直接にはそのような大きな補正はありません。しかし,たとえば商品論の解説で,商品流通における恐慌の可能性を「商品世界論のもっとも重要な」「結論」と位置づけるあたりには,すでに再生産論・恐慌論の補足による新しい『資本論』像から逆算した第1部の「読み」が現れているのかも知れません。早く,その全体像を目の前におきたいものだと思います。
この本の第二の特徴は,『資本論』の全構成をつらぬく「発生論的方法」への強いこだわりにあり,そのこだわりによって『資本論』の理論内容への理解を具体的に深めているところにあります。一方で『資本論』を篇や章ごとに輪切りにしてしまう断片的な読み方を避け,他方で抽象から具体へと進む理詰めの展開方法を抽象的にだけではなく,あくまで『資本論』の内容に即して語る。これを全3部を通じて余さず行う本は,他に見当たりません。
『資本論』はバラバラに切り離して読まれた篇や章への理解を順にならべるだけではわかりません。それでは篇や章の重なりのなかでの,理論の育ちが読めないからです。たとえば,第4篇「相対的剰余価値の生産」で行われる協業,マニュファクチュア,機械制大工業の生産力分析が,第7篇では新たに「独自の資本主義的生産様式」の発展という角度から豊富化され,また同じ第4篇での「結合された全体労働者」の発生と発展(それによる「類的能力」の発展)の分析が,第7篇のいわゆる「否定の否定」の論理のなかでは,生産手段の社会的所有の主体という新しい役割を獲得していく。これらの重要な理論内容の意義を,不破氏はそれぞれの概念が篇や章の個々の枠組みを越えて,『資本論』体系全体のなかにどのように貫かれ,どのように豊かに成長するかという角度から明らかにします。先の2ケ所は方法へのこだわりが,具体的な内容への理解を新たに深めることの良い実例になっていると思います。
第三の特徴は,『資本論』を「普通の意味での『経済理論』」に痩せ細らせることなく,弁証法,史的唯物論,社会主義論など,その多面性・全一性のままにとらえきろうとする点です。資本主義を歴史的にとらえる視角の有無は,マルクスと古典派との「経済学の中身」を違わせる重要な要因となりました。たとえばマルクスは価値法則を,社会的労働を各部門に分配する「自然法則」の商品経済社会における歴史的現れととらえます。それは,剰余価値論や恐慌論とのかかわりといった資本主義経済理論の内部だけに,狭く閉じ込められたものではないのです。また,この本は資本主義の内部に社会主義の条件がどう準備されるかという問題に,ひとつの焦点を定めていますが,それは「肯定の中に否定がつらぬく」という『資本論』の弁証法を,やはり具体的な資本主義解明の論理に即して明らかにするものとなっています。
他にも,『資本論』の個々の読み方に学ばされるところは多々あります。宿命論的な貧困化法則の否定や,労賃と労働力価値との関係の指摘も刺激的です。読者のみなさんには,こうした数々の画期的な意義にも思いを及ぼしながら,「わかやりすさ」を楽しんでほしいと思います。お互い最後まで,しっかり学びましょう。
3)〔このテキストの特徴②〕――新しい『資本論』像の内容
書評「不破哲三『「資本論」全3部を読む』第4~7冊――浮かび上がった驚きの『資本論』像」(『前衛』2004年9月号)より
全3部に渡る合理的な読み方の探求
第1~3冊についての書評(本誌4月号)では,この本の特徴を次の3つにまとめておきました。1つはマルクス本来の到達点を盛りこんだ新しい『資本論』像の提起,2つは全体を1つのまとまりとして読むことへの強い姿勢,3つは経済学にとどまらない科学的社会主義理論への多面的な注目です。
第4~7冊を読み終えて,新しい『資本論』像の提起が,予想をはるかに上回る大きなスケールで展開されたことに驚かされています。『資本論』全3部は,もちろんエンゲルスの努力なしにはありません。エンゲルスはマルクスの文字どおりの共同研究者であり,マルクス亡き後には,その遺志を次いで『資本論』第2・3部を編集・出版した人物です。しかし,その最良のマルクス理解者であるエンゲルスでさえ,限られた時間に完全な編集を行なうことはできませんでした。その結果,出版された『資本論』には,マルクスの草稿により補われねばならない空白もあれば,編集の不手際による余計な重複もあり,さらにマルクス自身が誤りをおかした議論や,その誤りをエンゲルスが増幅してしまった箇所も残されることになりました。
著者はこの本で,マルクス自身の成果によって過不足を正し,正された『資本論』が示す新しい理論の高みを確認しながら,あわせてマルクスが解決に至らなかった諸問題についても,率直な指摘をしています。それはマルクスと『資本論』を歴史の中で読み,その当否の1つ1つを「科学の目」で確かめる,『資本論』のいわば合理的な読み方を徹底的に探求したものです。こうした作業を『資本論』全編に渡って行なう仕事は,この7冊がはじめてでしょう。以下,いくつかの論点を紹介しておきます。
恐慌論の補足で「雷鳴」を轟かせる第2部
第2部では,なんといっても恐慌論の補足が中心です。『マルクスと「資本論」』で論じられた研究成果が,あらためて第2部の展開にそくして論じられます。
ここで著者は,エンゲルスには,全3部にしめる第2部の位置づけが正確にはとらえられなかったと指摘します。それは,第2部を紹介するエンゲルス自身の言葉と,マルクスの第2部第1草稿をエンゲルスが第2部の編集にまったく活用しなかった事実に象徴されています。第2部の全体的なプランをふくんだ第1草稿によれば,恐慌論の中心的な解明は第2部で行われることになっています。しかし,現行の第2部に,そのようなまとまった解明はありません。
そこで,著者はマルクスの本意にもとづく第2部の再現を試みます。まず第1篇を,第1草稿の「流通過程の短縮」論で補強します。これは,特に恐慌の直前に生じる投資の過熱(バブル)を説明する,恐慌の「運動論」の基礎部分です。現行の第2部には「短縮」という言葉はあっても,その理論的な意味を解明した文章はありません。
さらに,最もまとまった補足が行われるのは第3篇です。第1草稿のプランには,現行第2部にはどこにもない「再生産過程の攪乱」が含まれていたからです。第2部第3篇は,拡大再生産が円滑に進行するための条件を探り当てたところで終わっています。しかし,マルクスの構想は,その円滑な進行の条件がいかにして崩れ,再生産がどのようにして破局に至らずにおれなくなるのかという「攪乱」の問題,すなわち恐慌の発生についての本格的な解明がつづくものになっていました。
著者はこれを,恐慌の可能性,恐慌の根拠・原因,恐慌の運動という3つの柱にまとめ,マルクスの草稿類から,それぞれに具体的な理論の内容を与えています。可能性を現実性に転化させる「動因」となる「生産と消費の矛盾」の解明では,その動態的な理解の点で,エンゲルスに的確さの欠けるところがあるという指摘もなされています。また,この矛盾が累進的に不均衡を拡大していく恐慌の具体的な発現過程(運動論)については,「流通過程の短縮」論がフルに活用されています。
このように恐慌論を内に組み込んだ第2部は,もはやエンゲルスがゾルゲへの手紙で語った「大きな当てはずれ」などではありません。マルクスは資本主義が未来社会に移行していく必然性を,恐慌のうちに読み取り,その解明を「経済学批判」の核心としていました。その肝心要の問題が,この第2部を本格的な舞台として行われる以上,それは第3部を待たずして巨大な「雷鳴」を轟かせずにおれないものだったのです。著者による新しい第2部像の提示は,こうして『資本論』全3部の構成の理解にも大きな変更を迫るものとなっています。
なお,第2部第3篇の拡大再生産論については,この箇所の読み方の問題がありました。ここでエンゲルスは,マルクスが問題を正しく解明した文章以外に,本来入れる必要のないマルクスの模索と失敗の文章を盛り込んでしまったのです。著者はこの混乱を見事に交通整理し,読む者がここでその跡に迷い込むことのない読み方を示しています。また「貨幣資本の遊離」にかんするマルクスの誤りを増幅させてしまったエンゲルスは,そこで信用論と再生産論とのかかわりについてのマルクスの問題意識をとらえることができずにいます。これもまた,エンゲルスが十分にマルクスの思いを理解できないままに,第2部の編集を行なったことの1つの証左となっています。
現象の世界を内面から説明しつくす第3部
第3部では,そもそもこの部の課題は何かが問題です。それは第1部・生産過程と第2部・流通過程の統一あるいは矛盾の展開などではありません。それは,すでに第2部で達成された課題であるからです。
第3部を「資本主義的生産の総過程」と名付けたのはエンゲルスで,もともとマルクスが与えた表題は「総過程の諸姿容」でした。著者は,そのマルクスのタイトルの重大な意味に注目します。「姿容」とは目に見えるままの姿かたちということです。「総過程の諸姿容」とは,すでに解明された生産と流通の内的論理が,資本家たちの「日常の意識」に現われた,その「表面」的な観念のことです。
内的本質は,そのままの姿で現象の世界に現われはしません。もしそうであれば,現象を分析する科学の必要はなくなってしまいます。そこで,現象から本質を探るにとどまらず,逆に,本質から現象を説明しつくす――つまり第1・2部が解明した資本主義の内面世界が,どうして内面の姿とは違う,ある「表面」の姿をとって現われ出ずにおれないのか――その問題の解明が第3部の課題とされるわけです。著者はこれをマルクスの「発生論的方法」が典型的に現われたところだと強調しています。
さらに,ここで重要なのは,本質を正確には反映しない「表面」世界の資本家的観念が,それにもかかわらず物質的な力となり,現実経済を動かしているという事実の分析です。価値の支配する市場経済から,生産価格の支配する市場経済への転化は,その「観念」を推進力として行なわれました。
可変資本と不変資本の区別をもたない資本家たちは,剰余価値を前貸総資本が生み出す「利潤」ととらえ,剰余価値率ではなく「利潤率」を高めることを資本家としての直接的な課題とします。それは「利潤」の源泉を正確にはとらえない,非科学的な歪んだ観念です。しかし,その観念が資本家全体の行動を律し,平均利潤を形成させる運動をつくり,結果として,平均利潤を含む生産価格を市場に成立させていくのです。
利潤論につづく商業利潤や利子や地代の議論も,生産価格を前提として成り立つ世界の問題であり,全3部の最終篇となる第7篇は,現象世界をはいまわる俗流経済学の「三位一体」論が資本家的観念の写しにすぎないことを暴露しています。現象の必然性の解明をつうじた内的本質の確証こそが,第3部全体の課題となっているわけです。
他方で,第3部の編集にも問題がないわけではありません。特に,草稿のなかで最も完成度の低かった信用論には,特別に深いメスが入ります。エンゲルスは,マルクスによる本文と準備材料を区別せず,これを混在させることで,今の読みにくい信用論をつくってしまいました。著者は,これをマルクス本来の考察にそって整理します。また,議会報告書などからの莫大な抜粋については,あくまで材料の無秩序な集成であり,ここから理論的に意味あるものをつくろうとすること自体が無理であったと結論します。ここは読み手には格別にお手上げ感の強いところですから,この道案内は大変にありがたいものです。なお,恐慌にかかわる文章にふれて,著者はここの書き換えには編集の枠をこえた「邪道」があると,厳しい言葉でエンゲルスを批判しています。
つづく地代論は,資本主義的地代の解明と土地所有論の人類史的展開という2つの魂をもつマルクスの研究から,前者だけが取り込まれて出来たものです。エンゲルスは,マルクスが地代論を書き換えたならロシアが主な舞台になると予測しましたが,著者はこれを2つの魂の十分な区別にもとづく見解ではないと論じています。
さらに,第3部がはらむ弱点と研究上の課題について,著者は,まず利潤率の傾向的低下が,資本主義の歴史的に一時的な性格を表わすという見解に異議をとなえます。また差額地代については,差額地代の第Ⅱ形態は第Ⅰ形態が追加的投資のもとでどのような運動をするかという問題であり,第Ⅱ形態自体を独立させることに無理があると指摘します。これらはいずれも,マルクスの到達点そのものへの著者の批判的な検討となっています。
改革者の深い「教養」の土台として
1995年に連載が開始された『エンゲルスと「資本論」』で,著者は「今後の『資本論』研究」への「期待」として,エンゲルスによる『資本論』編集の追体験,マルクスの経済学ノートの研究,1870年代の新しいプラン問題の解明をあげました。『マルクスと「資本論」』をへて,今回の『「資本論」全3部を読む』に結実した成果は,何より著者自身がこの「期待」にこたえる努力を率先して行なってきたことを示しています。それが,この本の講義の中でも,「ここの理解は定説と違う」「不破流なのだ」と繰り返し語ることの深い裏付けになっています。
もちろん著者は現行『資本論』の問題点ばかりに目をむけるわけではありません。経済学はもとより,唯物論,弁証法,認識論,史的唯物論,未来社会論など,たくさんの宝の山に深い注目を寄せ,そこに新たな光をあて,新しい発見を見て取っています。著者が,やさしい語りに込めた多くの新たな解明を吟味することは,並大抵の仕事ではありません。
本書が,よりマシな社会づくりを考え,これを語ろうとする人たちの深い「教養」の地盤を形成するものとして,ますます多くの読者に歓迎されることを心より期待したいと思います。
4)〔ゼミナール第1回の内容から〕――いま『資本論』を読むにあたっての予備知識(第1冊19~95ページ)
1)なぜ,『資本論』を学習の主題に選んだか
・『資本論』の経済学は現代に生きる
・ここに史的唯物論の真髄がある
・弁証法の合理的な核心
・『資本論』と弁証法――レーニンのノートから
・『資本論』は,マルクスの「社会主義的見解の基礎」を叙述した本(マルクス)
・21世紀に『資本論』を読む意味
2)私の『資本論』との出会いについて
・最初の出会いは1947年
・刺激の多かった雑誌でのマルクス主義論争
・個別の研究のなかで
・ふたたび『資本論』に立ち返る
・エンゲルスからレーニンへ,そしてマルクスへ
・『資本論』を『資本論』自身の歴史のなかで読む
3)マルクスは,『資本論』をどのように準備したか
・『資本論』の準備と執筆の年表
・無数の経済学書からの抜粋ノートの作成
・二つの準備草稿――『57~58年草稿』と『61~63年草稿』
・『資本論』草稿の執筆から『資本論』第1部の出版へ
・『資本論』第1部刊行以後
・『資本論』続巻の刊行
4)『資本論』はどういう形で遺されているか
・"僕の著作の長所は「一つの芸術的な全体」をなしていることにある"
・第2部・第3部――「途方もない」「未熟なまま」という自己評価
・歴史のなかで見ると,新たに見えてくる点がある
5)これまでの経済学(古典派経済学など)と,どこが違うのか
・"過去の思想の価値あるものを批判的にうけつぐ"とは……
・資本主義社会を歴史的な社会形態の一つと見るか,人類本来の社会形態と見るか
・資本主義社会の内面の論理をつかむ方法論の問題
・〔資料〕古典派経済学への方法論的批判(マルクス)
6)『資本論』の読み方について
7)〔補論〕『資本論』の方法論とスミスやリカードウの方法論とを比較する
・スミス,リカードウの著作の構成を見る
・筋道をつかむことに特別の努力を
5)〔市場経済と資本主義〕
1)第1部第1篇「商品と貨幣」は市場経済の研究 1-99ページ
・資本主義を市場経済(商品の生産と交換)の面から研究する 1-101ページ
・資本主義の全体を理論的に再構成する出発点が市場経済の研究 1-105ページ
・資本が生産した商品の市場での流通は第2部の課題 2-16ページ
2)商品経済法則の根本 1-110ページ
・商品経済の世界では,多種多様な商品があって,たがいに交換されている。市場の変動はいろいろあるが,長い目で平均的に見ると,その交換の割合は,それぞれの商品の生産に「社会的に必要な労働」がどれだけ支出されているか,ということできまってくる。
〔※ 商品とは,商品の価値とは〕
3)高度に発達した分業の社会としての商品経済社会 1-123ページ
・それぞれが特定の使用価値を専門に生産,それを交換によって手にいれる 1-124ページ
・特定の使用価値の必要な生産量が生産したあとで明らかになる 1-124ページ
・価値から離れる価格の運動が需要と供給――社会的労働の配分――を調節する 1-125ページ
・社会的労働の配分という自然法則,その法則の資本主義的形態が価値法則(クーゲルマンへの手紙) 1-126ページ
・価値法則を商品経済社会の歴史的あり方としてとらえる 1-128ページ
・複雑労働を単純労働に還元する市場経済の調節作用 1-132ページ
4)経済の表面にあらわれる物と物の関係 1-149ページ
・商品経済の表面では労働の社会的性格が物(労働生産物)の性質として反映し,社会的分業の中での生産者の地位が市場における商品と商品の関係として反映される(商品経済独特の「入り替わり」) 1-149ページ
・労働の産物である商品,貨幣が人を支配する力となる(宗教のように/すべて金の世の中) 1-150ページ
・人間関係やその動きを支配する経済法則が,人間から独立した外的強制法則としてあらわれる(自然災害のように) 1-150ページ
・商品経済以外の社会ではこうした「変装」は起こらない(永遠でない) 1-157ページ
5)市場経済研究の第2段階が貨幣論 1-187ページ
・価値を上下する価格(貨幣による価値表現)形態こそ,市場経済法則の貫徹にかなう形態(盲目的に作用する無規律性の平均法則) 1-193ページ
・貨幣は販売と購買の分離を生み,商品に価値実現の"命がけの飛躍"をもたらす 1-209ページ
・商品流通のなかに恐慌の可能性が存在する(商品の内的対立→貨幣の形成→販売と購買の分離と強制的統一〔恐慌〕) 1-217ページ
・恐慌の可能性は「起こりうる」ということ,実現の必然はふくまない 1-221ページ
〔※ 貨幣とは,貨幣の5つの機能〕
6)市場経済と社会主義 1-246ページ
・市場経済の否定面――恐慌,貯め込み主義,弱肉強食,資本主義の再生産 1-246ページ
・市場経済の効用――需要・供給の調節,単純労働と複雑労働の調節,生産性向上への刺激 1-248ページ
・「市場経済をつうじて社会主義」への課題――内外の資本主義に学び乗り越える(効率だけでなく環境なども),経済発展のかなめを離さない,市場経済の否定面から社会と経済を防衛する 1-266~268ページ
・社会主義における市場――市場経済抜きでどのように「価値規定」(労働の「価値」をはかる仕組み)が残りうるか,解決されていない研究課題 1-271ページ
7)第2部の市場経済論
・第2部の市場論の特徴は資本主義的市場経済を「一般的商品流通」と資本の循環のからみあいとしてとらえること(労働者と資本家の個人的消費が一般的流通の基本的内容) 4-88ページ
〔※ 資本の循環とは,社会的総資本の再生産とは〕
8)第3部の生産価格(平均利潤形成)のもとでの市場経済
・資本の登場以前と以後で市場を規制する基準がかわる,価値が支配する市場経済から生産価格が支配する市場経済へ 5-230ページ
・原始共産制から近代まで生産価格による交換の時代の前に,価値による交換の時代があった(価値は机の上のモデルでない) 6-50ページ
・価値どおりの交換の実現に必要な3条件(商品交換が偶然でない,交換される双方の商品量が互いの欲求にほぼ合致している,価値から乖離する自然的・人為的独占がない) 6-51ページ
〔※ 平均利潤とは,資本家の観念が現実経済を変容させる〕
9)資本主義的生産様式の2つの特徴
・生産物を商品として生産,生産の直接的目的は剰余価値 7-194ページ
10)日本の歴史にそって
・日本の貨幣の歴史(経済条件を無視した金属貨幣の失敗,輸入した中国銭の活用,全国統一通貨の体制,円を中心にした通貨制度) 1-194ページ
・平安時代には商店街がない,鎌倉時代には京都が商人の街となる(網野善彦氏の「百姓」論も) 6-145ページ
・江戸時代における封建体制と貨幣(市場)経済の結びつき,商品経済の発展が封建的搾取を過酷にする 2-102ページ
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