2004年2月25日(水)……兵庫のみなさんへ。
以下は,2月23日(月)の兵庫学習協主催「『レーニンと「資本論」を読む」講座で配布したものです。
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〔兵庫学習協/講座『レーニンと「資本論」』〕
受講生と講師の対話(2)
2004年2月22日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
以下,講座第2回への,みなさんからの質問・意見・感想です。例によって,順不同で勝手にコメントをつけていきます。
○自由競争から独占資本の段階が具体的によくわかりました。部分的にでもあっても、初級の人にもわかるような講義をしていただいてありがたいです。
――前回,何人かの方とお話をして,この講座のタイトルになっている「時代に応じた理論を基礎から学ぼう」の「基礎」を,「入門」という意味で読んでおられた方がいることにはじめて気づきました。なるほど,そういう読み方が可能ですね。こちらが気付いていませんでした。申し訳ありません。それで「初心者にはむずかしい」という声が出ていたわけですね。ようやくわかりました。「○×教室」でなく「○×講座」と銘打っているのだし,テキストが『レーニンと「資本論」』なのだから,難易度でいえば「中級以上」と理解してもらえるものと早合点していました。今後への教訓とします。なお,私としては「基礎から」というのは「根本から」という意味でつかっていました。「付け焼き刃でない根っこからの学習」といった意味でです。
○ものの見方、考え方、社会や職場、人、あらゆる方向からものを考えていくトレーニングのような学習をさせていただきました。レーニンの帝国主義論などなど興味深くお聞きしました。国民一人一人の意識の大切さを感じました。かなり無知な私ですが、おもしろかったです。ありがとうございました。
――さきほど,高田求『学習のある生活』(学習の友者,88年)を眺めていたら,知識と認識は似ているけれど,知識は認識の成果に力点があるのに対して,認識はその成果をえていく過程に力点があると書かれていました。なるほどです。「科学の目」というのは,その認識していく力といった意味をもつでしょうから,「ものを考えていくトレーニング」という自覚はとても大切ですね。「知っている」だけで「説明できない」とならないように,「知りながら」あわせて「どうしてそうなるか」を筋道立てて考えていく力を育てましょう。
○「独占が資本と資本の関係」とゆうことには目からウロコでした。なぜビール会社は、価格競争でなく、イメージ競争なのか、はじめてわかった。イメージ競争=文化的=消費者にもよい 労働者のためと、思っていたが「だまされていた」という感じ。
――「自由競争の独占への転化」というヤツですね。では,ついでに,もう少しいうと,独占は資本と資本の関係ですが,その関係の担い手となっている資本が「独占資本」です。「独占」は関係で,「独占資本」はその関係をまとって運動する主体ということですね。私は,そう理解しています。
○99年の帝国主義論講座をなつかしく思い出しました。今日に生きている命題もあれば、歴史の発展で今となっては、耐えられない命題もあるんですね。99年講座で日本は、6大金融資本が支配しているという命題も変化、発展しましたね。新綱領の第3章を10倍楽しく興味深く読むことができるエッセンスを吸収できました。
――そうですね,今回の「新綱領」では,61年綱領以後の42年の理論的・実践的到達点をすべて盛り込むということが課題になりましたが,その威力は,どうも実に絶大ですね。なんとかその全体像を早く,しっかりとらえて,これを語っていく力を身につけたいと思っています。
○今回は、2回目と言うことで、慣れたのか先週よりおもしろく感じた。また、この本をどういう風に読むのかを何となくつかめた気がします。
――本の内容でも,学習の方法でも,なんでもいいから,毎回何か,はっきりつかめたものを確認していくといいですね。自分の学習は「あれがわからない」と「減点法」で採点するのでなく,「これがわかるようになった」と「加点法」で採点していくべきです。そのためには,「今日はこれがわかった」という自己確認がとても大切です。それがある限り,「次ぎは何がわかるかな」という期待がうまれ,学習がつづけられます。
○歴史をみながらの資本主義の発達?が分かりやすかったです。字よりも絵のほうが分かりやすいのは活字に弱くなっているせいかもしれません。
――いえ,本当は字だけでなく,もし適切に書けるのであれば,絵も大いに活用すべきなのだろうと思います。歴史の本を読むときにも,その本に登場する年代を「自分なりの年表」にまとめてみると,理解がグッと整理されることがよくあります。また,本の欄外に,その段落に書かれていたことを「図」にして書いてみるというのも案外,役にたちますよ。いろいろ試しに,やってみてください。
○僕の反省点としては、古典などを学んでいる人でもこちらに届かない言葉しか話せない人をバカにしていたが、やはりそこから先に進みきれていなかったことです。では、その中で、どういう学習をし、前に進むかが大切だと思いました。現状にむいて活憲という発想を言葉だけにしてはいけないと改めて思いました。言葉足らずですみません。
――現実の日本と世界についての学習は,「昨日,政府がこういうことをいった」というところから入ることもできますし,また「昔,マルクスはこんなことをいった」というところからも入る事ができます。いろんな切り口から学習はすることができ,最終的にはマルクスが語ったような基礎的な理論的解明と,今日の日本・世界の毎日のあり方がアタマのなかで見事にむすびつかねばならないわけですね。しかし,それはそう簡単ではありませんから,どんな人も,その人なりに「中途半端」な状態にあり,それをよりマシな状態に改善していく途中にあるわけです。そうであれば,きっと,いろんな切り口から入った人たちが,互いに力をあせわせて,互いの知らない事を伝えあうということも,学びのいい方法になるわけですね。集団学習の利点です。「お互いさま」ということです。「活憲」というは「憲法を活かす」ということですか?
○また、次回の講義への要望ですが、学生時代、経済学の講義で学んだ未来社会に関する二段階発展論にある種の「ロマン」を感じたものでした。新しい未来社会論は壮大すぎて、すこし「現実離れ」しているようにも感じます。分配論をもう少し重視してもいいように思うのですが、この点についてはどう考えたらいいか、教えていただきませんでしょうか。
――私もふくめて,長くこの理論につきあってきましたから,いろいろと郷愁は感じますよね。『国家と革命』についても,その郷愁の声を良く聞きます。しかし,考えてみれば,地球は平らでそれを大きな像が背負っているといった大昔の世界論にも,やはりその議論に郷愁を感じる人はいたのかもしれません。問題は,残念ながら,社会科学の発展なんですね。1)未来社会にも,もちろんいろいろな発展段階があるだろう,2)しかし,その段階の区切りは,未来社会においてはじめて明らかになることであり,いまから青写真をもつことは適切ではない,3)また,社会の発展を分配の側面から区切ることは一つの方法ではあろうが,それを社会の発展を区切る第一の基準とすることはできない,4)分配の角度から区切る場合にも,この2段階論が適切とはいえないところがある,たとえば,生産力の発展により「必要をこえる」生産物が「あふれる」ように生産されることが「共産主義」段階の中心的な特徴とされているが,それは生産力の発展にともなう人間の欲望(必要)の発展というマルクス自身の論理に反している,5)また,豊かな分配の実現が社会発展の基準になると,人間の発達という未来社会の本来の目的が脇におかれてしまう,6)現に,分配を基準にする理論に制約されて,レーニンは国家による分配のコントロールという発想から,あやまった「市場敵視論=戦時共産主義論」に陥った,7)じつは,この2段階論はマルクスに対するレーニンの読み違いに出発し,スターリン以後のその普及によって国際的な定説となったもの,8)2段階目への移行に国家の死滅を重ねて考えるところも,レーニンの「独創」である……。いかがでしょう。なにか1箇所くらいは,ヒントになるところがあったでしょうか。確かに,大きな理論の発展ですから,じっくりといろんな角度から考えてみる必要があります。あせらず考えていきましょう。
○多忙を理由に本を読まない私ですが、今日1日で「帝国主義論」がどうゆう本なのかも分かったのでよかった。今回のような講座は、科学的社会主義の全体像をつかみやすくするために非常にありがたいです。
――この講座は,焼肉屋の前をバイクでとおりすぎて,そのニオイだけをかぐといった,「さわり」のなかの「さわり」です。ですから,ぜひテキストをご自分で読んで,焼肉屋ののれんをくぐって,自分で肉にありついてください。ニオイだけではわからなかった,新しい発見がたくさん出てくると思います。
○日本は、独占資本主義なのに、独占禁止法がありますよね。これは、本当は何を禁止しているのでしょうか?多分独占を禁止しているのではないと思いますが。
――今日の日本の独占禁止法は,アメリカの独占禁止法を参考にしてつくられています。公布は占領下の47年です。そして,参考とされたアメリカの独占禁止法がつくられたのは,19世紀末から20世紀の初頭にかけてで,当時は,あまりにも強くなりすぎた少数の独占資本による経済・社会への支配を分散し,民主的な社会を維持するというのが建前でした。実際,これによって,強すぎると認定された大企業が分割されたりもしています。
――しかし,それは資本間の関係としての「独占」「中小資本への支配」といったものそれ自体を全面的に禁止するものではなく,それを法律の枠内で適度にコントロールするというものです。私たちがいうところの「独占」そのものをなくすことを目的としたものではありません。また,アメリカでのこの法律の策定過程には,強すぎる資本に対抗しようとする新しい資本の力も作用しています。もっとも,20世紀には独占資本主義はますます発展しますし,最近の日本でも「金融ビッグバン」によって,それまで禁止されていた「金融持株会社」が解禁となるなど,ゆきすぎた独占に対する規制の緩和が進んでいます。私たちの経済の民主的改革=民主的規制の政策には,この独占禁止法の内容の充実が重要な課題として,ふくまれることになっていくでしょう。
○先週「価値」の質問をしましたが、自分でも何が聞きたいのか分からなくなりました。そこで、先生の言われるように自分で「価値」とは何かを最初から学びたいのですが、どのような本を読めばいいですか。
――マルクスのものであれば,比較的読みやすいところで『賃金,価格および利潤』などがいいと思いますし,新しいものでは,不破哲三『「資本論」全3部を読む』第1冊(新日本出版社,2003年)がいいと思います。ただ,そこで勉強してもらえればいいことですが,じつは「価値とは何か」の問題は,『資本論』でも第1章の「商品」論だけに閉じ込められたものではなく,第3部のおしまいにむけてずっと「貫く」ものとなっています。そのような理詰めの論理展開の方法をマルクスは「発生論的方法」と名付けています。「価値」論の勉強の入口は第1章でいいけれども,その出口は『資本論』のおしまいということになるわけです。気長に,しかし,着実に勉強してください。
○第二次世界大戦の性格について、以前学んだ勤通大で「第二次世界大戦は、さまざまな側面をもっており、1帝国主義諸国間の植民地再分割戦争、2被抑圧民族の民族自決・植民地解放をめざすたたかい、3社会主義ソ連の祖国防衛を含んでいたが、全体としては、4民主主義対フアッシズムの戦争だったと理解したのですが、1の面を持ちながら4が基本となる関係がよく分かりませんでした。2のたたかいが4の流れを決定付けた、という理解で良いのでしょうか?(第4巻P273の理解として)ちなみに3の意義は共産党の綱領からも消えましたがファッシズムを撃退し2を励ましたとして積極的に評価すべきものでしょうか?
――1は,この戦争を仕掛けた「枢軸国」側については「再分割」をめざした戦争ということですね。しかし,この戦争のなかで,連合国側は「大西洋憲章」を確認し(41年,当初は米英,のちにソ中他22ケ国が参加),領土の不拡大や民族自決権の尊重などを確認していきます。つまり,この戦争は双方の側からの「再分割」戦争とはいえないわけです。「大西洋憲章」は,後に国連憲章にも活きていきますが,この「憲章」の流れが,植民地解放をめざす世界の人民の闘いとも合流して,4の流れをつくっていくわけです。2が4を一方的に決定づけたというのではなく,先進資本主義国を含む連合国の側にも,一定の民主主義の発展があり,その2つが合流したということですね。ご指摘のテキストの箇所は,議論の視野が「アジア」に限定された部分だと思います。したがって,中国という個別の具体的事例があがっています。なお,3の問題ですが,ソ連崩壊後の新資料によって「光と影」の「影」の部分がますます大きいことが明らかになり,全体的に見たときにこれを積極的には評価しがたくなったということです。戦争中の兵士や国民や捕虜への野蛮な対応,千島問題,バルト3国とポーランド東部の併合,戦後の東ヨーロッパへの支配などです。
○学習ニュース楽しく読ませていただいています。受講者の平均年齢が47歳、50~60代が21人ということですが、「これでも若い人が多い」(20代18人)という人がいるが。どうもーー?私たち(20代)の人が少なく、5・60代の人が学んでそれをどこに活かせるのか、なんだかもったいない(失礼)気がして、少しむなしいです。5・60代の人は「今でも青年のおつもりでしょうが、なんとも、もどかしいです。さりとて労組青年部で、みんなに学習や科学的社会主義の学習をすすめる気にもなれません。なぜなら「いろいろな学問や、ものの見かたがあって、その中の一つに科学的社会主義がある」というところからはじめないと、先輩方(5・60代)が青年にあたえる「キショイ」というイメージを払拭できないと思うからです。お互い「○○のカベ」があるのかもしれませんが-----閉塞感がぬぐえません。
――う~ん,機械的に反発してはいけないのでしょうが,この文章は,書かれた限りでは,私にはちょっと驚きです。あまりにも,これを読まれる方への,特に名指しされている5・60代の方への配慮が足りないと思います。「キショイ」云々の箇所が,これを書いたご本人によって肯定されているのではないことを祈ります。また「青年のおつもりでしょうが……もどかしい」という表現も,非常に失礼に思います。
――「5・60代の人が学んでそれをどこに活かせるのか」というご意見ですが,この社会の改革をめざす運動のなかで,5・60代の方が大いに活躍しているという現実はいくらでもあります。政党で,組合で,職場で,地域で,市民団体で,議会で……5・60代が活躍していない部署などないのではないでしょうか。逆に,むしろ20代の方よりも重い社会的責任を背負って活動しておられる方が,この年代にはたくさんいると思います。そうであれば,その世代の人たちが,従来の長年の学習の積み重ねにとどまらず,新しい学習の努力を重ねることは,とても大切なことだと私は思います。おそらく,これを書かれた方ご自身も,自分が5・60代になったときには「もう若くないから学習はいい」などと考えられはしないでしょう。社会改革の運動が,「老・壮・青」の力をあわせることで前進しうることは,歴史的には試されずみの問題です。かつて一部に「青年=運動の中心部隊」という議論がありましたが,それはあまりにも,長年の体験や学習をつうじて得られる知識や経験の大切さを軽視した,底の浅い改革論でした。
――「いろいろな学問……の一つに科学的社会主義がある」というのは,「いろいろな政党の一つに共産党がある」というのと同じく,ごく常識的で一般的な意識のあり方だろうと思います(科学的社会主義という用語がそれほど知られていないとしても)。そして,そのような常識的な意識に対しては,それに配慮して接することが,もちろん必要です。その工夫は,当然,年代の別なく行われるべきです。仮に,その接しかたをめぐって,年代間に意見の違いがあるのであれば,それは,どのようにすればより適切な接しかたができるかを,互いに探求するという姿勢をもって解決されていくべきでしょう。自分たちの力だけでは,適切な話し合いや解決の方法が探れないというのであれば,必要な第三者の力もかりてみてください。なお,そのような個別の体験があった場合にも,それを理由に,何か,5・60代の人たち全員を否定するかのような判断をくだすことが,非科学的であることについては説明はいりませんね。
――まわりの人に「学習をすすめる気にもなれません」とのことですが,「いろいろな学問」のなかで,科学的社会主義がどういう位置にあるかは,「いろいろな学問」を学んでみることよってしか確認できないのですから,そのようなものの1つとして,若い同僚たちに「科学的社会主義にも面白いところがあるぞ」とすすめてみることは,ごく自然なことだと思います。「正しいから学べ」だけでなく,「面白さを感じてほしいから学んでくれ」という接しかたですね。
2004年2月17日(火)……兵庫のみなさんへ。
以下は,2月16日(月)の兵庫学習協主催「『レーニンと「資本論」を読む」講座で配布したものです。
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〔兵庫学習協/講座『レーニンと「資本論」』〕
受講生と講師の対話(1)
2004年2月13日作成
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
講座第1回目に対して,みなさんから,たくさんの質問・意見・感想がよせられました。以下,すべてを紹介し,また簡単にコメントをつけていきます。講義のなかでくわしく解説していく時間はありませんので,ぜひ,ご自身で目をお通しください。
○「マルクスもレーニンも『資本論』を絶対化しないで,『科学の目』でみる,この立場でこそ真理に接近できうる」ことの重要さ。私自身18才大学1年のとき『資本論』を読みはじめたが,全くチンプンカンプンだったことを記憶している。それ以降いろんな角度から学習する機会をもった――ときには『経済学教科書』第1~4まで。そのあと「三つの源泉」の学習をはじめ「古典」学習,実践的には綱領(61年)論争,67年の中国共産党との論争,4.29論文の学習を経て,特定の個人の「理論」の絶対化からする誤りについて,学ぶことができました。そして76年の第13回大会での「マルクス・レーニン主義」の用語をやめて「科学的社会主義」の用語に変えたことは,その後の理論的発展への大きな転機となったことから見てとれる。"生涯学習"大いに楽しみ,たたかいたい。
――ええ,がんばって学び,たたかいましょう。「個人崇拝」との闘いというのは,結局は,各人が自分の理論的力量を高めることが根本ですよね。マルクスはあらゆる見地に対して「批判的であれ」「疑え」といいました。その精神を,ただ単に言葉を知っているだけでなく,日々の新聞に,雑誌に,文献に,発言に,すべてに対して向けることのできる自立した理論的な力量が必要なのでしょうね。
○まったく勉強していないことだったので,分からないことだらけでしたたが,やはり何かを学ぶことは,生きていく中で継続していかなければいけないことだと強く感じました。「自分の生きている社会を理解していないと意味がない」という言葉,ちょっと胸が痛かったです。ありがとうございました。次回が楽しみです。
――学びの道に終わりはありません。テキストの著者も,本を書く度に「新しい発見がある」と毎回のように語っています。さらに,マルクスやレーニンでさえ,理論的な成長があるわけですから,私たちが,いくつかの基本文献を読んだくらいで,「さあ,わかった」「もう終わり」というわけにはいきません。学びは「義務」ではなく,自分を育てる「楽しみ」です。それが実感できるところまでは,まずはがんばって学びつづけてください。
○全般的危機説をくわしく聞けてうれしかった。関係ないけど,受益者負担主義の発想はどうしたら打ち破れるだろうか。
――「全般的危機」論については,日本共産党の第17回党大会決定と,不破哲三『「資本主義の全般的危機」論の系譜と決算』(新日本出版社,88年)をぜひ読んでください。17大会は85年ですから,第1回の講義で紹介したものは20年近くも前の理論的到達点だということです。「受益者負担」については,その具体的な内容がわかりませんのでノーコメントです。むしろ,活動の現場にいる人にこそ,実践的に解明していただきたいと思います。
○一番前の席で受講させてもらいました。正直,半分以上わからなく,本とレジュメとノートでもう一度最初から読みます。わかりやすい言葉で楽しく聞けました。
――話しを聞いただけで「すべてがわかった」というのであれば,何もこの講座にくる必要はないわけです。「わからないことがあった」「それをわかりたい」と思う気持ちをもって,自分でテキストに向かう姿勢をつくることが大切です。他方,それでも,わかる部分を「楽しい」と思えるのはすばらしいことです。力になっていることの証拠でしょう。あとは自分で積み重ねてください。
○資本論や科学的社会主義を一側面から見るものでないということがわかった。
――科学的社会主義の「全一性」というやつですね。3月発売の『前衛』に不破哲三『「資本論」全3部を読む』の第1~3冊についての書評を書きました。その中でもこの問題にふれています。『資本論』は経済学の本ではなく,哲学・史的唯物論などが分かちがたく一体を成してあらわれている本です。その点についての若いレーニンの読みは見事で,不破さんのこの本も,その解明を重視したものになっています。
○「資本論」そのものを読んだことのない私が,この講義についていけるか不安になっています。なぜレーニンなのかわかりません。マルクスがどういったかも解説でしか知らないのに,なぜレーニンなのか? 講義についていけるでしょうか?
――新しいこと,今の自分にできない(わからない)ことをするときには,いつでも,誰でも不安になります。しかし,泳げなくても水に入り,ころんでも自転車にのるから,新しい力はついていくわけです。学習も同じです。不安なときには,「いつか,わかるはずだ」「少しでも,わかるところをもちかえろう」と,自分の力に期待をかけて前向きに取り組んでください。科学的社会主義のもっと基本をというのであれば,たとえば不破哲三『科学的社会主義を学ぶ』(新日本出版社,01年)がいいと思います。この講座で科学的社会主義の学問的な「峰の高さ」を味わったうえで,基本にかえるというのもいい方法です。学びの道には,この手順が絶対というものがあるわけではありませんから。
○むずかしい言葉がいっぱいで聞き取るのがやっとでした。初心者には,ちょっと分かりにくいかも。受講生は,この道のベテランの方が多いので,内容もむずかしいのでしょうね。例えを入れていただいたときは,むずかしい言葉も少し理解しやすいです。短い時間の中で,申し訳ありませんが,初心者向けにも分かるように,例題を入れてください。よろしくお願いします。
――残念ながら,最初から初心者向けにはしゃべっていません。「最新の理論を学ぶ」というのがこの講座の主旨です。さらに,独習を激励するというのがこの講座の主旨です。この講座だけで,キチンとわかってもらうというものではありません。ですから,どうしてもむずかしくなります。しかし,その中にあっても,「どういうことがわかるようにならねばならないのか」「どういうレベルがもとめられているのか」といった空気を体験することは,前向きの力になるだろうと思います。制約は大きいですが,私の力の及ぶ範囲で,できるだけわかりやすさには配慮したいと思います。
○おもしろく,楽しく,分かりやすく,しかし,問題意識をもたせてくれる内容のある講義だった。是非,続けたい。たとえば,相対的真理と絶対的真理の関係,価値法則などについて。
――そうですね「問題意識をもたせてくれる」というところは,うれしいことばですね。今回の講座のねらいそこにありますから。わかってほしいことの中身をていねいに語るのではなく(その時間はありません),「これをわかることが必要」「こんな面白いことが書いてある」と,論点をどんどん紹介していくのが課題です。そこにみなさん自身が「それはおもしろそうだ」「学問にはそんなテーマがあるのか」と食いついてくれれば,それでOKというわけです。そして,あとはみなさんのテキストへの挑戦におまかせです。ぜひ,この講座を独習のきっかけとして生かしてください。学習の柱はなんといっても,個人が自分の力で行う独習です。
○とても楽しかった。
――そうですか。学ぶ,考えるというのは,本来,とても楽しいことですよね。その楽しさを学校教育でなかなか体験しづらいという現実があり,それで「自分は勉強が苦手だ」と思い込んでしまう方も少なくないようです。しかし,「見えなかった世界が見えてくる」。それは絶対に面白いことです。「わからなかった自分がわかることのできる自分に育つ」。その成長への実感が楽しくないわけがありません。自分の可能性に道を閉ざさずに,自分の成長に期待をかけて,どんどん学んでいきましょう。
○最近,無意識に論争をさけているなと思う。とるに足らない,くだらない口論でも疲れるのに,まともな論争などするエネルギーがあるかなー,自信がない。たしかに論争の刺激で成長,発展させられると思う。講義は講義でおもしろいけど,やっぱりテキストを読まなきゃとか,いろいろ刺激される。
――論争をつうじて学ぶというのは,たとえば,テレビでイラク派兵に防衛庁長官がこんなことをいっていた。それに対して,自分ならどういう風に反論するか。第三者がみている前で反論するなら,どういう反論の仕方が説得的か。そんなことを身近に考えるということでいいわけですね。また,「痛みに耐えよ」の経済政策に,自分なら説得力をもってどう反論するか,そんなテーマを自分で決めて考えればいいわけです。こういう学びかたをすると,テーマがしっかり決まります。読む論文,読まねばならない論文もしっかりと決まっていきます。そして,第三者への説得力が鍛えられます。結果として,対話の力,説得の力がましていくわけです。ぜひ,挑戦してみてください。
○期待どおり,知的刺激をたくさん受けました。買ったまま本棚に飾ってあっただけの(「前書き」程度はパラパラと読んでいましたが)『レーニンと「資本論」』。この講座の存在を知り,これをひとつの強制力として活用しようと思いました。なかなか計画的に予習がすすまず,第9章までしか読めていませんでしたが,講義の中身が非常にわかりやすく,予習した範囲についてはさらに理解が深まる,読めていなかった範囲についても,ついていけました。ストンストンと腹に落ちるこの感覚は,とても久し振りで,とても充実した時間をすごさせていただきました。来週までがんばって予習に励みたいと思います。「科学的社会主義の理論発展がどんどん進んでいるのに,それに私たちが追いついていない,学びきれていない,現場で生かされない」ということは,自分も含めて,痛感します。この講座から最大限吸収して,独習の糧にしたいと思います。
――今日の理論や政策の高みを運動家たちひとりひとりのものにすることができれば,私たちの取り組みの力は相当に高いものに飛躍できると思います。それにもかかわらず,それを実現するための学びの取り組みに十分成功してこなかった。あわせて,ここをしっかりと反省する必要があると思います。今回の講座にはたくさんの方が集まっていますから,これを機会に,「毎日1時間の独習を」という気風が,仲間のすみずみにまで深く浸透していくことに,本当に期待したいと思います。ぜひ,がんばってください。
○板書している内容は、事前にレジメにしているほうが、時間制約の規制を少しでも緩和されるのではないでしょうか。
――まったくそのとおりです。ただ,こちらも「走りながら書いている」という毎日ですので,レジュメを書く段階で,なかなかすべてがまとまりきりはしないのですね。そこで,いろいろと当日になって補足すること,あるいはその場で補足したくなることも出てくるわけです。ただし,前回の板書だと,おそらく「全般的危機」論以外は,すべてテキストの要約ですから,みなさんは,これを書き写す必要はありません。レジュメにページ数が記載されていますが,むしろ,それを頼りに本文のどこの解説であるかを探してもらった方が効率的になるわけです。板書は,基本的にはテキストの「わかりやすさ」のためにだけあると思っていただいて結構です。
○以前に先生から、レーニン「帝国主義論」の講義を受けましたが、今回の日本共産党の綱領改定がなされた「帝国主義」に関する部分が自分では、どうしてもしっくり理解できません。超帝国主義論とは違うのか、自分なりに学習したいと思いますが、何か参考になることがあれば、講義でお聞かせください。
――今回の「帝国主義」についての問題提起は非常に大きなものでした。率直にいって,私も提起された瞬間には,そのことの意味がわかりませんでした。しかし,その後,時間をかけて自分なりに考えを発展させることができたと思っています。従来の私の「帝国主義論」についての講義は,世界を支配しようとする帝国主義の衝動の側面にもっぱら注目するものであり,これに抵抗し,これを封じようとする力の側面については目がとどいていませんでした。そこが,現時点でも私の反省です。両者の力の衝突のなかに現実世界をとらえ,その衝突の実態をリアルにとらえかえそうというのが,今回の提起の重要な内容であろうと,いまは考えています。
――カウツキー流の「超帝国主義」論は,帝国主義を封じる力の成長によって「平和」が生まれるというのではなく,帝国主義が自らの都合で「平和」なものに変質していくとするものでした。したがって,今回の提起とは内容をまったく違えるものになっています。私なりに帝国主義を封ずる世界の力を学ぶいい材料になったのは,昨年「しんぶん赤旗」に長期連載された「イラク戦争と世界」でした。これは共産党のHPから今も手に入れることができます。ぜひ検討してみてください。なお3月末日〆切で,この問題について『経済』に論文を書くことになっています。アジアにおける新しい力の成長を主に考えたいと思っています。これも,何かの参考にしてください。
○レーニンの認識では、多数者革命の考えは無かったということでしょうか?だとすれば党建設という考えも無かったのでしょうか?
――「多数者革命」の不可能をとなえ,それをコミンテルンの公式方針にしていく過程がレーニンにはあります。そこは,テキストの第5・6巻にくわしく解明されています。私たちの今日の考え方とは,相いれない部分ですね。それは,今後の講義で紹介していきますので,お待ちください。なお,党建設については,その「多数者の合意なき革命」論の中ではあっても,これを推進する力として,つねに重視されていたように思います。
○マルクス主義フェミニズムとかで上野千鶴子に興味をもっています・家事労働は交換価値がないので労働ではない(?)とか、不払い労働だとか、家事、育児は「他人の再生産だとか?よくわかりません。科学的社会主義では、家事労働をどうとらえているのですか?一口で言えないなら、どの本を読めばよいか、誰の本を読めばよいか教えてください。
――残念ながら,あまりいい本はないと思います。ここは,私たちの理論活動の遅れがあらわれている領域だと思います。私自身も,大慌てで研究をはじめているところです。私の書き物としては,次のものがあります。1)「第5章・主婦とはどういう存在なのか」「第7章・仕事にまつわるジェンダー・ギャップ」「コラム・労務管理のジェンダー分析」(森永康子・神戸女学院大学ジェンダー研究会編『はじめてのジェンダー・スタディーズ』北大路書房,2003年),2)「マルクス主義とフェミニズム――フェミニズムの問題提起を受けとめて」(関西唯物論研究会編『唯物論と現代』文理閣,第31号,2003年5月),3)「財界による家事と女性の管理戦略」(新日本婦人の会『女性&運動』2004年4月?)。
――フェミニズムには非常に多様な主張があります。上野さんはその論者の代表ではなく,そのなかの1人としてとらえる必要があります。また,上野さんは書く度にいうことが変わっていくという特徴をもっています。それで,最近の主張は,非常に観念論的になっている(先日,学んだマッハ主義にも通ずる議論)と思います。そのような留保の上でですが,家事労働は,私の理解ではもちろん労働です。ただし,市場で売買される労働にはなっていませんから,そこに「賃金が受け取れない労働」という特徴があります。そのことを上野さんは「不払い労働」と呼んでいます。しかし,マルクスは「不払い労働」を,剰余労働という意味でつかいますから,2人では用語法がまるでちがいます。そこに混乱の要素があるわけです。また,家事や育児を「他人の再生産」だというのは,子育てが将来の労働力の再生産になるという意味です。その上野さんの用語法は,エンゲルスの『家族,私有財産,国家の起源』の序文をヒントにしたことばであり,そうわかりづらいものではないと思います。
○価値は、変わらないと言われていたように聞こえたのですが、それが理解できないので、説明してください。
――ご質問の主旨がちょっとわかりません。必要であれば,もう一度,もう少しくわしく,お願いします。
2004年2月14日(土)……和歌山のみなさんへ。
以下は,2月7日(土)の和歌山学習協主催「『資本論』講座」で配布したものです。
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和歌山『資本論』講座
『資本論』ニュース
神戸女学院大学・石川康宏
http://web.digitalway.ne.jp/users/walumono/
〔講師のつぶやき〕
大学は,いま入学試験の真っ最中。この数日は,試験監督と採点でうまっていきます。それが終わると,今度は年度末の定期試験の採点。これがまた,なかなかに大変です。
一息つけるのは2月の中旬か,などと思っていると,そこには組合活動が入ってきます。結局,そんな具合にバタバタしながら1年がとおりすぎていくわけですね。
それでも年末年始に少し書き物をしました。1つは,前回紹介した女性の家事と労働ものです。新婦人の『女性&労働』に掲載されます。多分4月号です。掲載号数は,あまり良く覚えていないのですが。
もうひとつは,共産党の『前衛』です。政財界の「アメリカいいなり」問題を,権力的従属だけでなく,経済的なアメリカへの依存という角度から考えてみたものです。試論の域をでないところもありますが,自分としては,いい勉強になりました。
じつは,この原稿,昨年1年間の京都学習協における「現代経済学講座」の成果でもあります。今後も,そうやって,講師活動と研究・執筆活動を相乗的に絡みあわせていきたいと思っています。
となると,はて,この和歌山の『資本論』講座はどこに結実するのでしょうね。まあ,とりあえずは,現代の日本を考えるための,広く深い「教養」の形成といったところでしょうか。まだまだ『資本論』については,「これを書こう」という気にはなれません。依然として学習者でありつづけているというのが実感です。
こうにいってしまうと,「そんな男の講義を聞いているわれわれはなにか」などという声も聞こえてきそうですが,『資本論』の山は格別に高い。そう思って観念してください。
さて,今回も,みなさんからのたくさんの声を紹介していきます。
◆今回の"なぜ搾取の実態が見えにくくなるのか"というテーマには,非常に関心がありました。まだ漠然とした理解ではあるのですが、社会の仕組については、"外観"や"現象形態"にとらわれすぎていると、本質的な事柄を見過ごしてしまう、という事実は非常によく理解できたように思います。"標準的な支払いであっても不払労働"というフレーズがとても印象的でした。
労働者同士の競争を避けるため、法的介入、労働組合の組織化の必要性が説かれた箇所がありましたが、現在の若者の労働組合離れは全く別の要因によるものですよね?
「ノートに書くより"本"に書き込む方が効果的」、自分の経験からもまさにそのとおりと思い、今日はノートではなく,"資本論"の方に直接書き込むようにしました。4冊目に入ったにもかかわらず、今の状態ではどこに何が書かれていたか、すぐには分からない(笑)古典に"親しむ"為にも、カラーペンを次は持ち出そうかと考えています。先生の冒頭のお話はいつも楽しみですが、今回の本文をはなれた"経済学の方法"の解説は資本論の構造を理解する上で役に立ちました。古典の中にある先人の知恵を"日常的に"借りることが出来る日が来る事を期待して、古典に親しんでいきたいと思います。
――科学は現象の背後にある本質をさぐり,その本質がどうしてそういう外観をとって現れ出るのか,そこの必然をさぐるものである。名言ですね。それは,社会をみるにも,自然をみるにも,そして,人間をみるにも必要な観点ですね。よく「困難にある子どもはSOSを出している」なんていいますね。それも表にでている行動や言葉の背後にあるものをつかまねばならないという意味では,同じことなんですね。
――若者の組合ばなれ。重要な課題ですね。具体的な原因は,きっと職場に応じて多様でしょう。ただ「カッコよくない」とか「自分の時間がなくなる」といったところには,組合側も工夫が必要ですよね。若いひとにとって「カッコいい活動」とはどういうものなのか,忙しいなかでプライベートな時間もつくれる活動の工夫は(HP,メルマガなども)と,いろいろ考えてみなければならないことがありそうです。「正しい」だけではダメなのです。『資本論』のご指摘の箇所がいっているのは,反対に,労働者同士の競争を抑えるために,たくさんの労働者を組合に組織することが必要だということです。
――線や印や書き込みで汚れた「自分だけの『資本論』」はカッコいいです。そういう『資本論』をつくってください。
◆資本主義社会では、なぜ搾取されていることがわかりにくいのかがよくわかりました。補足の講義もよくわかり、興味深かったです。
――大事なところですね。上とのつづきでいえば,搾取という本質を知るだけでなく,それがどうして「搾取などない」という外観をとって現れ出てくるのか,第6篇はその後者の必然性の解明でした。
◆市大の教授、中川先生の労賃の国民的相違の所で石川先生が紹介下さった「アジア市場の共同」という内容は、私も読みました。アメリカ依存から抜け出すという事ですが(私も大賛成)、私は、中国という巨大市場と、食料、工業、環境という所でも、良いパートナーという付き合いを考えるべきだと思います。WTO改定という面も大切ですが、相互(日中)国民の生活向上、就労という事での関わりです。貿易による商社利益や中国への企業進出と日本国内の産業空洞化とも私の上記の内容は矛盾しないと思います。中国の成長に日本が追い抜かれるのは、もう10年もかからないのではないでしょうか? 20年後には日本の企業が、中国に買われ、完全に市場をコントロールされるかもしれないと思ったりします。政治的に今後緊張高まる朝鮮半島の平和のためにも中国での外交、交流、経済協力・共同が必要と思います。
――「オレがまわりを支配する」というつきあい方ではなく,「いっしょにささえあいましょう」という,そういうつきあい方を国のレベルでしていくということですね。アジアではASEANを推進力とした「共同市場」の形成がすすんでいますし,これに2010年には中国も参加するといっています。韓国も非常に重視しています。こうした経済的な「共同」が,「あなたあっての私です」という「共存と連帯」の土台となっていきます。年末に話題となった東アジア友好協力条約も,そうした連帯の上でこそ成長しているわけですね。
――アメリカへの経済的依存を引き下げ,「アジアの中でいきる」ためには,一定の国際分業が必要です。そこが考えどころですね。「輸出」を考えるばかりでなく,各国から何を「輸入」し,どういう産業の領域を各国に「まかせていくか」。そのあたりの産業政策,長期の見通しが必要ですよね。中国は外資がはいっている地域の発展は急速ですね。しかし,それをいかに内陸部の豊かさづくりに結びつけていくかは,今後の重要な課題でしょう。依然として,国民1人1人の所得水準は非常に低いままですから。また,民主主義の発展も重大課題ですね。
◆以下の質問と自分なりの感想は途中段階で書いたものです。勝手な思いつきだろうと思いますが、今日『裁量労働』というものについて教えていただければと思い、書いてみました。
出来高賃金は、今流でいえば裁量労働制に結びついているものなのかなと思った。そう考えていいのかどうか。;裁量労働制では、その人(労働者)の裁量に任せうる専門的労働(?)を伴うというものに限られている。大学の教員なども裁量労働制に組みこまれることになったが、国立大学法人化との関係などで急いで制度化されたような点が見逃せない。しかし現実には、授業の準備や講義などの内容についてかかれた質問や感想をこなすのに精一杯であったり、そういう雑多なことをすれば、形式的な(?)論文算出の仕事ができないということで、授業は自分自身への研究上の仕事には関わらない範囲でおざなりにこなしてしまう現実も多々ある。
言うならば、現実、大学教員(私たち地方大学で大量の授業に追いまくられつつ、そして、それなりに論文を書いていくべき職業についている)の現実では、「裁量」といわれる以前での「出来高」に至るか至らないかの評価のための切り捨て論に相当するのかと思った。
その意味では、独法化そのものも一つのおしおきなのかもしれないが、しかし、大学教員のあるべき姿を、高等教育を日本の様々な地域で実現することを奪うことを変える力にはならないだろう。
――デザイナーや研究者などの場合,労働時間を正確にとらえることはできない。そこで,大雑把に「まあ,これくらい働いていることにしましょう」とするのが,本来の裁量労働制ですね。それらの労働の領域には,こうした評価の仕方が成立する客観的な根拠(具体的な労働の仕方)があると思います。ただ,今日の裁量労働制は,正確に労働時間がはかれるにもかかわらず,これをもちこむことで,労働強化を強いるところが目的です。たとえば,机にかじりついているサラリーマンが,実際には,がんばっても10時間はかかる仕事を,「これは8時間分の仕事ということで評価しておこう」と。
――かつての出来高賃金の場合は,労働の成果が客観的にはかれる賃金制でした。今日の家庭での内職もそうですが,「何をいくつつくればいくらになる」と。「いくつつくったか」は,だれがみても判定できます。ところが,裁量労働制の場合には「これは8時間とみなす」という時,そこには上司・経営者の主観が強く反映します。差別も簡単です。それを考えると,いますすめられている裁量労働制は,出来高賃金制よりもかなりタチの悪いものだと思います。
――他方,大学教師の場合に重要なのは,教員任期制があわせて導入される可能性があるということですね。3年や5年の有期雇用にして,そのたびごとに「クビか継続か」の判定にさらすというやつです。こうなると,短期間での論文の粗製濫造が行われるでしょうし,大学経営に文句をいうということも押さえ込みやすくなっていきます。しかし,研究には自由な時間が必要ですし,そうした自由な研究を行わせる環境の確保をもとめる取り組みが,この分野では重要な闘いの課題になるでしょう。
――なお,国公立大学の独立行政法人化は,基本的には「政治は教育に金をかけたくない」ということだと思います。小中学校の義務教育経費も,国は地方にまかせて,長期的には削減するとしています。日本育英会廃止というのも同じ方向です。国民のくらしや文化をささえることは政治の仕事ではない。それはできるだけ民間企業にまかせる。そして,国は軍事と外交と大企業擁護に特化していく。そういう方向だろうと思います。「教育をうける国民の権利を憲法は保障しているではないか」。この国民世論をどう大きくしていくかですね。それは,私学助成運動とも手のつなげるところだと思います。
◆株式市場が現れたのはいつからですか? ニューヨーク平均株価とナスダックを毎日のニュースで流れますが、ナスダックはIT産業中心の株価と聞いています。どうして2つ必要なのですか。
――株式市場というのは,株を売り買いするところですから,その誕生は株式会社の誕生と同じく古いです。歴史の最初は,1602年のオランダによる東インド会社のようですね。そして,株式会社がふえて,売り買いされる株の量がふえるにつれて,ある特定の場所に株式の売買が集中します。こうして「取引所」が成立します。手元の辞典で調べてみると,「近代的な組織化された証券市場は1613年に開設されたアムステルダムの取引所を起源とする」となっています。
――同じ,大阪市立経済研究所『経済学辞典〔第3版〕』(岩波書店,1992年)の「株価指標」の項には,「株価平均」のいろいろな算出法もでています。単純平均,修正平均,加重平均とあり,「修正平均の算式として最も代表的なものは,アメリカのダウ=ジョーンズ株価平均が採用している方式で,わが国の日経平均株価(対象銘柄=東証上場225銘柄)……も基本的にはこの方式に準じたもの」と。さらに他の辞典(吉野昌甫監修『金融・経済用語辞典〔三訂〕』経済法令研究会,2000年)で「ダウ工業30種」の項を見ると,「ダウ・ジョーンズ社が発表する工業株を主体とした30種の平均株価指数」「アメリカの株価指数のうちでは最も広く知られており,世界中で利用されている」「銘柄数が限られているため,必ずしも全体の動きを反映しない場合もあるが,この欠点を補うために運輸株20種,好況株15種,これら全体を総合した総合65種もあわせて発表されている」となっています。ようするに証券取引所で売買されている,代表的な工業株の株価を平均することで,市場全体の動きを見ようという指標ですね。
――これに対してナスダックは「店頭銘柄気配自動通報システム」というむずかしい名前になっています。しかし,ようするに「取引所」ではなく「店頭販売」をもっぱら行うというところに大きな特徴があります。「店頭取引」というのは,証券取引所の外で,証券会社の店頭で行われる取引ということです。証券取引所ではその審査をへて「上場」が許された株式だけが売買されますが,店頭取引にはそうしたキビシイ条件がありません。ようするに,ハイリスク・ハイリターンの株も自由に販売される。すでに確立した大企業たちの株だけではなく,まだどうなるかわからないベンチャー企業たちの株が売買され,それが大きな投機を可能にするし,またベンチャー企業の資金集めをより用意にするということにもなるわけです。90年代にはITバブルといわれた景気がありましたが,そこではどんどんIT関係のベンチャー企業も株を売買していたのでしょう。時代を先取りしようとする業種株の比率が証券取引所よりもずっと多いということですね。
◆卒論を書く時に、文学の論文ですが、自分が分析したいテーマの手がかりになる評論文を読みますが、その膨大な論文の山の中から自分のほしい情報を探す読み方をしていた事を先生の今日の講義を聞きながら思い出しました。レーニンは窮したとき「マルクスに相談にいく」ということをきいて、思い出しました。私は今、自分の言葉で歴史の発展の必然を語りたくて『資本論』に挑んでいますが、それ自体、とても大まかで抽象的な目的しかもっていませんが、学ぶことはとってもたくさんあります。具体的な目的をもって『資本論』を開けるよう、「学びつつ闘う、闘いつつ学ぶ」に努めたい。「補足1」の労賃と社会保障とが、私たちの生活を支える重要な基盤であるという認識をもとに、どちらか一方でなく両方で闘わねばならないというお話はすごく納得しました。
――『資本論』にはいろんな角度の学問がつまっていますね。じつは,これを従来は,あまりにも「経済学の本」だと,狭くとらえすぎていたのではないかという気がしています。そう思うヒントになったのは,不破さんの『「資本論」全3部を読む』なのですが。経済学者の『資本論』解説は,どうしても「経済学の骨格」をそこから抜粋して,そうしてつくられた骨だけを「体系的に」解説していくというものになりがちです。それでは宝の山がいかせていない。それが不破さんの今回の読み方の新しい提起になっていると思います。
――歴史の発展に関心をお持ちでしたら,その関連箇所を徹底的にさがして,すべてに印をつけて,あとでそこをくりかえし読んでいく。そういう読み方も面白いかも知れません。上製版をお使いであれば,総索引を利用するのもいい方法です。関連箇所をすべてコピーし,それをノートにはりつけるなら,それだけで立派な自分だけの資料集もつくれます。
◆なぜ搾取がないようにみえるのか? がよくわかりました。初めて剰余価値がうまれる仕組みを学んだ時に、「そうやったんか」とすごく感心したことを思いだしました。普通に暮してたら全然分らないことだし、本当に多くの労働者の人にこのことを知ってほしいなぁ、と感じました。
――そうですね。学ばなければわからないことですよね。勉強をするということは,本来,そういう「見えなかったものが見えるようになる」という喜びがあるものなんですよね。まあ,教育者としては,まだまだ,私も工夫がいるところですが。ぜひ,お仲間を和歌山学習協の講座につれてきて,いっしょに「搾取」の仕組みを語りあってください。
◆出来高賃金が資本主義に適応したものということがよくわかった。(今日なぜそれほど普及していないことも)
<疑問>講義についてではないのですが、先日、『資本論』上製版の『索引』で「独自の資本主義的生産様式」をしらべましたが、このことばが事項としてのっていません。非常に大切な概念だという気がしますが、なぜかなと思いました。(M・E全集の別巻4(?)『事項索引』にもありませんでした)。別の言葉でのせられているでしょうか。
――今日もふれますが,不破さんの『「資本論」全3部を読む』(新日本出版社)の第2分冊188ページ,第3分冊84ページ,147ページ等を見てください。じつは,従来,この概念にはあまり注目が集まっておらず,「独自の」という訳語さえ統一されてはいなかったのです。各種の「索引」にそれがないのは,そうしたマルクス研究の到達点の反映でしょう。私も「ほう,そうだったのか」と思わされたのは,不破さんの『マルクスと「資本論」』を読んだときが最初でした。草稿のなかで重視されていたこの概念が,『資本論』の仕上げのさいには,十分な説明なしに簡略化されて盛り込まれた。そこで『資本論』だけを見ていると,その用語にこめられた特別の意味がわからない。そういう問題があったわけです。「歴史のなでマルクスを読む」という不破さんの方法の威力があらわれた問題でもあるのでしょうね。
◆質問です。現代の証券市場では多大な量の株式が売買されています。その売買は投資対象である企業が公表する情報により価格が上下し投資家は売却損や益を出しています。この状況下では情報そのものが価値を生み出す原資となっているように思われます。情報そのものは無形の物体であり、そのものが価値を産み出す原資と考える事には疑問があります。今日の授業を受けて1つ思ったのが「マルクスの言う剰余価値が蓄積されたものが売買されているだけでは?」ということです。マルクスは現代の経済の基盤である証券市場と剰余価値の関係については述べられているのでしょうか?もし証券市場で剰余価値そのものが売買されているであれば、証券投資論者の考え方はあくまでもその過程を覆い隠すための虚偽の理論なんでしょうか?又現代の株式市場では私の将来の年金の原資等も運用されています。この事実から考えると国=国民全体が剰余価値を得ている様にも思われるですが?
次回、休みます。できれば次々回で返事下さい。お願いします。
――「次回欠席」の場合にも,このレジュメは手に入るハズですから,今回のうちにわかる範囲でお答えしておきます。証券市場に集まる資金のすべてが剰余価値だとはいえないように思います。サラリーマンが自分の賃金をもとでに株をやり,そしてそこでもうけたり,負けたりということも実際にはあるわけですから。ただし,剰余価値もサラリーマンの投資のもとでとなる賃金も,いずれも生産的労働者が生み出した価値を大もとにしていることはまちがいありません。剰余価値も賃金も,いずれも生産的労働者が生み出した「新しい価値」の別の姿であるわけですから。商業資本と労働者,銀行資本とその労働者といった,不生産的な分野にどのようにして剰余価値が流れ込み,また賃金が発生するかという問題は,『資本論』の第3部で究明されます。
――その件は,ここではおいて,さて,では,もうけにつながるうまい情報を先に手にいれたものがもうかるというのは,一体どういうことなのか。それは,情報が新しい価値を「生み出す」ことからではなく,情報が他者から自分の手元に価値を「移転させる」手段になるということです。先を見通したからといって,その情報自体が価値をうむわけではありません。その点は,ご指摘のとおりです。さらに,ご質問の「証券投資論者」たちが(どういう人たちのことなのか,よくわからないのですが),万が一,「情報が価値をうむ」という立場に立っていれば,それはことの表面(現象面)をそのままなぞったずいぶん浅い理解ということになりそうです。
――マルクスの株式会社論・証券市場論は,主に『資本論』第3部の第5編に登場します。しかし,マルクスの時代には,今日のような証券市場の巨大な発展はありませんから,ご期待のような分析があるかといわれれば,むしろ「ない」という方があたっているかも知れません。ただ,視角は異なりますが,マルクスは,私的資本でありながら,広く社会から資金を集めながらでなければ活動ができなくなった資本として株式会社をとらえ,これを資本主義の枠内での社会的資本の形成といった具合にとらえるなど,独創的な株式会社論を展開しています。そういう角度から今日の証券市場の発展をとらえるとどうなるのでしょうね。ぜひ,しっかり読まれて,検討してみてください。
――年金基金の運用については,現状ではむしろ損失が大きいわけですから,国民の努力の結晶が,証券市場における「勝ち組」によって吸い上げられているということですね。
みなさんからの質問・ご意見に対する私なりのコメントは以上です。
〔今日の講義の流れ〕
1)「講師のつぶやき/質問にこたえて」(~2時)
◇たくさんの意見,質問へのコメント。
◇不破哲三『「資本論」全3部を読む』第5分冊の紹介。
2)「第7篇・資本の蓄積過程」
◇資本の蓄積とは
「第21章・単純再生産」(~2時30分)
◇くりかえしの中に見えてくるもの
3)「第22章・剰余価値の資本への転化」(2時40分~3時30分)
第1節「拡大された規模での資本主義的生産過程。商品生産の所有法則の資本主義的取得法則への転換」
◇取得法則の転換とは
第2節「拡大された規模での再生産にかんする経済学上の誤った見解」
◇古典派は蓄積を重視した/不変資本を見落としたスミスのドグマ
第3節「剰余価値の資本と収入とへの分割。節欲節」
◇資本主義の過渡的役割/ぜいたくが営業上の必要に/古典派から俗流派へ
第4節「剰余価値の資本と収入とへの比例的分割から独立して蓄積の規模を規定する諸事情――労働力の搾取度,労 働の生産力,使用される資本と消費される資本との差額の増大,前貸資本の大きさ」
◇数式的究明と対応する事実の提示
第5節「いわゆる労働元本」
◇なんの根拠もないドグマ
4)「第23章・資本主義的蓄積の一般的法則」(3時40分~)
第1節「資本の構成が不変な場合における,蓄積にともなう労働力需要の増大」
◇資本の構成とは/労働力の不足の時代
第2節「蓄積とそれにともなう集積との進行中における可変資本部分の相対的減少」
◇構成の高度化と失業/独自の資本主義的生産様式/資本の集積・集中/信用についても
第3節「相対的過剰人口または産業予備軍の累進的生産」
◇発展期にも失業が/資本主義の人口法則/イギリスの統計/産業循環と「産業予備軍」
※フランス語版『資本論』/戦後日本の「労働力流動化政策」
第4節「相対的過剰人口のさまざまな実存形態。資本主義的蓄積の一般的法則」
◇産業予備軍の4形態/現役と予備軍/蓄積の一般的法則/「貧困化法則」の誤り
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