以下は,8月1日に行なう神戸学習協での講座「映像で学ぶ侵略の歴史と加害の実態」第3回への「講師のつぶやき」です。
---------------------------------------------------
〔兵庫学習協2006年夏〕
「映像で学ぶ侵略の歴史と加害の実態」
講師のつぶやき(3)
2006/07/30
神戸女学院大学・石川康宏
http://walumono.typepad.jp/
講座の第1回は「慰安婦」問題を,第2回はもう少し視野をひろげて侵略戦争全体の問題をとりあげました。今回は侵略戦争当時の日本の政治体制の問題です。とはいえ,いずれもホンの入り口だけのお話ですから,そこからさらに学びをご自身で深めていってください。また,まわりの方との共同の勉強をすすめてください。
さて,まずは前回のたくさんの「ご感想・ご意見」の紹介からです。趣旨をかえずに文章を多少かえているところがあります。ご了承ください。
◎中国で戦犯として残され,人道的な教育を受けて鬼から人間へ生還できた人はまだ救われるが,一兵卒として戦犯にもならず帰還して,中国人を殺して得意がっている人を若いころたくさんみた。首をはねている写真を手柄顔で見せている人もいた。これらの層が無反省な小泉や政権政党(民主もふくむ)の幹部を支える層になっていると思う。これらの人々への啓蒙教育が今も求められているという感想をもった。
◎学習する人のすぐ後ろに受付をもうけているのは無神経です。学習協というのは勉強,学習を組織する団体と理解していますが,静粛な環境を準備するという配慮を願いたい。
◎前回講義に出ていないので,話題に出たかどうかわかりませんが,最近,小林よしのり氏の『いわゆる「A級戦犯」問題』が気になります。一応,東条のところを読みましたが,善悪両面あったが最後の覚悟は立派だったと終わっています。この話しは,いつの間にか論理の話しから情や思い込みの話しになっている気がします。個別の例を拡大するのもかれのパターンだが,こちらが反論する時には個別と全体がどうかかわっているかを含められたらいいなと,思います。
◎教育と情報操作の恐ろしさを痛感しました。「徹底的に反省しなければ同じことを繰り返す」。実際,現在,そうなってきていますね。
◎私も中学で歴史を教えてきたが,生徒たちがひとつひとつの戦争を連続したものとして理解していないということは大変ショックである。受験勉強に終わっていたということでしょうか。
◎3人の証言者の自己批判の勇気は,自民・民主の軍国政治家たちよりずっと立派なものです。中国の戦争犯罪者への裁判は厳しいものでしたが,日本軍人への人道的なあつかいは目頭が熱くなりました。私は8年前にハルピン・瀋陽を訪れました。瀋陽での日本軍人の「教育所」という牢獄の記念館にいきましたか,その中の展示写真の一枚に「反戦運動をする元日本兵○○」と説明があり,日本共産党の宣伝カーの前で演説する男性がうつっていました。日中両共産党の関係が不正常だったときにも,その写真は展示されていたらしく,中国人の懐の深さを感じたものでした。日本のマスコミの中国蔑視は腹立たしくなります。日本も中国・韓国・アジアと対等・平等の関係を築いていきたいものです。
◎軍国主義によって人間から鬼になってしまった軍人。そして,競争と管理の教育によってケモノのようになっていく子どもたち。多発する青少年犯罪。再び人間が鬼にならないように教育基本法を守っていかねばと思います。日本も中国のように,当時の政府が悪く,日本人は悪くないというような優しい国になってほしいです。
◎過去に侵略した国に誠実に接し,大切にしてこそ,自国(日本)の国民のことも大切に考えることかできると思います。
◎鶴彬(つるあきら)という反戦川柳作家の作品です。獄死した作家です。「手を足をもいだ丸太にして返し」。以下は私の反戦・平和の川柳です。「非核宣言少女の像の見る神戸」「にんげんがおもちゃのように壊される」「特攻の涙をすって咲く桜(知覧にて)」「日の丸つけた真っ赤な霊柩車(イラクの句)」「お客さん寝てたらイラク行きますよ」。この講義を聞いて新しい句をつくります。
◎アジアで日本兵が殺し傷つけた人々は2500万人と話されました。映像の力,勇気をもって証言される人の力は重く,ふ~っとため息が出た。人間の心をなくさせていく戦争というものの具体的証言であった。どうしてアジアの人々が日本指導者の靖国参拝を許せるか! また,靖国にまつられている英霊も,それを喜んでいるか? 日本の侵略戦争を認め,加害者にも,また戦争で死んだすべての人々にも謝罪すべきは,やはり「ヒロヒト」であると思う。そしてまた,私たち自身も二度と過ちをおかさぬよう。いま教育基本法も変えられようとしている。まさに人間の尊厳,個人の尊厳をなくして「何かのために」という風に書き換えられてはならないと強く思う。父は1945年5月に満州から現地召集され,シベリアにて抑留死。昨秋墓参(厚生省)。同行者遺族に将校・憲兵だった父・兄・弟をもたれた方もおられ,複雑な気持ちをもったのも事実であったが,その中で9条の話しができてかったこと……まだまだ私の弱さ。
◎生々しい映像はやはりショックでした。こんな事実を直視してこなかった日本のあり方に,ほんとうにこのままではいけないと思います。「靖国派」が追い詰められている背景に,中国・アジア経済に対する日本の財界の思惑や,アメリカの国策の変化があることがよくわかりましたが,本当に追い詰めるためには,加害の歴史を国民も認識し,9条を守るという世論を大きくしなければならない。そのために,私たちの語る力が問われているのだと感じます。
みなさんそれぞれに感じられ,学ばれたことを,よりマシな社会づくりのために,二度と戦争をしない国づくりのために,少しでもまわりの方に話していってあげてください。
さて,次は「ご質問」です。私には答える力のないものもふくまれますので,そこは,学習の参考となる文章の紹介にとどめておきます。
●自民党は靖国神社からのA級戦犯の合祀は憲法上(政教分離)いえないと,ご都合主義的なことをいっています。今回の昭和天皇のメモが出てきたことで,1978年のA級戦犯の合祀を天皇が裁可したと説明がありましたが,靖国神社の祭事を天皇が裁可するというのは彼らのいう憲法上の疑義があるのではないか……と思いますが,ご教示ください。
──戦前から天皇は,新たな戦死者を祀る例大祭など国家神道の祭祀の最高執行者でした。それが形式的に今日も残っているということなのでしょう。
──靖国の宗教行事に対する天皇の関与が「政教分離」の原則に反しないかとのご質問ですね。となると問題の確信は天皇が「政」の一角を構成する役割をもっているかどうかということにかかるようです。①この国の主権者は国民であって,天皇には国権の発動に関するどのような役割や権利もあたえられていません。憲法第4条には「国政に関する権能を有しない」と書いてあります。②ただし,たとえば首相の決定にかかわって「天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する」(憲法第6条)となっているように,「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ」(憲法第7条)役割をもっています。主権在民を前提しながらでも,「国事に関する行為を行う」という限りで,天皇は国家機構の一部を担う者になっています。となると天皇が一宗教法人である靖国の重要行事に関与しているということには,ご指摘のように「憲法上の疑義」があるといえるのかも知れません。ただし,私は法律にとくに詳しいわけではありませんので,より専門的な知識をお持ちの方に,さらに確かめていただくことが「安全」かと思います。
──以下は,ある方にご紹介いただいたものです。活用させていただきます。
1)遊就館§展示室9【招魂齋庭】--戦没者合祀名簿について「靖国神社への合祀に当たっては、天皇陛下のお手許に必ず戦没者合祀名簿が天覧に供された。(中略)戦没者合祀は今に到るまで必ず天皇陛下の叡慮を受けているのである」との説明があります。
2)「やすくにの祈り」産経新聞社 「合祀基準と手続き」
一 戦前-略)
2 合祀の手続きについては、戦没者が生じた時点において、陸(海)軍省大臣官房内に審査委員会が設置され、高級副官を委員長とし、各部将校を委員に任命、出先部隊長または連隊区司令官からの上申に基づき、個別審査の上、陸海軍大臣(他省関係大臣合議の場合もある)から上奏御裁可を経て、合祀が決定され、官報で発表、合祀祭が執行された。
二 戦後-略)
2 右は終戦後の第一、第二復員省の資料及び厚生省経由各道府県に照会して得た資料(祭神名票)に基づき、旧陸海軍の取扱った前例を踏襲して、合祀の取扱いを決定した。(略)
3)文藝春秋社発行『諸君』(1992年12月号)『「靖國」奉仕十四年の無念』靖國
神社前宮司松平永芳氏の文章から
(略)「いわゆるA級戦犯合祀のことですが、私は就任前から、『すべて日本が悪い』という東京裁判史観を否定しないかぎり、日本の精神復興はできないと考えておりました。それで、就任早々書類や総代会議事録を調べますと、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預りとなっていたんですね。私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏してご裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、『まだ間にあうか』と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって、十四柱をお入れしたわけです。(略)
●A級ばかりが話題になっている印象がありますが,なぜでしょう。やっぱり統治する立場の者だからですかね。
──靖国問題については,侵略戦争賛美のその根本の歴史観をこの国の首相(国民の政治的代表者)が肯定するのかどうかが根本問題です。本来であれば,A級戦犯合祀をそれから切り離すのでなく,その誤った歴史観を象徴するものとしてA級戦犯が問題にされる必要があるのだと思います。
──「A級ばかりが話題に」なりがちなのは,政治家やマスコミなどのいろいろな思惑があってのことだと思いますが,「A級戦犯さえはずしてくれれば」という当面の中国政府の要望も,大きな影響をあたえていると思います。これが「とりあえずA級戦犯さえ分祀すれば問題は解決する」という日本国内の反応につながっているようです。もちろん分祀が仮に行われたとしても──靖国はできないと否定していますが──,侵略戦争賛美の歴史観の是非という問題や首相がこれを参拝することの適否という問題は,当然残されます。
●ビデオに出ていた戦犯(軍人)の方々は,告白,反省の後,帰国できましたが,残留(本当はおきざり)孤児の方々は,どうしておいていかれたのか。やはり引き上げも軍事優先なのですか。
──日本の植民地政策には「植民政策」(現地に日本人を移住させ生活させる)がふくまれました。特に満州地域には大量の植民(入植)がありました。「残留孤児」問題がうまれたのは,これらの人々の一部が敗戦と撤退の瞬間に現地におきざりにされてしまったからです。戦争中ですから混乱はありました。しかし,撤退のジャマになる──敵に見つかる──という理由で軍が「泣き声をあげる子どもを殺す(殺させる)」,市民を捨てて軍人が優先的に撤退するといった事情が,たくさんの子どもの「残留」を生み出す重大な要因になったことはまちがいありません。
──2005年7月18日(月)「しんぶん赤旗」
ゆうPress 「残留孤児」二世を知って 親の祖国で 人間らしく生きたい
「ある意味、私たちは日本社会のマイノリティー(少数派)です」。そう話す藤原知秋さん(35)=千葉県在住=は、かつての戦争で中国に置き去りにされた「残留孤児」の二世です。「二世の存在を知ってもらいたい」と藤原さんたち二世は団体の立ち上げを計画。祖国で人間らしく生きる権利を求めた中国「残留孤児」裁判の勝利をめざしています。(本吉真希、菅野尚夫)
■国賠訴訟に立ち上がった藤原知秋さん(35)
日本に戻った「残留孤児」の家族の多くは、日本政府のきちんとした生活の保障が受けられず、老後を心配しています。藤原さんは「耐えて、耐えて、ここまできたけど、もう耐えられない。私たちの苦労を突き詰めていけば、責任は戦争を始めた政府にある。少しでも政治を変える力になりたい」と話します。
■現実の壁
藤原さんの母親は一九四三年に中国で生まれました。終戦当時の混乱期、中国人の養父母にあずけられました。
一九九〇年三月八日、藤原さんは父、母、妹とともに帰国。二十歳のときでした。留学にあこがれる人々が中国国内で増えてきた八〇年代。日本に渡ることに抵抗感はありませんでした。
「日本に来てから現実の壁にぶつかった」。言葉、仕事、人とのつきあい…。帰国して一、二年のこと。日本語がうまく話せず、「電話のベルが鳴るたびに、家族四人とも心臓が止まるくらいドキドキしていた」。
日本語に自信が持てるようになったのは大学卒業後でした。両親が話せないことに焦りを感じた時期もありました。しかし外国語の習得は簡単でないと、藤原さんは徐々に理解を示しました。「いまは無理をしないで、子どもの私に聞けばいいと思っています」
現在は中国語の講師をしています。語学学校で働き始めて半年がたったころ、ストレスで潰瘍(かいよう)性腸炎になってしまいました。「日本に来て初めて“ストレス”という言葉を知った」といいます。
仕事の合間をぬい、通訳を買って出ています。裁判の傍聴券抽選や厚生労働省、国会前の座り込みなど場面はさまざま。「親の問題のことだから普通の通訳よりもよくわかる。そう思い、自分たち二世が立ち上がった」
藤原さんと同じ三十代でも日本語がうまく話せない二世もいます。「政府によって多くが農村部に振り分けられ、勉強する機会を奪われた」。中国語の教育も十分でない人たちもいます。十代は日本語しか話せません。
■私の時代
これまでの運動は多くの市民によって支えられてきました。しかしボランティアのあいだでも高齢化が進んでいます。あるボランティアが藤原さんたちにいいました。「これからはあなたたち自身がたたかわなければならない」―。二世たちも「これからは自分たちだ」と強く感じました。
活動のなかで、日本の侵略戦争によって被害を受けた中国人の戦後補償裁判をたたかう弁護士と知り合いました。ここでも支援をしています。「中国の原告も同じ戦争被害者。『残留孤児』や強制連行、『慰安婦』に遺棄毒ガスなど、戦後処理という大きなテーマの一つ一つです」
中国を離れるとき、友達が「日本に住めなかったら帰ってこいよ」といい、笑いながら藤原さんを見送りました。それから十五年。「日本は母の国。中国は父の国。二つを切り離すことはできない。中国と日本を行ったり来たり、両国の橋渡しをしたい」
■言葉のハンディ親は働きづめ 橋本恵子さん(32)埼玉県在住、仮名
私の父は、生まれて間もないころ中国のハルビン(中国黒龍江省)に置き去りにされました。栄養失調と病気の乳飲み子…。中国の養父母が「育ててあげる」と申し出てくれて生きのびました。
その後、父は中国の人と結婚し、五人の子どもをつくりました。
養父母も含め九人家族は、一九八〇年以降に帰国。私は十三歳のときに日本に帰国しました。中学生の年齢に達していましたが、日本語ができないというハンディがあって、小学六年生になりました。
そこでうけたのは「残留日本人孤児」の子どもということからうけたイジメ。日本語ができないので「中国人。バカ!」とののしられ、ほうきで殴られたりもしました。
「何で(日本に)つれてきたの」。私はイジメにあうと泣いて親に訴え、困らせました。それは、戦争が残した理不尽な傷跡への怒りだったのかもしれません。
両親は食べ盛りの子どもを養うため、朝から夜まで残業、残業で働きづめ。長男も高校に進学したかったのにすぐに働き始め家計を助けました。
「戦争被害は、国民ひとしく受忍しなければならない」と言い放った大阪地裁の判決から、有無を言わさない国家の強権的な冷徹さを思い知らされました。父たちは祖国を恋こがれて帰国しました。みんなが平等で、もっと優しい日本になってほしいと思います。
■「残留孤児」 戦争で中国に置き去り
一九三二年、中国を侵略した日本は、中国東北部に「満州国」をでっち上げました。そして、一九三六年、二十カ年で百万戸の大量移民計画を決定。国策として日本から「満蒙開拓団」などを送り込みました。その数は一九四五年までに三十二万人余りになりました。
一九四五年八月、ソ連軍が侵攻すると、軍人とその家族が真っ先に逃げ出して帰国。開拓民は置き去りにされ、集団自決、栄養失調、伝染病などによって多くの人たちが命を失いました。日ソ開戦時に六万人、終戦後に十八万五千人、計二十四万五千人が終戦直後に死亡したと記録(『引き揚げと援護30年の歩み』)されています。「残留孤児」はこうして親を失い、離別し、中国人に引き取られて育てられた人たちです。
戦後、「孤児」を日本に招いての肉親捜しが始まったのは日中の国交が回復して九年もたった八一年三月になってから。永住帰国が本格化するのは八六年になってからです。
帰国した「孤児」は、日本で生活するために欠かせない日本語教育と社会教育を十分に受けることなく自立を迫られました。就労の機会を奪われ、就労率は30%、生活保護受給率は六割を超えています。
「残留日本人孤児」国家賠償訴訟 「孤児」の八割に当たる二千四十三人が東京、大阪など全国各地の十五の地裁に提訴した国家賠償訴訟。六日、大阪地裁の判決は最初の判決となりました。その判決内容は、原告たちが負った精神的な苦痛を受けた被害事実を不十分ながら認めました。しかし、早期に帰国実現をさせる義務の違反もなく、帰国した「孤児」を支援する義務違反もなかったとして、「祖国で人間らしく生きる権利」を求めた原告の訴えを棄却した不当判決です。
●麻生たちの発言がつづくが,この人たちが受けた教育はどんなものだったのだろう。どんな教科書で学んでいたのか。生まれ育ちの中でつちかわれてきたのか。不思議な気がする。
──まず戦争中の教育についてですが,前回のビデオで300名を超える人間を殺したと証言した元兵士の言葉を思い出してください。誰一人として「人間の命は大切だ」と,教える大人はいなかったのです。
──日中韓3国歴史教材委員会『未来をひらく歴史〔第2版〕』(高文研,2006年)は,「戦争にかりたてる教育」の項目で次のように書いています(149ページ)。
「学校では,『天皇は神の子孫であり,国民の使命は,天皇に従わない者を滅ぼして世界を一つの家とする(八紘一宇)大事業をおたすけすることにある』と教えました。
そんなことは誰がきめたのか,などと疑うことは許されませんでした。学校の儀式では,天皇・皇后の写真に対して最敬礼した後,『いざというときには身をなげうって天皇のために尽くせ』という教育勅語が読み上げられ,『天皇陛下のお治めになる世の中が永遠に続きますように,という歌である』と教えられた『君が代』を斉唱しました。
〈日本ヨイ国,キヨイ国,世界ニ一ツノ神ノ国。日本ヨイ国,強イ国 世界ニカガヤクエライ国。(国民学校〔小学校〕2年 修身〔道徳〕教科書,1941年版)〉」。
──戦後の教育ですが,憲法が施行された勅語にアメリカが日本を「アメリカいいなりの軍事大国」に育てる方針を明らかにしていきます。その結果,日本社会には「逆コース」と呼ばれる,平和憲法をないがしろにする「再軍備」の動きがすすめられていきます。その中で侵略戦争の指導者であったA級戦争犯罪人容疑者さえもが政財界に復帰します。この複雑な動きのなかで,じつは社会・歴史の教科書は一挙に良いものには変わっていません。1955年ころにあっても,ある歴史家の発言をひけば「戦争を否定するか,肯定するかは,このときの日本の大きな課題であった」という状況です。また学校教科書に対する文部省の介入が「家永裁判」につながっていくという,自民党政府による歴史教育への介入もありました。侵略戦争を肯定する考え方は,日本社会全体では,いまだに明確に払拭されてはいないのです。
──2006年7月12日(水)「しんぶん赤旗」 戦犯的体質――日本と欧州の違いは?
〈問い〉 日本では、第二次世界大戦後、自国の戦争犯罪人が政治の中枢の地位につくようになったのに、なぜヨーロッパではこういうことはおこらなかったのですか。 (奈良・一読者)
〈答え〉 第2次世界大戦後の世界は、日本、ドイツ、イタリアがおこなった侵略戦争を断罪し、戦争を二度と引きおこさない世界をめざすことを、共通の原点としました。しかし、日本の政治は、この線にそっては展開されず、戦争協力の度合いが強かった指導者たちも、いったんは連合国の占領のもとで、政界から追放されますが、“日本をアメリカのよりよい協力者にするためには、過去の指導者たちを復活させる必要がある”というアメリカの政策転換で、戦後数年にして多くの戦争犯罪人が政界に復活しました。
その後の政治では、過去の侵略戦争にたいしてまともな反省をしないまま「戦争肯定」派の人脈が今日まで続いています。
ヨーロッパでも戦後、アメリカの提唱で「ヨーロッパ復興計画」(マーシャル・プラン)が実施されました。ヨーロッパ諸国の戦後復興をはかるとともに、アメリカ主導の軍事同盟結成の経済的基礎をつくることをねらったものでした。しかし、戦争犯罪人を政界に復帰させることはヨーロッパではおこりえないことでした。
ドイツでは、国として過去の自国がおこした戦争に対して、侵略戦争だと正直にきちんと認める立場をとり、過去の時代と向き合う国民的討論をすすめてきました。ここが日本との大きな違いです。
戦後60周年にあたってシュレーダー首相(当時)は「ドイツの国民は、過去の時代と正面からきり結ぶ討論を数十年にわたっておこない、ヒトラー・ドイツが犯した犯罪は、ヒトラーだけのものではなく、ドイツ国民全体がその責任を深く胸に刻み込む必要があるという、共通の集団的な意識に到達した」「この意識を維持し続けることは、ドイツ国民の永続する道徳的な義務である」「この努力がなかったら、ドイツがかつての敵であるフランスと手を取り合って欧州統合をすすむという今日の道が開かれることはなかっただろう」とのべました。
侵略戦争を正当化する異常な自民党政治から脱却し、大本からの転換をはかることは、急務の課題です。過ちに正面から向き合い、反省を言葉だけでなく行動でしめしてこそ、アジアと世界の人々から信頼される日本を築くことができます。日本政府に、こうした転換をおこなわせるためにも、日本の国民一人ひとりがこの問題に真剣にとりくみ、歴史の事実に背をむけた戦争礼賛論を許さない国民的合意をつくりあげることが求められています。(満) 〔2006・7・12(水)〕
●「竹島(独島)」問題は難しい。明治時代の「竹島」の「島根県化」が「日韓併合」のはじまりだったという韓国側の主張ですが,日本の領土だったという資料もあるそうですね。「島根県化」を合法とする県議会での議決に,日本共産党の県議は「棄権」しましたが,なんだか納得できません。明確な答えはないのでしょうか。それよりも両国人民の話し合いが必要なのでしょうか。
──私には判断がつかないところがあります。とりあえず,いくつか共産党の見解がわかる文書を引いておきます。
──2002年7月17日(水)「しんぶん赤旗」 竹島の帰属が問題になっているわけは?
〈問い〉 日本と韓国とがそれぞれ竹島の領有を主張しているのはなぜですか。(島根・一読者)
〈答え〉 竹島(韓国側では独島)は、島根県隠岐島西北方に位置し、二つの小島と約四十の岩礁からできています。周辺海域はワタリガニなどの優良な漁場でもあり、その領有をめぐる問題は、日韓両国の係争事項となっています。
竹島は、古くから日韓両方の文献に登場していますが、長くどこの国の領土としても確定されない無人島のままでした。一九〇五年、日本が竹島を島根県に編入してからは、国際的にも日本領として扱われるようになり、現在は島根県隠岐郡五箇村に属するとされています。
一方、韓国は、一九〇五年の日本の領有手続きそのものが無効だとして、「独島は厳然たる韓国領土」と主張しています。この時期は、日本の天皇制政府が朝鮮の植民地化をすすめていた時期でもあることから、こうした主張には検討すべき問題もあるといえるでしょう。
第二次大戦後の一九五二年、韓国は一方的に竹島を武装占拠し、八八年の領海十二カイリ宣言以降は、日本漁船は韓国側に排除され、竹島の十二カイリ以内には近づけなくなっています。最近では埠頭(ふとう)まで建設するなど、韓国は「実効支配」の既成事実化をすすめています。こうしたやり方に、道理はありません。
竹島問題には、このような複雑な経過と背景があり、その正しい解決のためには、なによりも相互の主権を尊重し、平和友好の精神をつらぬきながら、ねばりづよく交渉し、解決することが大切です。そのためにも韓国側は、竹島の一方的占拠を中止するべきです。
日韓両国は、九八年の新日韓漁業協定で竹島の領有権問題の決着を事実上棚上げし、周辺海域を「暫定水域」とし、日韓の入りあい操業をおこなうことで合意しました。日本共産党は、この新協定を現実的な解決策として賛成しました。(松)
──2005年3月17日(木)「しんぶん赤旗」 島根県議会 「竹島の日」条例成立 共産党棄権 一方的措置とるべきでない
島根県議会は十六日、日韓両国が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)について、「竹島の日」を制定する条例案を賛成多数で可決しました。
条例は同県隠岐諸島沖の竹島を同県の所管とすることの県告示(一九〇五年二月二十二日)から百年になるのを記念し、この日を「竹島の日」とするもの。
採決では、三十六人の出席議員のうち、三十三人が賛成し、二人(民主党系の県政クラブ所属)が反対。日本共産党の尾村利成県議は棄権しました。賛成議員の所属会派は自民党議員連盟二十七人、無会派(公明党)一人、県政クラブ二人、せいふう会(民主党系など)三人です。
同条例をめぐっては、澄田知事が賛意を表明(十五日、記者会見)、県漁連も大会(十五日)で領土権確立に関する特別決議を採択しています。
________________________________________
尾村県議がコメント
日本共産党の尾村県議は同日、次の内容の「『竹島の日』条例案の採決でとった態度について」を発表しました。
◇
本日、県議会において「竹島の日を定める条例」案の採決がおこなわれました。私はこの条例案の採決を棄権する、との態度をとりました。その理由は以下の通りです。
竹島は、一九〇五年の領有手続き以前にも日本の文献等に、日本の実効支配を示すものがあり、歴史的にも、わが国に竹島の領有権があるという主張には根拠があります。
一方、韓国は国際法上の一九〇五年の日本の領有手続きそのものは、朝鮮の植民地化をすすめる過程で行われたものであることなどから無効と主張していますが、この主張には検討すべき問題もあります。
竹島問題の正しい解決のためには、何よりも相互の主権を尊重し、平和友好の精神と原則を貫きながら粘り強く交渉するべきです。日本共産党は一貫してこうした態度をとってきました。
日韓双方とも、この解決方向を妨げる一方的な措置をとるべきではありません。こうした理由で、私は採決を棄権しました。
──2006年6月17日(土)「しんぶん赤旗」 衆院でも「竹島」請願 笠井議員が採択保留表明
「竹島の領土権の早期確立に関する請願」が十六日の衆院本会議で、自民、公明、民主、社民各党の賛成多数で採択されました。
請願を審査した同日午前の外務委員会理事会で日本共産党の笠井亮議員は、日韓の話し合い解決を遠ざけるとして採択することに保留を表明、多数決に反対しました。
同請願は、十五日の参院外交防衛委員会で採択されたものと同趣旨で、「北方領土の日の制定」などをあげ、国に対して広報啓発活動を所管する「組織を設置」し、主体的な取り組みを進めるよう求めています。
笠井議員は理事会協議のなかで「竹島が歴史的にも国際法上もわが国の領土であるという根拠は明確だが、千島問題とは異なる問題であり、友好的な話し合い解決が必要だ。『竹島の日』の法制化などは、その流れに障害をつくることになる。日本政府に一方的措置を求める請願を国会が採択することは、解決を遠ざけることになる」と主張しました。
民主、社民両党は「請願には賛成だが多数決は避けるべきだ」「外交的影響も考慮すべきだ」との意見をのべました。
これに自民、公明両党があくまで採択を求めるなか衆院外務委員会として前例のない多数決が委員長の職権で強行され、本会議に付されたものです。
●TVに出る女性で南京大虐殺はなかったと平然という人がいますが,こんなに証拠映像や写真や,はっきりとした証人がいるにもかかわらず,そう断言するのは侵略戦争を認めたくないという意図があるからでしょうか? 戦争好きの国の体質をどうやって変えていけばいいでしょうか。右翼に因縁をつけられたことがあります。とても恐いのですが,どう反撃すればいい?
──その女性の「意図」については,ご本人にたずねてみるしかありません。こういう現状をどうかえていくことができるかは第4講の主題となります。その際に,あらためて考えてみましょう。
──「右翼」については状況次第でしょうね。しかし「因縁をつける」というのは,そもそも議論の姿勢をもたないということでしょうから,何か中身のある話しで「反撃」するのではなく,「宣伝のジャマをしないでください」「暴力はやめてください」といった対応が必要になるでしょうか。とはいえ身の危険を感ずる場合には「逃げるが勝ち」です。
※他に「しんぶん赤旗」から,今回の講座に関連する記事を2つ紹介しておきます。
2002年1月10日(木)「しんぶん赤旗」 女性国際戦犯法廷昭和天皇有罪の根拠は?
〈問い〉 昨年十二月に女性国際戦犯法廷の最終判決が出ましたが、昭和天皇を有罪にした根拠は何ですか。 (埼玉・一読者)
〈答え〉 日本軍「慰安婦」問題の責任を追及する民衆法廷・女性国際戦犯法廷は、二〇〇一年十二月、オランダのハーグで最終判決を出しました。
判決は、同法廷憲章にもとづいて、昭和天皇について、性奴隷制(慰安婦制度)に関し「個人としてまた上官としての責任で有罪である」とのべています。またフィリピンのマパニケ村で一九四四年十一月におこった大量レイプ事件についても「上官として刑事責任があることを認定」しました。
「上官としての責任」とは、上官として部下が犯罪行為に関与している可能性があることを知っていたか、知る理由があり、また上官として犯罪の防止や禁止をしたり、犯罪者を処罰するための措置をとらなかったことの責任です。
日中戦争、太平洋戦争当時の国際法でも、奴隷の禁止、女性・子どもの強制労働の禁止、レイプの禁止などが定められており、慰安婦制度は戦争犯罪とみなされる行為でした。女性国際戦犯法廷判決は、昭和天皇は慰安婦制度の「犯罪性を知らなければならなかった」のであり、最高指揮官の認可がなければ女性たちを連行して慰安所を維持する業務を実行することは不可能であることから、天皇の上官としての責任を認めたのです。
同判決は、慰安婦制度は「人道に対する罪」(殺人、絶滅、奴隷化などの非人道的行為)であると認定。戦争犯罪に時効はなく、「国家元首に対する免責」もできないと判断しました。
なお、「上官としての責任」という法理を用いて戦犯を裁くことは、現在、国際法の常識となっています。旧ユーゴ(ボスニア)、ルワンダ戦犯法廷など、進行中の戦犯裁判でもこれにより有罪判決が出され、設立準備がされている国際刑事裁判所の規程にも取り入れられました。(絹) 〔2002・1・10(木)〕
2005年7月9日(土)「しんぶん赤旗」 東京裁判は「勝者の裁き」という意見をどう考える?
〈問い〉 靖国神社問題に関連して、東京裁判をどう評価していますか? 米国の「勝者の裁き」という意見もあるようですが。(北海道・一読者)
〈答え〉 東京裁判が、人道と平和の見地から日本の侵略戦争について明確な国際的審判をくだし、世界政治のうえでこのような行為が二度と許されてはならないことを明らかにしたことは、ナチス・ドイツのヨーロッパでの侵略戦争と大量虐殺を断罪したニュルンベルク裁判とともに、第2次世界大戦後の世界平和をめざす流れの発展にとって大きな意義をもちました。
また、日本政府が「一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし」としたポツダム宣言を受諾した経過にてらしても、再び戦争をくり返さない決意をうたった日本国憲法の精神にてらしても、東条英機元首相ら戦争指導者の処罰は必要な措置だったと考えます。サンフランシスコ講和条約第11条も「日本国は、極東国際軍事裁判所…の裁判(判決)を受諾」するとしています。
同時に、東京裁判の経過全体をみれば、アメリカの政治的意向が裁判に大きく影響を与えたことは否定できない事実です。
とくに、日本の戦争の最高責任者であり、1931年に開始された中国東北部への侵略戦争(いわゆる満州事変)から1945年の敗戦にいたるまで、戦争の全過程にかかわった唯一の人物だった昭和天皇について、その責任を問わないことを最初から裁判の不動の枠組みにしたことは、対日占領を円滑に進めようというアメリカ政府の意図によるものでした。
そのため、戦争の実際の経過があいまいになり、戦争の全体についても、個々の戦争行為についても、責任の所在が明確にならないという問題が随所にありました。
また、自らも植民地をもつ欧米諸国が裁判の実権を握っていたため、日本の植民地支配の問題点は追及されませんでした。
他方、連合国の側の戦争行為については、アメリカによる東京大空襲や広島・長崎への原爆投下のような無差別攻撃、ソ連による捕虜の強制労働(シベリア抑留)など、戦争犯罪の重大な疑惑がある問題も、まったく不問に付されました。
これらは東京裁判の弱点といわなくてはなりません。(文) 〔2005・7・9(土)〕
メモ〔天皇制との闘いとこれへの弾圧〕
○明治初期の自由民権運動(1881~84年)は,政府の迫害に屈せず自由と民主主義を掲げる。「国民主権」の主張もあったが,天皇制を正面から問題とするにはいたらず。
○「大正デモクラシー」(1910~20年代)は,民主主義運動の新たな高まりだったが,天皇制の枠内で国民の権利や議会の権限を拡大しようとするもので,民主主義に取り組む姿勢としては自由民権運動よりも一歩後退との感がある。
○天皇制をなくし,「主権在君」から「主権在民」への転換をかかげる政治運動は日本共産党の創立(1922年)によってはじめられた。
○社会民衆党,社会大衆党など「社会主義」をとなえる政党であっても,天皇制に従順である政党は1940年の「大政翼賛会」まで存続している。日本共産党は最初から非合法。問題は天皇制への姿勢だった。
○「治安維持法」(1925年制定)は日本共産党弾圧を最大の目的としたもの。特別高等警察(特高)はその実行中心部隊。治安維持法は1928年に「死刑法」に,1941年には「予防拘禁」制度(刑期が終わっても拘禁がつづけられる)を導入。
○治安維持法が処罰の対象とした罪は3つ。第1~6条「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者」。日本共産党のこと。第7~9条「国体」を承認するかどうか,「神宮」や「皇室」への考え方がどうかなどの人間の思想を問う。第10~13条「私有財産制度ヲ否定スル」もの。ただし最も重い刑は10年の懲役または禁固で,平和や民主主義を求める運動が死刑とされたのとは格差がある。
○1976年1月30日衆院予算委員会での不破哲三氏による総括質問より。「治安維持法によってどれだけの人が共産主義者の名をもって逮捕されたか──完全な統計はありませんが,司法省の調査によってみると,検事局に送検されただけでも75681名です。送検されない段階の逮捕を合わせれば,これが数十万に上ることは容易に察知されることです。
しかも,治安維持法で逮捕された被告に対してはあらゆる人権が認められませんでした。そのために多くの人びとが共産党員として命を落としました。治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟という組織が調査したところによりますと,逮捕されて,現場で,留置場で拷問などによって虐殺された者が65名,そういう拷問,虐待が原因で獄死した者が114名,病気その他の理由で死亡した者が1503名,全部で1682名が,わかっているだけでも治安維持法によって逮捕され,虐殺され,死亡しているわけです」。
最近のコメント